サクラ大戦 剣聖の新たな道 作: ノーリ
結果は…すみれさんの圧勝でした。詳細な数字は控えさせていただきますが、それでもカンナにダブルスコアをつけるとは…と。
ですが、アンケートにも書いてありますが、大筋は決まっているために今回のアンケートの結果は本文には影響しません。やってみたら、どういう結果になるかなとちょっと思ったので試してみた次第です。
さてでは、廃屋での展開はどうなるかと言いますと…そこはいつも通り、本文を確認していただければと思います。
では、どうぞ。
「ここが例の深川の廃屋か…」
帝劇を出た大神一行は一路調査のため深川に出向いた。そして今、その目的地へと辿り着いたところである。
「すっかり荒れ果てているなぁ…」
目の前の廃屋を目にした大神は正直な感想を漏らした。廃屋なのだから荒れ果てていて当然なのだが、それでも鬱蒼とした草むらの向こうに見えるこの廃屋は、予想以上に荒れ果てているように見えた。
「確かに…怪しさ大爆発ですわね」
すみれもその大神の意見に頷いた。元々が大きなお屋敷住まいのすみれだけに、ここまで荒れることが只事ではないとわかるのだろう。
「米田長官のくれた資料だと、文明開化の時にどこかの華族が建てたらしいんだけど…」
「華族とはなんだ?」
聞きなれぬ言葉にソーンバルケがその意味を尋ねる。
「え? えーっと…」
「現国家体制を制定する際に、それまで高い身分にあった方々の位を廃止しましたの。その際に、その方々に新たに制定された身分のことですわ」
すみれが答えた。流石に財閥の一人娘なだけはあり、その手の繋がりも当然あるのだろう。
「要するに、お偉いさんか」
「…大雑把ですけど、まあ、そう思っていれば間違いないですわ」
言葉通りのソーンバルケの大雑把に理解に、疲れたようにすみれが溜め息をついた。
「んで? 隊長」
話の腰が折れたままだったため、カンナが大神に先を促す。
「ああ。この屋敷を立てた華族なんだけど、その後事故が続発して一家は離散してしまったらしいんだ。以降は、住む者もなくほったらかしらしい」
「へぇ…」
事情を理解したカンナから少し離れたところで、すみれが難しい表情をしているのに大神が気付いた。
「ん? どうした、すみれくん」
怪訝に思った大神が尋ねると、
「…この屋敷から、強い霊力を感じますわ」
そう、静かに呟いたのだった。
「え?」
「光武を操るための霊力とは、ちょっと違いますけど。何だか、屋敷自体が霊力を発しているような…とにかく気味が悪いですわ」
(ほぉ…)
ソーンバルケが感心したような表情ですみれの表情をチラッと見た。自身はそんなものは何も感じないが、流石に正規の花組の隊員だけあってそういうものを敏感に感じ取ることができるらしい。
「そうか。…しかし、外から眺めているだけでは調査にならない。よし、中に入ってみよう」
「ああ」
カンナが頷き、大神の後に続く。その少し後ろをすみれが追い、殿をソーンバルケが務めて一行は屋敷の中に入った。ギィ…と建てつけの悪い音を立て、重々しい扉が開く。そして、建物内の淀んだ空気が四人に襲い掛かった。
「う…カビ臭いですわ」
「ここは玄関ホールかな…?」
大神が辺りを見渡す。まあ、正面玄関から堂々と入ったのだから当然といえば当然だが。しかしその玄関ホールも在りし日の栄華はまるでなく、ただ過ぎ去った年月を感じさせる荒れ具合を大神たちに披露していた。
「でも、こんな大きなお屋敷も人がいなくなるとかえって不気味だなあ…」
「全くだな」
大神の意見にソーンバルケが追随し頷く。と、
「どうした、隊長、ソーン。ひょっとして怖いのかい?」
少し挑発するような口調でカンナが二人にそう聞いたのだった。
「え…いや…」
その質問に大神は口ごもったが、ソーンバルケは視線を鋭くした。
「怖いというよりは…不気味だな。何が出てきてもおかしくない雰囲気だ。こういうところには長居しないに限る」
そして、いつもと変わらぬ冷静な口調でそう答えたのだった。
「そ、そうだな。さっさと終わらせよう」
「ああ、わかったよ。…ところで、そっちのお嬢ちゃんは大丈夫かな?」
大神とソーンバルケに向けたカンナの挑発するような口調は、次は自然とすみれに向けられることになる。
「失礼なことをおっしゃらないで! わたくしが怖いものなんてこの世には存在しませんわ!」
安い挑発であるがカンナからのものということもあり、当然すみれは乗った。柳眉を逆立てると視線を鋭くしてカンナをキッと睨む。
「あなたこそ大丈夫ですの? 逃げるなら今のうちですわよ」
「バカヤロー、あたいだって怖いものなんかねえ! 余計な心配すんな!」
「静かにしろ。連中に見つかったらどうする」
ソーンバルケが厳しい表情になって二人を戒めた。売り言葉に買い言葉の側面もあるとはいえ、それも時と場合による。任務中に…しかも、偵察という秘匿任務中にこれでは口を挟まれても仕方がなかった。
「なあーに、たとえ何が現れても、このカンナ様が空手でぶっ飛ばしてや…」
そんなソーンバルケの心情もわからず、カンナが勇ましくファイティングポーズをとった直後、聞きなれぬ音が全員の耳に響いた。そして、
「うわあああっ!」
カンナが悲鳴を上げながらその場に身体を沈めていったのだった。
「カンナさんっ!」
「カンナ、どうした!?」
慌てるすみれと大神。そしてその三人に目もくれずに周囲の様子を窺うソーンバルケ。
「あいてててて…」
直後に再び姿を現したカンナは、所々汚れや埃にまみれていた。
「床を踏みぬいちまったよ」
ナハハと照れ笑いを浮かべながらカンナが気恥ずかし気に頬をかいた。よく見れば頬も少し赤くなっている。
「…ああ、びっくりした」
大したことがなかったことに大神がホッと一息つく。そしてすみれもまた、同じような表情を浮かべていた。が、
「…しかし、すみれくん。流石に今はカンナが心配だったようだね」
大神のこの一言で雲行きが怪しくなってしまう。
(ッ! 余計なことを…)
ソーンバルケが大神の迂闊な一言に苦虫を噛み潰したような顔をする。案の定、
「え…? い、今のは…そ、その…」
大神に一番指摘されたくないであろうことを指摘され、すみれがしどろもどろになった。そして、
「おほほほほ! い、いやですわ、とんだ誤解でしてよ。わたくし、カンナさんに踏み抜かれた床が気の毒で…」
まあ予想はできたが、最悪に近い選択肢をすみれは選んだのだった。そしてそうなると、
「なんだとお~!? くそっ、もう頭に来たぞ!」
当然、カンナがこうなるのは火を見るよりも明らかだった。そしてそのままカンナはすみれに詰め寄る。
「もうおめえの顔は見たくねえ! おめえと一緒にいるくらいなら幽霊と一緒の方がまだましだ!」
「それはこっちのセリフですわ! あなたのようなお騒がせ女、こちらから願い下げですわ!」
ぐぬぬぬぬと睨み合う二人だったが、ほぼ同時にプイッと顔を背ける。
「あたいはこっちの左のドアに行くからな! 絶対ついてくんなよ!」
「なら、わたくしは右ですわ! あー、これでスッキリしますわ!」
そして止める間もなく左右に分かれてしまったのだった。
「お、おい二人とも! ちょ、ちょっと待てよ!」
余りの展開の速さに呆然としていた大神だったが、慌てて二人を止める。しかしその時にはすでに遅く、二人はそれぞれ宣言したドアに入ってしまっていた。
「ああ…」
どうしてこうなるんだと、大神がガックリと肩を落とした。と、
「全く…」
頭上から、ソーンバルケの呆れたような声が聞こえてきた。
「ソーン?」
「余計な一言を言ったものだな、大神」
「え?」
その声色にも驚いたが、『余計な一言』との指摘に大神は尚更驚いていた。
「すみれに『カンナが心配だったようだね』などと言って、あいつが素直に認めるわけないだろう? 平時でもそうなのに、今のこんがらがっている状態では尚更そんなこと認めるわけないだろうに。ああなることが予想できなかったのか?」
「う…いや…それは…」
ソーンバルケの指摘に大神は返す言葉もない。勿論、大神に悪意があるわけはないし、それはソーンバルケにもわかっているのだがあまりにもタイミングが悪すぎた。結果、この始末である。
「ふぅ…まあいい。ここでこれ以上お前を責めても仕方ないしな。それより、あいつらの後を追わなくては」
「ああ、そうだね」
「お誂え向きと言うか何と言うか、あいつらも二人。我々も二人だ。それぞれ片方を追いかけよう」
「わかった」
「では、私はカンナを追いかける。大神、お前はすみれの方を頼む」
「了解。気を付けてくれ、ソーン」
「お前もな、大神。油断はするなよ」
「ああ」
そうして大神はすみれの、ソーンバルケはカンナの後を追ったのだった。
Side すみれ
「全くあのデカ女、本当に許せませんわ!」
右の扉の中に入ったすみれが、室内で憤懣やるかたないといった表情になって文句を吐き捨てている。
「ちょっと待てよすみれくん。落ち着けよ」
少し遅れてすみれの後を追ってきた大神が落ち着かせようと試みるが、
「ガサツで、無神経で、女らしさなどゼロですわ! ゼロ! ねえ少尉、そう思いませんこと!?」
すみれの怒りは静まることはなかった。それどころか自分に賛同を促すかのように大神にそんな質問を投げかける。
「すみれくん、もういい加減、カンナと仲直りしたら?」
流石に大神もいい加減付き合いきれなくなってきたのか、そんなことをぼやいた。しかし、
「御冗談でしょう?」
今のすみれには取り付く島もなかった。
「わたくしにだって、意地がありますわ! 向こうが謝らない限り、謝るつもりは毛頭ございません!」
(やれやれ…こりゃ、簡単には収まらないな…)
状況好転の兆しも見えず、大神は疲れたように溜め息をつくことしかできない。
(仕方ない…)
ここでこうしているわけにもいかず、大神は頭を切り替えることにした。それに、カンナの方にはソーンバルケが行っている。ならば大丈夫だろうという安心感もあるのだ。勿論、油断は禁物だが。
「とりあえず、屋敷の中をもっと調べてみよう。途中でカンナたちとも合流できるかもしれない」
「やれやれ…さっさと調査を終わらせてとっとと帰りたいですわ。こんなカビ臭いところにいたら、服に臭いが移ってしまいますわ」
「ああ」
頷くと、大神とすみれは屋敷の中を探索し始めた。
Side カンナ
「くそ~、あのイヤミ女! 今度こそアッタマ来たぜ!」
左の扉の中に入ったカンナは、憤懣やるかたないといった表情で地団駄を踏んでいる。と、ゴンという音と、その直後にカンナの頭に軽い痛みが走った。
「ッ!?」
何事だと思って頭を抱えながら振り返ると、そこには呆れたような表情をしているソーンバルケの姿があった。鞘に収まったままのヴァーグ・カティをその手に持っているところを見ると、恐らく鍔の部分でカンナの頭をポコンと叩いたのだろう。
「あ、そ、ソーン…」
「全く…」
振り返ったカンナに対して溜め息をつくと、ソーンバルケはヴァーグ・カティを元の位置に戻す。
「少しは控えろと言ったはずだが?」
「け、けどよぉ…」
ソーンバルケの言っていることもよくわかる。とは言え、すみれに対して腹立たしいのもまた事実。そこの折り合いが、今のカンナにはどうしても付けられなかった。
「…まあいい。いや、正確にはよくないのだが、起こってしまったものは仕方ない。とりあえず、ここに来た目的を果たすぞ」
「え?」
「忘れたか? 調査だよ」
「あ、ああ、そうか」
カンナがバツの悪そうな表情になりながらも誤魔化すことはできず、所在なさげにポリポリと頭を掻いた。
「では、屋敷の中を調べるぞ。すみれのことは少し心配だが、向こうには大神が行ったから大丈夫だろう。それに、調査を続けていれば途中で合流もできるだろうしな」
「そうだな。黒之巣会の奴らが何を企んでるのか、つきとめないことには帰るわけにはいかないからな」
こうして、こちらの二人も屋敷の中の調査を開始したのだった。
「む」
「あ」
二手に分かれることになってしまった大神・すみれ組と、ソーンバルケ・カンナ組は結局その後も一階部分では顔を合わせることはなかった。そしてソーンバルケとカンナが二階に上がって引き続き調査を始めようとしたところで、同じく二階に上がってきた大神とすみれに合流する。
「ソーン」
「大神」
合流できたことに大神はホッとし、ソーンバルケはやれやれといった心持ちでお互いに声をかけた。そして大神はソーンバルケの後ろにカンナの姿を、ソーンバルケは大神の後ろにすみれの姿を確認し、お互いに胸を撫で下ろす。
「無事、合流できたようだな」
ソーンバルケが大神にそう尋ねた。
「ああ。そっちも二人とも無事なようで何よりだ」
「とは言え…」
言葉を濁しながらソーンバルケがある方向に首を捻る。大神もその方向に視線を向けると、そこにはお互い腕を組んでそっぽを向いているすみれとカンナの姿があった。
「あの二人は相変わらずだがな」
「はは…そうだね…」
大神の力ない笑いに、こいつも本当に大変だなとソーンバルケは同情を禁じ得なかった。
「さて、お互いに厄介者を回収したところで、調査を続けるか」
「そうだな。すみれくん、カンナ、二人共行くよ」
「…わかりましたわ」
「…ああ」
面白くなさそうな表情は隠そうともせず、すみれとカンナはソーンバルケと大神の後に続いた。踊り場のドアを開けると、そこに広がっていたのは…
「ロビーか」
かつては多くの家人や来客で賑わっていたであろう、広いロビーだった。
「ふむ…ここは少し広いな。手分けして調べるか」
「わかった」
「ええ」
「了解」
ソーンバルケの言葉に三人が了承して散っていく。その三人を見送った後、ソーンバルケもロビーを調べ始めた。
(しかし…)
調べ始めてすぐに、ソーンバルケはここに入ってきた時から疑問に思っていたことについて考える。
(この屋敷のいたるところに貼り付けられているこの紙は一体何なんだ?)
それをジッと見ながらソーンバルケは考えていた。ソーンバルケたち以外の大神たち三人にはそれが御札ということがわかっており、御札だとわかっているからこそどういう理由でここに貼られているのかも何となくわかっているのだが、そういった知識のないソーンバルケにはこの紙…御札の意味がわからなかった。
(誰かに聞いてみるか)
せっかく無事に大神たちとも合流できたことだしそうしようとソーンバルケが思ったところで、
「あっ!」
小さいが、ハッキリとカンナがそう叫んだのが聞こえてきた。
「カンナ?」
「どうした?」
大神とソーンバルケはその声を聞いてすぐにカンナの許に向かうが、
「ふん、どうせ小銭でも見つけた程度のことでしょう?」
すみれは不満タラタラといった感じでそう悪態をつくのだった。とは言え、亀の歩みではあるがカンナの許に向かっていたが。
「ここ、ここだ」
自分の許にやってきた大神とソーンバルケに、カンナがすぐそばのドアを指し示す。そこには無論、すみれの姿はない。待っていられないというのもあるのだろうが、当てつけもあるのだろう。
「この部屋がどうかしたのか?」
大神がチラッとそのドアに目を向ける。
「この奥に、黒之巣のザコがいるんだ」
「見間違いではなく、か?」
「ああ」
カンナが頷いた。
「わかった、この部屋に侵入するぞ。皆、音を立てるなよ」
その頃には合流していたすみれと共に、四人は警戒しながら室内へと入ったのだった。
「い、いた…」
大神が声を顰めながら呟いたとおり、その部屋には黒之巣会の魔操機兵の姿があった。その魔操機兵は大神たちに気づくこともなく、部屋のいたるところに先ほどソーンバルケが気になったもの…御札を張っていた。
「壁に御札を張ってやがるぜ…」
それを見たカンナがそう呟く。御札? と、ソーンバルケは気になったが、今はそんな場合ではないので詳しく聞くのは後回しにして引き続き様子を窺う。
「この屋敷の壁に貼られた御札はこいつの仕業ですわね」
「そのようだね。よし、もう少し近寄ろう…」
更に状況を探るべく接近を試みようとしたその時、小さいが変な音が周囲に響き渡った。
「あら…今何か、天井から落ちてきませんでした?」
「確かに…ポトッ、て音がしたぞ。
すみれと大神がそのことに言及する。それとほぼ同時のタイミングで、ソーンバルケはカンナが何故か硬直したのに気付いた。よく見ると顔色も青くなり、大量に冷や汗も浮かんでいる。
(?)
それに気が付いたソーンバルケがどうしたのだろうと思っていると、
「た、隊長…」
そのカンナが口を開いた。但しいつもの口調ではなく、いつものカンナを知っていればありえないほどぎこちない口調なのだが。
「あ、あたいの腕になんか落ちてきたんだけど…」
「あ…ホントだ。おい、なんか腕に巻きついてるぞ!」
その何かに気づいた大神もカンナの状況を確認してそう答えた。と、カンナから浮かんでいた冷や汗が今では脂汗のようになっている。
「ひいっ! う、動いてる…この冷たさ…この肌触り…ま、ま、ま、まさか!?」
ギギギと恐ろしくぎこちない挙動で該当部分に目を向けるカンナ。そこには…
「どわあ! ヘ、ヘビだ~っ!」
自分の腕に巻き付いている蛇の姿があった。そしてそれを認識した瞬間、カンナは尋常ではないほど取り乱し始めたのだった。
「ヘビ、ヘビ、ヘビ~っ! うわ~っ! うぉ~っ! うわ~っ! ぎゃあ~っ! …へびぃ…」
いつものカンナからは考えられないような取り乱しように大神たちだけではなく、ソーンバルケも固まってしまい対処に困ってしまう。と、
「キ~~~ッ!」
それだけ騒がしくしていれば魔操機兵も気づかないはずがなく、金切り声のような機械音を上げると、脱兎のごとくこの部屋を逃げてしまった。
「カンナさんっ! あなたが大声を出したりするから、敵に逃げられてしまいましたわ!」
すみれが柳眉を逆立てながらカンナを責める。無論、今までの意趣返しもあるのだろうが。だが今のカンナにはそれを相手にしている余裕など微塵もなかった。
「た、隊長! ソーン! どっちでもいいからヘビをとってくれ! は、早く!」
「ん~、もう! あなたのような役立たず女、知りませんわ! わたくしは敵を追いかけます!」
「あっ! 待ってくれ、すみれくん!」
単独で魔操機兵を追いかけようとするすみれを止めようとカンナから目を離した直後、
「フッ!」
ソーンバルケのそんな息遣いが聞こえてきて振り返った。そこには、ヴァーグ・カティを鞘に納めるソーンバルケ、そして納まった直後の鍔なりの音。そしてそのさらに直後、カンナの腕に巻き付いていた蛇の頭部が飛んでいた。が、
「痛ッ!」
カンナが顔を顰めてうずくまる。その表情は痛みに歪んでいた。
「か、咬まれちまった…」
「カンナ、大丈夫か!?」
大神がカンナを案じて覗き込もうとする。が、
「大神、ここは私が。お前はすみれの後を追え」
「でも…」
「いいから行け。あいつ一人、単独行動をさせておくわけにもいくまい」
「…わかった。すまないが、頼む」
「ああ」
ソーンバルケに諭され、カンナをソーンバルケに託して大神は消えていったすみれの後を追った。
「さて…」
大神を見送ったソーンバルケはカンナに視線を向ける。うずくまったカンナは蛇に噛まれた患部を押さえたまま、青い顔をしている。
「大丈夫か?」
「……」
そのソーンバルケの問いかけに、カンナが心細げな表情になって黙って首を左右に振った。それは未だ見たことのない、カンナの弱々しい表情だった。
「きっと、あれは毒ヘビだ。腕をがぶっと咬まれちまった…。あたいは…ここで死ぬんだ…」
「……」
一概には言えないが、本当に毒蛇だったらもう何らかの症状が出ていて当然だとソーンバルケは思っていた。故に、先ほどの蛇は毒蛇ではないとも。だが、今の思い込んでいるカンナを相手にそんなことを言っても気休めにしか聞こえず聞く耳を持たないだろう。
(仕方ない…)
言葉で納得しないのであれば行動で示すしかないと、ソーンバルケは己の左腕…肩口の辺りに手をかけた。そして力を込める。少しして、ソーンバルケの衣服の左腕部分の肩口のあたりが裂け、左腕部分が外気に晒された。そして当然、裂かれた衣服の左腕部分は床に滑り落ちることになる。
「えっ!?」
ソーンバルケの突然の行動に驚いて固まってしまったカンナだったが、ソーンバルケは意に介することもなくその衣服の残片をとるとカンナに近づいた。そしてそれで、肘から少し上の部分を固く結束する。
「あ、あの…」
「ジッとしていろ」
「あ…」
カンナが声を上げたときにはソーンバルケの左腕部分を覆っていた衣服の残片は包帯代わりにカンナの腕にきつく巻き付いていた。
「これでいい」
処置が終わると、ソーンバルケが立ち上がる。カンナが目をやると、そこにはソーンバルケの衣服だったものが包帯代わりにきつく結ばれていた。
「立てるか?」
「え? あ、ああ…」
未だ呆然としていたカンナだったが、ソーンバルケにそう声をかけられてゆっくりと立ち上がる。
「その腕ではいつも通りには戦えないだろうが、まあしばらくの辛抱だと思ってくれ」
「ああ。大丈夫だよ。ただ、その…」
カンナが珍しく口ごもり、そして顔を赤くした。
「どうした?」
「いや…悪ぃ、ガラにもなく取り乱しちまって」
「まあ、確かにな」
先ほどのカンナの様子を思い出し、そしてソーンバルケがクックッと笑った。
「だが、珍しいものを見れたからな。その見物料だと思っておくさ」
「ヒデェな」
「そう言うな」
再び笑うソーンバルケに、カンナの表情が流石にムッとしたものになった。
「だがまあ、あそこまで取り乱すのも珍しいと言えば珍しい。何より、先ほど怖いものなどないと言っていただけに余計にな」
「う…いや、そのな。ヘビは…ヘビだけはダメなんだよ」
「そうなのか? まあ、確かに好きだという人間はいないだろうが、それでもあの怖がり方は尋常ではないな」
「まあね。あたいがヘビがダメなのはわけがあってさ」
「わけ?」
「ああ。あれはまだ、あたいが小っちゃくて沖縄で親父と暮らしてたときのことさ…」
カンナはそう前置きすると、己の身の上話を話し始めた。
「ガキの頃から修行、修行。とにかく修行…。親父の口から空手以外のことなんて一度だって聞いたことがなかった」
「親父の背中を追って、走り続けて…。楽しそうに遊んでいる、他の親子がうらやましかった…」
「そんなある日、親父が出かけたんだ。あたいはいつものように空手の修行をしていて。そのとき、ヘビに咬まれちまったのさ」
(成る程な、幼き日のトラウマか…)
短い回想だったがソーンバルケは黙って聞いていた。
「それ以来、ヘビがすごく苦手になっちまってさ…。ヘビに咬まれて、またあのときのように一人ぼっちになっちまったら…そう考えると、とても怖いんだよ」
「そういうことか」
カンナが蛇に咬まれてあそこまで取り乱していた理由がわかり、ソーンバルケは深く頷いたのだった。
「へへ、笑っちゃうよな。こんな大きな図体して、子供みたいに大騒ぎしてよ」
「そうか?」
「え?」
予想外の返答に、カンナがきょとんとソーンバルケを見ている。
「そんな不思議そうな顔をしなくてもいいだろう?」
そんなカンナに、苦笑しながらソーンバルケがそう返した。
「誰だって、苦手なものの一つや二つあるだろう。お前はそれが蛇なだけのことだ」
「そりゃ、そうだけど」
「まあ、心配するな。いくらこんな廃屋だからと言って、もう一度蛇に出くわす可能性はそうはあるまい。もし万一、そんなことになったら…」
「なったら?」
「そのときは、私が露払いをしよう」
「そっか。…へへ、サンキュ」
「うむ」
カンナがニカッと笑う様子を見て、大分いつもの調子を取り戻してきたのがわかったソーンバルケが内心でホッと一息ついた。
「では行くぞ。大神たちの後を追わねば」
「ああ」
カンナが頷いて歩き出そうとしたが、
「あ、あれ…?」
妙な声を上げると、その場にへたり込んでしまった。
「どうした?」
カンナのその姿にソーンバルケが訝し気な表情になって声をかける。と、
「あ…いや…その…」
非常に気まずそうな、言いにくそうな表情になってカンナがポリポリと頬をかいた。
「ん?」
「いや…実はよ。今ひと騒ぎしたので腰が哂ってるみたいで、歩けないんだ。立つだけだったらどうってことないんだけど…」
「ふむ」
心因性の原因もあるのかもしれないなと、カンナの告白を聞いてソーンバルケは思っていた。苦手なものが目の前に現れただけでなく、身体を這いずり回ったのであればそうなるのも仕方ないかもしれない。
とは言え、大神とすみれが先行しているだけに、あの二人をこのままにしておくわけにもいかない。少し考えた挙句、ソーンバルケがとった方法は…
「…っと」
少し気合を入れると、ソーンバルケが床から立ち上がった。そしてその背には、カンナの姿があった。
「な、なあ…」
背負われた格好になっているカンナが、頬を赤くしながら呟いた。
「何だ?」
「い、いや、やっぱりいいって、こんなの…」
ソーンバルケが振り返ってこたえる。その顔の近さにさらに顔を赤くしたカンナが、少し距離をとってそっぽを向きながら答えた。
「そうはいかない。さっきも言ったが、大神たちをそのままにしておくわけにはいかないからな」
対して、ソーンバルケの返答も先ほどと同じもの…カンナが予想した通りのものであった。
「だが現状、お前がろくに歩けないのであればこうするしかないだろう。動けないお前をここに置いておいて、万一のことでもあったら大ごとだからな」
「で、でもさあ…」
カンナは歯切れが悪い。自分の現状が情けなくもあり、恥ずかしくもあるのだろう。では、いい代案があるのかと言われればそんなものがあるわけもなく、結局はこれが一番合理的でいい方法なのである。
「まあ、しばらくの辛抱だ。窮屈とは思うが、そこは我慢してくれ」
「う…」
元から拒否する余地のほぼない状況の上、そこまで言われてしまうと如何ともしがたく、
「わ、わかったよ…」
不承不承ながらカンナは頷くことしかできなかった。そして、その身をソーンバルケの背中に預ける。
「よし、では行くぞ」
「ああ。よろしくな」
「承知」
頷くと、ソーンバルケは歩き出した。
(あったかいな…)
密着部分から感じる温もりに、カンナはそんなことを感じていた。
(親父みたいだ…)
筋肉質で大きくガッチリとした背中から、カンナは続けざまにそんなことを思う。無論、実父にこんなことをされたことはカンナの記憶にはないのだが、もし父親に背負われたらこんな感じなんだろうなとカンナは思っていた。
(落ち着くな…)
背中に耳を当てるとソーンバルケの心音が聞こえてきた。それがまるで母親の胎内を思い出し、カンナは心地よい気分になっていたのだった。
(やれやれ、ようやく落ち着いたか…)
一方、カンナを背負っているソーンバルケはそんなことを考えながら内心で溜め息をついていた。一時はどうなるかと思っていたが、今はどうやらカンナも落ち着いたようで何よりだった。
(しかし、まさか本当にこんなことになるとはな…)
ソーンバルケがそんなことを考える。こんなことというのは、廃屋に入って早々喧嘩別れをしたすみれとカンナについて、自分がカンナを追うといったことについてだった。何も何の考えもなくそう宣言したのではない。二人の体格差を考えてのあの発言だったのだ。
大神がカンナを追いかけてその結果何かがあった場合、大神ではカンナと体格が違いすぎて持て余すことになりかねないとソーンバルケは考えていた。そうすると、カンナには少し劣るが、それでも大神よりは大分カンナに体格の近い自分がカンナを担当した方がいいだろう。ソーンバルケはそう考えて大神にはすみれを任せたのである。すみれならこの中で一番体格が小さいので、何かあったときに大神でも十分に対応できると思ったからだ。幸か不幸か危惧した通りになってしまい、杞憂では終わらずに済んだのだが。
(何もなければそれに越したことはなかったのだが…)
だが、起こってしまったことは仕方ない。とにもかくにも、早く大神たちと合流しよう。ソーンバルケはそう考え、大神たちの探索を開始したのだった。
「む」
カンナを背負って少し進んだところで、ソーンバルケはあるものを発見してその場に立ち止まった。
「? どうしたんだよ?」
突然立ち止まったソーンバルケに、カンナが訝しげな表情になって尋ねる。
「大神だ」
「えっ?」
その言葉にカンナがソーンバルケと同じ方向に目をやると、そこには確かに大神の姿があった。
「ここからではわからないが、大神がいるということはすみれも近くにいるのか?」
「ソーン」
ソーンバルケのその一言を聞いたカンナがソーンバルケのことを呼んだ。
「何だ?」
背中のカンナを仰ぎ見ると、
「下ろしてくれ」
簡潔にカンナがそう頼んだのだった。
「…わかった」
そのカンナの頼みにソーンバルケは頷くとゆっくりとカンナを下ろす。腰の状態が戻ったのか、それとも…
(恐らく、こんな状態をすみれに見られたくはなかったのだろうな…)
そう、ソーンバルケは思っていた。腰に力が入らずに背負われているなどという無様な姿を見られたくはないのだろう。ソーンバルケの背から降りたカンナはいつもとあまり変わらない様子で身体を捻ったり腕を伸ばしたりしていた。
(この分なら大丈夫そうか…)
包帯代わりに巻いている衣服のせいで右腕はずいぶん窮屈そうだが、それ以外はいつもと変わるところが見られないのでそう判断し、ソーンバルケは大神に向かって歩き出す。その後ろを、カンナが慌てて追った。
「大神」
「! な、何だ、ソーンか…」
いきなり声をかけられて一瞬ビクッとした大神だが、すぐにその声色がよく知る人物のものだと理解し、安堵の表情を浮かべながら振り返った。その傍らには、
「あら」
やはりすみれの姿があった。
「無事に合流できたようだな」
「ああ。何とかね」
大神が頷き、自然とその目はソーンバルケの左腕に行くことになる。それはすみれもそうだった。そして二人はほぼ同じタイミングでカンナの右腕に目をやった。そこには当然、ソーンバルケの衣服だったものが巻き付いており、それを理解したカンナは少し顔を赤らめながらポリポリと鼻の頭を掻いたのだった。
「それは…」
「応急処置だ。蛇に咬まれたことに対する、な」
「そうか。大丈夫か、カンナ?」
「あ、ああ…」
カンナらしくない歯切れの悪い返答を返す。
「大丈夫だとは思うがな。もう咬まれてから大分時間は経っている。いくら止血しているとはいえ、それなりに時間が経っているのに何の症状も現れていないのだから、毒はないと思う。だが油断はできないから、早急に調査を終わらせて戻ろう」
「ああ。わかったよ」
「ところで、お前たちはここで何を?」
大神の返事を受け、ソーンバルケは二人にここで何をしていたのかを尋ねた。
「あの後、敵を再発見することができてね」
「ほぅ?」
「そこの部屋に入っていったんだ。だから、これから後を追って俺たちも入るところさ」
「それは丁度いいな。なぁ」
「ああ、そうだな」
ソーンバルケが振り返ってカンナを仰ぎ見ると、先ほどまでの弱々しい雰囲気が一変して不敵な笑みを浮かべていた。荒事に心が躍るのはやはり性分なのだろう。
しょうがない奴だと内心で苦笑しながら、ソーンバルケが一つ頷いた。と、それを合図にしたかのように大神とすみれも頷き、そしてゆっくりとその部屋の中へ身体を滑らせたのだった。
「いた…」
大神が呟く。そこにはその言葉通り、魔操機兵の姿があった。そして先ほどと同じように、部屋のいたるところに御札を貼っている。
「また壁に御札を貼ってやがるぜ…」
「一体、何の目的でこんなことをしているのでしょう?」
「それを調べにきたのだろう?」
ソーンバルケの指摘に、そうですけど…と、すみれが少しムッとした表情になった。
「よし…とにかくもう少し近寄ろう」
「ああ」
「ええ」
「わかった」
全員で魔操機兵に気取られぬように距離を詰めようとしたその時、またしても小さく変な音が周囲に響き渡ったのだった。
(まさか…)
先ほどの状況を再現するかのような状況にソーンバルケの表情が曇る。そして、
「……」
今度はすみれが硬直したのに気づいてしまった。
「おい、今天井から何か落ちてこなかったか?」
「確かに…ポトッて音がしたぞ」
直後、カンナと大神がまさしく先ほどの再現のようなやり取りをする。そしてすみれも、先ほどのカンナを思わせるほどに顔を青ざめ、脂汗を浮かべていた。
(おい…)
本当に再現なのか、勘弁してくれとソーンバルケがうんざりしていると、
「しょ、少尉…」
本当に先ほどのカンナをトレースしたかのような口調ですみれが口を開いたのだった。
「わたくしの手の上に何か落ちてきたんですけど…」
「あ…ホントだ! おい、なんか虫みたいなものがくっついてるぞ…」
「う、動いてますわ…このモゾモゾ感…ひょ、ひょっとして…」
これまた先ほどのカンナと同じく、ギギギという擬音がしそうなぎこちない挙動で自分の手を見るすみれ。そして、
「きゃ~~~~っ! ク、ク、ク、クモぉ~~~!」
自分の手の上に乗っている蜘蛛を目の当たりにし、今度はすみれが先ほどのカンナのように大騒ぎを始めたのだった。
「はひ、はひ、クモクモクモクモクモクモ…きゃ~! 死ぬ~! あ~! もう、いや、近くに寄らないで! わぁ、いや~!」
予想通りの大パニックである。そして、
「キ~~~ッ!」
やはりこれだけ騒がしくしていれば魔操機兵も気づかないはずがなく、再び金切り声のような機械音を上げると、脱兎のごとくこの部屋から逃げてしまった。
「ああっ! おめえがバカ声出すから、敵に逃げられちまったじゃねえか!」
カンナが、これまた先ほどのすみれと同様にすみれを糾弾する。そして、
「チクショウ、なんてこった! こんなヒステリー女のために! 隊長、ソーン、あたいは敵を追うぜ!」
と、先ほどのすみれと同じく魔操機兵を追ってカンナが駆けだしたのだった。
「あっ、待て、カンナ!」
条件反射的に大神は思わずカンナを追いかけようとしたが、
「た、た、隊長! ク、ク、ク、クモ! 取ってぇ! 早くぅ!」
すみれにガッチリと掴まれてそれも叶わない。すみれにとっては余程の恐怖なのか、いつもの『少尉』呼びではなく、『隊長』となっていた。
「い、いやでも…」
どうしたものかと大神が逡巡していると、
「落ち着け」
ソーンバルケがいつもとまったく変わらない様子で大神にそう声をかけてきた。
「あちらは私が追いかけよう。お前はそいつを」
そうして、ソーンバルケは未だガタガタ震えているすみれに視線をやった。
「わかった。頼む」
「ああ」
頷くと、ソーンバルケはそのままカンナの後を追ったのだった。直後、
「痛ッ!」
すみれが短く悲鳴を上げる。
「どうした、すみれくん!」
「クモが…噛みつきましたわ…」
「くそっ!」
遅まきながら呆然としているすみれの手の甲より、ようやく大神は蜘蛛を追い払った。
「よし、クモは向こうに放り投げた。すみれくん、もう大丈夫だ」
「きっと…あれは毒グモですわ」
大神はすみれを安心付けようとするも、すみれは今までにない弱々しい声でそんなことを言う。
「手を咬まれてしまいました…もう、助かりませんわ…」
「すみれくん…」
不安がっているすみれを勇気づけるため、大神は言葉より行動で示す。傷口に顔を近づけると、そのままその傷口を吸い出したのだ。
「し、少尉…」
驚きとも呆然とも、そして恥じらいともとれる表情ですみれが呟いた。その顔は、心なしかほんのりと桃色に染まっているようにも見えた。
「な、何をなさるんですの?」
「じっとしてて…念のために傷から毒を吸い出しておこう…」
「あっ…」
すみれが短く感嘆の声を上げる。それはどう意味のものだったかは、当のすみれにもわからなかった。
「少し我慢して。すぐに終わるから…」
「……」
いつもだったら何かしら一言であるすみれだったが、流石に今は言葉もなく、そして大神を振り払うこともせずに、大神に言われるままにジッとしていたのだった。
「…よし、もうちょっとかな」
すみれの様子を窺いながら大神がそんな言葉を呟く。医者でもない大神にはハッキリ言ってこれでいいのかどうかはわからない。つまり、この処置も気休めの要素の方が大きい。しかし、『病は気から』という言葉もある。これで気分が幾らかでも晴れてくれればそれだけでもこんな真似をした価値はあった。
(毒グモの可能性は低いと思うけど…)
少なくともカンナが餌食になった蛇よりは種類が少ないはずだから大丈夫だろう。そう、自分にも言い聞かせるように考えながら大神は処置を続ける。
「少尉…」
今まで大神にすべてを委ねていたすみれが、おずおずと口を開いた。
「ん? 何だい?」
「少尉にこんなことまでしていただいて…わたくし、何て言ったらいいのか…。恥ずかしいですけれど、とても心が落ち着きますわ。ありがとうございます」
「そうか。よかった、少しは元気が出てきたようだね」
頬に赤みが差したままだが、それは決して体調不良によるものではないと表情や雰囲気から理解した大神がひとまず安心しながら付けていた口を離した。
「よし、終わりだ。毒が回らないように腕も縛っておこう」
先ほどから思っていることだが、毒グモの可能性は低いと大神は思っていた。しかし、念には念を入れてという言葉もある。万一のことを考え、大神はソーンバルケがカンナに処置したように、すみれの腕を固く縛ったのだった。
「少尉…本当にありがとうございます…」
最後にもう一度礼の言葉を述べ、すみれはしずしずと腕を引っ込めた。
「この屋敷に入るときに『この世に怖いものはない』と大きなことを申しましたけど…少尉にはお見苦しいところを見せてしまいましたわね」
「いや…」
大神がゆっくりと首を左右に振った。
「でも…いつも怖いものなしのきみが、どうしてそんなにクモを怖がるんだい?」
しかし、そこはやはり気になるのか、失礼かとは思ったがその点について聞いてみたのだった。
「……」
すみれは黙ったまま口を開かない。
「ご、ごめん。立ち入ったことを聞いちゃったようだね」
空気を読み、大神が発言を撤回しようとする。が、
「少尉…これから話すことを、誰にも言わないって約束していただけます?」
そんなふうに、すみれが言葉を紡いだのだった。
「え…う、うん」
「では」
少なからずすみれの雰囲気に圧されたが、それでも他言をしないでくれと言われた大神は素直に頷いた。それを確認し、すみれがゆっくりと口を開き始めたのだった。
「あれは、何年前でしょうか…。まだわたくしが子供のころですわ。わたくしの父は、神崎重工の社長。母は、活動写真のスター。二人とも、娘の誕生日にさえ家にいられないほど忙しい毎日でした」
「……」
大神が黙ってすみれの言葉に耳を傾ける。
「豪華なプレゼントなんか欲しくなかった。父と母さえいてくれれば…。悲しくて、寂しくて、思わず庭に駆け出してしまったんです。その時、うっかりクモの巣に絡まってしまって」
「……」
「気持ち悪かった…。でも、いくら泣いても誰も来てくれなかった。…それ以来、クモがすごく苦手になってしまったんですの。クモの気持ち悪さとあの時の不安と寂しい気持ちが混ざり合って…。クモを見ると、どうしても取り乱してしまうんです…」
「そうだったのか…」
「ふふ…滑稽でしょう? わたくしがたかがクモ一匹に泣き叫ぶ姿は」
「いや」
大神が力強く首を左右に振った。
「確かにその時きみは一人だった。でも、今は俺がいるじゃないか!」
「し、少尉…」
驚きとも、呆れとも、嬉しさともとれる表情ですみれは大神の告白に向き合っていた。
「大丈夫、今度クモが出てきたら俺が必ず守ってやる。だから、安心してくれよ」
「少尉…。ありがとうございます、うれしいですわ、そのお言葉…」
戸惑いつつも、それでも素直にすみれは礼を述べた。
「さ、行こう。傷が痛むだろうけど、いつまでもここでこうしているわけにもいかない」
「ええ…」
「さ、すみれくん。俺の肩につかまって」
「はい。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
そうしてすみれは大神の肩を借りながらこの廃屋を進む。先行してしまった二人の後を追いかけて。