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「良い名前考えるでしょ?アイリスも泣いて喜んでたよね」
「泣いてないから!脚色しないでよ!」
「あら、喜んでたのは否定しないんだね」
アイリスは「うっ…」と図星をつかれたような声を漏らし、クラウンから視線を逸らす。
「…当時は『虹彩』なんて言葉知らなかったし、響きも気に入ってたし」
「虹の女神様と同じ名前でもあったり」
「それ何回も聞いた。虹彩の語源ってことも」
「何回も言ってたからね。フフフ、でも喜びの一番の理由は言うまでもないかな」
「そうね…そんなの今更だわ」
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その日から女の子はアイリスとして生き始めました。
翌朝、窓から差し込む太陽の光がアイリスを目覚めさせます。
「ん…?」
アイリスは体を起こし周囲を見回します。
「…あ、そっか」
朧気ながらも昨日の出来事が次々と浮かび上がってきました。
身柄を移されたこと。病院から脱走したこと。名前を授かった後、安心して朝まで眠っていたこと。
「アイリス…」
昨日名付けられたばかりの名前を、ぽつりと呟きます。
「…ふふ」
アイリスは嬉しそうに笑みを零しました。
「初めましてお嬢さん」
「…」
アイリスは今、部屋の扉に手をかけたままポカンとした表情を浮かべながら硬直しています。
そうなるのも無理はありません。扉を開けたらピエロではなく手品師が立っていたのですから。
そういえば昨日はアイリスが眠るまで被ったままでしたね。驚かすつもりは無かったといえば嘘になりますが、様子を見ようとして先に開けられてしまったので仕方ありませんね。
「驚かせてしまったようで申し訳ありません。お詫びに手品をひとつ披露致しましょう」
手品師は懐から取り出した黒い幕を広げ、自身の姿を闇に潜めます。
「お嬢さんのお知り合いを呼び出す手品でございます。3、2、1…」
カウントダウン終了と同時に黒い幕が降ろされると、そこには手品師ではなくピエロが立っていました。
「おはよう、アイリス。昨日はよく眠れたかい?」
「あ…えっ…?」
アイリスはまだ困惑している様子。
「お腹すいてるでしょ?お話は朝ごはん食べてからにしようか」
アイリスが状況を飲み込めたのは、床に残された黒い幕と衣装をしばらく見つめ続けた後でした。
「そんなことがあったんだね」
クラウンから渡された朝食を食べ終えたアイリスは、クラウンにここまでの経緯を話しました。
クラウンは悲しむことも憐れむこともなく、ただ「うんうん」とアイリスの過去から今までを聞いていました。
「うん…ねえ」
「なんだい?」
「どうしてそんなにやさしくしてくれるの?」
「優しくはしてないよ。これはボクの気まぐれさ」
「でも…」
「おっと、そろそろ行かなきゃ」
腑に落ちない様子のアイリスに構わず、クラウンは立ち上がります。
「どこにいくの?」
「もうすぐショーが始まるんだ。見ての通りボクはピエロだからね」
「まって…!」
アイリスは背を向けて歩き出すクラウンを呼び止めます。
「あたし、これからどうしたらいいのかな…」
「アイリスのしたいようにすればいいんじゃないかな。したいことが決まるまでここにいるとか、ね」
クラウンは去り際にそう言い残していきました。
空が夕日に染まる頃、クラウンが戻ってきます。
「おや?」
クラウンが部屋を覗くと、アイリスはベッドの上で膝を抱えて座っていました。
アイリスはクラウンに気付くと「あ…」と声を漏らし、もぞもぞと体を動かします。
「どうしたんだい?」
その何か言いたげな様子のアイリスにクラウンは聞きました。
「あの…ここに」
「うん?」
「ここにいて…いい?」
アイリスは怯えながらクラウンの返事を待ちます。
「アイリスはここにいたいんだ?」
アイリスはコクっと頷きます。
「フフフ、こんな狭いところでよろしければ。これからよろしく、アイリス」
クラウンの返事を聞いた瞬間、アイリスはパーッと晴れやかな笑顔を浮かべました。
その日からアイリスの、クラウンと共に過ごす新しい生活が始まりました。
クラウンとの日々を重ねていくうちにアイリスはクラウンという存在を理解していきます。
名前はクラウン。職業もクラウン。その正体は手品師とピエロの顔を持つ自称「さすらいのパフォーマー」。
小さなサーカス団の団長を務めていて各地を転々としているようです。
アイリスがいたいと言ったここも一時的な仮住まいのようなもので、長く滞在する予定はありませんでした。
しかし事情が変わり、アイリスの心身が安定するまでクラウンはしばらくこの地を中心に活動することに決めたのです。
「ただいま」
「おかえり。いまさっきね、いしょうのせんたくしてた」
「ありがとう、助かるよ。ごはん買ってきたから一緒に食べようか」
「うん!」
アイリスは自分を住まわせてくれているクラウンへの感謝の気持ちを表すため、掃除や洗濯などの雑用を毎日すすんで行いました。
まだ幼いアイリスにとって数々の雑用は大変なものでしたが、全く苦にしませんでした。
それどころか毎日楽しそうに雑用をこなしていて、その表情から充実感と満足感いっぱいで生き生きしている、とクラウンは感じ取りました。
そしてアイリス自身ももちろん思っていました。ずっとこんな日常が続けばいいのに、と。
ーーー
「ずっと続けば良かったのにね」
「…」
アイリスは黙ったまま何の反応も示さない。
そっか、続かなかったんだね。
「初めの方は何度も掃除や洗濯なんてしなくてもいいよ、って言ったんだけどね。でも笑顔で楽しそうに毎日こなしているアイリスを見てたらそういうことは言えなくなってね」
「…さすがに毎日笑顔で楽しくとはいかなかったわよ。でも居場所が無くなる怖さに比べたらあんなの全然大変じゃなかったわ」
「そんなことしなくてもアイリスはここにいていいんだよ、とも言ったんだけどね。それじゃアイリスの気が済まなかったみたい」
「施設にいた時の考えが染みついてたからね。生き残るための手段とか振る舞い方とか叩きこまれたわ」
「そうだったね。だからアイリスと過ごしていくうちに思ったんだ。いずれそういう提案をしてくるんじゃないかってね」
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アイリスがクラウンと共に過ごしてから数ヵ月が経とうとしていました。そんなある日の朝のことです。
ある人物がクラウンの家に訪ねてきました。
「団長、いるんだろ?話がある。開けてくれないか?」
その声にクラウンは聞き覚えがありませんでしたが、団長と呼んだことから自分をよく知る人物であると確信しました。
何故ならクラウンが今この場所に身を置いていることを知る人物は限られているからです。
劇団の関係者かな、と思いつつクラウンはドアを開けました。
「…!」
ドアを開けるとそこには見知らぬ数人の男が立っていました。
クラウンはキュッ、と後ろ足で音を立てて身を引いて構えます。
中でもひときわ背の高い男が尋ねました。
「赤い目と青い目をした少女を知らないか?」
「知らないなあ。すごい目をしてる子がいるんだね」
「調べはついている。我々に引き渡してもらおう」
男は直後、有無を言わさず家の中へと上がり込もうとします。
「逃げるんだ!早く!」
クラウンはすかさず振り向くと叫びました。
アイリスのいる部屋の方から慌ただしい物音が響きます。
「あの部屋だ!」
男たちはクラウンを押し退け家に上がり込むと、物音が響いた部屋へと急ぎます。
「そこか!?」
アイリスがいるはずの部屋に突入した男たちでしたが、そこには誰もいません。
「おい!あれ見ろ!」
男の一人が窓を指さします。その窓は大きく開かれていました。
そしてその窓からは、この家から遠ざかろうとする小さな影が確認できました。
「追うぞ」
男たちは窓から身を乗り出し、小さな影を追いかけていきました。