サクラ大戦 剣聖の新たな道 作: ノーリ
では、どうぞ。
大帝国劇場、深夜。
降魔の三騎士を退けてから数日、あやめは悪夢にうなされていた。見るのは決まって最近よく見るようになったあの悪夢。誰かが目の前に立ちはだかり、その手を伸ばす。だがそれを取ってしまえば最後、もう二度と戻ってこれなくなるあの悪夢だった。
「っ! ハァ…ハァ…」
呼吸を乱しながら身体を起こす。寝汗がひどい上に寝不足も手伝って体調も優れない。そんな状況がここ最近続いていた。
「何なの…」
うなだれながら額を抑えると、吐き出すようにそう呟いたのだった。そして、二度と眠りに就くことなくそのまま夜は明けるのだった。
翌日、大帝国劇場。大神が一人、サロンで頭を押さえながら唸っていた。
「えーと…闇より出でし魔物、現世にきたりて…悪を為す」
「暗黒の大地、『大和』封印により…」
「…難しいなあ」
大神の頭を悩ませている原因は、彼が今手にしている一冊の書物にあった。どうやらその理解に苦しんでいるようである。首席卒業の大神をもってして難しいと言わしめるのだから、どれだけこの書物が難解かは推して知るべしといったところか。と、
「大神はん。さっきから何を読んではるんや?」
大神の状況がどうにも引っかかっていた紅蘭が首を傾げながら聞いてきた。
「うん。ちょっと降魔について調べてみようかと思って…」
「ふ~ん、何のご本なのですか?」
降魔と聞いて気になったのだろう、さくらがひょいっと覗き込んでくる。
「え~と、『放神記書伝』の写本だよ。米田長官にお借りしてきたんだ」
「へえ、ちょっと見せてくれよ」
本自体にはともかく、降魔に関するということでカンナも気になったのだろう。大神からそれを借り受ける。
「おいおい、大切に扱ってくれよ。貴重な本なんだから」
物自体は本当に貴重なだけに、大神はそう注意を促した。放神記書伝を開いたカンナの左右にさくらと紅蘭も回り、三人でその内容を覗き込んでいる。と、
「あっ隊長、ここでしたか」
サロンの入口にマリアが姿を現した。
「マリアか。どうした?」
「はい、長官が…」
用件を告げようとしたところで、マリアの目に放神記書伝が入った。
「あら? その本…」
「ん?」
その声が聞こえたカンナが放神記書伝から顔を上げる。
「マリア、この本のこと知ってんのかい?」
そして、放神記書伝を閉じるとヒラヒラとそれを振った。
「ええ。私が花組の隊長になったとき、長官が貸してくださったんです」
「へぇ、マリアにも?」
まさかマリアの手にも渡っていたことがあったとは思わなかった大神が驚きの声を上げた。
「ええ。何でも、花組の隊長として知っておくべきことが書いてあるとのことでした」
「へぇ…」
「もっとも、そのころは私もあやめさんに説明をうけたから読めたのですが…」
「成る程ね…」
そこまで考えて大神は、マリアが内容を理解しているのだったらマリアに説明を受ければいいのではないかと考えた。それを実行すべく、再度マリアに話しかける。
「マリア…この本の内容を教えてくれないか?」
「私は、かまいませんが…」
そう言ったものの、マリアの表情が少し曇った。
「隊長に直接、米田長官がお貸ししたということは、自分で理解しろということではありませんか?」
「そうか…」
いい案だと思ったのだが、にべもなく却下されて大神は内心で肩を落とした。
(やはり、自分でどうにかするしかないのかな)
気が滅入らないと言えば嘘になるが、かと言ってやはり自分でどうにかしなくてはならなくなったこともまた事実。
「やれやれ…ひと休みしようかな」
カンナから放神記書伝を返してもらうと、先はまだ長いことを悟った大神がそれを手近なテーブルの上に置いた。と、
「お兄ちゃん、ジュースもってきてあげたよ!」
いつものように元気にアイリスが走ってきた。
「え? ああ、ありがとう、アイリス」
大神が礼を言うが、その直後に
「あっ!」
足がもつれてしまったのだろうか、アイリスが躓いてしまった。何も持ってなければ転ぶだけで済むのだが、間の悪いことにその手にはジュースの入ったコップがあった。それが自然の流れのようにアイリスの手を離れてしまい、そして、
「あ」
そのジュースが身体にかかってしまったマリアが思わず声を上げたのだった。
「あ」
「あ…マリアにジュースが…」
アイリスと大神も濡れ鼠になってしまったマリアを呆然と見ている。
「ふぅ…髪がびしょ濡れだわ…」
水分が滴り落ちないように一度手櫛で拭うと、マリアは疲れたように溜め息をついたのだった。
「マリア、大丈夫か?」
大神が心配そうにマリアに尋ねた。
「ええ…ジュースがかかっただけですから」
「でも、髪が…」
「少しベタつくだけで、洗えば落ちますから」
「……」
マリアばっかりを大神が気にかけるのが気に食わないのか、アイリスがムッとした表情でその様子を見ている。怪我がなかったとはいえ、自身も当事者なのだ。もっとも、この状況を招いた原因でもあり、それがわかっているだけにいつものように癇癪を起こすことはなかったが。
「…! そろそろ時間ですわ。公演の準備に入りませんと…」
アイリスと同じようにその雰囲気を面白くないと感じたのか、すみれが強引に割って入る。
「あら、もうそんな時間ですか?」
「今日の公演は何だっけ?」
「『大恐竜島』や。ウチとアイリスが主演なんやで」
「紅蘭は『つばさ』以来、久々の主演ですわね」
「そうやで」
紅蘭が笑顔になる。やはり主演ということもあり、嬉しいのだろう。
「大恐竜島? 一体どんな内容なんだい?」
タイトルからでは内容が推し量れず、大神が尋ねた。
「んーとね、『たんけんたい』のお話だよ」
端的にアイリスが答える。
「?」
内容を聞いても今一つ理解できなかったのか、大神が首を傾げる。もっとも、アイリスの回答があまりにも抽象的過ぎたというのもあるのだろうが。
「『大恐竜島』はな、血わき肉おどる南洋冒険ものなんや。謎の古代遺跡あり、原住民あり、怪しげな儀式! 響く叫び声! 行く手をふさぐワナの数々!」
「う~む…スゴそうだな。だけど、どういうお話なんだ?」
「ん~とね、『こんと』っていうんだよ」
「そや、笑劇や! 大衆演劇の基本はお笑いやで」
「コント? 笑劇? それって…マリアもやるのか?」
演目の子細な内容がわかった大神が思わず声を上げた。マリアがコントや笑劇をやるとは思えなかったからだ。まあ、見てみたくもあるのは事実ではあるのだが。
「いえ、今回は私は出番はありません。裏方です」
「あ…そう」
即座に否定された大神が少し残念そうな声を上げた。
(マリアのコント劇も見てみたいような気がするが…)
素直にそんなことを考えてしまったのはまた内緒である。
「じゃ、行こうぜ」
「あ…でもマリアさんが…」
カンナが促したが、さくらがマリアを気遣う。マリアはアイリスの被害によって濡れ鼠状態のままなのだ。
「みんな、悪いけど先に行って。私は髪を洗ってくるわ」
「ゴメンね、マリア…」
「気にしなくていいわ、アイリス。でも、今度からは注意してね」
「うん…」
さっきは大神が気にかけてくれなかったから臍を曲げていたアイリスだったが、冷静になればちゃんと謝れるいい子なのである。それがわかっているからこそ、マリアもアイリスを責めたりはしなかった。こうしてさくらたちとマリアがそれぞれの目的地へと向かおうとした直後、
「あ、隊長!」
何かを思い出したマリアが大神へと振り返った。
「忘れるところでした、米田長官がお呼びです」
「え…ああ、わかった。それで場所は?」
「長官は地下倉庫でお待ちです」
「地下倉庫…?」
予想外の呼び出し場所に大神の表情が曇る。
「やれやれ…今度は倉庫の整理、とか言い出すんじゃないだろうな…」
「ふふ、さあ…。ですが隊長、長官はお急ぎのようでしたから、なるべく早く行ったほうがいいと思いますよ」
「わかった」
場所が場所だけにあまり気が乗らない大神だったが無視するわけにもいかない。そんなことをすれば後々どうなるか火を見るより明らかだからだ。ふう、と一つ溜め息をつくと花組の皆と別れ、大神は地下倉庫へと向かうことにした。その途上、更衣室の奥からシャワーの音が聞こえたため、大神の身体は久しぶりに勝手に動くことになる。
「あれ? 誰かいるみたいだ…」
誰かがシャワーを浴びているのにその水音で気付いた大神がこれはいかんと外に出ようとする。が、
(い、いかん、身体が勝手に…)
という、都合のいい本能には抗えなかったのだった。シャワー室の入口から中を覗く大神。湯気が立ち上ってシルエットを確認するのは少し手間取ったが、その先にあったのはマリアの姿だった。
(マリア…)
考えてみれば当然ではある。先ほどアイリスに不可抗力とはいえ思いっきりジュースをぶち撒けられたのだ。それの後処理のために髪や身体を洗い流すのは当然と言えた。
(きれいだな…)
思わず見惚れてしまう。出歯亀の趣味はないのだが、ないったらないのだが、それでもその美しさには思わず見惚れてしまうのは仕方のないことだった。と、
(どうも遅いと思ったら…こーゆーことか)
囁き声だが、しかし紛れもない自分以外の声が聞こえ、大神は心臓を掴まれたかのように身体を凍らせた。恐る恐る振り返ると、そこには米田の姿があった。
「し、支は(バカヤロ!)」
大声を上げかけた大神の口を支配人こと米田が慌てて塞ぐ。
(声が大きい!)
目を吊り上げて睨む米田の気迫に負けてしまい、大神はコクコクと頷くことしかできなかった。よーし…と囁くと、米田はゆっくりと大神から手を放す。
(おい、場所かわれ。場所!)
(え…?)
てっきり怒られるかと思った大神だったが、予想外の展開に思わず固まってしまう。それをどう解釈したのか、米田は強権を揮ってきた。
(なんだその目は! 貴様、上官命令に背くのか!?)
(は、はあ…)
米田の迫力に押された大神が覚束ない動作で場所を変わった。
(よしっ…うほっ…)
大神と場所を交感した米田がシャワーを浴びているマリアを覗き見て顔をニヤけさせる。
(ええと…)
その姿に、大神は少なからず混乱していた。確かにこの状況を作ったのは自分だが、このままでいいのか? いやそれよりも、これは一体どういう状況なんだと首を捻る。と、
「二人とも…しょうがないわね…」
ある意味バカ二人に対して呆れた表情を浮かべながら、何とあやめまでやってきてしまったのだった。
「あ、あやめさん…」
こんな場所を目撃されてしまい、大神は冷や汗どころか心臓が掴まれるどころか本当に止まりそうになる。あやめはふぅ…と溜め息をつき、米田へと視線を動かした。
「長官もお若いことで…」
「ん…ゴホンッ! いや、大神が遅いのでな…探しておったのだよ」
「まあ…」
苦し紛れのいいわけであり、勿論あやめは信じていない。そして米田も、あやめが信じているなどとは露にも思っていなかったのだが。と、
『誰かそこにいるの!?』
マリアのいつもの声が聞こえてきた。しかし、状況が状況だけに男二人の背中が縮み上がる。心なしか、その声色もいつもより冷たく鋭いように感じた。無論、やましいことがあるから感じる錯覚なのだが。と、
(ほら、見つかると色々まずいんでしょう? 早く行きなさい…)
何と、あやめが助け舟を出してくれたのだった。
(は、はい)
ありがたく大神はその申し出を受ける。そうしている間にも米田はさっさと戦略的撤退の準備をしていたりするのだが。
「マリア、いる?」
大神の返答を確認したあやめがシャワー室のマリアへと声をかける。
『あ、はい。あやめさんでしたか…何か?』
外がこんな状況であることなど気づくわけもなく、マリアが穏やかな口調に戻って尋ねた。
「さくらたちが探していたわよ」
『あっ、申し訳ありません。すぐに行きます』
「ええ、待ってるわ」
(ほら、何をしているの。地下倉庫でしょ、早く行きなさい)
マリアと完璧な受け答えをしながら、引き続きあやめは大神に戻るように促したのだった。
(す、すみません、あやめさん)
(地下倉庫だ。いくぞ大神)
(……)
感謝しきりで大神は何度も頭を下げると、米田と共にマリアに気付かれないように撤退したのだった。
「あれ? ソーン?」
シャワー室から撤退した大神が地下倉庫に入ると、そこには先客の姿があった。ソーンバルケである。声を掛けられたソーンバルケは大神に向かって軽く手を挙げた。
「遅かったな」
「いや…ちょっと…ね…」
まさか今まで何をやっていたかを正直に白状するわけにもいかず、大神は言葉を濁した。
「ほぉ?」
何か引っかかるところでもあったのだろうか、ソーンバルケが軽く首を捻った。が、すぐにどうでもいいと考えなおしたのか、それ以上の追及をやめることにする。
「それより、どうしてここにソーンが?」
まさかソーンバルケがいるとは思わなかったので、大神が疑問を解消すべく尋ねた。
「米田に呼ばれてな」
「え、そうなんだ」
まさか二人で倉庫整理? とイヤな考えが頭をよぎったが、直後に米田とあやめが入ってきたため、とりあえず考えるのを中止したのだった。
「こんな地下倉庫で何を?」
役者が揃ったところで、早速大神が用向きを尋ねる。
「すぐわかる…」
米田がそう答えた直後、米田とあやめがいる付近の壁にあるものが映し出された。
「こ、これは…」
「……」
映し出されたその画像に大神は息を呑み、ソーンバルケは無言ながら表情を歪めた。そこには先ほどの戦いで戦った降魔の全身像が映っていたからだ。
「そう、これが今我々が戦っている敵…降魔だ」
米田が降魔を指し示しながら改めてそう告げた。先ほどまで大神と一緒に…いや、大神以上にノリノリでマリアのシャワーシーンを覗いていたとは思えない落ち着きっぷりである。
「降魔…」
映し出されたその姿に大神は改めて嫌悪感を抱き、そして表情を引き締めたのだった。
「こいつらは黒之巣会とは比べ物にならないほど強力でやっかいな敵だ」
「はい…」
「そしてこいつらが出てきた以上、おまえに…いや、おまえたちに言っておかなくてはならないことがある」
大神とソーンバルケを見据えながら米田がそう続ける。
「それは?」
「うむ…」
ソーンバルケの返答に米田が重々しく頷くとあやめに視線を向けた。それを受け、あやめが軽く首肯する。
「これを見て…」
そう言ってあやめが二人に見せたもの…それは古い絵巻物だった。簡単に言えば人と人外の存在との戦いを描いたものである。そしてその中に、降魔の姿もあったのだ。
「こ、こんな昔の絵に降魔が!」
「これが現在、確認できる最古のものだ…」
「降魔との戦いは今に始まったことではないのよ」
「そんな…」
初めて知る衝撃の事実に大神は驚きを隠せない。他方、ソーンバルケは厳しい表情でその絵巻物に目を向けていた。
「今から四百年前…人間と降魔はこの土地で争いを繰り広げた。そのときは我々人間側が勝利し、辛くもやつらを地下深くに封じ込めたのだが…。しかし、降魔どもは身を潜めつつ地上に侵攻する機会を密かにうかがい続けてきたのだ」
「現に、過去何度か彼らは結界のほころびをついて小規模な攻撃をしかけてきたわ。しかし、彼らが地上に現れる度に人間たちはそれを迎撃し、再び地下に追い返してきたの」
「…その言い様では、人間側も犠牲は大きかったのだろうな」
「ああ…」
「ええ…」
米田とあやめの表情が曇った。そんな二人を見ながらソーンバルケは、
(『暁の女神』がこの世界にいたら、実にお誂え向きの環境だったかもしれないな)
などと考えていた。無論、結果的にはそれを甦らせてしまった過去を持つ自分たちが言えた義理ではないのだが。
「我々より前に降魔と戦った人がいたのですか?」
ソーンバルケがそんなことを考えていることなど知るはずもなく、大神が二人に質問した。
(その件は以前にも聞いたことがあるような気がしたが…)
大神の質問を横で聞いていたソーンバルケはそう思ったが、深く突っ込まないようにする。
「はるか昔から…な。陸軍対降魔部隊も文字通りそうした目的で作られたものだ。ずっと昔の話さ…魔物から帝都を護るなど、誰も本気にしない時代だったよ。わしは真宮寺一馬…さくらの父親と共に密かに仲間を増やしていった。魔の気配を常に感じながらな…」
「し、しかし…」
「互角に戦えたのか?」
ふと、疑問に思ったソーンバルケが尋ねていた。光武では歯が立たず、神武に乗り換えてようやく互せるようになったのだ。霊子甲冑がなかったのに渡り合えるかどうかと言われれば、“?”が浮かぶのは不思議なことではない。
「むろん、今ほど対等に戦えたわけではない。我々には己が肉体と剣だけしかなかったのだからな…。降魔戦争が終わったとき、我々は真宮寺一馬と山崎真之介の二人を失ってしまった」
「…六年前のことよ」
やはり一度聞いているなと思い返しながら、しかし余計な口を挟まずにソーンバルケは黙って二人の話に耳を傾けていた。大神ももちろん同様である。
「真宮寺一馬にはたぐいまれな霊力…『破邪の力』があった。そして、真宮寺一馬はその生命と引き換えに降魔を封じたのだ…」
「『破邪の力』…?」
「うむ。前にも話したと思うが、『破邪の力』とは古代から存在する『魔を狩る者』の力だ。その力を受け継ぐ血統はもはや数えるほどでしかない。…真宮寺家もその一つだ」
「真宮寺家の血統…ですか。…では、さくらくんにもその力があるのですか?」
「ええ、そうよ。でもその力を引き出す方法は秘伝なの…。たぶん、真宮寺大佐は…さくらが大人になってから教えるつもりだったのよ…」
あやめが補足した。
「だが真宮寺がいない今、降魔に対抗する手段は失われてしまった…。しかし、我々には対降魔の切り札がある」
「切り札…?」
「それは?」
「うむ、最後の手段と言ってもいいそれは、これだ」
そう言って米田が大神とソーンバルケに見せたのは仰々しい細工の施された三つのものだった。
「短剣と…鏡と…あともう一つは何だ…珠?」
「ええ」
「こ、これは…?」
「これらは『魔神器』と呼ばれている」
「まじんき…?」
大神が怪訝そうな表情を浮かべた。隊長である大神ですら今まで聞いたことがなかったのだろう。
「うむ。見ての通り魔神器は剣・珠・鏡からなる古の祭器だ。これは善なる者が持てば魔の力を抑えることができる。その効力は…絶対的だ!」
「大きく出たな」
ソーンバルケが少し呆れ気味に呟く。それはテリウスで『絶対』などという言葉がどれだけ信用できないものなのか身をもって知っていることともう一つ。物事にはなんにでも裏があることをよく知っているからだった。
「実際、それだけの道具なのよ」
「ああ。だがな、余程のことがあってもこいつが使われることはない。いや、あっちゃいけねえんだ!」
「米田長官…?」
その米田の発言に疑問を抱く大神。対照的にソーンバルケはやはり裏があるのだろうなと考えていた。
「いや、何でもねえ…」
だが米田は悲しそうな表情になってただ首を左右に振るだけだった。。
「…魔神器はいわば増幅器だ。悪なる心を持つ者が持てば魔の力が増幅されるのだ…。黒之巣会の『六破星降魔陣』によって降魔封じの結界がとけた今、降魔が地上に現れるのをかろうじて防いでいるのは、この魔神器というわけだ」
(やはり、裏はあったか)
ソーンバルケが内心でそう首肯する。魔神器が増幅器であり、善なる心を持つ者が持てば魔の力を抑えることができるのならば、悪なる心を持つ者が持てば魔の力が増幅されるいわば両刃の剣なのである。であれば、これを敵の手に渡すわけにはいかなかった。受け取り用によっては、それだけの危険性があってこその切り札と言えないこともないのだが。
「我々にとって魔神器はいわば最後のとりでだ」
そんなことをソーンバルケが考えているとは露知らず、米田が先を続ける。
「最後の…とりで…」
「でもね、大神くん。魔神器は同時に最大の脅威ともいえるのよ。もし、魔神器が敵の手に落ちたら…そのときは力を増大させた降魔たちがいっせいに地上にあふれ出るはずよ!」
その点の懸念点は当然ながら認識していたようで、ソーンバルケはとりあえず安心した。
「でも、なぜそんな重要なものが帝劇の…しかも地下倉庫にあるんですか?」
「…そういえばそうだな」
大神の疑問にソーンバルケも確かにと頷いた。なぜそんな、最重要な道具がこんなところに保管されているのだろう。もっとふさわしい場所があるのではないだろうか。
「この銀座は帝都でもっとも霊気が集中する地脈のツボだ…」
そんな大神とソーンバルケのもっともな疑問に対して米田が答えを返す。
「霊気とは自然とそこに生きる生物の力…人の『想い』の力なのよ。その力の場で私たちは歌い踊っている…。古の祭器を護りつつ…ね」
「……」
「成る程、祈りを捧げているようなものか。そして、その魔神器でその祈りを増幅している…そんなところか」
「うむ」
ソーンバルケの推論に米田が重々しく頷いた。
「たぶん、あの男…葵叉丹の狙いはこの魔神器だ」
「これを…?」
「十中八九そうだろうな。それが増幅器であるならば、狙われるのも納得できる話だ」
「それもあるが、こいつにはもう一つ秘密があってな。この魔神器は、聖魔城の封印をとく、鍵だ。そいつは今、我々の手の中にある」
(聖魔城?)
また新たに出てきた耳慣れぬ言葉にソーンバルケが眉根を狭めた。が、それは大神も同じだったのだろう。
「せいまじょう?」
首を傾げ、鸚鵡返しにそう大神が答えていた。
「ああ」
「その、聖魔城というのは?」
「数百年前に殺戮のためにつくられた城だ!」
その言葉に、ソーンバルケの表情の渋さが増した。
「趣味の悪い…」
「まったくだな。だからこそ、そんなものを地上に出しちゃいけねえ! …いいか、このことは軍部でも最高機密だ。誰にも話すんじゃねえぞ。この金庫室を開けられるのは、俺とあやめくんだけだ。だから、ヤツは必ずここを攻めてくる! 覚悟しておけよ!」
「はっ!」
「魔神器は文字通り、魔と神の力を秘めた究極の祭器なのだ! おまえには黙っていたが、帝撃の真の任務は野心ある者からこの魔神器を守ることにある!」
「!」
「聖魔城の封印を解く鍵がここにある以上、奴らは必ず魔神器を奪いに来るわ!」
「大神、ソーン、降魔はここに必ず現れるはずだ。そこで、おまえたちにはあやめくんと共に、魔神器周辺の警備を強化してほしい」
「はいっ!」
「了解した」
大神、ソーンバルケの両名共が了承の意を返した。
「この任務は最重要機密のため、外部はもちろん他の花組の隊員にも絶対に口外してはならん!」
ソーンバルケが静かに頷いた。その横で、
「米田支配人、さくらくんは…父親が亡くなった理由を知っているのですか?」
大神は今までの話を聞いていてさくらのことを思い出したのだろうか、そう聞いたのであった。
(デカい話を聞いた後なのに、隊員を慮るか)
流石は隊長だなと感心しながら、米田からの大神の質問の回答を待った。
「いや…教えていない」
米田の表情が苦渋に満ち、そしてこれ以上ないほど曇る。
「大神、おまえは言えるか? 一馬は魔物と戦って死んだのだと…今俺たちが戦っているのがその魔物だと…! 十八歳の少女が背負うには…あまりにも重すぎるだろう。そのことを知ってしまったら…」
「さくらくんは…」
「大神、ソーン…この話、さくらには決して言うなよ。いいな!」
「はい」
「承知」
地下倉庫で緊迫のやり取りが行われているとき、舞台では今回の演目である『大恐竜島』が上演中であった。こちらは、緊迫した雰囲気など無縁の楽しい舞台である。
「あともう少しで、秘宝にたどりつくぞ~」
状況説明を兼ねたセリフがアイリスの口から飛び出す。感情の起伏もあまりなく、棒気味なのはやはりシリアスな芝居ではなくコントだからだろう。
「気をつけろ! ワナがあるぞ! 僕の指示に従って歩いてくれ!」
紅蘭が返す。こちらもアイリスに負けず劣らずの状況説明兼棒読みだった。
「は~い」
「まず左に3歩、右に4歩。そして前に7歩…」
紅蘭の指示通りにアイリスが進んだ。が、
「と、歩いちゃいけないよ…」
紅蘭が涼しい顔でそう告げた。直後、アイリスの頭上に大きな金ダライが落ちてきたのだった。ゴン! と大きな音を立ててアイリスの頭上を襲ったタライに、客席がドッと沸いた。
「イタタタ…」
終劇し、幕の下りた舞台袖ではアイリスが頬を膨らませながら頭や首を抑えている。
「一見楽そうだけど、コントも大変ね」
アイリスのその姿に、マリアは正直な感想を禁じ得なかった。
「隊長に薬をとってきてもらいなよ」
見かねたのだろうか、カンナがそう勧めた。が、
「それが大神さん、いないの」
さくらが少し困ったような表情でそう呟いた。
「いない? どないしたんや」
素朴に疑問に思った紅蘭が首を捻る。と、
「あれ? お兄ちゃんさっき、あやめお姉ちゃんと下に降りて行ったよ」
アイリスがそう、紅蘭に答えたのだった。
「…あやめさんと?」
「地下のほうへ?」
「何の用やろ?」
「怪しいですわね」
「あ、でも、ソーンも一緒だった」
付け加えたアイリスのその一言に何故か内心でホッとする花組の面々。しかし、
「三人で地下で何してるんだ?」
カンナの発言に、再び疑念が湧いてきたのだった。
ほぼ同時刻、地下。
「ここにワナを仕掛けると、敵が入ってきても地下倉庫までたどりつけませんね」
地下倉庫前の廊下にて、早速対策を練っている大神たち三人の姿があった。
「ワナ?」
「どんなワナだ?」
「そうだな…」
あやめとソーンバルケに質問された大神が腕を組んで考える。
「例えば天井からタライが落ちてくるとか! 面白いですよ、きっと」
「え…」
「本気か?」
「いや…」
絶句している二人に大神が一瞬で頭を下げた。
「…失礼しました」
「真面目に考えろ」
「ふふふ…面白いわね、大神くんは…」
「い、いやあ…」
ソーンバルケからは厳しい言葉を受けたものの、あやめは笑ってくれたのでそこまで殺伐とした雰囲気にはならず、大神は愛想笑いでごまかすしかなかった。
「それじゃあ…倉庫からの蒸気管をつないで噴射するようにすれば…」
「なるほど。いい考えね大神くん」
あやめは賛同するものの、ソーンバルケは考え込んでいた。
「ソーン?」
「どうかしたの?」
それに気づいた大神とあやめがソーンバルケに尋ねる。
「いや…ふと思ったことなのだが、それは効果があるのか?」
「え?」
どういう意味か分からず、今度は大神がきょとんとしていた。
「あの霊子甲冑や翔鯨丸を動かす動力源として蒸気が使われているのは知っている。だが、あれ自体に何か特殊な成分があるわけではないのだろう? 降魔にとって蒸気は猛毒とかなら非常に有効だとは思うが、そうでもないのだからあの連中がそれで怯むか? 感じたとして熱いぐらいしか感じないと思うが…」
「そう言われると…」
問題点を指摘された大神の表情が曇った。が、
「足止めだけでも十分よ」
大神をかばうかのようにあやめがそう言及する。
「藤枝女史?」
「ワナで降魔を撃退できるとは誰も思っていないわ。降魔とやりあえるのは結局は、花組しかいないんだから。それで少しでもダメージが与えられたら…そこまでいかなくても、怯ませることができるだけでも十分効果はあるわよ」
「成る程」
そこまで説明されて、そもそもワナに対する認識の齟齬があったことにソーンバルケは気付いた。ソーンバルケとしてはワナで多少なりとも降魔を撃退する認識だったのだが、あやめはあくまでも足止めや牽制としての前提でいたのだ。
「そういうことならば、異論はない。話の腰を追って悪かったな、大神」
「いや、いいんだよ」
大神が首を左右に振った。
「むしろ、いろんな意見が出るのはいいことさ」
「そうね。自分では思いつかなかった観点からの意見は非常に重要だわ」
「まあ、それならば無駄ではなかったか」
「そうそう」
コクコクと頷いた大神に対し、
「あら…」
あやめが何かに気が付いた。
「顔…油がついてるわ」
「あっ、いいです! 自分でやりますから!」
そう言ってその油を拭おうと手を伸ばしたしたあやめに、大神は慌てて両手を左右に振った。が、
「遠慮しないの」
あやめは幼い子供を諭すようにそのまま大神の顔に手を伸ばし、そして持っていたハンカチで大神の顔に付いた油を拭った。
「これからの時代、殿方も身だしなみには気をつけなきゃ」
(あいわからずイイ香り…)
半ば惚け気味であやめに顔を拭われている大神の姿に、とても他の隊員には見せられんなとソーンバルケは少し呆れ気味に見て見ぬふりをした。
「いいわね、大神くんは素直で」
「は、はぁ…」
「自分を偽らないでいるのは大切なことよ」
「そ、そんなことないです」
すると何故かそこで、あやめの表情が曇った。
「私…最近自分が自分じゃないような気がして…」
「あやめさん?」
「……」
その一言に不思議がる大神。対照的に、ソーンバルケはいやな言葉を聞いたなと、そして、ただの杞憂で終わればいいのだがなという思いにかられた。と同時に、
(ん…?)
妙な気配を感じてそれに気づかれないようにその方向を確認する。そして、その気配の源が何なのか理解したソーンバルケはふぅ…と内心で溜め息をついた。
(…間の悪いことだ、お互いにな)
そんなことを考えている脇で、あやめと大神のやり取りは続いている。
「これからも自分に正直な大神くんでいてね」
「えっ…いや…照れるな…」
深刻そうなあやめとは対照的に大神は嬉しそうである。どうにも対照的なコントラストであった。と、
「ソーン」
あやめが首を捻って今度はソーンバルケに顔を向けてきた。
「ん?」
「あの子たちのことをよろしくね。それと、大神くんのことも」
「…ああ。だが、あまり聞いていて気分のいい言葉じゃないな」
「え?」
どういうことかわからずにあやめが首を捻る。
「『あの子たちのことをよろしく』…なんてな。それではまるで、お前がどこかへ行ってしまうみたいだぞ、藤枝女史」
「そ、そうですよ!」
大神も語気に力を込めた。
「縁起でもないです!」
「ふふ、そうね。ごめんなさい」
クスクス笑いながらあやめが二人に謝った。と、そこでソーンバルケが身を翻す。
「すまん、少し小用を思い出した。席を外すぞ」
「え?」
「何かはわからないけど、手短にお願いね」
「ああ」
頷くと、ソーンバルケが階段に向かって歩き出した。それを見た先ほどの気配の源たちが、慌てて蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
「ふん…」
面白くなさそうに先ほどまでその気配のあった場所までくるとそれを追いかけようとしたが止めた。覗きは十分に対峙できたことだし、それにまだ打ち合わせも残っているのだ。
ソーンバルケは再び身を翻し、大神たちの許へと戻っていったのだった。
「もうこんな時間か…」
自室に戻ってきた大神が一人呟く。あの後三人でもう少し打ち合わせをして解散し、先ほど自室に戻ってきたのだ。
「特別体制ということでこの件が片付くまではソーンも帝劇に常駐するようになったし…」
戦力的には大分安心できるな…と人心地ついてベッドに腰を下ろす。
「それにしても、今日はあまりに色々あったな…少し整理してみるか…」
先ほどまでのことを思い出し、大神が自身の頭の中を整理し始める。
「まず、魔神器と降魔についてだ。魔神器…封印された聖魔城を解き放つ鍵…か」
先ほど地下倉庫で米田から見せられた魔神器のことを思い出す。剣・鏡・勾玉からなるそれは、日本の三種の神器を彷彿とさせるものだった。
「そして善なる者が使うことにより、強力な降魔の力をおさえることができる。降魔…はるか昔より人間と戦ってきた人外の者たち…。黒之巣会とは比べようがないほど強敵だ…。やつらが魔神器を手にしたとき、今まで以上の強力な力と共に地上にあふれかえる…。そうなったらもう、俺たちだけじゃおさえきれない…」
その光景を想像してしまい、大神はゾッとするのと同時に身震いをした。
「魔神器だけは…渡すわけにはいかないな」
改めて大神はその決意を強くしたのであった。そして次、
「破邪の力…さくらくんの父親が持っていたとされる霊力…。破邪の力を受け継いできたと言われる真宮寺家…父親は力を使う方法を教えずに死んでしまった…」
その事実、そしてそれを娘であるさくらに明かせないことに大神は苦渋を隠しきれない。最後に、
「聖魔城…四百年前に封印された降魔の城…。敵の目的が、聖魔城の復活にあるなら…やつらはどんなことをしても魔神器を奪いにくるだろう。何としてでも地下倉庫を守らなければ…」
その決心を大神は新たにしたのだった。
「…とりあえず、気持ちの上で整理がついたかな。…だが待てよ、何か引っかかるな」
考えは整理できたものの、整理したことによって新たな考察点が浮かび上がり、大神はもう少し考えることにした。
「破邪の力…使うことができるのは、ごくわずかの血統による人々…。真宮寺大佐…さくらくんの父親が破邪の力を使って降魔を倒した。そしてそのとき生命を落としている…人の生命を奪うほどの『力』なのか?」
「『魔神器』を守るということは、帝都を守るということ…。帝都を守ること、それは我々帝国華撃団の使命…。『魔神器』はその性質上、常に監視を必要とするからこそここにあるということか…」
「降魔との戦いで…真宮寺大佐、さくらくんの父親が亡くなった。それから、山崎真之介少佐が行方不明…二人ともどんな人だったのかな? 霊子甲冑もなしで降魔と戦った対降魔部隊…。もし、また降魔との全面戦争が起こったら…。『降魔戦争』を再び起こすわけにはいかない」
そこまで考えて今度こそ一区切りついたところで、不意にドアがノックされた。
「ん? だれだろう? …どうぞ」
考えが一区切りついたとはいえ、未だ思索の海を泳いでいる大神は生返事で入室許可を出す。と、ゆっくりとドアを開けて部屋に入ってきたのはさくらだった。
「あれ? さくらくん?」
どうしたんだいと続けて質問しようとした大神だったが、さくらがその機先を制した。
「大神さん! 今までどこに行ってたんです!」
「さ、さくらくん。…何のこと?」
さくらの質問の意図が今一つ正確につかめず、大神は少し腰が引けながら尋ね返す。が、
「聞いているのは私です」
さくらは取り付く島もない。
「あやめさんと、どこに行って何やってたんですか!」
(いっ!?)
痛くもない腹ではあるのだが男の性が、特に悪いことは何もしていないのに冷や汗をかき始めた。
「い、いや…そ、それは…」
「言えないようなことなんですね」
「いや、違うんだ!」
「じゃあ言ってください。私だって花組の隊員なんです!」
(ど…どうしよう?)
そんな押し問答が帝劇の一室で繰り広げられることになったのであった。一方その頃、
「ふむ…」
特別体制のために一時的に寝所として割り当てられた宿直室でソーンバルケがあるものに目を通していた。それは、昼間大神が呼んでいた。放神記書伝である。こういった状況になったということで、ソーンバルケもこれに目を通しておいた方がいいだろうということになり、あやめの采配で大神の手から渡ってきたのだ。
「……」
ペラリ…ペラリと一ページずつめくってその内容に目を走らせていく。が、
(ダメだ…)
両目頭を押さえながらソーンバルケがふぅ…と溜め息をつく。そして、放神記書伝を机に軽く投げた。
「…何を書いてあるのかさっぱりわからん」
そしてそのまま横になったのであった。そう、ソーンバルケには放神記書伝に何が書いてあるのか読めなかったのだ。
誤解のないように言っておくと、かすみたちに教えてもらったおかげでここでの文字の読み書きはあらかたマスターすることができた。しかしそれも、この時代の文章に限ったものである。古典書物となるとまた漢字も仮名も読み方も形も違えば文法も違うし、これまでお目にかかったことのない漢字も並ぶ。それを読み進めていくにはソーンバルケにはまだ知識不足だったのだ。
(どうしたものかな…)
頭の下で腕を組んで考えながらチラリと放神記書伝に目をやる。もう夜ということもありかすみたちはとっくに帰ってしまっている。頼れるのは花組の面々と大神・あやめ・米田といった顔ぶれだった。
(仕方ない…)
とりあえず花組の誰かに聞くかと考えて身体を起こす。そして放神記書伝を手に取ると最後にもう一度それに目を通した。と言っても、先述の通り何が書いてあるか読めないので、やることは所々に書いてある挿絵に目を通すぐらいである。意味のある行為かどうかはわからないが、それでも全く予備知識がないよりはましだと考えてソーンバルケがパラパラと放神記書伝の中身を見ていた。と、
「!」
あるページでその手がピタリと止まる。そして、そこに書いてあった挿絵をしばらく見た後放神記書伝を閉じ、ソーンバルケは宿直室を後にしたのだった。
ソーンバルケが宿直室を後にする少し前、自室にいたあやめは熱でうなされているかのようなフワフワとした感覚に襲われていた。
「私は…いったい…」
そして操り人形のようにぎこちなく立ち上がると、これまた操り人形のようにぎこちなく歩いて自室を後にした。そして、フラフラとした足取りで歩いていく。
「どこへ行こうというの…私には…わからない…」
自分の身体ながらおかしな感想ではあるのだが、実際にそうなのだから仕方ない。事実、意識はボンヤリしながらも歩みは止まることなく、そして目的地など定まっているはずもないのに覚束ない足取りではあるが真っ直ぐに進んでいた。
「私は…いったい…どうしたっていうの…」
自問自答する。と、
(何を悩んでいるのかしら…? フフフ…)
不意に、頭の中に誰かの声が響いてきた。
(あなたはいったい…誰なの?)
頭の中に浮かぶその人物に問いかける。それは、最近よく見る悪夢に出てくるその人物だった。
(フフフ…わたし? 忘れてしまったの?)
その人物が愉快そうに口を開いた。そして、
(すぐにわかるわ…)
と、あやめにそう告げる。
(えっ?)
(フフフ…)
そこでその人物は消えた。しかし、消える前に一瞬だけ移ったその姿は、自分と生き写しの顔をしていたのだった。
「ふふふ…もう少しだ」
同時刻、帝都某所。赤い満月の照らすとある時計塔で、叉丹が実に楽しそうな笑みを浮かべている。
「降魔、鹿。そこにいるな?」
そしてそう一言呟いた。と、
「はっ!」
鹿が恭しく頭を下げる。
「出撃せよ。最強の降魔が目覚めるまで、邪魔な小娘どもを攪乱しろ!」
「攪乱…はっ、承知いたしました!」
叉丹からの命令に引っかかったものがあった鹿だが、命令とあれば否も応もない。再び恭しく頭を下げると、鹿はその場から消え去った。
「ふふふ…人間どもよ、もうじき貴様らの存在を地上から消滅させてやる。赤き月…そして闇…破滅…。新しき世界の序曲にふさわしい」
その叉丹の言葉…言霊に呼応するかのように、あやめはフラフラと帝劇内を歩いていく。
「私はいったい…どうしてしまったの…? わからない…何かが私を…」
その覚束ない足取りは、決して止まることはなかった。そして、
「…目覚めのときは近づいている。さあ、覚醒するがいい…」
「…どうなってしまったの。…私、どうなってしまうの?」
「赤き月のもとに、最強の降魔、よみがえらん…。さあ…!」
「…わ、たし。本当の…わたし…。わたしはいったい…誰なの…?」
あやめと叉丹、面識もなければ物理的な距離もあるはずの二人が呼応するかのように共鳴したのだった。