ようこそ人間讃歌の楽園へ 作:gigantus
「じゃあ今からこの前やったテストを返すぞー。名前呼ばれたら取りに来るように」
男性教師の言葉に教室から悲喜こもごもの声が響く。
生徒たちの声を他所に、教師は答案返却を恙無く進めていく。
一人また一人と答案が返され、喜ぶ者や落ち込む者で分かれていった。
そうしてまた一人、教師から答案を返される少年がいた。
教師は少年の顔を見ると笑顔を浮かべ、手に持った答案を差し出した。
「今回も満点だ。頑張ったな六条!」
「ありがとうございます」
六条と呼ばれた少年は特に喜びを見せることはなく淡々と礼を述べた。
それは別段特別ではないように、まるでそうあることが当たり前であるかのような態度だった。
その態度に教師は不愉快になるどころか寧ろ感心すらしていた。
結果に一喜一憂することはおかしなことではないが、目の前の少年はまるで心を乱さない。
今回のテストはそれまでのものより一段難しいものだった。
そのため今まで好成績を収めていた生徒ですら点数が振るわなかった。
しかし目の前の少年はどうだろうか。
彼は今まで通り、これまでと全く同じように一切の不正解を出さずに満点を取った。
これまで以上に少年がテストに向けて努力したのは明らかだった。
にも関わらず少年はこの結果に浮かれる素振りが全くない。
勝って兜の緒を締めよとはよく言ったものだ、と教師はますます少年が気に入った。
「これからも頑張れよ。と言っても、六条ならこの先ずっと満点なんじゃないか?」
「いえ、これからも油断せずに頑張るつもりですよ。僕も何もしないで満点を取るなんて出来ませんから」
「はは、お前は真面目だな! だが良い心がけだ。先生も応援してるぞ!」
「ありがとうございます」
少年は席に戻り、教師は生徒への答案返却を再開した。
「六条はスゲェよなー。今回も満点だろ?」
「だなー。つか、今回マジでムズかったよな? なんでまた満点なんだよ」
テスト返却が終わった後の休み時間、少年の周りにはクラスメイトが集まっていた。
少年とよく関わっている男子たちは今回も少年が満点を取ったという事実に笑っていた。
彼らにとって少年のそれは最早驚くことでもなくなっていた。
最初こそ一問も間違わない少年の凄さに驚いていたものの、今ではそれが当たり前の事実として根付いていた。
「いつも通り、日頃の復習を欠かさなかっただけだよ。僕だって何もしないで満点を取れるほど天才じゃないさ」
「出ました日頃の復習だけ! 六条はいつもそれしか言わねぇよなー」
「それで満点取れりゃあ苦労しねぇよー。頭の出来だろやっぱ」
「いいよなー、俺も肖りたいわー」
「分かる」
少年の発言にこれまたいつも通りだと男子二人が苦笑いして茶化す。
特別なことは何もしていないと、日頃の小さな努力だけだといつも少年は口にする。
しかし本当にそれだけで結果を出し続けられるわけがないと男子たちも思っているが故に、尚更彼の地頭の良さに感心半分呆れ半分といった反応を示していた。
彼らの他にも教室では少年を遠巻きに見ている者が散見された。
「本当凄いよね六条君って……何か特別なことやってるのかなー?」
「塾行ったりとか家庭教師とかは居ないって言ってたよ?」
「じゃあ本当に独学でってことかなぁ……いいなぁ羨ましい」
「ねぇ、今度一緒に勉強教えてもらおうよ!」
「いいね! 六条君優しいからきっと教えてくれるよ!」
そんな話し合いが繰り広げられていることを本人は知ることはない。
クラスメイトたちは少年の非凡な才に肖ろうとする者や少年の快進撃を一つの娯楽として楽しむ者など様々だった。
しかし当の本人たる少年は……
「(退屈だ……)」
その心に一抹の陰を落としていることを、誰も知る由もなかった。
「学校はどうだ?」
「問題ありません。今日返却されたテストもいつも通り満点でした」
その日の夜、少年は父親へ学校生活について伝えた。
父親との夕食は、夕食と言う名の報告会だった。
少年からの報告に父親は喜ぶこともせず、ただ当たり前であるように鼻を鳴らした。
「当然だな。六条の男として、お前は常に頂点でなくてはならない。勉学においても運動においても、何においてもだ」
「えぇ、分かっています」
「引き続いて手を抜かずにやりなさい。私の息子ならば常にトップであり続けることは当たり前だ。くれぐれも、私を失望させてくれるな」
「はい」
父親は少年に激励の言葉を贈るでもなく、褒めることもしない。
ただこれまで通りトップを取り続けることを命じるだけ。
トップであることは当然であり、当たり前であると少年に言い聞かせるのみだった。
それが我が家系の男としてあるべき姿なのだと。
自分の息子であるならばそうあるべきだと。
そんな父親からの命令に少年はただ首を縦に振った。
少年もまた、父からの言葉を素直に受け入れていた。
だがしかし、少年の心には……
「(退屈だ……)」
少しずつ、少しずつ淀みが広がっていた。
「まぁまぁ。あなた、まずは満点だったことを褒めて差し上げたらいかがですか?」
いつもは父と少年のみだった夕食の席に、その日はもう一人女性が相席していた。
女は少年の母親であった。
彼女の言葉に父親は片眉を上げる。
「これくらいは当然のことだ。褒めるに値することではない。私の息子なら出来て当然。寧ろこれで満点でなければ失望していたところだ」
父親は既に食事を終えていたからか、そこで会話を打ち切り席を立って自室へ戻っていってしまった。
夕食の席に残っているのは少年と母親だけ。
母親は父親が出て行くのを見届けると、少年に対して優しく微笑んだ。
「期待が大きすぎるのも困っちゃうわよね。あなたはこんなにも頑張ってるのに」
「僕は気にしてないよ母さん。だから大丈夫さ」
「ふふっ、そっか」
少年の言葉に対して、母親はおかしそうに笑った。
「でも──」
しかしその笑みは──
「──そのわりには随分と退屈してるように
一瞬にして冷たい笑みへと変わった。
初めて見る母の表情に少年は背筋が凍るような寒気を感じる。
「っ! ……母さん、どういうことかな?」
「あなたはずっと思ってるんじゃない? 今の日常が退屈だって。何をやっても出来てしまう。あなたがすることは何でも受け入れられてしまう。あなたが右を選べば周りも右を選ぶ。あなたが是とすれば周りもそれを是とする。人間が取り巻く世界が脆く、容易く、愚かに見える。まるで空虚な世界に自分一人放り出されているように感じている……あなたは気づいたんじゃないかしら?
「……」
母の問いに少年は何も答えない。
否、答えられなかった。
彼女の言ったことは、少年にとってはまさにその通りだったのだから。
物心ついたときから少年はあらゆることに秀でていた。
勿論少年は努力を惜しまなかったし、手を抜いたことは一度もない。
端的に言えば、少年は
それは理屈で考えれば別段おかしなことではないだろう。
しかし、努力が必ずしも報われるわけではないというのは誰しもが知っている。
それは厳然たる事実として存在している。
頑張りが報われないことは往々にしてありえることで、それでも尚愚直に努力を重ねるのが人間という生物だ。
だからこそ努力が必ず報われるという少年のそれは、凡人から見れば異常と言う他なかった。
そして少年自身もまた、己が異常だということに気づいていた。
己に課した試練は、課された試練は必ず踏破することが出来る。
己を取り巻く周囲の人間は、こちらが何もしなくとも好意的な反応を示す。
それは対象が同期であっても、年下であっても、年上であってもだ。
人間の感情というものの不確実性を、非論理的な性質を知識として知っているが故に、少年は目の前の事象があまりに出来過ぎていると理解していた。
出来過ぎている事象は、恒久的に続けば必然的にそれが当たり前となってしまう。
明らかに異常だというのに、誰もその異常に気づくことはない。
苦悩の末に少年は気づいたのだ。
異常なのは周囲ではなく、己自身だということを。
気づいてしまったが故に、少年の心には仄暗い感情が芽生え始めた。
自分が特別だと驕っているわけではない。
しかしながら少年は優秀であるが故に気づいてしまったのだ。
己を苛み、退屈な世界に放り出したコレが、自分の本性がどういった性質を備えているのか。
少年は気づいてしまったのだ。
その性質が故に、世界が虚構に見えてしまっているということに。
少年の沈黙を肯定と捉えた母の表情は慈愛に満ちた笑みへと変わった。
「隠さなくてもいいわ。それはおかしなことじゃないの。だって──」
「──あなたのそれは
「えっ……」
何を言っているのか少年は理解できなかった。
それほどまでに母の言葉は衝撃だったのだから。
母は己の中にある異物に気づいていた。
それが影響して最近退屈を感じていることも。
全てを母は言い当て、その上でそれは自分譲りだと言った。
少年はそれを父親譲りだと無意識のうちに思い込んでいた。
父があのように厳格で己が血筋を誇っている以上、父もまた自分と同じ才を備えているものだと思っていたからだ。
「ふふっ、信じられない? そうよね。あの人がああだから、どうしてもあの人譲りだって思うかもしれないわ。私はあの人に見初められてこの家に嫁いできた...ってあの人は思ってるでしょうね。でも実際は逆なの。私があの人を動かしてこの家に入り込んだのよ」
「そんなことが……」
「あなたなら、それが不可能じゃないことは分かるわよね? 私と同じ『
そう語る母の”目”はこれまで見てきた母親のそれとはまるで別人だった。
こちらの内面全てを剥き出しにされるような、全て見通されているような目。
見られたら最後、目を逸らすことを許されない。
心を掌握するような絶対者の目。
言葉一つで、指先一つでこちらを完膚なきまでに粉々にされるような恐怖を与える目。
その目で見つめられた少年は理解した。
目の前の女は間違いなく自分の母親であり、自分はその母の目を受け継いでいるのだと。
「母さんが、父さんを操っていたってことなのかい……?」
「そうよ。あの人は何も知らない。自分が何を妻にしたのか。あの人は確かに優秀だけれど、精々それまでの器でしかない。私のような怪物には遠く及ばない、ただの人間よ」
母の言葉が真実とするならば、父は母の本性を知らない。隠された才能を知らない。
今日この日、この時、母が少年に明かさなければ、この秘密は母だけのものだった。
父は何も知らず、ただ母の手で踊り続けるマリオネットだった。
もしこのことを少年が父に教えればこの家は崩壊するだろう。
しかし少年は、母の本性を知った息子は……
「へぇ、そうなのか……」
愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
少年のその笑みを見て、母も一層笑顔になる。
「あなたならそういう反応をすると思ったわ。やっぱり私の子ね」
「母さんに言われて分かったからね。父さんも、所詮はそこらの石塊と変わらなかった。今の僕を形作ったのは父さんじゃない。間違いなく母さんなんだと分かったよ」
少年は嗤う。己を形作ったと思い込んでいる父の愚かさを。
目の前の怪物に踊らされている滑稽な人形を。
そして怪物の血を色濃く受け継いだ自分自身を。
「母さんは、どうして父さんと結婚したんだい? まさか本当に愛していたわけじゃないんだろう?」
「ただの暇つぶしよ。たまたま街であの人を見かけて、たまたまちょっとそんな気分だったから近づいてみただけ。あとはただあの人が望む言葉をかけ続けて、あの人が望むような人間を演じ続けた。面白かったわよ? あの人が私にプロポーズした瞬間は」
「母さんは酷い人だね。父さんも不憫だよ」
「ふふっ、心にもないことを言うのね。笑いながら言っても説得力がないわ。それに……あの人は自分自身のことさえ知らない。あなたが自分の息子で、私との間に出来た優秀な子だと信じて疑わない。あの人は自分が持っている欠陥にさえ気づいてないのだから」
「欠陥?」
「いずれ分かるわ。あの人の秘密はあなたにも関係することなのだから」
今はまだ明かすつもりはないのか、母はそれ以上そのことについて触れることはない。
それを証拠に母は元々していた話に切り替える。
「あの人と結婚した理由だけど、今のあなたと一緒よ。私も退屈だったの。だからちょっと変化を齎すためにあの人を使って色々してみただけのこと。退屈な日常に飽きたなら、何か変化を求めるのは当然じゃないかしら?」
「母さんはそれを父さんで満たそうとしたんだね」
母は父を愛しているわけではない。
愛したが故に結ばれたわけではない。
ただ日常に飽いていたから。退屈を感じていたから。
己の中に変化を齎すための余興。それこそが真実だった。
「それで、今の話を聞いてあなたはどうするのかしら。今のまま退屈な日常の中で生きる? それとも……
母の言葉は少年にとって青天の霹靂だった。
枯れきった日常の中に落とされた一滴の水。
このまま己の才を振るい、周りの人間を支配し続けることで王として君臨することも選択だ。
しかしそれは自分の周りを人形で固めることと同義だった。
少年はそれが退屈だと感じているが故に苦悩している。
母はそんな少年に対して新たな選択肢を提示したのだ。
「──っ! ……僕は」
少年は言葉に詰まった。
それまでの日常から脱却したいという思いは存在している。
しかし、何をすれば、何を目的にすればいいのだろうか。
退屈な日常を変革するには、己の生き方を変えるには。
新たな軸を自分の中で形作らなければならないのだから。
少年の困惑を察した母は微笑む。
「すぐに答えを出さなくてもいいわ。でも、考えが纏まったら母さんに教えて? あなたがどういう道を選ぶのか、どんな生き方をするのか私も興味があるの」
「……分かった」
親子の会話はそこで終わり、二人は食事を再開した。
「(僕はどうしたいのだろうか……)」
部屋に戻った少年は思考していた。
彼が振り返っていたのはこれまでの日々、己が見てきた人間模様。
そして母から教えられた自分が備えている資質について。
母の言うことが真実ならば、少年は母と同様に人を支配することに長けている。
少年が自分の才能を十全に振るえば、今まで以上に少年は生きやすくなるだろう。
皆が少年に頭を垂れる世界で生き続ければ、父を超えることも容易いはずだろう。
しかし、少年はそんな未来に何一つ魅力を感じなかった。
約束された未来。容易い人生。そんなものを己は欲していない。
彼が求めたのは新しい生き方ただ一つ。
己の才能の新たなる使い道。
支配し従える以外の人間の使い方だった。
「(もしかしたら、僕はまだ狭い世界しか知らないのではないだろうか)」
少年の中に湧いたのはこれまでの自分の思考への疑問。
自分は身の回りにいる人間を、無意識のうちに見下していたのではないだろうか。
自分の周りにいる人間だけを見て、人間そのものを意思のない人形であると無意識のうちに定義していたのではないだろうか。
なまじ勉学に明け暮れた所為で、人というものの定義を先人たちから無意識のうちに受け売りしていたのではないだろうか。
少年が過去に読んだ書物の中にも、先人たちの歴史や思想が記されているものは存在した。
それを無意識のうちに自分の考えかのように受け入れていたのではないだろうかと省みた。
「(笑えるな。愚かだったのは僕のほうじゃないか)」
少年は己の愚鈍さに思わず笑いを漏らす。
自分は所詮、見聞きした事象と知識で以って世界全てを、人間全てを知った気になって悦に浸っていたに過ぎなかった。
それはなんと詰まらなく、馬鹿馬鹿しいことだろうか。
人間は所詮こうだ、と定義して悦に浸り、世界の真理を知った気になるなど愚かという他なかった。
ましてやその偶像を掲げて高みから見下ろすなど実に詰まらない生き方だろう。
「ならば、僕の新しい生き方は……」
考えた末に、少年は一つの答えを出した。
そして気がつけば、彼は母の部屋のドアを叩いていた。
「入って」
部屋の主たる母の許しを得て、少年は部屋へと入る。
母はベッド脇の椅子に腰掛け、入ってきた少年に笑いかける。
「答えは出たみたいね」
少年の表情から、母は全てを察したようだった。
「うん。だから母さんに聞いてほしいんだ。僕のこれからの生き方を」
「聞かせて?」
母は心底楽しそうに、少年の胸の内に耳を傾けた。
まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように。
少年は短く息を吐き、やがて言葉を紡ぎ出す。
「僕は、人間を
「へぇ、それはどうして?」
少年の答えに対して母は興味深そうにした。
「人間は愚かしい。それは歴史を紐解けば分かる。甘い蜜を覚えれば容易くそちらに流れる。簡単に人に流される。母さんも分かると思うけど、自分より優れた者に媚び諂う人間や、お零れに預かろうとする人間もいる。どこまでも利己的で、愚直で、醜い生物だ」
「そうね。私が見てきた人間もそんな人間ばかりだったわ。愚かだからこそ真の支配者に簡単に掌握される。あの人も結局は私の本性を見抜けなかったのだからね」
「でも、こうも思うんだ。僕も、それこそ母さんもまだ知らない世界があるのではないかと。世の中には、僕や母さんが想像し得ない結果を見せる人間もいるのではないかと」
「でもそれは居たとしてもほんの一握りよ? さしずめ砂漠の中に落ちた一粒の宝石。ましてやそれが存在するという確証もない。徒労に終わってしまうんじゃないかしら?」
「そうかもしれない。でも、だからこそ探す意味があると思うんだ。決して悪へと傾かない人間や、理不尽に立ち向かえる人間。全てを捨ててでも自分の信念を貫こうとする人間。支配者に抗い、ついには踏破すら成し遂げるような人間もいるかもしれない。そんな人間を僕は見つけてみたい。そんな人間を僕は開花させてみたいんだ」
「つまりあなたは人を成長させることに幸せを見出したってことかしら? 善人も悪人も、全て纏めて愛した上で、人間に羽化を促す」
「そうなるね。石塊の中にも磨けば光るものがあるかもしれない。だから僕は、人間全てを心から愛してみようと思うんだ。愚か者も。悪人も。凡人も。聖人も。全てが未知なる可能性を秘めていると信じて愛そうと」
「まるで神様の視点ね。人間が考える様なことじゃないわ」
「ふふっ、母さん、僕は自分のことを神様だなんて思ってないよ。こんなおかしな考えを持った神様が居たらたまらない。僕は根っこの部分まで悪人だ。生まれてから今日に至るまでも、そして
少年は母へ想いの内を全て吐露した。
それが子が親へ示す最大級の親孝行であるかのように。
怪物の血を引く自分が示す、生き証であるかのように。
「そう、分かったわ」
少年の考えを聞いた母は短くそう答えた。
言葉こそ短いものだが、その表情はとても満足げなものだった。
それは紛れもなく、子の成長を喜ぶ母親の顔だ。
「今日はもう遅いわ。部屋に戻って寝なさい」
話は終わりだと言うように、母は少年に退室を促した。
少年は素直に従い、母の部屋を後にする。
「あなたは私の自慢の息子よ。柚椰」
少年が出て行った扉に向けて、母は小さく呟いた。
数日後、少年の父親が他界した。
死因は交通事故による事故死。
父が運転していた車が赤信号を無視して交差点に進入し、トラックと衝突したのだ。
事故によって父は即死。現場検証でも不可解な点は見つからず、父の過失が原因だと判断された。
母は亡き夫が犯した罪の責任を取って父が経営していた会社を解体し、相手方に多額の慰謝料を支払った。
支払った金額が莫大だったため事件は示談となったが、結果的に六条家は壊滅状態になった。
その数週間後、母は少年の下から姿を消した。
六条という名から
少年もまた母と同じ苗字へ名前を変えていた。
学校から帰った少年を待っていたのは、人一人居ない家。
残っていたのは、母が秘密裏に蓄えていたであろう多額の貯金が入った通帳のみだった。
母が消えたことで、少年は一つの事実を理解した。
これまでのことは、
父の交通事故も、恐らく母が仕組んだことなのだろう。
改名の手続きが恙無く行われたのも、事前に準備していたことだったからだろう。
母は自分と同じ苗字を少年に与え、その上で姿を消した。
少年がこれから先、自由に生きることができるように。
少年が謳った人間讃歌を実現させられるように。
あの日の夜、少年との問答で母は理解したのだ。
少年がもう誰の手も借りる必要がないということを。
少年は理解した。
母もまた、自分と同じように人間の変化を楽しんでいたのではないかと。
息子が自分の言葉によって、どのような選択をするのかを見ていたのではないかと。
自分が出した結論に、母もまた至っていたのではないかと。
少年は理解した。
自分は間違いなく、紛れもなく母の子であると。
少年はその日から、新しい人生を歩み始めた。
己の本性を封印し、全ての人間を愛し始めた。
ある夏の日の出来事。13歳の少年は黛柚椰となった。
あとがきです。
黛君が本性を隠す様になった原因。そして今の思考になった原因の話でした。
この親にしてこの子ありといったところでしょうか。
母は彼に自分の苗字を与えて姿を消しました。
そして黛君は母もまた、自分と同じ様に人間の変化を楽しむようになったのだと理解しました。
さて、黛君のお母さんですが、一体今どこで何をしているのでしょうね。