サクラ大戦 剣聖の新たな道 作: ノーリ
とうとう先日、『新サクラ大戦』が発売されましたね。読者の皆さまの中には、もう既にプレイ済み、クリア済みの方もいらっしゃるでしょうか。面白かったでしょうか。
私はPS4自体を持っていないので、実際にプレイするのは大分先になるでしょう。今はその時を楽しみに待つことにしようと思いますので、くれぐれもネタバレはご容赦いただければと思います。(笑)
さて、新サクラ大戦の発表に触発されて書き始めたこの作品も第四話になります。今回は帝劇の勤務初日のお話になります。
紆余曲折を経てテリウス最強の剣聖である先生が帝劇で奮闘する姿を楽しんで頂ければと思います。
では、どうぞ。
明けて翌日、大帝国劇場支配人室前。コンコンとノックの音が響き、
「おう、開いてるぜ」
米田の返答もいつも通りだった。
「失礼」
中に入ってきた人物を見て米田がニヤリと笑う。そして、
「よく来てくれたな」
と、歓迎の意向を示したのだった。
「おかしなことを言う。そういう話になってたのだから、来るのは当然だろう?」
そしてその人物…ソーンバルケもまたニヤリと楽しそうに笑って米田に返したのだった。
「いや、そりゃそうなんだけどよぉ…」
ソーンバルケの返しを受けた米田が苦笑しながらポリポリと頭を掻く。
「なんつーか…ちゃんと来てくれるか不安だったんでな」
「これは…初対面だから仕方ないが、そんなにいい加減に見えるかな? 私は」
「いやいや、そういうこっちゃねえよ」
米田が慌てて否定した。そんな米田の様子に、フッとソーンバルケが苦笑する。
「いやらしい言い方になるが、衣食住を握られた今の状態では嫌とは言えんさ。右も左もわからない場所で降ってわいた幸運に背を向けられるほど、私も聖人君子ではないというだけのことだ」
「成る程。そこまで言ってくれるんならもう心配しなくてもよさそうだな」
「初めからそんな心配は不要なのだがな」
「そう言うなって」
そこで二人は互いに顔を見合わせると、苦笑しあったのだった。
「さて…」
一頻り笑いが納まったところで米田が口を開く。
「今日は初日だからまずここに来てもらったが、明日からは真っ直ぐ事務局に行ってくれ」
「承知した。で、その場所は?」
「これから案内するよ」
米田は椅子から立ち上がると、ついてきてくれと促して支配人室を出る。その後を、言われた通りソーンバルケはついていった。程なく、二人は目的地に到着する。
「おう、邪魔するぜ」
いつもの調子で米田が事務局へと足を踏み入れる。
「あ、支配人」
「おはようございます」
「おはようございます」
そこにいたうら若き三人の女性が米田の顔を見て一斉に頭を下げた。後から入ってきたソーンバルケも彼女たちの顔を見てすぐに思い出す。
(二人は見覚えがあるな…)
一人は昨日、食堂で待たされていた時に話しかけてきた子供…アイリスと名乗った彼女を呼びに来た人物。もう一人は昨日花小路邸への案内で嫌というほど無駄話に付き合わされた人物。
(大人っぽいというか、落ち着いた雰囲気の方がかすみ…とか呼ばれてたな。それと由里か。もう一人の、一番幼い感じのあの少女は知らんが)
そんなことを考えていると、三人がほぼ同時に頭を上げた。そのうちの二人、かすみが軽く微笑んで少し頭を下げ、由里はニコニコしながらこちらに手を振っている。もう一人の子は、戸惑ったような感じで探るような視線を向けていた。三者三様だなと思いながらソーンバルケがそのまま何もせずに立っていると、米田が口を開く。
「紹介するぜ。お前たちももう知ってると思うが、今日からここで働くことになったソーンだ」
米田に紹介され、ソーンバルケは一歩前に出た。
「ソーンバルケだ。宜しく頼む」
「はい」
「宜しく♪」
「よ、宜しくお願いします」
こうして、ソーンバルケと事務局の三人の顔合わせはつつがなく終了した。
「それじゃあ、後は宜しく頼むぜ」
「はい、お任せください」
かすみの返事を聞いた米田が手をヒラヒラさせながら支配人室へと戻っていった。首を捻ってその後ろ姿を見送っていたソーンバルケだったが、首を戻した時に思わずギョッとしていた。なにせ、いつの間にか三人に囲まれていたからだ。
(い、いつの間に…)
その気配に気づかなかったことに内心で冷や汗を掻いたソーンバルケだったが、そんなことは噯気にも表情には出さずに三人に応対する。
「何かな?」
と、先鋒というか口火を切ったのはやはり由里だった。
「いらっしゃい♪」
嬉しそうに微笑みながら歓迎の言葉をソーンバルケにかける。
「いらっしゃい…というのは、少し違うのではないか?」
由里の言動に苦笑しながらソーンバルケが答えた。
「まあまあ、そんな固いこと言わないでよ」
「固い柔らかいの問題ではないと思うが…」
「もう、真面目だなぁ」
呆れとも怒りともつかない表情で由里が腰に手を当てた。
「ほらほら、そこまでにしておきなさい」
と、かすみが窘めるように口を挟む。落ち着いた雰囲気の持ち主だけあって、彼女がこの三人の取り纏め役なのだろう。
「支配人からお話は聞いています。私は藤井かすみ。宜しくお願いします」
「榊原由里。昨日自己紹介したんだから覚えてくれてるよね?」
「ああ」
「♪」
ソーンバルケの返答に由里が満足げに微笑む。そして、
「あ、あの、高村椿っていいます。宜しくお願いします」
この中で唯一名前を知らない少女が自己紹介した。
「ソーンバルケだ。こちらこそ宜しく頼む」
「は、はい」
慌ててペコリと頭を下げる椿の姿に何だか微笑ましくなってソーンバルケはフッと笑った。と、
「あら、ソーンは椿がお気に入りなの?」
その様子を目聡く見つけた由里がニヤニヤと笑みを浮かべて椿の両肩に手を置いた。
「ふえっ!?」
予想外の展開に椿はビックリして固まってしまう。反面、ソーンバルケは呆れ気味に溜め息をついた。
「どうも…お前さんはそっちの方面の話が大好きのようだな」
「当たり前でしょ。女の子ならこういった話に興味がないわけないじゃない♪」
「女の子…な」
「何? 何か文句でもある?」
ソーンバルケの一言に引っかかった由里が少しムッとした表情になった。
「いや、別に」
「ホントぉ?」
「無論」
本心からそう答えたソーンバルケだったが、由里は納得いってないようだった。三白眼というかジト目になってソーンバルケを鋭い視線で睨んでいる。もっとも、そんな視線でソーンバルケが怯むわけもないのだが。と、
「はいはい、そこまで」
またかすみが間に入った。これ以上は収拾がつかなくなると判断したのだろうか。もっとも、収拾がつかなくなるのは由里だけだろうが。
「これから仕事なんですから、そこまでにしておきなさい、由里」
「だってぇ…」
「だってじゃないでしょ?」
「はぁい」
不承不承ではあるが由里が矛を収めた。ソーンバルケは知るわけもないが、これまでの積み重ねもあるのだろう。あるのだろうが大したものだと内心で舌を巻いていると、かすみがにこやかに微笑みながらソーンバルケへと振り返る。
「すみません」
「いや、気にしてはいない」
「そうですか? 本当にどうもすみません」
「だから大丈夫だ。それより、仕事なのだろう」
「あ、そうでした」
ポンとかすみが手を叩くとその場から離れた。そして程なく、何かを手にして戻ってくる。戻ってきたかすみの手の中にあったのは、洋服の一式だった。
「すみませんが、こちらに着替えてもらいますか。ここの男性用の制服ですので」
「わかった」
「それじゃ椿、後は頼むわね」
「は、はい!」
かすみから制服を手渡され、まだ緊張の面持ちのまま椿が返事をした。
「すみません、わたしたちはこれから今日の仕事の準備がありますので」
「着替えるところは椿が教えてくれるんで、その案内に従って着替えてね。で、着替え終わったらもう一度ここに来て」
「わかった。では、行こうか」
「は、はい! 宜しくお願いします!」
何故だか深々と頭を下げた椿に苦笑しながらも、その椿を促してソーンバルケは事務局を後にしたのだった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
目的地までの道のりを黙々と歩く椿とソーンバルケ。この雰囲気にソーンバルケは何も感じていなかったが、もう一方の当事者である椿はド緊張というか困り果てていた。
(うぅー…間が持たないよぉ…)
先導する椿は居心地が悪くてしょうがなかった。これまであまり男性と接する機会が多くなかったし、自分の父よりは年下とはいえ明らかに大人の男性とあって余計に接点がなく、どうしていいかわからないのだ。それこそ、米田ぐらいまで年齢が離れていれば逆にとっつきやすいものの、大人びた男性に一対一で応対できるスキルは今の椿にはまだなかった。
(ふむ…)
そして、そんな椿の状況がわからないソーンバルケではない。正確なところとなると確かにわからないが、椿が戸惑っているのは背中からでも感じ取ることができた。
(嫌がっているわけではないようだが…)
その背中からは戸惑いは感じられるものの嫌悪感は感じられないので、嫌われてはいないことにまずは一安心していた。もっとも、何もしていないのに嫌われたらたまったものではないのだが。
(さて…)
それを察したところで次に、ではどうするかという問題になる。こちらから何か話を振ってこの空気を和らげるのもいいのだが、あいにくソーンバルケは若い女性が好みそうな話題はわからなかった。妙なことを聞いて余計空気がギクシャクするのも困りものである。ということで、こちらもこちらで会話ができなかったのである。もっとも、椿とは違ってソーンバルケはこの空気が耐えられないというわけでもないので別に構わなかったが。
しかし、椿の困惑した様子を見るとこの状況のままにしておくのは可哀想だなと思ったのだが、どうしようもできない以上はどうしようもない。そんな妙な空気の中、二人は連れ立って歩く。と、
「あら」
そこに、特に椿にとっては救いの神が現れた。
「あ、さくらさん!」
声の聞こえた方にすぐさま振り返ると、椿はそこにいたさくらに声をかけた。声をかけられたさくらがニッコリと微笑む。
「おはよう、椿ちゃん」
「おはようございます!」
「それと、ソーンさんも」
「ああ、おはよう」
さくらの挨拶にソーンバルケが返す。
「何してるの?」
妙な取り合わせに不思議に思ったのだろうか、さくらが尋ねてきた。
「あ…と、今こちらの…ソーンさんをご案内してるところです」
「案内って…どこに?」
さくらが首を捻った。
「えっと、制服に着替えてもらうので、指示されている部屋へ」
「そっか」
そして今度はソーンバルケへと顔を向けた。
「今日から宜しくお願いしますね、ソーンさん」
「こちらこそ」
「ふふ、それじゃあまた後で」
「ああ」
さくらが軽く頭を下げると、その場を離れていった。と、
「さくらさんとお知り合いなんですか?」
少し驚いたような表情で椿が質問してきた。
「ああ。その辺りの話、聞いてはいないのか?」
「詳しいことは何も。ただ、今日から男の人が入るってことだけで」
「そうか」
やれやれと思わないこともなかったが、説明の持っていきかたも難しいので仕方のないことかと思っていた。さくらが甲冑の化け物に襲われていたところを助けたと言っても、素直に信じられるわけはないと思ったからである。
もっとも、このように考えていたことは大きな誤解だったと後々わかるのだが、それはまた別の話。
「思わず時間をとられてしまったな。行こうか」
「そうですね」
頷くと、椿が再び先導し始める。二人とも気づいてはいないが、この時には先ほどまでの妙な空気感は大分和らいでいたのだった。
「こちらです」
さくらと別れてから少し後、椿はとある一室の前で立ち止まった。そして、その扉を開ける。そこは、色々な物の置かれている物置のような部屋だった。
「すみませんが、暫くはこちらで着替えてください。男性用の更衣室は今後用意するとのことなので。ロッカーも、ありませんけど…」
「わかった。ところで、ロッカーというのは?」
「え!?」
思わぬ質問に、椿が素っ頓狂な声を上げてしまった。それを目の当たりにしたソーンバルケが怪訝な表情になる。
「おかしなことを言ったかな?」
「い、いえ。ロッカーというのは荷物入れというか、私物入れというか、まあそんなものです。仕事に不必要な物や、着替える前の私服なんかをそこに入れておくんですよ」
「成る程」
椿の説明に納得いったソーンバルケが頷いた。
「それじゃあ、さっき由里さんも言ってましたけど、着替え終わったら事務局に顔を出してください」
「わかった」
「後、その腰の剣なんですけど」
「?」
椿に指摘され、ソーンバルケはいつものように腰に佩いているヴァーグ・カティに目を落とす。
「これがどうかしたかな?」
そして、ヴァーグ・カティをポンポンと叩いた。
「その…非常に言いにくいんですけど、仕事中は外してください。ここが何をするところかはご存知ですよね?」
「ああ」
「お客様を楽しませる場所に、武器を携帯されるのは困るんです」
「しかし…」
ソーンバルケが珍しく歯切れが悪くなった。椿の言ってることはわかるし、理にも適ってはいる。だから腰のこの相棒を外すのはやぶさかではない。だが万一にも、万一にもこれを紛失するような事態があったら、それこそ祖先に顔向けができない。そんなことはないとは思いたいのだが、絶対などないのは今まで生きてきてよくわかっていた。だからこそ躊躇っているのだ。その迷いをソーンバルケの表情から察した椿が助け舟を出す。
「その…今言ったように携帯するのは困りますけど、目の届くところに置いておくなら構わないと思います」
「本当か?」
「はい。ただ、それそのものを晒してというのはまずいので、白鞘の袋に入れるとかしていただきますけど。それか、事務局で預かってもらうとか。事務局なら誰かは必ずいますし、紛失することもないかと」
「わかった」
椿の説明を聞いたソーンバルケが頷いた。納得はしていないが、それがここの決まりならば仕方のないことである。それに、こうして次善策まで提示してくれたのだ。これ以上を望むのは望みすぎというものであろう。
「では、着替えて戻ろう」
「はい」
頷いた椿だったが、何故か部屋から出て行く様子が見受けられない。
「…これから着替えるのだが、私の着替えが見たいのか?」
上着に手を掛けたところで何の動きも見せない椿を怪訝に思ったソーンバルケが聞いてみた。
「! ご、ごめんなさいっ!」
ソーンバルケに指摘されて一瞬で真っ赤になると、椿は思い切り頭を下げて慌てて部屋を出て行った。思いっきりドアを閉めたため、バタンという音が暫く耳に残る。
「そそっかしいというかなんというか…」
見かけ相応のその姿に呆れながらも微笑ましく思い、ソーンバルケは制服に袖を通したのだった。
「ふぅ…」
制服に着替えたソーンバルケが、着替え用にあてがわれた部屋を辞すると一息ついた。慣れない衣服ということでどうにも落ち着かないのだが、それもいずれ慣れるだろうと気にしないことにする。そしてその手には、椿に言われた通りヴァーグ・カティが握られていた。
(さて…)
まずは由里に言われた通り事務局へ戻り、これを預けておくか。そんなことを考えながら歩を進めようとしたところで、
「あー!」
その耳朶を聞いたことがある声が打った。聞いたことはあるが、その声の主と顔が一瞬合致しなかった。しかし、すぐにその声の主が誰かわかり、ソーンバルケが振り返る。そこには、予想通りの人物の姿があった。
「ソーン!」
自身の名を呼ばれ、ソーンバルケが軽く手を挙げて応える。そこにあったのはアイリスの姿だった。
「きゃは!」
ソーンバルケが応えてくれたことが余程嬉しかったのだろうか、トテトテとアイリスが近づいてきた。
「おはよう、ソーン」
「ああ、おはよう」
そして二人は挨拶をかわす。
「米田のおじちゃんから聞いてたけど、今日からソーンもここでお仕事するって本当?」
「ああ」
「そうなんだ、宜しくね!」
満面の笑みを浮かべてアイリスが歓迎の意向を示した。その様子にソーンバルケも少し嬉しくなり、
「どうかな? この格好は?」
と、普段なら気にもしない自分の格好について尋ねてみた。
「うん、昨日のお洋服も良かったけど、そのお洋服も似合ってるよ」
「そうか、それは良かった」
アイリスの返答にソーンバルケはホッと胸を撫で下ろしていた。多聞に世辞は入っていると思うが、全くの嘘ではないのはその表情を見ればよくわかる。ソーンバルケも自身の装いにはあまり関心を持たない方ではあるが、それでもあまりみっともない恰好だけはしたくないとも思っていた。それだけに、アイリスから及第点をもらえたのは何よりのことだった。と、
「何処行くの?」
アイリスが顔を輝かせながら聞いてくる。子供ならではの純真なその姿に、ソーンバルケは思わず微笑ましく思いながら、
「事務局だ」
と、答えていた。
「そうなんだ。それじゃあ、アイリスが連れてってあげる!」
「そうか…」
一度米田に案内されているために場所はわかっているのでその必要はないのだが、かと言ってこんなに喜んでいるアイリスの申し出を無下に断るのも気が引けた。そのため、ソーンバルケはその申し出を快く了承することにした。
「では、お願いしようか」
「うん!」
と、当然のようにアイリスはソーンバルケの手を握る。そして、そのまま上機嫌で事務局へ向かって歩き出した。
(…参ったな)
確かに案内を頼んだが、まさか手を握ってくるとは思わなかったためソーンバルケは戸惑った。しかし、それも一瞬のこと。ご機嫌な様子でソーンバルケを案内するアイリスの姿を見たら、拒絶することもできなくなってしまった。
(仕方ない)
ここはお姫様の好きにさせるか。そう判断すると、ソーンバルケはアイリスに引かれるがままに事務局へと出向いたのだった。
「ふぅ…」
温かな日差しが照り付ける中、ソーンバルケは空を見上げて一息つく。青空に太陽が輝き、今日もいい天気だった。
着替え終わった後に事務局へ出向いたソーンバルケに言い渡された仕事は、言うなれば何でも屋である。雑用と言い換えてもいいかもしれない。ただ、書類仕事よりも体力仕事を重点的に行ってもらうことになっていた。説明を受けたところによると、ここは女の数に反比例するかのように男手がなく、そのためにソーンバルケには力仕事や体力仕事を主に担ってほしいということだった。そして今、記念すべき最初の仕事である劇場前の掃除をしながら一息ついていたのである。
「いい天気だ…」
青く澄み渡った空を見ながら、思わずソーンバルケはそう口にしていた。空の青さだけはどの世界でも変わりがないようだなと、今更にして思う。そんなことを考えてしまったからか、ふと、テリウスは今どうなのだろうと思ってしまった。
一線を退き、後は老衰で死を迎えるだけの身だった。かつての友たちもほとんどが生を全うし、残るは自分を含め数人だけだったあの世界。時代は流れ、次代やそれ以降へと世代が移り行く中で、自分の存在などは一枚の羽根よりも軽いものとなっていた。それでも愛着があった場所だけに、思うところはある。
(いや、未練か…)
自嘲しながらソーンバルケが首を振った。自分はもう、あの世界での役目は終えた存在。それでも思い出すのはやはり未練なのだろうなと。そして、我ながら女々しいなとも思っていた。
「下らないことを考えたな」
そう、ぼそっと呟くとグルリと辺りを見渡す。真面目に勤しんでいた甲斐あって、劇場前の掃除はほとんど終わっていた。
「さて、こんなところでいいだろう」
戦果を確認した後、次の仕事に従事するためにソーンバルケは劇場内へと戻った。
「あ、お疲れ様です」
「ああ」
劇場入り口のすぐ側で売り子をしている椿に手を挙げて返し、ソーンバルケは事務局へ向かう。初対面の時には随分と緊張していた椿だったが、それも随分落ち着いたのか大分普通に対応できるようになっていた。勿論、まだ少しぎこちないところもあるが、それも時間とともに気にならなくなっていくだろう。と、
「あら」
上方から不意に声が聞こえ、思わずソーンバルケが目を向ける。そこには勝気な表情の少女が面白くなさそうな様子で階段を降りてくる姿があった。
「あなた…」
「お前か」
「! ちょっと!」
ソーンバルケの一言を聞いた少女が血相を変えて階段を降りるスピードを上げた。そしてそのまま、つかつかとソーンバルケの許にやってくる。
「何だ?」
目の前の少女にそんな態度をとられる理由がわからず、ソーンバルケが尋ねた。と、
「失礼じゃありませんこと!?」
そう、少女がソーンバルケに対して詰め寄ったのだった。
「何がだ?」
「親しくもない女性に対して『お前』呼ばわりなんて、失礼だと言っているのですわ!」
それを聞いて少女が怒っている理由がわかったが、それでも今一つソーンバルケはピンとこなかった。今までそんなことを言ってくる者がいなかったからである。
(そんなものか)
ぼんやりとそう認識し、
「そうか。失礼」
と、無難に返答した。
「全く…」
それに対し、未だ納得がいかないのか少女は一旦ソーンバルケから視線を外すと、ムッとした表情のままブツブツと何やら呟いている。
「さくらさんといい、これだから田舎者は困りますわ。わかって…ちょっと!」
続けざまに何か言おうとした少女だったが、先ほどまでソーンバルケがいたその場所にはもうソーンバルケの姿はなかった。謝罪をした後、話は終わったとばかりに事務局へ向かって歩き出していたからである。そのため、周囲を見渡してソーンバルケの姿を見つけた少女が慌てて再び呼び止めたのだった。
「何だ?」
二度目とあって流石に少しムッとしたソーンバルケが、先ほどより多少厳しめの口調で答える。が、少女も負けじと気分を害しているのか、それに気付いた様子も、勿論怯んだ様子もない。先ほどと同じようにつかつかとソーンバルケとの距離を詰めると、その顔をビシッと指差した。
「人が話している最中にさっさと移動するなんて、失礼じゃありませんこと!?」
怒り心頭の御様子である。が、ソーンバルケも負けてはいない。といっても、同じように言い返すのではなく冷静に対処するのだが。
「謝罪はした。それに、話は終わったと思ったのでな」
「勝手に終わらせないでくれませんこと!?」
「…そうは言うが、あれ以上私に何をしろと?」
「何をしろというのではありません! 話の途中でいなくなるのが失礼だと言っているんです!」
「…それは失礼」
少女の言い分に辟易したソーンバルケが、納得いかないところもあるが再度謝罪した。ソーンバルケとしては少女が怒ったことに対して謝罪したのだからそれで話は終わったと思っていたし、話が終わったと思ったからさっさと去ろうとしただけのことだった。だが、目の前の少女はそれに納得がいっていないらしい。今のこの状態がそれを表す何よりの証左だろう。
加えて、相性が悪いというのか性格的な問題か、少女もソーンバルケのその態度に一層腹が立っていた。怒りが感情を歪めているのだろうが、ソーンバルケのその態度がどうも慇懃無礼な、自分を馬鹿にしているように映ったからである。だがそれでも、この少女はその感情にそのまま身を任せるようなことはしなかった。少なくともこの場では。
「…まあ、いいですわ」
気持ちを殊更落ち着けるためだろうか、少女が一つ大きく深呼吸した後に努めて冷静な口調になってそう呟いた。
「さくらさんといい貴方といい、田舎者なのですからしょうがありませんわね。ですが安心なさって? これから私が紳士としての作法をしっかりと教えて差し上げますわ」
実に余計なお世話だと思ったソーンバルケだが、ようやく少女の感情の起伏が収まったのでこれ以上波風は立てないようにする。もっとも、紳士としての作法や嗜みとやらには全力で否定するつもりだが。
その代わり…と言うわけでもないのだが、ちょっと意趣返しに突いてやることにした。
「その首元の…」
少女の首に巻かれている襟巻にソーンバルケが言及した。と、少女が急にきまり悪そうな表情になる。
「こ、これがどうかしまして?」
頻りにその襟巻をいじくったり、目線を周囲に走らせたりして落ち着かない様子になる。が、ソーンバルケはそんなことに委細構わずに柔らかな笑みを浮かべた。
「私の意見を受け入れてくれたようだと思ってな。何よりだ」
「! か、勘違いしないでくださいな! 別にあなたに言われたからじゃありませんことよ!」
少女がそう反論するものの、傍から見ればどう見てもムキになっているようにしか見えない。その様子を、遠目とは言え見ていた椿がビックリした表情になっていた。
「そうか」
そして、当事者の一人でありこの状態を作ったソーンバルケはというと、そう返答した。そして、
「意見を押し付ける気は毛頭ないが、指摘や注意を冷静に判断して受け入れるのはいいことだ。まだ子供だし、余計にな」
「! 失礼な!」
だがその一言がまた少女の気に食わなかったのだろう、先ほどと変わらない様相でずいっと詰め寄ってきた。
「アイリスじゃあるまいし、私を子ども扱いしないでくださいな!」
「四半世紀も生きていないくせに何を言う。百歩譲って子供ではないと言い張るのは結構だが、私から見ればアイリスもお前「す・み・れ!」」
ソーンバルケが言い終わる前に、少女が顔を怒らせたままビシッとソーンバルケに指を突き付けた。
「お前呼ばわりはしないでとさっき言ったじゃありませんこと!? 忘れたのですか?」
「いや、それは忘れてない。ただ、名前を忘れていた」
「なッ…!」
まさかそんな返答が返ってくるとは思っていなかったのだろう。少女…神崎すみれが思わず返答に窮してしまっていた。そして、それを好機とみたソーンバルケが早速次の行動に映る。
「ではな」
軽く手を挙げるとソーンバルケはそのままそそくさとその場を後にした。要するに戦略的撤退である。そしてすみれがそれに気付いていたときには既にソーンバルケの姿はそこにはなく、すみれは怒気を孕んだまま地団駄を踏むことしかできなかった。
ソーンバルケの帝劇勤務初日は、こうして時間が過ぎていったのであった。