サクラ大戦 剣聖の新たな道 作: ノーリ
前回の前書きでも書いた通り、GWということで特別投稿です。自粛が声高に叫ばれている現状で、中々外に行けない読者の皆様の暇潰しにでもなってくれれば幸いです。
では、どうぞ。
帝国華撃団が刹那を無事(?)退けてから数日後。
「ふぅ…」
自邸の自室にて、花小路が疲れたようなガッカリしたような溜め息をついていた。そして、手に持っていた資料を目の前の机に投げ出すと、眼精疲労を少しでも抑制するかのように目元を抑えた。
「気は進まんが…仕方ないか…」
そう、疲れたように呟くと、どこかに連絡を入れる。そして手短に用件を済ませると、深々と椅子に腰を下ろしたのだった。
「……」
ぐったりしたような表情で天井の明かりに目を向ける花小路は、その後暫くの間その場を動けなかったのだった。
数日後。
隅田川をゆっくりと下る一隻の屋形船の中に花小路の姿があった。目を閉じてどっかりと座って待ち人を待っている。そこへ、
「伯爵」
音もなくその部屋の障子が開いたかと思うと待ち人がやってきた。
「来たかね」
ゆっくりと花小路が目を開く。そこには待ち人…米田が軽く手を挙げて向かってくるところだった。
「ああ。遅れてすまないね」
「構わんよ。私も先ほど着いたところだ」
「そうかい」
花小路の側に同じようにどっかりと座った米田が、私物を脇に置いた。
「まあ、まずは一献」
「どうも」
徳利を傾けると、米田が盃を向ける。それに酒が満たされると、今度は米田が徳利を傾けた。そしてお互いの盃が酒で満たされると、どちらからともなくそれに口を付ける。そしてこの会談は静かに始まった。だがそれは、まさに嵐の前の静けさに過ぎなかった。
「連絡は見たぜ…」
数度盃の酒をあおった後、口火を切ったのは米田だった。だがそれは、文字通り吐き出すような重い、そして苦々しいものだった。
「…そうかね」
開いた花小路の口どりも同様に重い。そして花小路は自分の私物から一冊のファイルを取り出すとそれを米田に渡した。
「ならば必要はないだろうが、それでも一応…な」
「ああ」
そのファイルを受け取った米田がゆっくりと読み進めていく。内容自体は大した量でもないので、ものの数分で読了できた。そして、
「ふーっ…」
パタンと閉めて脇に投げる。その表情はありありとやりきれなさを感じるものだった。
「そう毎度毎度、望むようにはなってはくれんさ」
そんな様子の米田を気にかけた花小路がそう声をかける。だが、そんな物は何の慰めにもならないのは百も承知だった。第一、花小路自身も米田と同様か下手したらそれ以上にショックを受けているのだから。
「わかってますがね…」
頭を抱え込んで米田がまた苦悶の表情になる。
「わかってますが、諦めきれないのも事実なんですよ」
「気持ちはよくわかるよ。だが…」
「ええ…」
二人は同時に米田が投げ捨てたファイルに目をやった。そこには朱書きで、
“被験者に対する調査結果報告書”
と書いてあったのだ。その表紙の内容、そして二人の落胆具合からこのファイルが誰についてのものであり、そしてどんな内容かは察することができた。
「肉体的には何一つ問題はなし」
「但し、霊子甲冑を動かせるに足る霊力はなし…か」
報告書に書いてあった結論を口に出して二人は再び溜め息をついた。覚悟はしていたことではあるが、いざ現実として突き付けられるとその落胆は半端ではなかった。願わくばいい結果を望んでいただけにこうなるのは仕方のないことではある。あるのだが、落胆するなという方が無理でもあるのだ。とはいえ、いつまでもこの結果に打ちひしがれているわけにもいかない。
「どうするかね、米田くん」
総司令の意を確かめるべく、花小路が口を開いた。
「…華撃団の花組に編入できないのは正直に言えば痛恨ですよ」
「それはわかる」
「ええ。俺の見立てですが、剣の腕前ではさくらどころか一馬や山崎よりも上じゃないかと」
「! それほどかね!?」
米田の発言に花小路が改めて驚いた。政治屋である花小路には漠然としか強さはわからないため、まさか米田がそこまで言うとは思ってもいなかったからだ。そんな花小路の驚きを裏付けるかのように、米田は花小路に同意する意を示して頷いた。
「正直、それだけの戦力が加わってくれるなら心強いなんてものじゃない。でも、それも儚い夢でしたな」
「そうだな」
「とは言え、今申し上げたように剣の腕は超がつくほどの一流であるのは確か。そんな人物をむざむざ手放すのも惜しい話です」
「それもわかる。だが、我々の真の姿を知っても尚協力してくれると思うかね?」
「さて? ですが、話の通じない相手ではないと思いますよ。短い間とは言え近くで見てきたからわかります」
「確かに私も彼とは少なからず生活を共にしているから米田くんの言ってることはわかる。だがね米田くん、我々の為すべきことは決して一般には公に出来ないことだ。排除できる不確定要素は排除した方がいい。そうとも思わんか?」
花小路の目がスッと細くなった。この辺りは流石に酸いも甘いも経験し、裏でも表でも暗躍する傑物である。だが米田は、その回答ににまっと笑った。
「お言葉ですが伯爵、誰があいつを排除できるんですかい?」
「む…」
米田の返しに、花小路が言葉を詰まらせてしまった。確かに実力行使に及んでも、それが上手くいく保証はどこにもなく、返り討ちに遭う可能性だって大なのだ。そして米田はその公算が高いと思っているのである。
「実は今日、その辺のところを証明してくれそうな奴を連れてきたんですよ」
「何?」
「おーい、入ってきな!」
そしてパンパンと手を叩くと、障子がまた音もなくスッと開いた。そこには、海軍の白い軍服を着た一人の青年が立っていたのだった。
「失礼します」
「おう。悪いな、待たせて」
「いえ」
青年は中に入って障子を閉め、米田に一礼した後花小路へと向き直った。
「御無沙汰しております、花小路伯爵」
「おお、加山くんか!」
その人物を見て、花小路が相好を崩した。青年の名は加山雄一。現在花組の隊長を務める大神とは士官学校時代の同期であり、そしてこれもまた帝国華撃団の一つ、月組の隊長を務める人物だった。
加山はそのまま二人の側まで進むと、ゆっくりと正座をした。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです。御挨拶がなかなかできずに申し訳ありません」
「気にせんでくれ。君らの任務の大変さはよくわかっているつもりだよ」
「恐縮です」
思わぬ労いの言葉に、加山が苦笑した。
「それより米田くん、何故ここに加山くんを?」
花小路が加山をこの場に呼び寄せた理由を米田に尋ねる。
「さっき言ったことですよ。実は、あいつの動向を月組の連中に見張らせてましてね」
「何!?」
初耳の事柄に花小路が驚きを隠せない。
「ご報告しなかったのは申し訳ない。ただ、何も出てこない可能性もありましたからね」
「そうかね。だが、こうして加山くんをここに呼んだということは、何か出たと解釈していいのだね?」
「ええ」
軽く頷いた後米田が加山に向かってクイッと顎をしゃくると、
「では…」
と、軽く咳ばらいを一つした後に加山が喋り出した。
「先日、築地にて黒之巣会の幹部の一人、刹那と戦闘し勝利した件なのですが、伯爵もご存知かと思います」
「うむ。花組からの報告書は見たよ」
「あの夜、いつものようにうちの隊員が彼を見張っていたのですが、大神の体調不良のこともあり連日帰宅が遅くなっていました。そして偶然、彼は帰宅の際に刹那がマリアを挑発する様子を見てしまったのです。その場にいたマリア、そして大神は彼には気付きませんでしたが」
「成る程、続けてくれたまえ」
「はい。刹那の挑発とマリアの様子から只ならない気配を感じたのでしょう、本来ならば伯爵の屋敷に戻るところでしたがこの日はそうはせず、そのまま築地へと足を向けました」
「築地? 何故そこへ?」
「前回の戦闘が築地で行われましたから。今回もそこが舞台になるのではないかと推測したのでしょう」
「ふむ」
「無論、空ぶる可能性もあります。その場合どうしていたかはわかりません。ですが実際に戦闘地域になったのは築地でしたので、今回はそれについて深くは言及せずに話を進めます」
「うむ」
「隊員から連絡を受けた私も現地にて合流し、動向を監視していました。ですが彼は何もすることはありませんでした。そうこうしているうちに花組との戦闘が始まり、花組の勝利で幕を閉じました。恐らく報告書にはここまでしか書いてないかと思いますが…」
「そうだ。だがその口ぶりからすると、この続きがあったのかね?」
「はい」
そこでゴクリと一度唾を飲み込むと、再び加山が口を開いた。
「刹那の霊子甲冑を破壊して勝利した花組ですが、実は爆発に巻き込まれて死んだと思われていた刹那は生きていました」
「何!?」
加山の報告に花小路が目を剥いた。
「爆発に巻き込まれ半死半生の状態でしたが、生きていたのは間違いがありません。その事実を目の当たりにした私は血の気が引きましたが、直後にさらに驚くべきことが起こりました。監視をしていたはずの彼が、いつの間にか刹那の真正面へと移動していたのです」
「……」
予想外の展開の何も言えなくなってしまったのか、花小路は口を噤むことしかできなくなっていた。
「距離があったためにどのようなやり取りがあったかは不明ですが、私が見たのは彼に襲い掛かって爪を突き刺した刹那の姿でした。が、爪を突き刺されたはずの彼の姿はそこにはありませんでした。直後、いつの間にか刹那の背後に回っていた彼がその得物を刹那の身体に突き刺してその生命を奪いました。そして念には念を入れてということでしょうか、死体になった刹那を無造作に頭上へと投げると、その首を切断したのです。首と胴体を切り離した彼はそれで満足したのか、そのままその場を立ち去ったのでした」
「…そのこと、花組は?」
「無論、知りませんよ」
米田が首を左右に振った。
「どころか、刹那が生きていたことにも気付いていませんでしたからね。…ま、そのことについては俺もあやめくんも同じですから責められやしませんが」
「だが、彼はそれに気付いた…」
「ええ。もっとも、それは偶然かもしれませんし、霊子甲冑の爆発で死んでいた可能性も十分にあります。ですが実際に起こったのは霊子甲冑の爆発で死んだと思っていた刹那が実は生きており、それに気付いたのは彼だけだった。そしてその、いわば花組の後始末をしたのも彼だったということです」
「成る程」
加山からの報告を受けた後、花小路は腕組みをして深く溜め息をついた。
「おわかりですかい、伯爵?」
米田がそんな花小路を覗き込む。
「ん?」
「俺たちの尻拭いをあいつはしてくれたんです。それを恩にきたから排除しないっていうんじゃない。それだけの広い視野ともしものときの抑えを、それも自主的に買って出てくれたような奴、花組の隊員として使えないからって放り出すのは惜しいと思いませんか?」
「…確かにな」
そのことについては否定の余地もなく、花小路も米田に同意することに異論はなかった。
「それに腕の方も…な?」
「はい」
米田にそう振られた加山が苦笑する。その表情を見て、米田もまた口の中でククッと笑ったのだった。
「何かあったのかね?」
一人蚊帳の外状態の花小路が首を傾げる。
「いえね、今こいつが言った話にはちょっとしたおまけがついてまして」
「ほう?」
「話してやんな」
「はい」
加山が頷くと再び口を開く。
「先ほど彼が刹那を突き刺し、その後に首を切断した件についてご報告しました」
「うむ」
「生物を斬れば当然血液が付着します。刀などは錆びるのを防止するために手入れをしますが、それまでの繋ぎに鞘に収める前に刀を振るって大方の血液を吹き飛ばすことは当然の処置です。彼も刹那を斬った後にその得物に付いた血液を拭うべく刀を振るったのですが…」
「…ですが、何かね?」
一旦そこで口篭もってしまった加山の先を促すように花小路がその後を継いだ。一瞬だけ逡巡した加山だったが、すぐに報告を続ける。
「一瞬、彼は私を見たんです」
「! 気付かれていたということかね!?」
「恐らく」
苦々しい顔になって加山が頷いた。月組の主任務というのは花組の後方支援であり、その詳細はというと情報収集と諜報が主なものである。つまり、見張るほうなのだ。それが見張られていたとなれば失態というか隠密部隊としての面目丸潰れである。
「あまり責めないでやってくださいよ、伯爵」
米田が助け舟を出した。
「こっちだって、敵を取り逃がすところだったんだ。いや、取り逃がしたも同然さ。そうならなかったのはただ単に運が良かっただけなんですからね」
「うむ…話の腰を折ってすまなかったね」
「いえ。…では、続きを」
「うむ」
花小路が頷いたのを確認した後、加山が再度口を開き始めた。
「チラリとこちらを見た後、彼はもの凄い勢いで剣を振るいました。直後、私の頬に生暖かいものが付着したのです。何かと思って手を伸ばして見てみると、それは血液でした。刀を振るった勢いで刹那の血が飛び、それが私の頬に付着したのだとすぐにわかりました。無論、十分な距離をとってはいたのですが、それすら嘲るかのように、そしてお前たちのことなどお見通しだと警告するかのようでした」
「何と…」
ここまでも十分驚きの連続ではあったが、これは極めつけだったのだろう、愕然とした表情になって花小路は放心するしかなかった。花小路がそんな状態のため、今度は米田が質問する。
「加山」
「はい」
「正直に答えろや。お前さん、あいつと戦えと命令されたらどうする?」
「命令であれば従います。ですが…」
「何だ?」
「…お恥ずかしい話ですが、万に一つも勝ち目はないかと。勝負の前から生殺与奪を握られているようなものだと思っています」
「そこまでかね?」
ようやく復活した花小路も再び会話に加わった。
「はい」
そんな花小路に対し、短くだがハッキリと加山が答える。
「正直に申し上げれば、絶対にやりあいたくないですし敵にしたくはありません」
帝国軍人としては失格もいいところですが…と、加山は苦笑するしかなかった。
「…とまあ、こういうオチも付いてたわけですよ」
「そうだったのか…」
花小路が深く息を吐く。と同時に、花小路には珍しく楽しそうに笑い出した。
「どうしました、伯爵?」
そんな花小路に内心驚きつつも、表面上はそんなことをおくびにも出さずに米田が尋ねる。
「ふふ、いや、失礼。ただ、そういうことであれば確かに手放せんなと思っただけのことさ」
「ご理解いただけてありがたいですよ」
米田も満足そうに頷く。
「ですが、こちらがその気でも向こうが首を縦に振るでしょうか?」
いい雰囲気になってるところ申し訳ないと思ったのだが、それでもそこの懸念について無視するわけにもいかず加山が口を差し挟んだ。
「感触自体は悪くねえと思うぜ?」
その懸念に対する米田の返答である。
「あいつは今じゃ随分と重宝されてるからな。花組の連中だけじゃねえ、裏方を始めとする他の連中にもだ」
「その点については同感ですが、こちらとしては事情があったにせよ重要な秘密を隠したままだったのも事実です。そこの点で臍を曲げませんか?」
「そんな小せえ奴だとは思えねえけどな」
「そうだな」
この件については花小路も普段の生活を共にすることもあるからか同意だった。
「よく言えば鷹揚、悪く言えば無頓着…そんな感じがするがね」
「ええ。あまり細かいことは気にしない感じですな」
「もっとも、それが芝居の可能性もあるがな」
「確かに…そこが怖いところと言えば怖いところですな」
だがまあ…と、米田が続ける。
「取りあえず話を通してみないことにはどうしようもありませんやね」
「うむ。その件については任せても構わんかね」
「ええ。伯爵にはあいつの身元引受人になってもらってますから、それだけでも十分ですよ」
「そうかね」
「まあ、誠心誠意話してみますよ。事情があったとは言え、こっちの手の内を明かしていなかったのは事実ですからね。もっとも…」
そこでチラリと米田が加山に視線を向けた。
「さっきの血の一件から考えるに、もうとっくにこっちの猿芝居を見破っていかもしれませんがね」
「そうだな。十分に気を付けてくれたまえ」
「了解」
花小路に対して軽く頷く米田。こうして船上での秘密の会議は終了したのだった。
隅田川船上にてそんな極秘の会談があってから数日後、帝劇では次の演目の稽古の真っ最中だった。
「お、おみや~」
「貫一さまで、ございますこと~」
舞台に立って立ち稽古をしているのはすみれとカンナだ。そのセリフの内容から、稽古中の演目は尾崎紅葉の『金色夜叉』のようだった。だが、この二人が同じ舞台に立っていて何も起こらずに終わるわけもなく。
「…あの二人のことや、きっと何かおもろいことをやってくれるで」
口元を抑えながら、ニシシと含み笑いを浮かべて期待に満ちた目を紅蘭が舞台に向けていた。と、
「ねえねえ紅蘭、明日なんの日か知ってる?」
アイリスがそんなことを紅蘭に聞いていた。いつも明るくて元気なアイリスだが、今日はいつも以上にご機嫌な様子だった。が、
「静かにしいや、アイリス。今、セリフ合わせの最中やで」
「アイリス、静かにして! 他の人のセリフを聞くのも大事なことなのよ」
と、窘められたのだった。その素っ気ない返答と、マリアにも同様に注意されたことでアイリスが仏頂面になってぷくっと頬を膨らませる。
「つまんないのー」
アイリスがご機嫌斜めになっているその横で、紅蘭の予想通りすみれとカンナが揉め始めていた。
「言葉遣いが違うだろ!」
「これでいいのですわよ!」
「どう考えてもおかしいだろ! おめえ、ネジ一本とれてんじゃねえのか!?」
「そちらこそ、動くたびにセットを揺らすの止めてくださらない!?」
「ほら、始まったで。どっちが勝つのやら、世紀の名勝負やで!」
予想通りの展開になったことに紅蘭がワクワクを隠さず、マリアは額に手を当てて軽く左右に首を振り、さくらが乾いた笑いを浮かべながらそんな様子を見ていた。
「ねえねえ、マリア。明日はねえ…」
そんな中、アイリスはめげずにマリアに話しかけようとする。が、
「…アイリス、セリフ合わせの最中に私語は厳禁よ」
返ってきたのは何処までもマリアらしい返答と言えばマリアらしい返答だった。
「つまんなーい」
そして、またも無下にあしらわれた形のアイリスは再び頬を膨らませた。が、直後にプイっと舞台に背を向ける。
「お兄ちゃんたちのところに、行こーっと」
そしてそのまま舞台から走り去ったのだった。
「あっ! アイリス! 稽古中に何処行くの!? 待ちなさい!」
「イヤだもーん! バイバーイ!」
さくらが制止したがそれに従うわけもなく、アイリスはそのまま舞台を後にしたのだった。
「やれやれ…」
事務局にて、机に頬杖を着きながら目の前の状況に大神は嘆息していた。その目の前には伝票が積まれている。大分減らしたから先が見えているのが救いだろうか。
「モギリの仕事がないと思ったら伝票整理がこんなに…」
算盤で計算しながら、大神は愚痴を零していた。
「『愛はダイヤ』の公演が始まる来週までは、のんびりと休めると思ったのに…」
「そんなにボヤかないでくださいよ。もうすぐ終わりじゃないですか」
そんな大神を励ますように由里が声をかける。もっとも由里としては励ますというよりは、宥めすかせてどうにか自分の仕事をやってもらおうと思っているのかもしれないが。
「ああ、そうだね」
「そうですよ。それに、体力仕事の方はソーンが請け負ってるじゃない。伝票整理に専念できるでしょ?」
「いやまあ、それはそうだけど。でも、嬉しくないなぁ…」
「はいはい。文句はいいから手を動かしてくださいね」
「わかってるよ。…よし! 終わったぞ。かすみくん、これでいいかい?」
由里に焚きつけられながらようやく伝票整理の終了した大神がかすみに報告した。
「少し待っててくださいね…」
かすみがちゃんと整理できているかどうか計算を始める。ぐったりしながら椅子に腰かけていた大神だったが、程なくかすみが大神を覗き込んできた。
「はい、大丈夫です。お疲れさまでした、大神さん」
「やれやれ、ようやく終わったか。それじゃあ、俺はこれで失礼するよ」
「お疲れさま」
かすみからOKの許可が出たためゆっくりと大神は椅子から立ち上がった。由里の労いの言葉に軽く手を振ると、そのまま大神は事務局を後にしたのだった。
「やれやれ…」
伝票整理で凝り固まった身体を解すかのように、大神がうーんと身体を伸ばす。そして、大きく息を吐いて脱力した。
「仕事も終わったことだし、部屋に帰って休むとするか…」
溜まった疲労を解消すべく大神が歩き出す。と、
「大神」
聞き慣れた声がして振り返ると、そこにはこの劇場での相棒の姿があった。
「やあ、ソーン」
軽く手を挙げて応えた大神に、ソーンバルケも同じように手を挙げた。
「伝票整理は終わったのか?」
「何とかね。ソーンの方こそ、書架の整理は終わったのかい?」
「ああ。大分かかってしまったがな」
「そうか。お疲れさん」
「お前こそな。大分ぐったりしているようだが、奴らに絞られたか?」
ソーンバルケのその問いに、大神は力なく笑った。
「動かなくていいから楽は楽なんだけどね。でも、やっぱり俺は身体を動かしてる方が性に合ってるな」
「そうか。…まあ、悪く思うな」
「わかってるよ。適材適所だからね」
そこでお互い、フッと疲れたように息を吐いた。そこへ、
「大神さん! ソーンさん!」
誰かが声をかけてくる。大神とソーンバルケが振り返ると、そこにはパタパタと走ってくるさくらの姿があった。
「やあ、さくらくん」
「どうかしたのか?」
大神とソーンバルケが応対する。と、
「あの…アイリスを見ませんでしたか?」
呼吸を整えてからさくらがそう、二人に尋ねたのだった。
「アイリス?」
大神が首を捻る。
「ええ」
「いや、俺は見てないな。ソーンは?」
「私も見てはいないな」
「そうですか…」
二人の返答に、さくらは困ったようなムッとしたような表情になって溜め息をついた。
「まったく…アイリスったらどこに行っちゃったのかしら?」
「何かあったのか?」
気になったソーンバルケがさくらに尋ねる。
「ええ。お稽古のセリフ合わせの途中で何処かに行ってしまったんです」
「そうなのかい?」
「ええ」
さくらの表情は晴れない。それに気付いた大神は、さくらを気遣うように少し大仰に話しかけた。
「まあアイリスのことだから、ひょっこり現れると思うよ」
「そうだな」
ソーンバルケも追随する。
「そうですね。じゃあ、アイリスを見かけたら舞台に戻るように言ってください」
「ああ」
「わかった」
二人の協力を取り付けたところでさくらは舞台に戻ろうとしたが、何かを思い出してその足を踏みとどまった。
「あ、ところで大神さん、明日お暇ですか?」
「明日?」
「はい」
「何かあるのかい?」
明日は特に何もなかったはずだけど…そんなことを考えながら大神がさくらに尋ねた。
「実は、大道具部屋の大掃除をしようと思ったんですけど、手伝ってもらえないでしょうか?」
「明日か…」
さくらの提案に大神が考え込んだ。手伝うのは別にいいのだが、肝心の明日にいきなり急用が入ってこないとも限らない。
「そうだな、考えておくよ。明日、時間があったら大掃除を手伝うよ」
どうなるかわからないのに無責任なことを言うのも気が引けたので、取りあえずそう答えることにした。良くは思われないのは百も承知だが、俗に言う玉虫色の回答というやつである。
「そうですか。じゃあ、時間があるようでしたら大道具部屋に来てくださいね」
だが、玉虫色の回答であっても断られなかったことが嬉しかったのか、さくらが笑顔を浮かべた。申し訳ないな…と、少し心苦しくしていた大神の耳に、
「お兄ちゃーん!」
と、自分を呼ぶアイリスの声が聞こえてきたのはその直後だった。
「アイリス?」
「えへへ、お兄ちゃん」
パタパタと近づいてきたアイリスが嬉しそうに顔を綻ばせている。
「あ、ソーンもいたんだ」
「ああ」
そして大神の隣に立っているソーンバルケの姿を見て、アイリスはそう声をかけた。ソーンバルケもそんなアイリスの態度におまけ扱いかと思い苦笑しながら返事を返す。
「どうかしたのかい?」
ある意味渦中の人物であるアイリスの登場に、大神は何の気なくそう尋ねた。と、
「ねえ、お兄ちゃん。明日はアイリスとデートしようね!」
と、予想外の、しかし破壊力抜群の爆弾を落としたのであった。
「いいっ!? デートだって!?」
「デート…?」
驚く大神と同時に、さくらの気配が微妙に変わったことにソーンバルケは気付いたが、面白くなりそうなので余計な口を挟まずに推移を見守ることにした。
「ね…いいよね、お兄ちゃん?」
アイリスが頬を染めながら大神を見上げる。が、
「いや…その…」
大神の歯切れは悪い。脇に立つさくらから妙なプレッシャーを感じ、返答に戸惑っているのだ。返答を間違ったら、取り返しのつかないようなことになりそうな悪寒をヒシヒシと感じていたのである。
「ええっと…」
そのため、どう返答していいかわからずに言葉を濁すことしかできない。さくらからのプレッシャーは徐々に巨大化しているのを感じていた。振り返ることなど、もうできそうにもない。
(断ればさくらは収まるだろうな。だがアイリスは納得はしないだろう。受け入れればその逆になるだけだ。全く、大変だな)
そんなことを思いながらも内心でクックッと笑いながら、ソーンバルケは状況の推移を見守っていた。と、何時まで経っても望むような返答を返してくれない大神に、アイリスの表情が険を帯びる。そして、切り札を出してきた。
「ねえ、いいでしょ!? だって明日はアイリスのお誕生日なんだよ!?」
「えっ!? そうなのかい!?」
初耳の事実に大神が驚く。そして、
「それならそうと、早く言ってくれればいいのに…」
デートの一言で妙なオーラを放っていたさくらだったが、誕生日の一言に一気にそのオーラは雲散霧消してしまったのだった。
「大神さん、そういうことなら明日はアイリスに付き合ってあげてください」
「いいのかい? さくらくん」
「ええ」
ちょっとだけ不満そうな表情も見せたが、それでもさくらはそう言って頷いた。そのさくらの申し出を聞いたアイリスがニッコリと微笑む。
「そーだよ、さくらの言う通り! やったあ! 明日はお兄ちゃんとデートだ!」
「そうだね。わかったよ」
こうなっては如何ともしがたく、大神も頷くしかなかった。…というより、さくらの妙なプレッシャーの餌食にならずに済んだので、寧ろ願ったり叶ったりかもしれないが。
「…それじゃあ大神さん、あたしはこれで失礼します」
「すまない、さくらくん」
「いいんですよ」
さくらが微笑んだが、その笑顔には少しだけ寂しさも見受けられた。それに気付いてしまった大神の胸がチクリと痛む。
「でも、大道具部屋の掃除は?」
「仕方ありませんから、あたし一人でやりますよ」
「いや…それは…」
そんなことをさせるのは忍びないとは思いつつも、明日の予定は今決まってしまったために、大神は何も言えない。と、
「ならば、私が手伝おうか」
え? と振り返った大神とさくらの視線の先にいるのは当然ながらソーンバルケの姿だった。
「ソーン」
「えと…いいんですか?」
申し訳なさそうにさくらが上目遣いになってソーンバルケに尋ねた。
「ああ」
そんなさくらを気遣うように、ソーンバルケは気にした様子もなく頷いた。
「わあ、ありがとうございます!」
「いいのかい?」
喜ぶさくらの横で、大神は申し訳なさそうな様子でソーンバルケに尋ねてくる。
「ああ、構わないさ。そのかわり、明日はしっかりそこのレディをエスコートしてやってくれ」
「レディ!?」
ソーンバルケが何気なく口にしたその一言に、アイリスの表情がぱあっと明るくなった。
「えへへー…♪ レディかー…♪」
レディ扱いされたのが余程嬉しかったのか、アイリスは上機嫌になってクルクルと回っていた。そんな無邪気な様子のアイリスを見て、ソーンバルケはフッと軽く息を吐くと大神に視線を向ける。
「と、いうことだ。頼んだぞ」
「ああ、わかったよ。すまない」
「気にするな」
申し訳なさそうにしている大神に、ソーンバルケがヒラヒラと手を振った。と、
「ねえ、お兄ちゃん! 明日来ていくお洋服、お兄ちゃんも一緒に選んで?」
と、思わぬことをアイリスが言ってきた。
「え? その服じゃダメなのかい?」
大神が不思議そうな表情になって首を傾げる。と、
「ダメ! だって初めてのデートだもん! ちゃんとおしゃれするの! だから衣裳部屋に行ってアイリスのお洋服を選ぶの手伝って!」
そう、アイリスが意気込んだのだった。
「わかったよ。俺の見立てがどれほどお役に立てるかわからないけど、頑張ってみるよ」
「うん! それじゃあ行こうよ、早く早く!」
アイリスに手を引かれ、大神はアイリスと連れ立ってその場を後にしたのだった。
「ふふ、アイリス嬉しそう」
その後ろ姿を見つめながら、さくらがクスクスと笑う。だがソーンバルケは、その笑顔の裏に寂しさが混じっているのに気づいた。事情が事情ゆえにアイリスに譲ったが、本当はさくらも大神と一緒に過ごしたかったのだろう。
(全く…モテる男が罪というのはどうやら本当のようだな)
脳内に何人か該当する人物を思い出し、クスッと微笑んだソーンバルケがそのままポンとさくらの肩に手を置いた。
「ソーンさん」
「今回は残念だったが、私で我慢してくれ」
「そ、そんな! 残念だなんて!」
ビックリした表情になってブンブンと首を振るさくらだったが、ソーンバルケはそんなさくらを落ち着かせるかのようにその手を肩からポンと頭に手を乗せた。
「あ…」
「まあ、明日は宜しくな」
「は、はい…」
少し頬を赤くして俯くさくら。
(大きい手…お父様みたい…)
久しく感じたことのなかった温もりを感じ、さくらは恥ずかしさよりも安心感や心地良さというものを感じていた。そして翌日、アイリスと大神は連れ立って帝劇を後にしたのだった。