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吹き荒ぶ小口径砲弾のスコールの中を、〔吹雪〕含めた一水戦は突き進んでいた。
眼前に迫るのは、敵駆逐艦の群れ。そしてその奥に、傷ついた二隻の戦艦。雪村は、その両方を交互に睨みつけていた。
一水戦の目標は、最初から二隻の敵戦艦だ。元の作戦では、戦艦部隊が一隻を叩き、然る後に七戦隊の支援の下、一水戦が突入してもう一隻を撃沈する手筈であった。
が、現状は見ての通りである。
「目標、右舷三十度の敵駆逐艦!砲戦始め!」
雪村の隣で、吹雪が声を張り上げている。小さな体のどこから、それほどの迫力が出されているのか、いまだ雪村にはわからない。陸の上と、海の上、吹雪の印象はあまりにも違いすぎる。
艦娘は、艦艇の中で何らかの役職を付与されることがほとんどである。大抵は航海長か砲術長の補佐、あるいは応急修理の指揮を執る。
吹雪は少々特殊だ。呉所属時に短期とはいえ海大を経験した彼女は、各科の長になる資格を得て、〔吹雪〕砲術長の役職を担っている。一方、砲術長補佐の役職は、どういう訳か巡り巡って雪村のところへやって来た。
吹雪の指示通りに、主砲が旋回し、咆哮する。前甲板に一基、後甲板に二基が据えられた一二・七サンチ連装砲は、小太鼓を打ち鳴らすような砲声を発する。戦艦のそれには劣るかもしれないが、至近で耳にすると随分頼もしく感じられるものだ。
距離五千メートルもない敵駆逐艦に対して、〔吹雪〕の主砲は砲身をほぼ水平にして射撃を行っている。弾着までは十秒もない。さらに、小口径砲ゆえの発射速度も手伝って、まるで機関銃のように次々と水柱が乱立していた。
当然、敵駆逐艦も撃ち返してくる。こちらとほぼ同じ口径と思われる主砲を振り立て、一水戦の突撃を阻もうと砲弾を撃ち出す。スコールや雷雨を思わせる勢いで小口径砲弾が降り注ぎ、一水戦の周囲を沸き立たせた。正しく弾雨の中を、〔神通〕を先頭とした十三隻の単縦陣が駆け抜ける。
四度目の斉射で〔吹雪〕は敵艦を捉えた。射撃諸元の修正が終わったと判断し、吹雪は可能な限りの連続斉射を指示する。各砲塔では、力自慢の砲術科員たちが、揚弾された二十三・五キロの砲弾をリレーして装填していた。
一二・七サンチとはいえ、装甲に乏しい駆逐艦には十分な脅威だ。およそ六秒おきに発射する砲弾が、次第に敵艦の艤装を抉っていく。十三度目の斉射で、ついに敵艦は炎上し擱座した。
「〔神通〕より、『一水戦一斉回頭、針路一四五』」
丁度その時、旗艦〔神通〕から回頭の指示が飛んだ。吹雪が撃ち方待てを指示し、復唱した雪村は伝声管に取り付いて射撃指揮所へ指示を伝える。
「取舵一杯、針路一四五」
二千トンしかない〔吹雪〕の艦体は、素直に指示を聞き届ける。甲板を右舷へと大きく傾げながら、鋭い艦首が左へ左へと海面を切り裂いた。正面に見えていた十四駆〔陽炎〕の姿が右舷へと流れる。
一斉回頭は十秒ほどで終わった。
「目標、右舷正横の敵艦!準備でき次第、砲撃を再開!」
砲撃再開を告げる吹雪の号令が響いた。回頭に合わせて旋回していた主砲は、すぐさま射撃の準備を整え、指揮所の命令で発砲する。海面すれすれを這うように飛んでいく砲弾。弾着までは十秒もかからない。
敵駆逐艦と撃ち合っているのは、何も〔吹雪〕だけではない。一水戦の針路を阻むものを排除しようと、旗艦〔神通〕も、そして他の駆逐艦たちも、備えた主砲全てを振り立てていた。
加えて――
「敵駆逐艦周囲に弾着!七戦隊です!」
たった今、〔吹雪〕が射撃目標に定めた敵駆逐艦の周囲に、別の水柱が乱立する。一二・七サンチ砲弾のものよりも一回りほど大きい。
敵艦とは反対側、左舷側の窓に目を向ければ、海軍旗を掲げる巡洋艦の姿が見えた。敵巡洋艦と撃ち合っていた七戦隊のうち、すでに敵艦を撃沈破した二隻が、今度は敵駆逐艦に向けて主砲を振り立てている。前甲板に集中した特徴的な主砲配置から、〔利根〕型軽巡の〔利根〕、〔鈴鹿〕と判断できた。
(ありがたい……!)
駆逐艦と旧式軽巡の主砲では限界がある。その点〔利根〕型は、近年流行りの「重巡のような軽巡」だ。砲火力も、一五・五サンチ三連装砲四基十二門と、圧倒的である。敵駆逐艦を牽制する面の制圧力として、これほど適任の艦もない。
「〔神通〕より、『我に続け』」
一水戦司令部は、この機に乗じて一気に敵戦艦へ距離を詰める腹積もりらしい。
「砲術長、砲撃止め」
艦長の晴野みき少佐が下令する。吹雪が頷いて、雪村へと復唱した。伝声管に雪村は命令を吹き込む。
「砲撃止め!別命あるまで待機!」
小太鼓を打ち鳴らすような砲声が止んだ。一水戦は〔神通〕を先頭にして、脇目も振らず敵戦艦を目指す。
「見張り、敵戦艦までの距離は?」
「八〇(八千メートル)です!」
(これだけ粘って二千メートルか……!)
想像以上に遠い敵戦艦への距離にめまいがしそうになる。敵巡洋艦の防御網を突破して早十分以上。敵駆逐艦に応戦しつつ、逃走を図る敵戦艦へ肉薄するには、多くの時間が必要であった。
先程加わった〔利根〕〔鈴鹿〕の援護によって、敵駆逐艦を無視できるようになったとはいえ、魚雷戦を仕掛ける距離まではまだ三千メートル以上。二十八ノットを発揮して逃走する敵戦艦を追いかけるのは、骨が折れる。
一方、〔利根〕と〔鈴鹿〕は激しい弾雨を敵駆逐艦たちへ浴びせかけている。十二門の一五・五サンチ砲は巨砲とは言えないが、一撃で駆逐艦を砕くだけの破壊力を備えていた。
橙色の砲炎をおよそ十秒おきに吐き出す、二隻の軽巡。その姿をちらりとだけ見遣ってから、雪村は再度〔吹雪〕の艦首方向へ目を向けた。十四駆と〔神通〕の向こうには、黒煙を噴き上げる敵戦艦の姿。
その敵戦艦の艦上に、小さな炎が踊った。火災によるそれではない。明らかな砲炎だ。
数秒後、一水戦を取り囲むように水柱が上がった。小さな水塊の群れは、先程掻い潜って来たスコールに酷似している。すなわち、敵戦艦の副砲が、一水戦を近づけまいと砲撃を始めたのだ。
およそ六秒おきに立ち上る水柱。その合間を、一水戦は韋駄天となって駆け抜ける。
「……さすがは神通さんです。避ける気が全くない」
額に一筋汗を伝わせて、吹雪が呟いた。
一水戦旗艦〔神通〕の戦術は一貫している。水雷戦隊は一本の槍となり、真一文字に敵戦艦へと肉薄する。単純明快、損傷を恐れず、最短距離を突っ切るその戦術は、「逆さ落とし」の異名を取っていた。
今回も〔神通〕は、この逆さ落としを実施している。
「距離七〇(七千メートル)!」
小口径砲弾の弾雨を駆け抜けるうち、一水戦はさらに一千メートルの距離を詰めていた。いまだ被弾した艦はない。〔長門〕や〔扶桑〕と撃ち合ったことで、敵戦艦の射撃能力は多少なりと損害を受けている様子だ。
このまま無傷で肉薄できるかもしれない。雪村がそんな淡い希望を抱き始めた頃だ。
「〔雪風〕に至近弾!」
後続する十六駆の司令駆逐艦に敵弾が迫っていると、見張り員が叫んだ。
さらに十秒後、悪い報告が届けられる。
「〔雪風〕被弾!」
「〔陽炎〕にも至近弾です!」
新鋭駆逐艦が二隻、立て続けに危機に陥る。「ブリキ缶」と揶揄されるほど薄い駆逐艦の装甲は、最新鋭の〔陽炎〕型になろうと変わらない。装甲を犠牲にして、速度と魚雷に性能を振り分けたのが駆逐艦だ。
六秒おきに、両艦の艦体が抉られていく。後方の〔雪風〕を直接見ることはできないが、〔陽炎〕は〔吹雪〕の目と鼻の先だ。一発の被弾ごとに炎が上がり、艤装品の破片が舞い飛ぶ。リノリウムを炎がのたうち、後甲板二基の主砲塔を炙っていた。
ギリッと嫌な音がする。強く噛み締めた自分の奥歯が鳴っていた。同じように、隣の吹雪も、歯を鳴らしながら〔陽炎〕を見つめていた。
「〔雪風〕、速度低下!落伍していきます!」
後方で〔雪風〕が限界を迎えた。その報せが飛び込んできた、次の瞬間であった。
黒煙に包まれていた〔陽炎〕が、めくるめく炎の塊へと変貌した。黒煙の内側より爆ぜたのだ。火柱というにはあまりにも大きすぎる。爆発の衝撃が、数秒後に〔吹雪〕艦橋を揺らしたほどだ。と同時に、おどろおどろしい轟音が雪村の耳朶を打つ。
雪村は息を飲む。否、雪村だけではない。隣に立つ吹雪も、艦橋にいる誰も彼も、物音一つ立てずに〔陽炎〕を見つめている。
何が起こったかは明白であった。降り注いでいた敵弾の一発が、運悪く〔陽炎〕艦上の魚雷に直撃し、誘爆させたのだ。
炎が晴れても、〔陽炎〕の艦体は姿を現さない。天へと昇る黒雲の塊。熱せられた海水が蒸気となり、辺りに立ち込める。その只中に、かつて艦であったであろう鉄の塊が浮かぶばかりだ。
(陽炎……!)
明朗快活な少女の姿を思い出さずにはいられない。同じ一水戦所属として、〔吹雪〕乗組員とも交流が多く、顔見知りの同期も数知れない。あの有様では、二百人の乗員全て、逃げる暇さえなかったであろう。
「取舵一杯!〔陽炎〕の左舷を抜けろ!」
「取舵一杯!」
晴野の指示に、慌ただしく航海長が答える。そのやり取りで、ようやく艦橋に人の動きが戻った。呆然自失としている時間はない。今は前だけを見ろ。晴野はそう言っているかのようだった。
針路をわずかにずらした〔吹雪〕は、〔陽炎〕の左舷側を抜ける。丁度、〔陽炎〕の上げる黒煙が、敵戦艦から〔吹雪〕を隠す煙幕の役割を果たしていた。
すぐ近くに浮かぶ〔陽炎〕からは、むっとした熱気が伝わって来た。赤く染まった鋼鉄に海水が触れ、ジュウジュウと音を上げている。周辺の海面に浮かぶのは残骸ばかりで、人の姿はない。
目礼だけで〔陽炎〕の横を抜け、〔吹雪〕は再び一水戦の隊列に戻る。
「〔神通〕より、『右魚雷戦用意。投雷距離は五五(五千五百メートル)』」
六千メートルよりわずかに距離を詰めたところで魚雷を放つと、一水戦司令部は決断したのだ。本音は五千メートルまで距離を詰めたいところだろうが、二隻の駆逐艦が落後した今、そこまではもたないと判断したのか。
だが今は、その距離すらも遠く感じられる。
「大丈夫。大丈夫……ですよ」
ふと、隣の吹雪が呟くのが聞こえた。出撃前と同じく、自分自身へと言い聞かせるような声だ。ともすれば悲鳴を上げそうになる内心を、必死に押さえつけるような声だ。
敵戦艦の副砲弾が再度降り注ぐ。〔陽炎〕を仕留めた柱口径砲弾の雨は、今度は〔吹雪〕へと迫りつつあった。先程まで水柱が生じていた海面を、鋭い艦首が切り裂いていく。
「距離六〇(六千メートル)!」
見張り員が叫ぶ。投雷距離まではあとわずかに五百メートルだ。艦橋の誰もが拳を握り、自らの職務を果たしながらも祈り続ける。これ以上の被弾はしてくれるな、と。
艦首のすぐ先で水柱が生じ、〔吹雪〕は一瞬突き上げられた形になる。しかし、〔吹雪〕そのものの重量と、波を切るのに特化した艦首形状が、すぐに水柱を踏み砕いた。崩れた水塊が特大の雨粒となって、バタバタとリノリウムの甲板を打つ。生じた波が錨鎖管を逆流して、艦首甲板へと広がっていった。
「水雷長」
晴野の呼びかけに、水雷長が答える。
「一番から三番連管まで、魚雷戦用意よし。いつでも行けます」
「そうか。もうしばしの辛抱だぞ」
「はっ」
六千メートル先の敵戦艦を、改めて見つめる。目と鼻の先というには遠い気もするが、海の上ではすぐ手の届く距離に違いはない。事実、敵の副砲は一水戦を包み込んでいるし、撃とうと思えば〔吹雪〕の主砲も敵戦艦を捉えられる。軍艦同士の戦闘を剣士の決闘に例えるなら、ここはすでにお互いの懐奥深く、短刀を喉元へ突きつけることのできる距離だ。
一水戦は今、魚雷という名の短刀を、敵戦艦の喉元へ突き立てようとしている。
襲い掛かる短刀を振り払わんと、敵戦艦の副砲弾が振り下ろされる。すぐ近くに弾着したことは、足元からの振動と、艦橋右舷へ叩きつけられた海水でわかった。床に足をしかと踏ん張り、雪村は右舷を見遣る。艦橋のすぐ横には、敵弾のそれとわかる、硝煙を含んだ水柱が現出していた。
冷や汗ものだ。後十メートル、いや五メートルずれていたら、この艦橋に直撃していた。雪村含め、艦の首脳部が根こそぎ二階級特進になっていたかもしれない。
同時に、次こそは当たるという、一種の予感があった。
雪村の予感は現実のものとなる。次にやって来た敵弾の群れ、そのうちの一発が、〔吹雪〕の甲板に飛び込んできた。
二千トンしかない艦体を激しい揺れが襲う。両足だけでは足らず、艦橋のへ(・)り(・)にまで掴まって、雪村はなんとか揺れをやり過ごす。だが――
「きゃ……っ」
そうもいかなかった人間が一人。雪村は慌てて手を伸ばし、吹雪の体を片手で受け止めた。痛みを堪えるように眉間に皺を作る吹雪は、目線だけで礼を寄越す。
「被害個所は!?」
晴野の声に、数秒して返答がある。被弾箇所は前部煙突の脇。短艇(カッター)が一艇犠牲になったとのことだ。
(これ以上、被弾してくれるな……!)
投雷距離はすぐそこだ。どうかそこまでは。この魚雷を放つまでは、決して沈むわけにはいかない。
届け。届け。届け。
「……届け」
雪村の心を代弁するような声がする。
吹雪だ。どこかが痛むのか、顔をしかめたまま、彼女は歯を食いしばって前を睨む。その瞳に、一瞬太陽の色が映った気がした。
再び敵弾が降り注ぐ。連続する弾着の衝撃に揉みしだかれ、大海の枯葉の如く揺さぶられる〔吹雪〕。だが奇跡的に、被弾はゼロだった。先の〔陽炎〕のように、多数の中口径砲弾が〔吹雪〕の艦体を切り刻むことはない。
そしてその時がやって来る。
「距離五五(五千五百メートル)!」
「〔神通〕より、『投雷始め』!」
「投雷始め!」
見張り員と電信室からの報告に、晴野が号令で応える。そのまま、水雷長が各魚雷発射管へ投雷を下令した。連続した圧搾空気の音が響き、一番から三番までの各発射管から、魚雷が飛び出す。
「一番連管、発射完了」
「二番連管、発射完了」
「三番連管、発射完了」
全ての発射管から魚雷発射完了が報告された。程なく、同じ十一駆の〔漣〕、〔電〕、〔五月雨〕からも魚雷発射完了が報告された。これを受け、晴野は「十一駆、発射完了」を〔神通〕へと報告する。
すぐに〔神通〕から、一斉回頭の指示が飛んだ。
「取舵一杯、針路〇七〇!」
晴野の言葉を航海長が復唱し、総舵手が舵輪を回す。すぐに反時計回りの加速が生じて、〔吹雪〕は左へと艦首を振った。その鼻先を掠めるように、敵弾が弾着の水柱を上げる。あのまま直進していたら、降り注ぐ砲弾の只中に頭を突っ込んでいたことだろう。
次第に距離を取っていく〔吹雪〕たちへ、最早敵戦艦も砲弾を浴びせてくることはなかった。
「あの、魚雷はどうなってますか?」
額の汗を拭う仕草を見せ、吹雪が尋ねる。双眼鏡は持ち合わせていないので、雪村は可能な限り目を凝らした。
波の間に、海面を走る水泡の道筋を見つける。魚雷が無事に航走している証拠だ。
「問題なく航走しています」
「そうですか」
吹雪が胸を撫で下ろした。
「水雷長、予想到達時間は?」
転針の完了を確認して、晴野が水雷長へ呼びかけた。水雷長は手元のストップウォッチを見る。
「到達まで三分半です」
(三分半か……)
ざっと簡単な計算式を頭で組み立てる。
〔吹雪〕より放たれた九〇式魚雷の速度はおよそ五十ノット。一水戦には、他に最新型の九三式魚雷を搭載するものもあるが、こちらも速度はほとんど変わらない。この魚雷を距離五千五百メートルで放っている。大まかでしかないが、敵の未来位置の航走距離は六千メートル弱。この距離を五十ノットの魚雷が走破するには、四分弱の時間がかかる。
魚雷発射からすでに三十秒以上。それでもなお、命中には三分強の時間が残されている。魚雷は艦砲に比べると、命中までの時間が極めて長い。
当然、その間に回避運動を取ることもできる。
(現状でその可能性は低いと思うが……)
楽観的な自分の意見に内心で顔をしかめる。
今、敵戦艦は二つの部隊に追われている。すなわち、先程まで撃ち合っていた一、二戦隊と、たった今魚雷を放った一水戦だ。
速力差によって射撃の機会を失っているとはいえ、いまだ一、二戦隊の主力戦艦たち、中でも一戦隊の〔長門〕型戦艦二隻は、最大戦速でぴたりと敵戦艦に付けている。
もしも、魚雷を回避しようとして舵を切り、速力を落とせば、再度四一サンチ砲の射界に捉えられることとなる。
一度撤退を選んだ敵戦艦が、その方針を変えるとは思えなかった。
それから、理由はもう一つ。敵戦艦は、こちらの魚雷の数を、
雪村の想像通り、敵戦艦に魚雷を回避する素振りはなかった。やや黒煙が落ち着き始めた二隻の巨艦は、最大戦速と針路を維持し、戦場からの退避を続けている。その他の中小艦艇にしても同様だ。先程まで七戦隊を撃ち合っていた巡洋艦や駆逐艦たちも、這う這うの体で退避行動に入っている。当然、それを追って七戦隊も動き出した。
追撃戦の様相を見せ始めた戦場で、魚雷を撃ち尽くした一水戦のみが戦場より距離を取っているのは、いささか不可思議な気分がする。
「あと三十秒です!」
被弾箇所の応急手当が行われる中、水雷長が緊張の面持ちで残り時間を読み上げた。
見張り員だけでなく、艦橋の誰もが二隻の敵戦艦へ意識を向ける。
二水戦は、落伍した〔陽炎〕と〔雪風〕以外の十一隻が投雷に成功していた。投雷数は、全て正常に作動していれば、百二十四本を数える。
だが、おそらく、敵戦艦からはその半数が
発射管の構造の関係から〔吹雪〕には搭載できなかったが、〔白露〕型以降の新鋭駆逐艦には、九三式魚雷が搭載されている。この魚雷は、威力の向上もさることながら、燃焼剤に純酸素を用いることで、長大な射程を手に入れていた。さらに、純酸素使用の副産物として、航跡がほとんど残らないようになっている。たとえ日中でも、目視は不可能だ。
配備艦の半数が九三式魚雷を運用できる一水戦では、それ故に半数の魚雷を目視できない。
「じかーん!」
水雷長が声を張り上げた。魚雷が敵戦艦へ到達する時間だ。
すぐには何も起こらない。艦橋の窓からは、相も変わらず、二十八ノットで驀進する敵戦艦が見えるばかりだ。その舷側に、魚雷命中の水柱は上がらない。
じとりと汗が伝う。焦れるような時間が続く。
魚雷の命中率は、お世辞にも高いとは言えない。平時の演習でも、よくて十パーセント、平均すれば数パーセントもない。百本超の魚雷を放っても、一本も当たらないという状況は考えられる。
外したか。誰もが唇を噛み締めた、その時だった。
敵二番艦の舷側に、突如として巨大な水柱が立ち上った。戦艦の主砲弾よりも遥かに巨大だ。敵二番艦の艦橋の二倍はあろうかという高さまで、その先端は達している。海神の腕が、敵二番艦にアッパーカットをお見舞いしたようにも見える。
巨大な排水量を持つ敵戦艦が、魚雷炸裂の衝撃で震えていた。
命中弾はその一発だけではない。今度は立て続けに二発、艦首付近に命中する。名状し難いほどの水塊が持ち上げられ、敵戦艦の姿を隠す。
敵一番艦にも魚雷が命中した。左舷中央付近に一発、天をも突かんバベルの塔がそそり立つ。
五発目の命中弾は、再び敵二番艦であった。艦尾付近で炸裂した魚雷の衝撃で、敵戦艦の巨体がわずかに浮く。見えざる何かに躓いたように、敵戦艦がつんのめった。
六発目以降の命中弾はなかった。最終的な一水戦の戦果は、敵一番艦に一発、敵二番艦に四発。
「敵二番艦、速力低下!左舷へ傾斜しています!」
四発を受けた敵二番艦は、すでに瀕死の状態であった。それもそのはずだ。日本海軍の魚雷は、列強でも最強の破壊力を持つ。口径は六一サンチと、欧米の多くが採用している五三・三サンチより一回り大きく、その分炸薬量も多い。その一発は、海上の鎧武者たる戦艦であろうと、致命傷になりえた。
敵二番艦の運命は、最早決したと言っていい。
一方、被雷が一発だけであった敵一番艦は、しぶとく生き残っていた。水中防御の厚い箇所に当たったのか、速力に衰えは見られない。他の残存艦を付き従えて、ひたすらに第一艦隊から距離を取っている。
(〔神通〕はもう一撃を加えるだろうか?)
ちらと、実現性の低い可能性が、雪村の頭をよぎった。一水戦のうち、〔白露〕型以降の駆逐艦六隻には、魚雷の次発装填装置がある。これを使えば、短時間で発射管に再度魚雷を装填可能だ。残った敵戦艦一番艦にトドメを刺すべく、一水戦司令部が再突入を決断することは考えられたが――
「〔長門〕より、『追撃止め。逐次集まれ』」
雪村の考えは、電信室からの報告で中断された。〔長門〕座上の第一艦隊司令部は、追いつけないと判断して、追撃を断念したのだろう。これが実質的に、戦闘終了の合図であることは理解できた。
先頭の〔神通〕からは、すぐに速力を緩める指示が飛んできた。機関の回転数が落とされ、艦の轟音が鎮まっていくのに合わせ、艦橋の空気も弛緩する。
雪村もまた、軍帽を一度取り、額に溜まった汗を拭った。じっとりとした髪を手櫛で整え、再度帽子の下に仕舞い込む。その手はといえば、戦闘中握りしめていたために、汗でべたべたであった。
「なんとか……なった、でしょうか」
どこかぼぅっとした様子で、吹雪が呟いた。一つの戦闘を戦い切ったという実感に乏しいらしい。
(
両の手を握ったり、開いたりして、感覚を確かめる。ありとあらゆる感情が、どこかで堰き止められているような、そんな感覚だ。気持ちが悪くなるほど、心の内からは何も出てこない。一つの感想も浮かんでこない。
「油断をするなよ。帰るまでが、戦闘だ」
真面目腐ってはいるが、口角を吊り上げながら言った晴野の言葉に、艦橋が小さな笑いで満たされた。彼女の言う通りだ。再度気持ちを引き締めなおそうと、雪村は頬を張る。
その様子を、隣の吹雪が微かに笑って見つめていた。
5
一二月二〇日。東京。
「艦娘艦隊大勝利!小笠原沖に敵艦隊を撃滅せり」
新聞に大々的に踊る題字を、来客者は愉快そうに眺めていた。一通り文面を読んだ彼女は丁寧に新聞を折りたたみ、机の上へ置く。それから微笑を湛えて、島田の方を向いた。
「おめでとうございます、島田大将」
連合艦隊の勝利を寿ぐ言葉にも、島田は素直に喜ぶ気分にはなれない。
確かに連合艦隊は、小笠原へ来寇し、東京を目指した敵艦隊を撃退することに成功した。だが結果を見れば、ただ本土への直接攻撃を防げたに過ぎない。
「……トラックを攻撃された以上、そう手放しで喜ぶことはできませんよ」
率直な感想を漏らしても、御子は首を傾げるばかりであった。
第一艦隊が小笠原沖で敵艦隊を撃滅したのとほぼ同時に、トラック環礁も攻撃を受けたと報告があった。トラック環礁は、日本が太平洋上に獲得した委任統治領であり、海軍の大規模な泊地が整備されていた。現地に移住した日本人も多い。
さらについ先ほど、今度は米国が統治するフィリピンに敵襲があったと報告があった。
小笠原への一撃は、ほんの一部でしかない。深海棲艦は断続的に、太平洋の要所を攻撃して回っている。今の連合艦隊に、これを防ぐ手立てはない。
「最初は小さな一歩なのです。何事も最初から完璧は求められません」
はたと、島田は御子を見る。今のは、励ましてくれたのだろうか。
金色の瞳は何も語らない。
「あなた方は戦うことを選んだ。そして彼女たちは、そんなあなた方を選んだ。それで十分なのですよ」
いつもの調子で意味深なことを言い、御子は煎茶で唇を湿らせる。島田も目の前の湯飲みに手を伸ばしかけた。が、さして乾いていない喉に思い至り、溜め息を飲み込んで手を引き戻す。
「そうです、島田大将。実は一つ、お願いがあるのですが」
湯飲みを置くと、御子は穏やかに切り出した。島田は頷いて、先を促す。
「〔尾張〕に、私の部屋を用意してはいただけませんか」
島田の中で「オワリ」の三文字が連合艦隊旗艦のことだと理解するのに、数秒を擁した。と同時に、別の衝撃が襲い来る。
「〔尾張〕にですか!?」
何か問題でもありますか、と純粋な顔で首を傾げる御子。
もちろん、部屋を用意することは可能だ。海軍の司令部系統に属さない御子であるから、島田から五十嵐辺りに一言断るだけでいい。だが、ことはそんなに簡単な話ではないのだ。
御子は、日本にとって最も重要な人物だ。そんな彼女が、連合艦隊という実戦部隊の旗艦に乗り込むとは、いかがなものか。彼女の身を保護する宮内省も、当然内閣や海軍省も承認はするまい。
「……理由をお聞かせ願えますか」
「理由というほどでは。より近くで、彼女たちの戦いを、見届けたいだけです」
御子は薄く微笑んで、もう一口湯飲みに口づけた。中身はすでに、ほとんど空だったようだ。副官が勧めたおかわりを、御子は首を振って断っていた。
「もちろん、無理にとは言いません。少々検討していただけると、ありがたいです」
それを言い置いて、御子は立ち上がる。今回の要件はそれで終わりだったらしい。相変わらず、気ままに現れて、気ままに立ち去る、神の化身だ。
「お話はまた、宮内省の方から正式にさせていただきます」
「……わかりました。できる限りの対応を致します、としか言いようはありませんが」
「ええ、それで結構です」
ころころと笑った御子は、一礼して部屋を出て行った。