「驚いたね。まさか本当に追手がくるとは思ってなかったんだけどな」
クラウンはアイリスのいた部屋の窓越しから、遠ざかっていく男たちの姿を見届けながら呟きます。
「行ったよ。もう大丈夫」
クラウンは振り返って声をかけました。
「…うん」
アイリスが机の下から姿を現します。
「いざという時の取り決め、役に立つでしょ?」
アイリスがクラウンとの日々を重ねてクラウンという存在を理解していくことと同様に、クラウンもまたアイリスの存在を理解していました。
アイリスの詳しい事情を知ってこれまでどのようなことが起きてきたか。そしてそれらの情報を元にこれからどのようなことが起きるか。
クラウンはこのような事態が起こるかもしれないと予測し、いずれ訪れるかもしれないその時に備えてアイリスと取り決めをしておいたのです。
「すぐもどってこないかな?」
「あの距離だとすぐには戻って来ないと思うよ。人形の移動速度はボクの全速力と同じくらいにしておいたからね。でも早いに越したことはないね」
クラウンとアイリスは手早く準備を済ませると、足早に家を出ました。
道中、アイリスは「もうここには戻れないんだろうな」と自分の居場所だった家を名残惜しそうに何度も振り返りながら走って行きました。
「ねえ、これからどこいくの?」
「遠いところかな」
列車の中で揺られながらアイリスは不安そうな表情を浮かべます。
「心配しなくても大丈夫さ。行くところは決まってるし、もう追われることもないよ」
「うん…でも」
「ボクはそれでいいのかって顔をしてるね?」
クラウンはアイリスの気持ちを見抜くとフフフ、と笑ってから答えました。
「ボクはさすらいのパフォーマーだからね。旅をするのは慣れてるし、むしろ久しぶりにあの町に行けるのは楽しみだよ」
クラウンの前向きな答えを聞いてアイリスの不安と緊張が少し和らぎました。
「でも団員たちには言いそびれちゃった。着いたら伝えないとね」
ーーー
「あしおと?」
「もしボクが危ないって思ったらキュッて足音を鳴らす。アイリスはそれが聞こえたらこの仕掛けを起動する準備をして欲しいんだ」
「じゅんび、ってどうするの?」
「ここから糸を出して、これをこうして引っ張る」
「これって、にんぎょう?」
「結構アイリスに似てるでしょ?遠目から見れば区別がつかないくらいには」
「…にてるかな?」
「準備が出来たら手をここに置いてね。で、頃合いを見てボクが叫ぶからそれを合図に、手に力を込めて思いっきり押す」
「てをおいて…おもいっきり、おす」
「そしたら仕掛けが起動して、その人形が走り出すんだ」
「あ、部屋の窓は忘れず開けておいてね。でないと今みたいに部屋で暴れまわっちゃうから」
「うん…きをつける」
「願わくばこの手品を披露する機会が訪れないように。じゃあ片付けようか」
ーーー
「起きて、アイリス」
列車に揺られてどれくらい経ったでしょうか。外はすっかり暗くなっていました。
「…ん」
アイリスはゆっくりと体を起こします。
「すっかり寝入ってたね。何か夢でも見てたのかな。さあ、長い旅もあともうちょっとだ」
アイリスはクラウンに手を引かれて列車から降りました。
しばらく歩いた後、ようやくクラウンが目指していた場所へと到着します。
「着いたよ。ここがボクたちのこれからの居場所だ」
「ここが…」
クラウンは鍵を取り出し差し込むと扉を開けました。
「フフフ、新しいおうちへようこそ。あちらと比べると狭いけどね」
翌朝、窓から差し込む太陽の光がアイリスを目覚めさせます。
「ん…?」
アイリスは体を起こし周囲を見回します。
「…あ、そっか」
朧気ながらも昨日の出来事が次々と浮かび上がってきました。
自分を狙う何者かが来て仕掛けを起動させたこと。クラウンに連れられてここまで逃げてきたこと。長旅の疲れで昨日はすぐに眠ってしまったこと。
そして居場所は変わっても、朝起きた自分にはやるべきことがあります。
「あさごはん、つくらなきゃ…」
「昨日はよく眠れたかい?」
「うん」
アイリスは朝食のパンを頬張りながら頷きます。
「それは良かった。さて、ボクは出かけてくるよ」
「おしごと?」
「そんなところだね。でもまだショーは難しいかな、何事も準備が必要だからね」
ピエロの姿をしたクラウンはそう言い残し出かけていきました。
ーーー
「ここから新しいおうちでの生活が始まるんだよね」
「…」
アイリスは先程と同じく反応を示さない。
沈黙が続きそうだったので、ひとつ前の回想で気になっていたことを質問してみた。
「あの、きいてもいいかな」
「何だい?譜理子ちゃん」
「人形が走るって、どういう仕組み…?」
「フフフ、気になるかい?でも残念ながら答えられないんだ。手品のタネは最後まで明かさないのが手品師だからね」
「そっか…それじゃ仕方ないね。お話の続き、聞かせて」
「うん、お話に戻ろうか。まあ場所が変わっただけで生活はほとんど同じだったよ」
「アイリスは毎日雑用してくれたしボクも団長として活動する日々を送っていた」
「特に何か事件が起きるということもなく、気が付けば数年の時間が過ぎていた」
「その頃になるとアイリスも成長してね、雑用に加えてボクの仕事の手伝いなんかもしてくれるようになったんだ」
「えっ、それって…」
「舞台裏で暗躍してくれたよ。姿を隠してアシスタントをしてくれたこともあった。それでもパフォーマーとして表舞台には立たせなかったけどね」
「ただそこまでいくと、あとはもう時間の問題だったよね。結局のところ数年間何も起きなかったというのが、判断を誤ったんだろうな」
「正真正銘ボクの人生の中で唯一後悔していることさ」
「クラウンが後悔することないわよ。パフォーマーになりたいって言い出してきかなかったのはアタシなんだし」
「だとしても認識が甘かったのは事実だよ。だから責任を取ったんだ」
ーーー
クラウンは悩んでいました。アイリスがパフォーマーとして舞台に立ちたいと訴えてきたからです。
クラウンは以前からアイリスがもしそのようなことを言ってきた時は断ろう、と決めていました。
しかし実際にそう言ってきた時のアイリスの表情は真剣そのもの、そしてその目は夢と希望に溢れていました。
パフォーマーとして舞台に立ちたいというアイリスの強い気持ちをひしひしと感じ、クラウンの意思が揺らぎました。
クラウンの気持ちとしてはアイリスの思いに応えたい、でもそうすればアイリスを危険に晒すことになる。
とはいえこの家に定住してからの数年間、何か危険な目にあったことは一度も無い。
流石にこの地にまでアイリスを追いかけるようなことはしないだろう。もしそうだったなら居場所は既に突き止められて、おそらく今ボクたちはこの地にいない。
アイリスは普通の女の子だ。綺麗な目をしているだけの普通の女の子。
そんなことを気にするよりアイリスのしたいことをさせるべきだ。
「フフフ、悩むことなんてなかったね」
クラウンは結論を出しました。新しいパフォーマーが誕生した瞬間です。