暗闇の中、かちかちと時の刻みを聞きながら、ずっと眠っていることには慣れているのだと、つい先日まで彼女は確かにそう思っていた。だから一人になっても大丈夫。かつてはそうだったのだからと、自身の
けれどそれは
それを知ってから彼女は人知れず、
そして今日も彼女は祈りながら待ち続ける。
彼女が愛して止まない、賑やかで平穏な今日がやって来る、その時を。
※ ※ ※
薄暗い部屋の中、微かに見える時計の針を千夜はじっと見つめていた。ゆっくりと時を刻むそのゼンマイ式の時計は彼女の主人であるちとせから、お祝いにと貰ったものだった。耳を澄ませすと聴こえるちくたくという音が好きだとちとせは言っていたが、千夜もこの音を聴いているとどこか急かされているようで、身が引き締まる思いがして好きだった。
やがて時計の時刻が六時三十五分を指したのを見ると、だらしない寝顔で横たわる彼――千夜やちとせのプロデューサーの横に立つと、その肩を叩いた。
「おい、お前。時間ですよ、起きなさい」
「う〜ん……あと五分、あと五分だけ……」
「そう言って五分で起きた試しがないでしょう。ほら、早く起きろ!」
軽く頭を叩くと千夜は力を込めて布団を剥ぎ取り、そのままの勢いでカーテンを全開に。眩しいほどの朝日が部屋の中に差し込み、二人を白く染め上げる。
「うぎゃあ、眩しい! 身体が溶けるぅ……」
まるで日光を浴びた吸血鬼のような反応をした彼に、千夜はため息をこぼした。
「はぁ。大丈夫ですよ、お前は人間なのですから。……ほら、とっとと起きなさい」
促されてようやく身体を起こした彼は、まだ冷ややかな視線を向けている千夜に向けて微笑みかけ、そしてそれを見た千夜も微かに頬を緩める。
「おはよう、千夜」
「おはようございます、お前」
そこは『あなた』じゃないのかと苦笑いしながら彼はベッドを降り、窓に向かって日の光を全身に浴びつつ大きく伸びをした。千夜は剥ぎ取った掛け布団を元に戻し、その上に彼の着替えを出した。
「お前、着替えはここに置きますからね。私はお嬢さまを起こしてきますから」
「ああ。いつもありがとう」
「別に、当然のことをしているだけで、す――」
そう言いながら振り返った千夜は、早速着替えようとパジャマの上を脱いだ彼の姿を見て固まった。
「? どうした、千夜?」
「ぬっ――」
「ヌッ?」
「脱ぐなら脱ぐと言え! もしくは私が出て行ってからにしろ!」
容赦なく振るわれた右拳が、彼の六つに割れた腹部に突き刺さり、彼は潰れた蛙のような声を上げてその場に
「……まったく、朝から何を考えているのか」
「ち、千夜……ナイスパンチ、だぞ」
ぶつぶつと呟きながら部屋を出ていく千夜に向けて、彼は最後の力を振り絞って親指を立て、そして意識を失った。
部屋の外へ出た千夜は力強く部屋の扉を閉めると、廊下の壁に背を付けて大きく息を吐き出した。
「……ばか」
ぽつりと呟いたその頬は赤く、きつく押さえつけた胸元は激しく高鳴っていた。彼との同棲は昨日今日の話ではなく、裸を見るのも初めてという訳ではなかったが、未だ慣れずにいた。
何度か深呼吸を繰り返し鼓動が落ちつくのを確かめてから、千夜は従者の顔をして隣の部屋の扉を叩いた。
「お嬢さま、入りますね」
暗い部屋の中、光る二つの眼差し。目を凝らすと、既に目覚めていたらしいちとせがベッドに腰掛けてこちらを見つめていた。ちとせが起こされる前に起きているなんて珍しいと千夜はその場で瞬きをして見せたが、やがて先ほど彼の部屋で騒ぎ立ててしまったことを思い出した。
「おはよ、ちよちゃん」
「おはようございます、お嬢さま」
「ふふ、今日も賑やかだったね、二人とも」
「……すみません、朝から騒がしくてしまって」
「あはは、いいのいいの。むしろ、いつも楽しませてもらってるんだし」
大仰に頭を下げた千夜に向けてひらひらと手を振ると、ちとせはゆっくりと立ち上がり、自分で部屋のカーテンを開けた。
「……そんなに面白いものではないと思いますが」
「ううん、そんなことないよ。見るたびに違って見える、まるで宝石箱みたい」
千夜、そして彼という二つの宝石は、今のちとせにとって大切で掛け替えのない宝物。少なくとも、ずっとこのまま自分の手の中にあってほしいと、彼女が願うぐらいには。
「お嬢さま――ええ、もちろん。私も彼も、ずっとここに居ますから」
「うん、ありがと。でも、邪魔になったらちゃんと言ってね? だってここは二人の家なんだから――」
「いや、それは違うぞ、ちとせ」
ちとせの声を遮った低い声に振り返った千夜は、一瞬目を奪われた。
そこには着替えを済ませた彼が立っていた。白いワイシャツとしっかりと折り目のついたスラックスを着た彼は、無精髭さえ伸びていなければ高い地位にいる人物のようにも見える。
彼は二人を見ながらゆっくりと首を振ると、言い聞かせるように告げた。
「ここは俺と千夜だけのものじゃない。俺達三人の家なんだからな」
※ ※ ※
「美味しかったよ、千夜ちゃん。ご馳走さま」
「お粗末様です、お嬢さま」
主人の感想に恭しく礼をすると、千夜はちらりと彼のほうを見た。視線に気付いた彼が首を傾げたが千夜はそれ以上何も言わずに目を逸らす。そんな二人を見ながらちとせは一人で笑っていた。
「時間は大丈夫なのですか、お前」
「ああ、今日は現場に直行だからまだ大丈夫。それよりコーヒーのお代わり貰えるか」
「そこにあるから自分で淹れろ」
「千夜ちゃん、私も紅茶のお代わりが欲しいな」
「かしこまりました。暫しお待ちを」
ティーポットを持った千夜がキッチンに向かった後、しぶしぶ立ち上がった彼がコーヒーポットから琥珀色の液体を注ぎ足す様を、ちとせは羨ましそうに見ていた。
「ん、どうした? ちとせ」
「ううん。千夜ちゃんは魔法使いさんのこと良くわかってるなぁと思って」
千夜やちとせはコーヒーを飲まないので、残ったらただの無駄になってしまう。つまり彼が二杯目を飲むと確信が、あるいは信じているからこそ、その分が用意されている。
(もっとも、アテが外れたら有無を言わさず魔法瓶に詰めて渡すのかもしれないけど)
「ふふ、何せ千夜は俺にゾッコンだからな」
「……誰がお前にゾッコンですか。馬鹿も休み休み言え、この痴れ者」
「おっと」
キッチンから戻ってきた千夜のツッコミを避けた彼は自分の席に戻ると、タブレットを片手にコーヒーを飲み始める。
「まったく行儀が悪い。……お待たせいたしました、お嬢さま」
「うん、ありがとう千夜ちゃん」
千夜の注いでくれる紅茶の香りを楽しみながら、ちとせは自分の席に戻った千夜を見ながらクスリと笑う。千夜は何もマナーに煩くしたい訳ではない。働き詰めの彼を気遣ってそう言っているのだった。
毎日朝から晩まで仕事づくめ、せめて家ではゆっくりして欲しい。今朝だって、てっぺんを超えて帰ってきた彼を気遣って、普段より五分遅く起こしたのだ。普段通りに目覚めたちとせは、二人のやり取りが普段より遅く始まったことですぐに気付いた。
もっとも、彼の体調はちとせもまた気にしていた。それは大黒柱としてのものではなく――単純な金銭であればちとせの方がはるかに持っている――一人の人間として、もっと言えばそう、愛すべき人の片割れとして。
「……よし、そろそろ行くか。千夜、ご馳走さま」
「はい。ああ、弁当をここに――」
「今日も美味かったよ」
「――――そうですか。それはどうも」
「……はいはい、ご馳走さま」
ちとせは唐突に発生した甘ったるい雰囲気に降参だと手を上げると、危うく忘れられそうになった弁当を彼に手渡しながら、行ってらっしゃいと彼の背を押した。
「ああ、行ってくるよ、ちとせ。また後でな」
「うん。……あら、いいの千夜ちゃん? いつものしなくても」
「いつもの、とは何でしょうか?」
「行ってらっしゃいのキ・ス」
ちとせの戯言を聞いて、千夜はため息を吐いた。
「はぁ……お嬢さま、お戯れは程々にしてください。そんなことを言うと、あいつはすぐ調子に乗って――」
「お、なんだ、してくれるのか? 千夜」
「お前は調子に乗るな! 早く行け、遅刻して困るのはお前じゃないんだぞ!」
「そうか、残念。じゃ、今度こそ行ってくるよ」
弁当の包みと鞄を持って彼が食卓のあるリビングから去っていく。ちとせは手を振って彼を見送ると、千夜の方に視線を向ける。
「……ちょっと待て、お前」
扉の向こう側に消えた彼の姿を追いかけていく千夜。そしてすぐそこで待っていた彼と気配が重なった。
「……はぁ、本当にもう。デザートだけでもうお腹いっぱいだよ、千夜ちゃん」
そう言って、ちとせは笑顔を浮かべながら、微かに燃え上がった嫉妬を握り潰すように、その手を硬く握った。
彼を見送った後、千夜はキッチンに立って食器を洗っていた。本来はその必要はなく、買ってもらった食器洗い機を使えばいいのだが、今はちとせに背を向けていたかった。特に真っ赤になった頬を今の彼女に見られたくなかった。
(――まったく、どうかしている)
いくらちとせに煽られたからといって、あんなことをするなんて。後悔、そして反省。だけどまだ微かに残る彼の温もりは、千夜の鼓動を加速させていた。それでもこうして心地よい水の冷たさに手を浸していれば、熱とともにこの昂りも収まるだろうと、千夜はしばし皿洗いに没頭した。
「ふぅ……」
皿洗いを終え、気持ちの落ち着いた千夜がリビングに戻ってくると、紅茶を飲んでいたちとせがお疲れさまと労いの言葉を掛けてくれた。
「ありがとうございます。……まったく、あいつは手間がかかりますね」
「もう、千夜ちゃんたらまたそんなこと言って」
「別に嘘ではありませんよ。まるでお嬢様が二人になったみたいで……」
「あら、それって、私が手が掛かるってこと?」
「い、いえ、そういう訳では――」
「うそうそ、わかってるって」
ちとせは千夜の手を見ながら嬉しそうに笑った。その薬指に嵌めた銀の指輪、彼からの約束の証として贈られたモノ。
「しかし、魔法使いさんは一体どんな魔法を千夜ちゃんに掛けたのかなぁ。昔はアクセサリなんて興味ないって、普段はあんなに言ってたのになぁ」
「こ、これはそういうものではなく。ただ、どうしてもあいつが付けて欲しいと頼むから。大体の、同じものならお嬢さまにだって」
確かにちとせの手にも全く同じ指輪があった。そして今出て行ったばかりの彼の手にも。
「あーあ、みんなが幸せになる方法なんてないんだろうなって思ってたんだけどなぁ」
「……そうですね。私も、あの申し出には驚きました」
ちとせと共にアイドルの活動を始めてから幾ばくかの月日が過ぎた頃、彼が自分のことを好いている薄々気付いていたいたし、アイドル活動を通じて彼自身が悪人でないことはわかっていたし、むしろ好意に近い感情すら抱いていた。そしてそれは、ちとせもまた同じだった。
だが同時に、普通の少女が迎えるであろう結末を自分達は迎えられないだろうとも思っていた。もしも彼が千夜を選べばちとせは身を引き、その逆にちとせを選べば千夜は身を引いただろう。そしてその先に三人が迎えるのは緩やかな破滅だった。何故ならちとせは千夜なくして生きてはいけないし、千夜はちとせなくして生きる目的を持たず、そしてそれは彼の存在では代わりにはならない。
だが二人を呼び出した彼は、二人が予想していなかった言葉を発した。
「一夫多妻? いや、違うかな。だって、私達、どちらもあの人の妻になった訳じゃないものね」
戸籍の上では千夜の籍に彼が入るという形を取っている。が、それは千夜を妻にするためではなく、別の目的があってのことだ。
「ええ。……ふふ、優柔不断なあいつらしい――優しい魔法でした」
今でもその日のことは思い出せる。彼は誰もいなくなった事務所の一室に二人を呼び出した。何故呼び出されたのかわからず戸惑いを浮かべる二人に向かって、初めてのステージに向かっていく彼女達に向けた表情を浮かべて、こう言ったのだ。
「俺達で――家族にならないか」