サクラ大戦 剣聖の新たな道 作: ノーリ
前回の続き。今回から原作でいうところの第二話ですね。前話でもちょっと顔を出した彼女が本格的に帝撃に合流します。
そして後半はまたオリジナル展開です。正確に言うと物語にそったオリジナル展開なのですが、どういうことかは本文にてご確認ください。
では、どうぞ。
夜桜見物の花見の後日、帝劇はいつもの日常に戻っていた。さくらたち役者は次の公演のための準備や稽古に余念がなく、かすみやソーンバルケたち裏方はそれを成功させるためにそれぞれ己の職分を全うしていく。そんな中、新しい男手として帝劇に配属された大神も、かすみたちやソーンバルケに倣って帝劇の雑務を日々こなしていた。そしてその中で、自然と住み分けがされるようになる。どういうことかと言えば、雑務でも頭脳系の雑務は大神が担当し、肉体系の雑務はソーンバルケが担当することになっていた。
しかし、これはまあ当然と言えた。何しろソーンバルケは未だにここの文字の読み書きを勉強中の身なのである。四則計算はできるから伝票整理ぐらいは何とかこなせるものの、逆を言えばそれぐらいしかできなかった。それも、メインではなくあくまでサブとして…である。となれば当然、頭を使う職務は大神に、身体を使う職務はソーンバルケが担当することになっていた。勿論、完全に切り分けているわけではなく、大神がソーンバルケを手伝うこともあれば、逆にソーンバルケが大神を手伝うこともある。そんなこんなで、帝劇の雑務を二人体制でこなしていく日々になっていた。
だが、これは大神も預かり知らぬところではあるが、元々はこの職務はすべて大神が担当するはずだった。ソーンバルケはイレギュラー的にここに加わったのであり、あくまでも帝撃の構想にはない存在だった。だが、その構想にはない存在のおかげで大神の職務が半減している形になっているのだから、現状に感謝こそすれ拒否することはないだろう。
とにもかくにも帝劇はこの形で日々が回り、そしてそんな日々の中のある日。
「さて…」
準備を終えて、ソーンバルケが一息ついた。もうすぐ公演が始まるため、差し当たっての仕事はモギリである。と、
「ソーン」
不意に背後から声をかけられ、ソーンバルケが振り返った。そこには軽く手を挙げて近づいてきている大神の姿があった。
「大神か。どうした?」
「開演の準備の進捗を確認しにきたんだけど…その様子じゃあ、もう万全のようだね」
「こちらはな。お前は?」
「こっちも大丈夫」
「そうか」
互いの進捗状況を確認すると大神は軽く息を吐き、ソーンバルケは身体を解すためだろうか、腕をグルグルと回した。
「もう少ししたらここもまた客でごった返すな」
「ああ。今日もモギリに勤しまないと」
「…あれは疲れるのだがな」
「しょうがないって。雑用は雑務をやってナンボなんだから」
「身も蓋もないが、確かにその通りだな」
「そういうこと」
この後のことを想像し、互いに苦笑する二人。
「さて、そうは言ってもまだ開演には時間がある。今日もいい天気だから、私は表で水撒きでもしてこよう」
ソーンバルケはそう言うと外に向かって歩き出した。
「あ、それじゃあ俺も」
大神も手伝おうとするが、
「いや、お前はここにいてくれ。何かの用で客が尋ねてくるかもしれないからな」
「いいのかい?」
「ああ」
「わかった。それじゃあ俺はここに残るよ」
「頼む」
大神が頷いて返す。それを確認したソーンバルケは、ゆっくりと玄関を出て行った。そして、二人が別れた少し後、
「お兄ちゃん!」
と、聞き慣れた声が大神の耳に入ってきた。
「やあ、アイリス」
声のした方向に振り返ると、大神は自分の許に走ってくるアイリスの姿を見つける。程なく、アイリスは大神のすぐ側までやってきた。
「どうしたんだい?」
自分のところまでやってきたアイリスに大神が尋ねる。と、
「あのね、アイリス紅蘭を迎えにきたの!」
と、大神が聞いたことのない人物の名前をあげた。
「紅蘭? 誰だい、その人?」
聞いたことのない名前に再度大神が尋ねる。
「あのね、花組の一人だよ」
アイリスが紅蘭のことを大神に説明した。
「紅蘭はねぇ、前にちょっとだけここにいたの」
「へぇ…花組の一員なのか…」
アイリスの説明を受けた大神が何気なくそんなことを呟いていると、
「前に紅蘭がねえ、変な機械を作って見せてくれたんだけど、『ドカーン』と爆発しちゃってビックリしちゃったよ」
「いいっ!? 爆発!?」
「うん。紅蘭は真っ黒こげになってた」
予想だにしないその一言に、大神が思わず引き攣ってしまう。が、対照的にアイリスは楽しそうに笑っていた。その時のことを思い出しているのだろう。
「へぇ…なんだか物騒な人みたいだなぁ」
引き攣ったまま思わず冷や汗を掻く大神。と、アイリスがふと時計に目を止めた。
「あ、もうこんな時間だ! 舞台があるからアイリス行くね!」
「迎えはいいのかい?」
「うーん、本当はしたいんだけど、いつ来るかわからないし…それにもうすぐ舞台が始まっちゃうから」
「そうか」
「じゃあね、お兄ちゃん。バイバイ!」
「ああ、頑張ってな、アイリス」
「はーい!」
いつものように元気よく手を振ると、アイリスはその場を去って行った。
「そうか…この帝国華撃団に新しい人が来るのか…」
アイリスが去った後、大神はホールで先ほどの会話を思い出す。
「紅蘭…って言ってたなあ。どんな人なんだろう」
大神がまだ見ぬ紅蘭に思いを馳せようとしたその直前、いきなり外から大音響の爆発音と衝突音が聞こえてきたのだった。
「な、なんだ!? すごい音がしたぞ!?」
思わず外へ様子を見に行った大神が見たのは、半壊したバイクの脇で真っ黒こげになっているチャイナ服の女性と、そしてその彼女を呆れたような表情で見ているソーンバルケの姿だった。
大神が外に出てくる少し前。照り付ける日差しの熱さを身体で感じながら、ソーンバルケは劇場の前で水撒きをしていた。
「今日もいい天気だな…」
少しの間手を止めると、青空を見上げてそう呟く。晴天ということで本日も客足はよさそうだ。
「さて…」
もう少し続けるかと、作業の手を再開しようとする。と、
「きゃああああああーっ!」
不意に遠くから悲鳴が聞こえてきた。そしてその悲鳴がかなりのスピードでこちらへと近づいてくる。
「ん?」
悲鳴の聞こえた方向にソーンバルケが顔を向けると、そこには猛スピードでこちらに向かってくる、何かの機械に跨った女性の姿があった。
「どいてどいてどいてー!」
暴走しながらこちらに向かってくるその女性の進行方向にいる人たちは慌てて前をどく。そして、帝劇の玄関前で遂にクラッシュして爆発、炎上して黒煙を上げた。
「あ痛たたた…」
クラッシュする寸前に振り落とされた女性が打ち付けた身体の部位を涙目になりながら擦る。だが、それも一瞬だった。女性は何かに気付いたのか慌てて周囲を見渡すと、すぐ側に自分の乗ってきた機械が無残な姿を晒しているのに気付いたのだった。
「あぁ…ウチの蒸気バイク、おしゃかになってもうた」
(なんとも…)
自分がボロボロになりながらも、先に機械のことを嘆くその女性にソーンバルケは呆れ半分、感心半分といった気持ちになって話しかける。
「大丈夫か?」
「え?」
女性が振り返ってソーンバルケを見上げる。と、
「あ、ソーンはん!」
ソーンバルケは自分の名前を呼ばれて驚いた。だが、それも一瞬のこと。その顔には見覚えがあったからである。
(確か…)
驚いたことにその女性は、先日花やしきへと引っ張られたときにあやめや花小路から紹介された人物だった。その時の記憶を思い出す。
(名前は確か…)
「紅蘭…だったか?」
記憶の片隅からその人物…紅蘭の名前を引っ張り出してきたソーンバルケがその女性…紅蘭に話しかけた。
「久しぶりやね」
まだ少しコホコホと咳き込むことはあっても気にすることなく立ち上がった。その様子から見るに、地面に打ち付けた身体の部位も重篤な状態ではないようである。
(大した悪運だな…)
大惨事に至らなかったことにソーンバルケは内心で驚いていた。と、紅蘭が少し顔を赤くしながら照れ隠しのように笑う。
「いや、お恥ずかしいところを見せてもうたね」
「気にするな。誰にだってそんな経験はある」
「そう言ってもらえるとありがたいわ」
ナハハと照れ笑いしながら紅蘭が鼻の頭を掻いた。その仕草にソーンバルケからも思わずフッと笑みがこぼれる。
「ところで、何故お前がここに?」
まさかこんなところで顔を合わせることになるとは思っていなかったため、ソーンバルケは紅蘭がここにいる理由を聞いてみた。
「あ、ウチな、こんどこっちに配属になったんよ」
「そうなのか?」
「うん」
「成る程」
回答を聞いたソーンバルケが得心したように頷いた。と、
「ソーン!」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこにはこちらに向かってくる大神の姿があった。
(丁度いい)
程なく自分の許に辿り着いた大神に、
「コイツを頼む」
と、ソーンバルケは紅蘭の肩をポンと叩いたのだった。
「え?」
「へ?」
大神と紅蘭が揃って似たような声を上げた。と、紅蘭の肩に手を置いたままソーンバルケが話を続ける。
「こちらのお嬢さんは今日からここに配属になったそうだ。ちょっとした顔見知りなので私が案内したいところだが、まだ仕事が残っているのでな。お前に任せたい」
そこまで言うと、ソーンバルケは大神から視線を外して紅蘭に顔を向けた。
「この男の名は大神一郎。私と同じ帝劇の雑用係だ。こっちに回されてきたというのならば、まずは米田への挨拶だろう?」
「そやね」
「それは、コイツに案内してもらってくれ。私はまだ、仕事が残っているのでな」
そこで再びソーンバルケが大神に視線を戻す。
「頼めるか?」
「ああ、わかったよ」
そう答えると、それじゃあこっちへと大神が紅蘭を促した。
「そこの半壊状態のあれは隅の方にでも移動させておく。必要なら、後で回収してくれ」
「あ、わかったわ。ありがとう」
「何、気にするな」
「ほな、また後でな」
「ああ」
ソーンバルケの返答を確認した後、紅蘭は大神と連れ立って大帝国劇場の中へと入っていったのだった。
「さて…」
二人の後ろ姿を見送った後、ソーンバルケは半壊状態になった紅蘭の蒸気バイクを通行人の邪魔にならないような位置に移動させる。そして劇場前の水撒きを再開したのだった。
水撒きを終え、午前の部のモギリを大神と共に終えたソーンバルケは早めの昼食を取る。
「どうだ? 少しは慣れたか?」
正面に座って自分と同じように食事をしている僚友の大神にソーンバルケが尋ねた。それほど時期は変わらないとはいえ、それでも帝劇で働き始めたのはソーンバルケの方が先である。先輩風を吹かせているわけではないが、大神に気を使ってそう尋ねたのだった。
「いや…まだまだといったところかな…」
苦笑しながら、大神がそう答える。
「大まかな一日の流れは何となく掴めてはきているけど、まだまだ色々と覚えなくちゃならないことがあって気苦労が絶えないよ」
「そうか。まあ、無理のない話だな」
大神の告白に頷きながらソーンバルケがお茶を飲んだ。
「まあ、いずれ嫌でもなれる。今暫くは辛抱することだな」
「ああ、わかってる。…しかし、貴方がいてくれてよかったよ、ソーン」
「ん?」
意外なことを言われ、ソーンバルケは少し表情を顰めた。
「何故だ?」
「だってここ、圧倒的に女性比率が多いじゃないか。気後れするわけじゃないけど…やっぱり肩身は狭くなるからね。それを考えると、同性がいてくれるのは心強いよ」
「そんなものか?」
「そんなものだよ。逆にソーンはそうは思わないのかい?」
「いや…私はな…」
大神にそう聞かれ、ソーンバルケは言葉を濁した。実はこの身は一度死に、何の因果か右も左もわからないこの世界でこうしているとあって、人生経験は米田の何倍も豊富なのである。そんなソーンバルケだけに、別に女性が圧倒的な比率を誇るこの帝劇でも、今大神が言ったように気後れするようなことは全くなかった。ソーンバルケが帝劇の女性陣を見る目は、ハッキリ言って親が娘を見るような…祖父が孫を見るような…もっと言ってしまえば祖先が子孫を見るような感じだったのである。それぐらいの、老成というか達観した心情だったため、気後れしたり肩身が狭いと感じたことはなかった。
「…まあ、色々あってな。あまりそういうのは感じない」
とは言え、それを馬鹿正直に言うわけにもいかず、第一言ったところで信用されるわけもないのでこうして言葉を濁して返答するしかなかったのだった。
「ふーん…」
驚いたような、それでいて納得したような口ぶりで大神が答えた。
「できればその、『色々』の部分を聞かせてもらえるとありがたいんだけどね。俺も参考にできるならしたいし」
「いや、お前には無理だ。参考にはならない。…と言うより、他の誰にも参考にはならんよ」
「それは…ますます聞きたいな」
「勘弁してくれ。お前にだって探られたくない腹はあるだろう?」
「はは、違いない」
そこで男二人同士、顔を見合わせるとお互いに軽く笑ったのだった。
『さて…』
そうしているうちに二人とも食事は終わる。それぞれ、自分の食器が乗っている御盆を手に持つと立ち上がった。
「大神、お前、昼からの予定は?」
「この後は事務局で伝票整理の手伝いを頼まれていてね。ソーンは?」
「私は日課になっている授業だな。その後は衣装整理を頼まれている」
「そうか。それじゃあお互い、午後も頑張ろう」
「ああ」
二人は揃って食堂を出るとお互い軽く手を挙げて別れた。そして大神は事務局へ、ソーンバルケは本日の教官である椿の許へと向かったのだった。
「ふぅ…」
帝劇の制服からいつもの私服に着替えを終えたソーンバルケが廊下を歩く。
「すっかり遅くなってしまったな…」
窓から見える外の光景を目にしてそう呟いた。大神と別れた後に椿の授業を受け、その後衣装整理を行っていたのだが、数が膨大なこともあってことのほか時間がかかってしまい、こんな時間まで残業していたのだ。外を見れば、夕日もすっかり落ちて夜の帳が空を黒く染めている。
「早く帰るか…」
遅くなりそうだとわかった時点で花小路邸に連絡は入れているために問題はないと思われるが、それでも帰宅が早くなることに越したことはない。いつもより心なしか足早に歩いていると、二階から降りてきた大神に出くわした。
「大神」
「あれ、ソーン?」
大神としてもこんな時間にソーンバルケと出くわすのは意外だったのだろう、驚いた顔をしている。
「どうしたんだい? こんな時間にこんなところで?」
大神が尋ねた。
「衣装整理に思いのほか時間がかかってしまってな。この時間まで残業だ」
「そうだったのか」
「それより、お前こそ何を? そんなものを持って」
少し怪訝そうな表情になってソーンバルケは大神が手にしている懐中電灯を顎でくいっと指し示した。
「ああ、これは俺の日課の業務の一つだよ。劇場内の見回りさ」
「ほう、成る程な。そう言えば通いの私と違って、お前は他の連中と同じくここに住み込みだったな。ならばそのような業務もあるというものか」
「まあ、そういうことだよ」
「ふむ…」
大神の返答を聞いたソーンバルケが腕を組むと、何かを考え始めた。
「? ソーン?」
どうしたのだろうと大神がソーンバルケの顔を覗き込む。と、
「少し手伝おうか?」
と、意外なことを申し出てきた。
「え?」
その意外な申し出に、大神が驚いたような顔をして静止する。
「何もそう驚くことはないだろう…」
そんな大神に、ソーンバルケは苦笑して答えた。
「ここまで遅くなってしまったのだ。もう少し遅くなってもそんなに変わりはしないだろう。知らなければお前に任せっきりでいるつもりだったが、知ってしまった以上、同じ雑用同士少しは手伝うのが筋というものだろう?」
「でも…いいのかい?」
躊躇いがちに大神が尋ねた。
「私は構わない。それにお前の顔を見ているとどうしても…な」
「顔? 俺の顔がどうかしてるのか?」
「ハッキリ言えば、表情が冴えない上に疲労が出ている。余程疲れが溜まってでもいるのか?」
「…さっき紅蘭にも同じことを言われたよ」
力なく大神が乾いた笑いを上げる。
「ならば尚更だ。で、どうする?」
「そうか…それならお願いしてもいいかな?」
「無論だ。では私は一階と地下を担当しよう」
「ありがとう。それじゃあ俺はこうして降りてきちゃったことだし、中庭を見回ってから二階だけ確認することにするよ」
「わかった。終了したらお前の部屋へと報告に行く」
「ありがとう。頼むよ」
「ああ」
こうして話はまとまり互いに軽く手を挙げると、昼間の時のように大神とソーンバルケは別れたのであった。
(こういう業務もあったとはな…)
通いの私にはわからなくて当然かと自嘲し、ソーンバルケは今来た道を戻って各所の点検を開始した。
(ん?)
一階の見回りをしていたソーンバルケが舞台袖に立ち寄ると、舞台から人の気配を感じた。
(何だ?)
恐らく舞台上で何かしらをやっているであろうその人物に気取られないように注意しながら舞台の様子を窺ってみる。そこにいたのはさくらだった。
(さくらか…)
少しの間ソーンバルケはさくらの様子を観察してみる。どうやらさくらは一人で演目の稽古中のようだった。
『ここで走り寄って…えーと…次のセリフは…』
一人でそんなことをブツブツと呟きながら黙々と稽古に励んでいる。
(眩しい光景だな)
そんなさくらを、ソーンバルケは目を細めて見ていた。その姿に、遠い昔のまだ幼い日の自分を重ねていた。
(私にも、あんな時代があったな…)
遠い昔の過ぎ去った記憶を思い出しながらしばらくその様子を見ていたソーンバルケだったが邪魔をするのも無粋であり、何より自分もまだ見回りの途中であるのでここを離れることにした。ちょっとした差し入れを残して。
「ふぅ…」
ソーンバルケが様子を窺っていたことなど知る由もないさくらはその後も稽古を続ける。が、不意にどこからか物音が聞こえた。
「な、何!?」
驚いたさくらがその物音のしたところに足早に駆けつける。そこには誰もいなかった。だが代わりに、良く冷えたお茶が一缶置いてあった。
「あ…」
それを手に取ると辺りを見渡す。だが当然、そこには誰もいない。
「一体、誰が…」
答える者のいない質問を呟きつつも、さくらは汗を拭いながら少しの間そのお茶の缶を見つめていたのだった。
舞台袖から去ったソーンバルケはその後も一階の見回りを続けて終了し、地下へと降りる。地下自体は立入禁止区域も多く、帝劇の面々にも余り足を踏み入れないように言われていたため、ソーンバルケはその言に従って基本足を踏み入れていなかった。
(ここは見回る場所も少ないから楽だな…)
そんなことを考えながらいざ見回りをしようとしたところで、近くの一室から物音がした。その物音を耳にしたソーンバルケはそのままその部屋へと足を向ける。
(鍛錬室か…)
大神より少し先輩とはいえまだまだ自分も新人であるため、今は業務を覚えることに忙しい。そのため、この部屋はあまり使うことはなかった。剣の鍛錬なら別にここでなくとも花小路邸でもできることだし、ここでなければできないこともないからさして不自由は感じていなかったというのもある。いずれは利用することもあるだろうが、現段階ではその必要性をあまり感じてはいない部屋であった。
(部外者がいるとは思えないが…)
こんな時間ということもありその思いをより一層強くするソーンバルケだったが、しかし万一ということもあり、なおかつ見回りということもあって確認することにした。ドアを開けて中に入ると、
「あら」
そこにはいたのは意外な人物だった。
「…お前か、すみれ」
鍛錬室にいた意外な人物…すみれの姿をみたソーンバルケが思わずそんなことを呟いていた。相も変わらずのお前呼ばわりされそうになったことと、現れたのがソーンバルケであったことにすみれがムッとした表情になる。
「なんですの? 随分と御挨拶ですわね」
「そうむくれるな」
攻撃的な目つきになったすみれに、ソーンバルケは苦笑しながら答えた。
「仕方ないだろう。誰がいるかわからなかったんだから」
「ふん、まあいいですわ。…それで、何か御用?」
相変わらずつれない態度である。そのことに苦笑しながらソーンバルケがここに来た目的をすみれに告げた。
「ああ、見回りの途中だ」
「見回り? でもそれは貴方の仕事ではなかったはずじゃありませんこと?」
「そうなのだがな」
苦笑したままソーンバルケが話を続ける。
「いや…厳密に言えば私の仕事ではないというのも違うかもしれないな。私は通いだから知らなかっただけで、自然と大神にお鉢が回ったと言うべきなのだろう」
「それで?」
「ああ。今日は衣装整理でこんな時間まで残業していたからな。帰りしなに大神と鉢合わせて見回りがあることを聞いたので、少し手伝ってやることにしただけだ。あいつの顔色も悪かったからな」
「顔色?」
すみれの柳眉がピクリと動いた。
「ああ。昼間、伝票整理でこき使われたらしい。それもあって、死にそうな顔をしていたのでな」
「まあ…」
何か思うところがあるのか、すみれの顔が少し曇った。その表情の変化には勿論気付いたソーンバルケだったが、一々指摘するのも面倒なのでそれは黙殺して話を進めることにした。
「そう言うわけで、今日は私もあいつの見回りの手伝いをしているというところだ。ご納得いただけたかな?」
「ええ、まあ」
「それは何より。ところで…」
話が一段落ついたところで、ソーンバルケが改めて口を開いた。この鍛錬室に入ってきてすみれの姿を見たときから浮かんでいた疑問があったのだ。
「なんですの?」
怪訝な表情になってすみれがソーンバルケを睨んだ。
「いや、その格好は?」
ソーンバルケが疑問を解消するべくすみれに尋ねる。ソーンバルケの言う通り、すみれは今いつもの格好ではなかった。鍛錬室なのだからそれらしいスポーティーな格好かというとそれも少々違い、水着なのである。だが水着なんてものを知らないソーンバルケにとっては初めて目にするその格好はそれなりに刺激的であった。
「ああ、これですの?」
自分の身体に一瞬視線を落としたすみれがつまらなそうに息を吐いた。
「ああ。水練でもするつもりか?」
「バカなこと仰らないで。水練なんて野暮な真似、私がするわけないでしょう? ただ気分転換に泳ぎにきただけですわ」
「そうか」
(ではこの装いは、やはり泳ぐとき専用のものか…)
初めて目にした水着の用途を再確認し、ソーンバルケがふむふむと頷いた。と、
「ねえ貴方、この水着、どう思われます?」
と、少し意地悪な表情になってすみれが水着に対する品評を求めてきた。
(成る程、この装いは水着というのか…)
少しズレた感想を抱きながら、ソーンバルケはそうだな…と呟いた。そして、
「少し大胆過ぎると思うが。もう少し大人しめのものにしたらどうだ?」
と、自分が感じたことを素直に答えたのだった。その回答を聞いたすみれが意地の悪そうな表情はそのままに突っ込んでくる。
「あら、目のやり場に困るとでも仰るの?」
「それはまあ、確かにそうだな」
「あらあら、先日は私を子ども扱いしておきながらそんなことを言うなんて…言行不一致じゃありません?」
すみれがクスクスと、少し嘲るような笑い方をしながらソーンバルケを見る。以前の意趣返しといったところだろうが、残念ながらソーンバルケは意にも介してはいなかった。
「いや…一般論で言ったのだが」
「はぁ?」
ソーンバルケのその言葉に、すみれが目を剥いた。
「ここでならその格好でもいいとは思うが、外で泳ぐなら今言ったようにもう少し大人しめのものにした方がいいぞ。いつも言っているが普段着の着こなしといい、露出過多なのは改めた方がいいと思うが」
「! あーそうですの!」
ソーンバルケの返答にすみれが面白くなさそうにふんっと腕を組んでプイっと顔を背けた。が、当のソーンバルケは何故いきなりすみれの機嫌が悪くなったのかさっぱりわからず、頭上に?を発生させることしかできなかった。
「もういいですわ! 失礼!」
すみれは怒気を孕んだまま鍛錬室の奥へと入っていった。
(? 何を怒っているんだ、あいつは?)
腕を組んで考えては見るものの、サッパリ理由がわからない。かと言って、見回りの途中である以上いつまでもここでこのことについて考えているわけにもいかず、ソーンバルケは次へと向かおうとした。そして、鍛錬室を出ようとクルリと振り返った直後、
「きゃあああああっ!」
絹を裂くような悲鳴が、すみれの消えていった奥の部屋から聞こえたのだった。
「!」
その悲鳴を耳にしたソーンバルケが一瞬で振り返るとすみれの許へ向かった。鍛錬室の奥に入ると、そこにあったのは室内用のプールだった。そしてその中で、手足をバタつかせながらもがいているすみれの姿があった。
「た、助け…」
「すみれ!」
その光景を目にしたソーンバルケが腰に佩いているヴァーグ・カティを外すとすぐにプールへと飛び込んだ。この世界より余程自然と密接して生きていたテリウスの住人ということもあり、ソーンバルケも泳ぐことに抵抗はなく不得手でもなかった。グングンとスピードを上げてすみれを肩に抱えると、そのまま水から上がる
「ぶはっ!」
久しぶりとなる泳ぎに荒くした呼吸を整えながらソーンバルケがすみれの様子を窺った。
「ケホッ! ゴホッ!」
それなりに水を飲んでしまったのだろう、すみれはソーンバルケより大きく呼吸を乱し、何度も咽せている。だがそれも徐々に治まってきていて、しばらく時間が経つと大分落ち着いてきたようだった。
「はあっ…はあっ…はあっ…」
「大丈夫か?」
呼吸が整ってきたところを見計らってソーンバルケが声をかける。
「え、ええ…」
すみれにしては珍しく弱々しく頷いた。いつもの勝気な様子は見られないが、まあそれも仕方のないことだろう。
(まあ、見た感じ重篤な様子でもなさそうだしな)
それを確認したソーンバルケがふうっと一息つくと立ち上がった。
「無事ならいい。次からは気をつけることだ」
そして、見回りを続けるためにそのままその場を立ち去ろうとする。が、
「お待ちになって」
すみれの声にソーンバルケが足を止めた。
「ん?」
ソーンバルケが振り返ると、
「そ、その…」
引き止めたがその先を言い淀む。基本、いつもハッキリとした物言いをするすみれらしくないその態度に、ソーンバルケが首を傾げた。
「何だ?」
突っ込む。と、
「あ…ありがとう。助かりましたわ…」
プイっと顔を背け、よく聞いていなければ聞き逃してしまうような本当に小さな声でそう礼を言ったのだった。すみれにはあまりよく思われていないのは十分自覚していたソーンバルケだったために、そのことに驚く。が、すぐに微笑むと、
「気にするな」
と、答えた。
「それより、今日はもう大人しく引き上げた方がいい」
「ええ。そうしますわ」
すみれが立ち上がると頷く。そして、
「一つ、お願いしてよろしいかしら?」
と、言葉を続けたのだった。
「ん?」
「部屋まで送ってくださらない?」
「私がか?」
「この場に他に誰かいますの?」
すみれが柳眉を顰めてソーンバルケにそう尋ねる。
「いや」
「だったら、貴方に向けての言葉であるのは当然のことでしょう?」
「確かにそうだが、私にはまだ見回りが…」
「あら、女性のエスコートを断るなんて無粋な真似、殿方ならしませんわよね?」
(私にとってはどうでもいいのだが…)
裏表なく心底ソーンバルケがそう思っていた。見たところ無事のようだし、何よりここは帝劇内である。別に誰かが襲ってくるということなどあるわけないので部屋まで送る必要があるとは思えなかったのだ。とは言え、
(…この様子では私が首を縦に振る以外の返答は納得しないだろうな)
短い付き合いではあるが、すみれの人となりは大分掴めてきただけにそういった予想もできるようになっていた。と、すみれがダメを押すように続ける。
「それに、そんなずぶ濡れの格好では見回りも何もあったものではないでしょう? どちらにしろ服を乾かす時間は必要なのですから、その時間を私に割いていただいてもバチは当たりませんことよ?」
「む…」
己の姿に目を落としたソーンバルケが言葉に詰まる。確かに、着衣のままプールに飛び込んだということもあって、今の姿はずぶ濡れであった。水も滴るいい男…などと言うつもりはないが、この格好のまま帰るわけにはいかなかった。
「仕方ないな…」
どの道、今すみれの言った通りこの服を乾かす時間は必要である。であれば、その時間を潰すのには丁度いいかもしれない。ソーンバルケはそう判断した。
「わかった」
頷いて了承すると、すみれが満足そうに微笑んだ。
「では、こちらへいらして」
ソーンバルケの返答を聞いたすみれがそう言うと、そのまま今来た道を戻る。ヴァーグ・カティを手にすると、ソーンバルケはその後についていった。すみれに従って鍛錬室に戻ると、少しの間その場で待つようにすみれに指示される。その指示通り大人しく待っていると、すみれがバスタオルを手に戻ってきた。
「取りあえず、これで身体をお拭きなさいな。私、シャワーを浴びて着替えますので、貴方も取りあえず制服にでも着替えたらどうですの?」
「ありがとう。そうだな、そうさせてもらうか」
「ふん、お礼なんていりませんわ」
少しだけ顔を赤くすると、そのままその顔をぷいっと背けてすみれが奥へと引っ込んだ。相変わらずのその態度にソーンバルケは苦笑し、全身をすみれが持参したバスタオルで取り敢えず拭った後、制服に再び着替えるために今来た道をとんぼ返りするのであった。
「どうぞ」
「失礼」
すみれに促され、ソーンバルケが室内に足を踏み入れた。
(何とも…豪華な私室だな)
その内装や調度品を目にしたソーンバルケが思わず抱いた感想である。着替えを終えたソーンバルケは鍛錬室に戻り、すみれの着替えが終わるのを待った。そして着替え終わったすみれと合流した後、すみれを自分の私室まで送ったのである。本来ならばそこで終わる話だが、そこですみれが思わぬことを言いだした。お茶でも御馳走するから部屋に寄っていけというのである。これまでの経緯からすみれとはあまり関係がいいとは言えなかったために断ろうとしたソーンバルケだったが、それを察したすみれがあからさまに不機嫌な表情になって先回りして釘を刺した。
『女性の誘いを断るなんて無粋な真似、しませんわよね!?』
半ば脅迫めいた表情と語気でそう迫られ、ソーンバルケは苦笑するしかなかった。かつて数々の戦いで死線を超えた戦いを経験していたソーンバルケだけあってこの程度のプレッシャーなど大したことはなかったのだが、ここで断れば収拾がつかなくなるだろうというのは流石にソーンバルケもわかっていた。
そのため、あまり気は進まなかったがすみれに従うことにした。当然その前に大神のところに行って見回りの件については報告済みである。
(ベグニオンの神使の私室には流石に豪華さは劣るだろうが、それでも似たような感じか?)
無論、ソーンバルケはサナキの私室に入ったことなどないので想像でしかないが、恐らく嗜好や趣味的には同じような感じなのではないかと何となくソーンバルケは思っていた。と、
「はい」
すみれがハンガーをソーンバルケに差し出してきた。
「それにかけてその辺に適当に吊るしてくださいな。今、部屋を暖かくしますから」
「わかった。すまないな」
「お礼なんていりませんわよ」
照れ隠しか本当に鬱陶しいとでも思っているかのかわからないが、ぷいっと顔を背けたすみれに苦笑しながらソーンバルケはハンガーに、まだ濡れている自分の私服をかけた。
このハンガー自身も最初は何なのかわからなかったソーンバルケだったが、こういった基礎知識と言うか常識は三人娘たちの日々の指導の甲斐あって少しずつ補われていった。
すみれに言われた通りソーンバルケが濡れた自分の私服をハンガーにかけてその辺に吊るす。その間にすみれは部屋に暖房を入れ、何やら用意し始めた。
「その辺の椅子に適当に座って下さいな」
「ああ。わかった」
すみれに言われるまま、ソーンバルケは近場にあった椅子に腰を下ろす。すみれはカチャカチャと音を立てながら何かをしているが、残念ながら位置的に何をしているのかわからなかった。
「……」
手持無沙汰になってしまったソーンバルケがやることもないため周囲に視線を走らす。さっきも感じたが豪華な内装に調度品とこれだけでもある程度すみれの人となりが窺えた。
(こういうのは確かに自分の色が出るものだな…)
自室なのだから当然かと思いながらソーンバルケが腕を組んで暇潰しに室内に目を走らせる。と、
「お待たせしましたわ」
不意にすみれの声が聞こえて視線を戻した。そしてすぐに、ソーンバルケの目の前に湯気が立ち上っている温かそうなお茶に満たされたカップが配膳される。すみれはそのままソーンバルケの対面に同じようにもう一つカップを置くと、そこに座った。
「どうぞ。お口に合うかわかりませんけど」
「すまない」
一言断ってからカップに口を付ける。この世界の飲み物は幾つか嗜んできたが、どうもあまりソーンバルケの口に合うものはなかった。ただこれはその中でも大分マシな方である。
(ふむ…)
妙な口当たりと味だが、悪くはないな…そんなことを考えながらゆっくりとそのお茶を飲むと、
「あの…」
不意に、すみれが口を開いてきた。
「何だ?」
カップを置き、ソーンバルケが尋ねる。
「その…一つお願いがあるのですけれど」
「お願い?」
「え、ええ…」
“お願い”という言葉に少し怪訝な表情になったソーンバルケに、すみれがいつもの彼女らしからぬ歯切れの悪そうな表情になっている。
(珍しいな…)
ここで日々を過ごすようになってまだ日は浅いが、それでもここの人間の大体の人となりは大まかながらではあるが把握しているので、すみれがこんな態度をとることには違和感しか感じなかった。まして、すみれとは彼女が一方的に忌避しているとはいえあまりいい関係とは言えない。それなのにこんなことを言ってくるのだから、余計に違和感しか感じなかった。
「何だ?」
とは言え、ソーンバルケとしても話も聞かずに無下に断るような大人げない真似はしない。と言うより、断る気はなかった。無論、そのお願いの内容次第ではあるが。
「その…私が溺れたことは、他の皆さんには内緒にしていただけませんこと?」
「…何だ、そんなことか」
お願いの内容が拍子抜けだったため、思わずそんな呟きがソーンバルケの口から出てきてしまった。が、それがいけなかった。
「そんなこととは何ですか! そんなこととは!」
すみれが今のソーンバルケの返答に、火のついたように怒って糾弾したのだ。
「す、すまん」
その迫力は、ソーンバルケすら一瞬怯ませるほどである。思わず言葉に詰まってしまったのがそのいい証左だった。
「全く…」
不満ありありといった表情のまますみれがジト目でソーンバルケを睨んだ。
「まあ、おま…すみれの言いたいことはわかった。別に人に話すようなことでもないし、すみれの望む通りにしよう」
「そうですか。ありがとう」
「いや。…その代わりと言っては何だが、一つ聞いていいか?」
「何ですの?」
カップに口を付けながらすみれが答える。
「何故そんなことを? 今言ったように私も別に口外するつもりはないが、誰とて生きていればあのぐらいの失敗というか些細なミスぐらいはあるだろう」
「失敗はスタァには似合いませんもの」
そこでふぅ…と一呼吸置く。ソーンバルケは黙ってその続きを待った。
「…白鳥が美しく、そして優雅に水面に浮いていられるのも、水の下で一生懸命水をかいているからなのですわ」
ハッキリと、しかし、確固たる意志を秘めた口調ですみれがそう断言した。その、大げさに言ってしまえば覚悟すら感じる口調にソーンバルケはこれ以上何も聞けなくなってしまった。
「そうか…」
その説明にソーンバルケは納得する。そして、少しすみれに対する認識を改めなければならないと思っていた。年は若くとも、すみれには立派な矜持…プライドがあるのである。舞台人として、人として。
(そう言えば…)
そんな連中はテリウスでも数多く見てきたなとソーンバルケは今更ながらにそう思った。それを意識してすみれを見てみると、成る程自分のよく知る彼ら彼女らに似たような雰囲気や目の奥の光、意志の強さを感じた。そしてそんなことを今まで気づきもしなかった自分の目の節穴具合に自嘲する。
(私もまだまだ未熟)
心中ですみれに詫びながら、ソーンバルケは改めて自戒してお茶に口を付けた。
(本当に大丈夫なのかしら…)
そんなソーンバルケの様子に目を光らせながら、すみれはそのことを危惧していた。言質は取ったものの、本当にわかっているのだかわかっていないのだか判断できかね、どうにも不安が拭えない。
(全く…)
プールで溺れてしまったのがそもそもの不覚ではあるのだが、せめて助けてくれたのがソーンバルケではなく大神だったら良かったのにとすみれは心底思っていた。大神ならば普通に口止めをお願いすれば間違いなく了承してくれただろう。そして、すみれも安心することができた。が、ソーンバルケが相手だとどうにも勝手が掴めないのだ。それはやはり、すみれ自身がまだソーンバルケを警戒していることに起因しているのだが。
そんなことを考えながらチラチラとソーンバルケの様子を窺っていると、不意にすみれはソーンバルケと目が合ってしまった。そしてそれに気がついたソーンバルケがいつものようにフッと笑みをこぼす。しかしその眼差しからは、今までのものとは少し違うような違和感を感じていた。
(何?)
気にかかる。しかし、すみれにはどうしてもその違和感の正体が掴めなかった。問い詰めてもいいのだが、確証のない話だけに惚けられたらそれまでのこと。内心でスッキリしない思いを抱きながらもそれ以降は当たり障りのない話に終始した。そして、その時間の終わりを告げる鐘の音が鳴る。
「む…」
「あら」
鐘の音を耳にしたソーンバルケは徐に立ち上がると、ハンガーに吊るしてあった自分の衣服の許に向かう。そしてその乾き具合を確かめた。すみれが暖房を入れてくれたおかげもあり、程よく乾いて温まっている。
「乾きまして?」
後ろについてきたすみれがソーンバルケに衣服の状態について尋ねた。
「ああ」
頷くと、ソーンバルケはハンガーから自分の服を外して小脇に抱えた。そして、ハンガーをすみれに手渡す。
「すまないな。助かった」
「どういたしまして」
ハンガーを受け取ったすみれはそれを自分のクローゼットへと戻した。その間に、ソーンバルケはドアを開けて外に出る。
「長居をしたな」
「仕方ありませんわ。こちらが悪いのですから」
言葉通り、仕方ないといった表情になって一応見送りにきたすみれが一つ溜め息をつく。
「それと先ほどの件、くれぐれもお忘れなきよう」
「わかっているさ。その代わりと言っては何だが、もう少し私に対しての当たりが穏やかになってくれるとありがたいのだが…」
「…考えておきますわ」
「宜しく頼む」
ポンポンとソーンバルケがすみれの頭を叩いた。
「! ですから!」
ソーンバルケのその手を掃い、すみれがキッとソーンバルケを睨んだ。
「子供扱いしないでと前にも言ったでしょう!?」
「子供みたいなものなのだがな…私にとっては」
「は?」
ソーンバルケの呟きの意味がわからず、すみれが首を傾げる。
「失礼」
そんなすみれに対してフッと微笑んでから頭を下げると、ソーンバルケはそのままその場を辞していったのであった。
「全く…変な人」
その後ろ姿を見送ったすみれが呆れたようにぼやきながら自室に戻った。こうして紅蘭の復帰初日であるこの日はようやく幕を下ろしたのであった。