ようこそ人間讃歌の楽園へ   作:gigantus

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彼は俺様御曹司に呼ばれる。

 

 

 

「おはよう山内!」

 

「おはよう池!」

 

 入学から一週間が経過したある朝、池と山内はお互い元気に挨拶を交わしていた。

 いつもは始業ギリギリに登校してくる二人なのだが、今日は何故か早かった。

 

「いやぁー、授業が楽しみ過ぎて目が冴えちゃってさー!」

 

「この学校は最高だよな、まさかこの時期から水泳があるなんてさ! 水泳と言えば女の子! 女の子と言えばスク水だよな!」

 

 どうやら二人が興奮しているのは今日から水泳の授業が始まるかららしい。

 テンションを抑えきれない二人は朝早くから熱く語り合っている。

 しかしその所為か、二人は周りが全く見えていなかった。

 その証拠に教室であるにも関わらず、大っぴらに声のボリュームも考えずトークを繰り広げている。

 であれば、当然その会話は教室にいる他の生徒にも聞こえている。

 一部の女子は早くも二人にドン引きしていた。

 しかしそんな女子からの視線に、悲しいかな池と山内は全く気づいていない。

 

「おーい博士~、ちょっと来てくれよ!」

 

「ふふっ、呼んだ?」

 

 太目の生徒が、あだ名なのか『博士』と呼ばれて池に近づいていった。

 

「博士、女子の水着ちゃんと記録してくれよ?」

 

「任せてくだされ。体調不良で授業を見学する予定ンゴ」

 

「記録? なんだよそれ」

 

 いつのまにか登校してきていたのか、須藤もその輪に加わっていた。

 

「博士にクラスの女子のおっぱい大きい子ランキングを作ってもらうんだよ! あわよくば携帯で画像撮影とかもなっ!」

 

「……おいおい、マジか」

 

 いくら連む仲とはいえ、流石に須藤も引いているようだ。

 周りで聞いていた女子たちも彼らに対し、まるで汚物を見るかのような目線を向けている。

 

「おーい綾小路」

 

 突如、池が席に座っていた綾小路に声をかけた。

 池はものすごく気持ちの悪い笑顔で手招きしている。

 

「な、なんだよ」

 

 戸惑いながらも、綾小路は呼ばれるがまま彼らのところまで近づいていった。

 

「実は今俺たち、女子の胸の大きさで賭けようってことになってんだけどさ」

 

「オッズ表もあるやで」

 

 そう言うと博士は得意げにタブレットを操作し、あるファイルをタップした。

 画面に映し出されたのはクラスの女子全員の名前が書かれている表。

 表には各女子一人一人にオッズが書かれている。

 

「えーっと……じゃあ、参加しようかな」

 

「お! やろうぜやろうぜ!」

 

 少し考えて、綾小路は参加を表明した。

 また一人仲間が増えたことに池はテンションがさらに上がっていく。

 彼らの賑わいに惹かれるように、他の男子たちも一人、また一人と群がり始めた。

 

 

「おはよう」

 

 そしてまた一人、男子が登校してきた。

 挨拶をしながら教室に入ってきたのは柚椰だった。

 

「黛! お前もちょっとこっちこいよこっち!」

 

 また一人仲間を見つけたとでも言うように、池はさっそく柚椰を呼んだ。

 

「あぁ、だけどその前に席に荷物だけ置かせてほしいな」

 

 柚椰はそう言うと一旦自分の席に向かった。

 彼は机の上に鞄を置くと、ぐるりと教室を見回した。

 そして教室の中で男子と女子のテンションがはっきり別れていることを察した。

 

「堀北、これはどういう状況なんだい?」

 

 理由を知りたくなった柚椰はとりあえずどちらの派閥にも属していない堀北に事情を聞いた。

 いつの間にか柚椰のすぐ近くにいた堀北は掻い摘んで事情の説明をした。

 

「どうやら男子は私たち女子の胸の大きさで賭け事をしてるみたいよ」

 

「それはまたなんとも……」

 

 女子が男子たちを嫌悪するように見ているのはその所為かと柚椰は納得した。

 

「教室で堂々とやることではないね……あそこの女子たちなんてゴミを見るような目で見ているし」

 

「コソコソやられるのもそれはそれで不快だけれど。こうも隠そうともせず堂々としている辺り品性下劣としか言い様がないわね」

 

 堀北も男子たちには嫌気がさしているのか、その罵倒はかなり辛辣だ。

 

「まぁ女子からしたら良い気はしないよね」

 

「まさかとは思うけれど、黛君も参加するの?」

 

 堀北はどこか試すような目で尋ねた。

 周りで見ていた他の女子たちも柚椰の参加の有無が気になるのか彼に目線を送っている。

 彼女たちの目は『お前もあいつ等と同じなのか』、と言外に言っているようだ。

 

「俺? んー、普通に考えてノーだね。流石にあれは堀北にも、他の女子の皆にも失礼だろう? ノリか常識かの選択において、時と場合と内容はちゃんと考えないといけない」

 

「……そう、黛君はマトモで少し安心したわ」

 

 ひとまず柚椰は常識を弁えていると分かったからか堀北はそう言って息を吐いた。

 

「堀北的に今のはポイント高いかな?」

 

「そうね、多少なりとも評価は上がったわ」

 

 堀北のその言葉に、周りで聞いていた女子たちは無言で頷いた。

 彼女たちの中で、柚椰の評価が上がったのは確からしい。

 

「おーい黛、早く来いって!」

 

 柚椰と堀北のやりとりが聞こえていなかったのか、池は尚も柚椰を呼んだ。

 どうやら他の男子たちも賭け事に夢中で聞いていなかったようだ。

 

「すまない、ちょっとトイレに行きたいんだ。じゃあね堀北」

 

 柚椰は最後に堀北にそういい残すと教室を出て行った。

 

「なんだよ黛、早く帰ってこないと締め切っちまうぞ~!」

 

 暗に断られたことに気づかないのか、教室を出て行く柚椰の後姿に池はそう呼びかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱこの学校すげぇな! 街のプールよか凄いんじゃね!?」

 

 競泳パンツを穿いた池が学校のプールを見るなり驚嘆の声を上げた。

 他の男子たちも声には出さないまでも皆驚いている。

 学校のプールは屋内プールであり、しかも温水であるため環境は最高だった。

 

「確かに、とても学校の設備とは思えないな」

 

 柚椰もまた、プールの淵から水面を覗き込みながら感動していた。

 

「女子は!? 女子はまだなのかッ!?」

 

 鼻息を荒くしながら、池はキョロキョロと周りを見回す。

 煩悩極振りのその姿はいっそ清清しい。

 

「着替えに時間かかるからまだだろ」

 

 池の必死な姿に綾小路は苦笑いを浮かべながらそう言った。

 

「なぁ、もし俺が血迷って女子更衣室に突撃したらどうなるかな!?」

 

「もれなく袋叩きにされた上に退学。そのあと書類送検のフルコースだろうな」

 

「怖ぇからリアルなツッコミやめろよ!?」

 

 綾小路の返しに池は震えた。

 

「テンションが高いのは仕方ないにしても、もう少し落ち着いたほうがいいかもしれないね」

 

「そうだな、変に意識してると女子に嫌われるぞ?」

 

 柚椰の言葉に追従するように綾小路は池を嗜めた。

 

「意識しない男が居るかよ! ……俺勃ったらどうしよう」

 

「多分その瞬間、卒業まで女子の嫌われ者コースだろうね」

 

「あぁ、彼女を作る計画も暗礁に乗り上げることになる」

 

 池の最低な発言に柚椰と綾小路は少し引いている。

 

「うわ~、凄い広い! 中学のプールと全然違う」

 

 男子グループから遅れること数分、ついに女子の声が聞こえた。

 

「き、来たぞッ!?」

 

 池は血走った眼で身構える。

 意識するなと注意したにも関わらずこの様である。

 ところが彼のテンションと興奮は即座に裏切られることになった。

 

「長谷部がいない! ど、どういうことだ博士ッ!?」

 

 授業を見学する博士が慌てて見学用の建物の二階から全貌を見渡している。

 高台からならば、池が見逃した件の獲物を見つけ出すはずだ。

 しかし、その姿はどこにも見当たらない。

 信じられないと言う様に博士は首を左右に振った。

 だが彼らの疑問は直ぐ傍で解決することになる。

 

「う、後ろだ博士!」

 

「──っ!? ンゴゴゴ!?」

 

 池が自身の後ろを指差したことで何かを察し、博士は急いで振り返った。

 そう、彼らが探していた長谷部は博士と同じ見学組だったのだ。

 彼女だけではない、他にも女子たちが次々見学席に姿を現した。

 

「な、なんでだよ……どういうことだよぉ!」

 

「巨乳が、巨乳が見られると思ったのにっ、思ったのにぃ!!」

 

 池と山内の慟哭がプールサイド全土に響き渡る。

 そんな大声で叫んでいれば、当然それは見学席にも聞こえる。

 件の女生徒、長谷部は虫をみるような目で──

 

 

 

 

 

「キモッ」

 

 躊躇うことなく本音をぶちまけていた。

 同じく見学している女子たちも似たようなことをつぶやいている。

 

 

 

 

 

「恐ろしい勢いで嫌われていくな、あの二人は」

 

「完全に身体しか見ていないからね。流石に俺もフォローは無理かな」

 

 崩れ落ちている池と山内、そして二人を嫌悪している女子たち。

 その光景に綾小路と柚椰は乾いた笑いを漏らしていた。

 

「二人とも、何やってるの? 楽しそうだねっ」

 

「く、くく、櫛田ちゃんっ!?」

 

 池と山内、二人の間に割って入るように櫛田が顔を覗かせた。

 スクール水着を着た櫛田は、妖艶な身体のラインが浮き彫りになっている。

 豊満な胸と程よく肉のついた太ももと尻。

 出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。

 その抜群のスタイルに男子のほとんどの視線が一瞬釘付けになった。

 

「なんかこう……すごいな、色々と」

 

「確かに彼女はスタイルがいいからね」

 

 綾小路は櫛田のスタイルの良さに言葉を濁し、柚椰は素直に褒めていた。

 

「馬鹿騒ぎもいい加減にしてほしいものね」

 

 いつの間にか二人の隣にいた堀北がそんなことを言った。

 

「いつの間に来たんだ?」

 

「今さっきよ。それにしても……」

 

 綾小路の問いに堀北は短く答えると、無言で彼の身体を頭からつま先まで見下ろした。

 

「綾小路君、何か運動してた?」

 

 一通り身体を見終えた堀北は、ふとそんなことを尋ねた。

 

「え、いや別に。自慢じゃないが中学は帰宅部だったぞ」

 

「それにしては前腕の発達とか、背中の筋肉とか、普通じゃないけれど」

 

「生まれつきじゃないか?」

 

「……まぁいいわ、それと黛君は……」

 

 堀北は綾小路への興味が失せたのかそこで会話を打ち切ると、今度は柚椰の身体を見た。

 

「黛君も何かやってたのかしら?」

 

「小学のときはサッカーやバスケをね。中学は運動部にあったスポーツは一通りやったかな? といっても部員ではなく助っ人でやっていただけだけどね」

 

「助っ人?」

 

「うん、人数が足りないから試合に出てほしいと頼まれることが多くてね。それで時々選手として出ていたんだ。1日目はバスケ、2日目はサッカー、3日目はバレーって時もあったかな」

 

「い、忙しいわね……」

 

 柚椰が過去経験したハードな予定を聞いた堀北の顔は若干引き攣っていた。

 

「体力持つのか?」

 

 綾小路も驚いているのかそんなことを尋ねた。

 

「案外なんとかなるものだよ? 気合と根性で」

 

「極めて非論理的ね」

 

 柚椰の返答に堀北は冷静にそう言った。

 しかしいつもの彼女とは違い、どこか微笑ましく笑っているようにも見える。

 

 

「よーし、お前ら集合しろ」

 

 いかにも体育会系といった体付きの男性教師が全員に集合をかけた。

 

「見学者は……16人か。随分多いが、まぁいいだろう」

 

 サボりであることは明白であったはずだが、男性教師は咎めることはない。

 

「早速だが、準備体操を終えたら全員泳いでもらうぞ」

 

「あの先生、俺あんまり泳げないんですけど……」

 

 一人の男子がそう申し出た。

 

「俺が担当するからには、必ず夏までに泳げるようにしてやるから大丈夫だ」

 

「別に無理して泳げるようにならなくてもいいですよ。海なんていかないし」

 

「そうはいかん。泳げるようになれば、いずれ必ず役に立つぞ? 必ずな」

 

 男性教師はそう締めくくると、早速準備体操に入るよう全員へ促した。

 準備体操を終えた後は、とりあえず50メートルほど流して泳いだ。

 

「とりあえず殆どの者が泳げるようだな。では早速だがこれから競争をする。男女別50メートル自由形だ」

 

 男性教師のその言葉に一同はざわつき始めた。

 

「1位になった生徒には、俺から特別に5000ポイント支給しよう。ただし、一番遅かった生徒は補習だから覚悟しろよ」

 

 その言葉に、泳ぎに自信がある生徒からは歓声が、苦手な生徒からは悲鳴が上がる。

 

「女子は二組に分かれて、一番タイムの早かった者が優勝。男子はタイムの早かった上位5人で決勝をやる」

 

 男子教師がそう言い、まず初めに女子たちの競争が始まった。

 

 

 

 

 

「櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん」

 

 池は櫛田のことで頭がいっぱいのようだ。

 柚椰はカラカラと笑うと彼の背中をポンと叩いた。

 

「まぁまぁ、落ち着きなよ池。目が狂気染みているよ」

 

「だ、だって櫛田ちゃんクソ可愛いだろがっ! 胸もデカイしさ!」

 

 池は落ち着くということを知らないようだ。

 横で聞いていた綾小路も死んだ様な目で池を見ている。

 男子たちを横目に、女子たちは一斉にプールへと飛び込み、泳ぎ始めた。

 リードしたのは堀北だった。

 彼女は序盤から大きく差を広げ、そのまま距離を維持し続けてゴールした。

 

「おぉ! やるな堀北!」

 

 ストップウォッチを片手に、男性教師は興奮気味にそう言った。

 タイムは28秒とかなり早く、非常に優秀だった。

 続いて第二レース、こちらには池のお目当てである櫛田がいた。

 彼女は笑顔で男子たちに手を振っていた。

 その可憐な姿に男子たちは皆悶えている。

 そしてスタートした第2レースだったが、試合展開は一方的だった。

 というのも、水泳部の女子が大差をつけて1人勝ちしたのだ。

 タイムも26秒とダントツの1位だった。

 

 

 

 女子のレースが終わり、続いて男子のレースへと移った。

 まず第1レースに綾小路、須藤、柚椰などが参加した。

 全員一斉にスタートし、皆各々得意な泳法で進んでいく。

 そして1番にゴールしたのは須藤だった。

 

「やるじゃないか須藤。25秒切ってるぞ!」

 

 男性教師は一層興奮し、須藤を褒め称えていた。

 一方綾小路は36秒で10位、柚椰は26秒で2位だった。

 

「須藤、水泳部に入らないか? これなら練習次第でいけるぞ」

 

「俺バスケ一筋なんで。水泳なんて眼中にないっす」

 

 須藤はそう言うと、余裕そうにプールから上がった。

 続いて第2レース。

 スタート台に男子が一斉に並んだが、その瞬間女子たちから歓声が上がった。

 

「キャー! 平田くーん、頑張ってー!」

 

 そう、何を隠そう第二レースに参加する男子の中には平田がいるのである。

 彼の体は華奢ではあるがしっかりとしており、女性受けしそうな体付きだった。

 

「ケッ!」

 

 女子の歓声を一気に受けている平田の姿に池が唾を吐く仕草をみせる。

 須藤も気に入らないのか平田を睨んでいた。

 

「勝ち上がってきたらぶっ潰してやる。この俺の全力でな」

 

 闘争心に火がついたのか、須藤はそう言って不敵に笑った。

 男性教師の笛の合図で、男子たちは一斉にプールへと飛び込んだ。

 平田が泳ぐ姿に女子たちは一層興奮していた。

 期待を裏切らずに平田は1位でゴール。

 タイムも26秒13と好タイムだった。

 

「よし、いけるぜ須藤、そして黛! お前らがアイツに鉄槌を下すんだ!」

 

「任せとけ。徹底的にぶっ潰して、平田の人気を地に落としてやる」

 

「え、俺もやるのかい?」

 

 池の発破に須藤は本気のトーンで答えた。

 一方柚椰はいつの間にか巻き込まれていたことに思わず聞き返した。

 

「お前も平田より早かったんだから当たり前だろ! ぶち抜いてやれ!」

 

 拒否権は認めないと言わんばかりに池はそう言った。

 だが第3レースにて、その企みを崩さんとするダークホースが現れた。

 

 

 

 

 

「見ていたまえ、真の実力者が泳げばどうなるのかを」

 

 レース開始前にそう宣言したのは高円寺だった。

 彼は自信たっぷりにクラスメイトに、主に女子たちにそう告げるとスタートと同時に真の姿を見せた。

 無駄の無いフォームでまるで飛魚のように泳いでいく様は、見る者を唖然とさせた。

 平田でさえ驚きのあまり目を見開いていたほどだ。

 見ているだけで、須藤よりも早いと分かるその速度で高円寺は瞬く間にゴールした。

 ゴールと同時にストップウォッチを切った男性教師が思わずタイムを二度見していた。

 

「23秒22……だと!?」

 

「フフッ、いつも通り私の腹筋、背筋、大腰筋は好調のようだ」

 

 驚愕している男性教師を尻目に、高円寺は優雅に髪をかき上げてプールから上がった。

 その表情は余裕そうであり、まだ余力を残していると分かるほどだ。

 

 

 

 

 

「燃えてきたぜ……!!」

 

 ノーマークだった強敵の存在に、須藤はメラメラと闘志を燃やして我先にとスタート位置へ歩いていった。

 

「ははっ、凄いね高円寺は」

 

 柚椰は素直に感心しているのか高円寺を褒めていた。

 そして彼もまたスッと立ち上がると首を軽く回して身体を解し始めた。

 

「ねぇねぇ黛くんっ」

 

「ん? あぁ櫛田、おつかれ様」

 

 決勝前のストレッチをしていた柚椰に櫛田が声をかけてきた。

 

「黛君も決勝に参加するんだよね? 頑張ってねっ」

 

「あぁ、やるだけやってみるよ」

 

 柚椰はそう言うとスタート位置へ移動するために歩き出した。

 しかしふと何か思いついたのか、彼は足を止めた。

 

「そうだ、櫛田」

 

「なに?」

 

「俺がもし1位を取ったら、明日の昼食を奢ってあげよう」

 

「えぇっ!? 黛君、勝つつもりなの!?」

 

 いきなりの提案に櫛田は驚いていた。

 それもそのはず、先のレースで柚椰のタイムと高円寺のタイムは3秒近く差があった。

 競技において3秒というのはとても大きな差だ。

 それを櫛田も分かっているからか、柚椰の提案は予想だにしないものだったのだ。

 

「んー、さっきので身体も()()()()()だろうからね。ちょっと頑張ってみるとするよ」

 

「慣れてきたって……」

 

 困惑する櫛田を放置して柚椰はスタスタと歩いていってしまった。

 

 

 

 

 

 

「よぉ平田ァ……今日がお前の命日だ……」

 

「え、須藤君? 急に物騒なこと言ってどうしたんだい?」

 

 スタート台に既に並んでいる須藤は、同じく待機している平田に対してよく分からない宣言をしていた。

 理由を知らない平田は須藤がいきなりそんなことを言ってきたことに困惑している。

 

「そして高円寺ィ、余裕こいてられんのも今のうちだ。俺がその鼻へし折ってやらぁ!」

 

「おやおや、随分と威勢のいいボーイがいたものだ」

 

 須藤は今度は高円寺に対して宣戦布告をした。

 しかし高円寺は全く意に介していない。

 須藤の独り相撲状態である。

 そんな彼を見かねてか柚椰が声をかけた。

 

「まぁまぁ、そんなピリピリしないで気楽にやろうよ」

 

「テメェもだ黛ィ! 池に言われただろうが、平田をぶっ潰せってよぉ!」

 

 声をかけられたことで須藤は今度は柚椰へ矛先を向けた。

 横で聞いていた平田は、まさかそんな指示があったとは知らず驚いている。

 

「それは君だけでやれるだろう? 俺は俺なりにやるだけさ」

 

 須藤の怒号とも取れる声に柚椰はそう言ってカラカラと笑う。

 各々の思想が交差する中、いよいよその決戦の火蓋が切られた。

 

 

 

 

 

 

 

「え……!?」

 

「うそ……」

 

「マジかよ……」

 

 数分後、プールサイドは驚愕に包まれていた。

 各レースの上位が集まっていることもあり、決勝は見ごたえのあるものであった。

 須藤は先ほどよりギアを上げ、さらに早い速度で泳いでいた。

 平田もまた、スポーツマンとしてのプライドから本気で泳いでいた。

 そして高円寺。

 彼もまた、先ほど同様綺麗なフォームでスピードを上げていた。

 しかし彼は先ほどとは違い、本気で泳いだ。

 本気を出すことに一切躊躇いが無かった。

 先のタイムを考えれば、彼は別段本気にならずとも一位を取ることは容易かったはずだ。

 にも関わらず彼は本気を出した。

 一体何故か? 

 それは、そうしなければ勝てないと踏んだからだ。

 

「22秒68……!?」

 

 男性教師が1位の生徒のタイムを呟いた。

 声は震えており、今日一番驚いていると誰もが分かるほどだ。

 そのタイムを叩き出した生徒は──

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……やっぱり久しぶりだと結構キツいものがあるね」

 

 黛柚椰だった。

 

 

 

 

 

 

 

「「うぉぉぉぉ!!」」

「「キャーー!!」」

 

 我に返った男子たちが興奮のあまり大きな歓声を上げた。

 女子たちもまた、予想外の男子が1位を取ったことに興奮していた。

 

「スゲェ! 黛の奴、平田どころか高円寺までぶち抜きやがった!」

 

「つーか最後の高円寺との一騎打ちヤバすぎだろ!」

 

 池と山内はレース終盤の様子を思い出して大騒ぎしている。

 他の男子たちも柚椰の大健闘に同じく驚いていた。

 

「凄い……黛君、ほんとに勝っちゃった……」

 

「えっ、櫛田さんそれどういうこと!?」

 

「黛君、勝利宣言して有言実行したってこと!? 何それかっこよすぎるよ!」

 

 思わずポソリと呟いた櫛田の発言を聞いた女子たちは一斉に彼女に群がる。

 そして事情を聞いた女子たちは、皆柚椰に対して熱い視線を送っていた。

 彼らの興奮を他所に、レースに参加していた生徒が全員プールから上がってきた。

 

「クソッ! 黛テメェ、さっきは手抜いてたってのかよ……!?」

 

 須藤はプールから上がるといの一番に柚椰に詰め寄った。

 自分より遅かったはずの柚椰が今回1位を取ったことから、先のレースで手加減をしたのではないかと憤っているのだ。

 

「違うよ。さっきも勿論ちゃんとやっていたさ。ただ水泳は最近ご無沙汰だったからね。ちょっと鈍っていた分、遅くなっていたんだろう」

 

 柚椰は恐ろしい形相で迫る須藤に怯むことなくそう言った。

 

「凄いな黛君、スポーツ全般出来るって言ってたけどこれほどとは……」

 

「身体を動かすのは好きだからね。色々と手を出してるだけだよ。それに、流石にサッカーじゃ平田に敵わないだろう」

 

 平田は素直に柚椰を褒めていた。

 そして最後、一騎打ちで争った相手である高円寺が柚椰の前に立った。

 

「フフッ、まさかこの私が本気を出しても尚一歩及ばない相手がいるとは驚いた。久しぶりに心躍る勝負だったよ。だが、次は必ず私が勝つから覚悟しておきたまえ」

 

 そう言って高円寺は柚椰に右手を差し出した。

 柚椰はニコリと笑うと、自分も右手を出して彼の手を握った。

 

「あぁ、そのときはあっさり負けないように俺も頑張るよ」

 

 返しがお気に召したのか、高円寺は優雅に髪をかき上げ微笑んだ。

 

「フッ、随分とクールじゃないか。ますます気に入ったよ、柚椰ボーイ」

 

「柚椰ボーイ? なんだいそれは」

 

 あまりに変な呼び方に柚椰は思わず尋ねた。

 

「この私が好敵手と認めたのだ。親しみを込めてそう呼ばせてもらうよ」

 

「まぁ、変わったあだ名だけど、別に嫌ではないから好きに呼んでもらって構わないよ」

 

 高円寺が気に入っているのなら別段訂正させる必要はないと思ったのか、柚椰はすんなりその呼び方を了承した。

 

 

 こうしてDクラスの初めての水泳の授業は幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがきです。
黛君、高円寺に気に入られるの巻。

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