――――これはとある暑い夏の日。
 他の誰でもない、不器用な二人が紡いだ何ともない物語――――

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なんでもない夏の日に

 ジジジジジ、と神楽を奏でる蝉の合唱に、武田赤音は静かに耳をすました。

 宮代屋の縁側に座って、晴天に鎮座して爛々と輝き続ける太陽の日差しを半刻ほど浴びているため、じっとりと汗をかき、服は肌に張り付き、髪はしだれてていたが、その横顔はどこか涼し気にすら見える。

 

 沖田紗羽の肺に巣くった妖を禊払うために訪れた大磯照ヶ崎海岸。

 その目的を無事に終えた後、新撰組の隊員に数日間の休息が与えられた。伊右衛門何某と自称する妖が≪虎狼狸≫≪オサキ≫≪病神≫の三妖を掛け合わせた≪疫病神≫。それに蝕まれていた紗羽の体力を鑑みられてのことだと説明があった。

 大妖と化けた≪疫病神≫を祓うことは、祓われる側にとっても決して易いことではない。

 

 宿泊施設として選ばれた宮代屋は療養するにはうってつけだった。

 海水浴場を備えているのが特に良い。

 日ノ本誕生が記されている日本書紀にも、黄泉の国より蘇った伊邪那岐が死の穢れを落とすために海に入ったとされる。転じて海は霊的な回復を促進させると信じられており、その甲斐あってか、重篤な後遺症も危惧されていた紗羽の経過は医者が驚くほどに安定している。けれど―――

 

(―――療養するだけであれば、《梨の花》だけで充分だったはずだ)

 

 大粒の汗がつうっと赤音の頬を伝う。

 

(新撰組は帝都の霊的守護を尊き御方から命じられている。その意味は重い)

 

 赤音は今回の療養には、表向きの理由以上に、土方の意向があったことを察していた。

 伊右衛門何某が与えた傷は決して浅いものではない。

 けれど、それは紗羽だけに限定されたものではなかった。

 誰も気が付かないうちにそっと他人の人生に居座って、白紙に筆を滑らせるが如く、墨を垂らしていく。伊右衛門何某とはそのような妖であり、一部例外を除いた新撰組の主要たる隊員は彼と浅からぬ因縁がある―――と判明したのはつい最近のことだ。

 

 例えば、赤音は《武田観柳斎の娘》であることを強要された。

 武田観柳斎が好むことを好み、武田観柳斎が嗜むことも嗜み、己を《武田観柳斎の娘》という墨で塗りつぶすことを求められた。

 このような歪な環境も、全て、伊右衛門何某が用意したものだと言うらしい。

 

 黒船よりもたらされた鉄と蒸気の理に呑み込まれつつある妖。

 滅びを待つだけだと思われていた彼らが、平安もかくやと言わんばかりに活発化している異常事態の帝都を―――即時帰還手段を残しつつも―――留守とするのは、土方がこの事実を重く見たからに違いない。

 霊力は精神と深い繋がりがあり、それを武器に戦う新撰組にとって心の傷は文字通り致命になりえる。

 

(……と、前の俺なら、それだけだと思っていたんだろうが―――)

 

 非情で、卑劣で、苛烈。

 規律を何よりも重んじて、害あると見るや、旧知の仲であっても斬り捨てる。

 その合理を追求した姿はもはや人ではなく、まつろわぬ鬼のもの。

 《武田観柳斎の娘》として殺すべき怨敵である土方を、そのように教わっていた。

 

(―――本当は普通に心配だっただけだろう? 気をまわし過ぎだぜ、鬼副長)

 

 眉間に深い皺を刻んで、むっつりと黙り込む土方の顔が見えた気がして、赤音はくつくつと笑った。

 敵と対峙する土方は、正しく鬼も裸足で逃げだす気を放つが、平素においては枯れ木のように静かだった。それどころか、新撰組の隊員を遠くから目を細めて見守っている姿などは、まるで親戚の爺のようですらある。

 随分と聞いていた話とは違うものだと、と、赤音は更に笑った。

 笑っていないと、よくないものを招くような気がした。

 

「……どうして笑っているの?」

 

 困惑のあまり思わず口に出てしまった。そんな声音だった。

 そして、まるで野生の猫に近づいてよいものかと思案するような覚束ない足取り。

 その主を赤音はよく知っている。

 

「思い通りにならないってのも、案外、悪くないものだって思っただけさ」

 

「……赤音はいつも判らないこと言うね」

 

「てんちょーはお子様だからな。大人にならないと理解できないこともあるもんよ」

 

「…………適当なことばっかり」

 

 てんちょー―――島田愛里寿は呆れたように嘆息をつく。

 

「俺みたいな伊達女がいい加減なこと言うもんか」

 

「……嘘ばっかり言うと閻魔様に舌を抜かれるよ」

 

「それは怖い。てんちょー特性の島田汁粉を呑んでから会わなくちゃな」

 

「……なんで?」

 

「口が開かなくなるから」

 

 からからと笑う赤音に愛里寿は視線を背けた。

 

「……赤音は閻魔様に怒られればいいと思う」

 

「あはは、怒るなよ。歯が溶けてくっついちまいそうな甘さは事実だろ?」

 

「…………知らない」

 

 餅のように頬を膨らませて廊下を走り去って行く愛里寿を見送り、赤音は頭を掻く。

 初対面でも人懐っこい笑みをふりまいて、旧友のように語り掛ける姿から、赤音は社交性に富んでいると勘違いされることが多いが、その実、彼女は人との距離を測るのが苦手だ。

 だから、笑う。へらへらと笑って、相手が何を言っても柳のように受け流す。

 それが赤音の処世術だった。決して本気にならないから、相手も自分に本気にならない。

 《武田観柳斎の娘》が何をすればよいかは判っても、《赤音》のことは想像もできなかったから、彼女はそれ以外を学ばずに生きて来た。

 

 ―――けれど、愛里寿は初めて出会ったその時から、ずっと《赤音》だけを見つめている。

 

(……こりゃまた失敗したかな)

 

 赤子が産まれた時に泣くのは、きっと、初めて見る外界が恐ろしいからに違いない。

 光。音。匂い。そして、他人。胎の中では想定すらできなかった未知の坩堝。

 判らないことは怖い。だから、《赤音》を強要する愛里寿がとても恐ろしいもののように感じられ―――最悪の形で、暴発してしまった。

 《武田観柳斎の娘》として生き延びた事を誇れ―――などと、言ってくれる男に出会わなければ、赤音はそのまま出奔して、闇の中に沈んでいただろう。

 

(どうにも、世間話が下手でいけねぇや)

 

 もう愛里寿のことは怖くない。

 けれど、接しようとすると、どうにもギクシャクしてしまう。

 

(どんな気持ちなのだろう)

 

 赤音は縁側に上半身を預けて、幼き少女に思いを馳せる

 島田愛里寿の霊力は新選組の誰よりも強い。

 その強すぎる霊力は本人の意志には関わらず、隠されたものを《視》た。

 他人の最も柔らかい場所が、否応もなしに《視》えてしまうのは、一体、どのような気持ちなのだろう。

 

 そっと赤音は目をつむる。瞳を閉じていても暴力的な日差しが網膜の血管を映し出す。

 少なくとも、それすら煩わしい赤音にはそんな力は欲しくなかった。

 

(まったく新撰組は問題児の巣窟だぜ)

 

 問題児の筆頭である赤音は自分のことを棚上げて、ごろんと寝返りを打つ。

 このまま寝てしまおうと決め込んだとき、冷たい雫が降ってきた。

 

 もしや雨かと眼を開けると、去って行ったはずの島田愛里寿の横顔がそこにはあった。

 

「……寝ちゃうの?」

 

 洗いたてのお盆から、ぽたりと水滴が滴っている。それがこめかみに落ちたのだろう。

 愛里寿が戻ってくるとは思っていなかったものだから、赤音は大変に驚いた。

 だが同時に、目ざとい彼女は、愛里寿の洋服が濡れていることを見逃さなかった。

 

「…………そんなに汗かくと、ミイラになるよ?」

 

 愛里寿は切り分けられた西瓜が乗った御盆を日陰に置く。

 

「……西瓜割りで余ったやつ、女将さんが切ってくれてた」

 

 それだけ告げると、愛里寿は西瓜の切れ端をぶっきらぼうに突き付ける。

 三角形というよりは四角形。切り口の断面は歪み、形は不格好で、端に至っては崩れていた。

 赤音は、昨日の夕餉で出て来た女将の料理の鮮やかさを思い出す。

 

「食べて」

 

 少しばかり逡巡した後に、赤音は西瓜を受け取って齧り付く。

 柔らかい果肉を歯ですり潰し、口内に満ちた果汁を飲み込むと、欠乏していた水分が五臓六腑に染みわたるのを感じた。

 

「かーッ! うめぇ!」

 

 赤音は膝打って感嘆の声をあげる。

 

「こんなうめぇ西瓜は食ったことがねぇや!」

 

「……そ、そう?」

 

 どこか照れ臭そうに、俯きながら愛里寿は髪を弄った。

 

「くぅー、生き返るぅ! ほら、てんちょーもボンヤリしてねぇで。一緒に食おうぜ!」 

 

「ん……いい。赤音が全部食べてよ」

 

「誰かと一緒に食ったほうがうめぇんだよ、こういうのは。さ、座った座った」

 

 赤音はお盆を自分の膝の上に移して、床についた水滴を自分の羽織でぬぐう。

 そして、そのまま座るように促すと、愛里寿は少し悩んで、遠慮がちに座り込んだ。

 

 愛里寿と赤音の視線が合うことは、一度もない。

 どうして戻ってきたのか―――とは、赤音は聞かなかった。

 

「……どうして日向ぼっこしてるの?」

 

「笑わねえか?」

 

「…………笑わない」

 

「餓鬼みたいで恥ずかしいんだけどよ」

 

 恥ずかしそうに赤音は頬を掻く。

 

「何となく、そう……何となくなんだが、怖かったんだ」

 

 ―――でも、知っていただろう?

 

 そう聞くと、まるで怒られた子供のように愛里寿は顔を伏した。

 顔を隠した愛里寿に赤音は寄り添うようにして、身体を預ける。

 齢七歳になったばかりの愛里寿にとって、小柄とはいえ成人している赤音の身体は重いに違いなかったが、彼女は何も言わない。

 この少女は「どうして泣いているのに笑っているのか」とは言わないのだ。

 

「鬼副長も気を回しすぎなんだよな。忙しけりゃ何も考えないってのによ」

 

 泣き虫を放ってはおけない心優しい少女に向かって、あえて快活に言った。

 自分の最も柔らかい部分を曝け出したいと、赤音は不思議にもそう思った。

 

「《影》が憑きまとってくるような気がしたんだ」

 

 《影》がずっと自分の背後に憑いて回っている気がする。

 自分ではない誰かが、自分と成り代わろうとしているような、そんな錯覚を覚える。

 《赤音》の半生は伊右衛門何某によって創作されたものであるならば、今ここにいる己もそうでないと、どうして言えるのだろう。

 赤音は怖かった。ようやく見つけた《赤音》がいなくなってしまうことが、どうしようもなく恐ろしかった。

 

 でも、島田愛理寿だけは最初から―――

 

「だから、明るいところにいたくてよ」

 

 ――――《赤音》だけをずっと見ていてくれている。

 

 赤音は愛里寿の顔を覗き込んで、歯を見せて笑った。 

 西洋人形のように調和がとれた顔つきに、白磁のように艶やかで白い肌。

 色素の薄い髪は、まるで陽の光が編み込みこまれているようで、椿油をぬったような光沢がある。けれど、赤音が一番好きなのは愛里寿の瞳だった。

 憂いを帯びた鈍色の瞳は、その奥で力強い意志の輝きに満ちている。

 きっと他の誰よりも愛里寿は魅力的な女性になるだろう。

 

「……やっぱり赤音は変わっているね」

 

 赤音につられるようにして、愛里寿が笑みをこぼす。

 

「…………怒られると想った」

 

「見られて怒るなんざ、俺くらいだっただろう。すまなかったな」

 

「……ううん、そんなことないよ」

 

 そうやって愛里寿からはみんな離れて行っちゃったから―――と寂しそうに呟く。

 そのことに赤音は肯定も否定もできなかった。

 愛里寿の言葉に込められた想いに見合うだけの何かを、あやふやな己が言えるとは到底思えなかった。

 

 だから、その代わりに、赤音は愛里寿を強く抱きしめることにする。

 

「きゃっ!」

 

「俺はお前が好きだ!」

 

 愛里寿を抱いたまま、唐突に告白した。

 

「結婚してくれ!」

 

「え、え……ええっ!? なにそれ!?」

 

「俺は、今、お前と全力で結婚をしたい気分だ!」

 

「…………女の子同士、ダメ!!」

 

「知らねえ! 愛は偉大だ! いっひ・りーべ・でぃっひ!」

 

「赤音がまた適当なこと言いだした!」

 

 抗議の声をあげる愛里寿の頭を赤音は乱暴に撫でる。

 それを嫌がって少女は腕の中で更に暴れるが、何故だかそれが酷く愛おしかった。

 

「もう! 嫌い! 赤音嫌い! 離して!」

 

「結婚してくれ! 後生だぜ!」

 

「やだ! 絶対やだ! 赤音とだけは絶対にやだ!!」

 

 接吻をしようとすると同時に腕の力を緩めると、愛里寿は猫のようにするりと抜け出す。

 顔を真っ赤にした愛里寿が文句を言おうするのを遮って、赤音は言った。

 

「やっと目が合ったな」

 

 リィィン、と風鈴が鳴る。

 怒っていたはずの愛里寿が静止する。

 そんなことを言われたことは今まで一度もなかったから、どうしていいか判らないといった様子で、呆然と愛里寿は立ち尽くしていた。

 けれど、愛里寿の瞳には赤音が写っていて、赤音の瞳には愛里寿が写っている。

 

 だから、それでいいのだと、赤音は思った。

 

「ほら」

 

 赤音は縁側から立ち上がり、愛里寿へ手を差し出した。

 

「島田汁粉をつくってみたくなったんだ。教えてくれよ」

 

「…………」

 

 差し出された手をじっと愛里寿は見つめた。

 信じられないものを見るような、思ってもなかったものを見るような。

 そして、遠慮がちにその手は握られて、二人はゆっくりと歩き出す。

 

 

 

 

 

 ――――これはとある暑い夏の日。

 他の誰でもない、不器用な二人が紡いだ何ともない物語――――

 



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