深海棲艦(1)
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一二月三一日。真珠湾。
「お目覚めですかな、陛下」
玉座に向かう廊下にて、男はそんな風に呼びかけてきた。
聞きなれない呼び方に対して律儀に首を傾げ、彼女は問いかける。
「ええ、おはようマサキ。――なに、その呼び方は?」
「いえ、貴女のことをどう呼ぼうかと悩んでいたのですが。どうも人間界では、貴女のような方を、陛下と呼ぶらしいので」
男――マサキは半分笑いながら、真面目腐って答える。正直、呼び方など些事であるが、それを咎める必要もない。彼女は軽く笑って頷く。
それほど長くない廊下を抜ければ、広い空間に出た。一面の白。壁や床、柱の境目が最低限わかる、純白の空間。その中央に位置する階段の頂点が、彼女の玉座だ。
「それで、用件は何でしょう。あなたがあの部屋から出てくるなんて珍しい」
「そんなことはありませんよ。私にだって興味も関心もある。宮殿ができたら寿ぎに来ますし、たまには貴女の顔を見たいとも思う。海の風に当たるのも悪くはない」
清々しいほどに言ってのけるマサキには、もはや苦笑しても仕方のないことだ。義務への責任と、興味への執着。それを上手く切り替えられる彼の方が、余程神らしい。
マサキを話し相手に選んだのは正解だった。
「丁度いい。ついでに、お使いを頼まれてはくれませんか」
「ええ、もちろん。なんなりと」
恭しく一礼などして見せるマサキに、彼女は一枚の紙片を渡す。中身は手紙だ。宛先も決まっている。
「これを、届けてほしいのです」
「なんですか、これは?」
紙片の内容をためつすがめつしてから、マサキが尋ねる。
「宣戦布告、というものだそうよ。近頃は、戦争をするのにも、公式な外交文書が必要みたい」
「ははあ、何やらややこしいことになっているのですね。わざわざこのようなことが必要ですか?」
「ええ、必要です。それが
そういうものですか、とマサキはさして興味もなさそうに相槌を打つ。
「宣戦布告については理解いたしました。しかし――日本はともかく、アメリカとイギリスが入っているのは、どういう理由なのです?わざわざこの両国と、ことを構える必要はないのでは?」
もっともな疑問をマサキは呈する。
先の襲撃で、彼女の艦隊に対抗可能な存在が、日本にしか存在しないことは確認された。当面、彼女たちの障害となるのは、十握剣を携えた戦乙女たち――日本において艦娘と呼称された者たちだけだ。
わざわざ、それ以外の国と喧嘩をする必要はないのでは、というのがマサキの主張だ。
彼女は首を振って否定する。
「これも必要なことです。――私たちが間借りしているこの地がアメリカ領であった以上、かの国に宣戦布告するのは最低限の礼儀ですよ。イギリスも同じくです。私たちは日本の息の根を止めるために、シンガポールの周辺海域を封鎖したのですから」
「礼儀、ですか。何だか妙な心地ですね。我々は戦争を仕掛けようというのに」
その一言を最後に、マサキは一礼して立ち去っていく。紙片を胸ポケットに仕舞いこんだ彼は、最後に広間の入り口からこちらを振り向いた。
「そういえば、我々のことは、なんと名乗ればいいのでしょう」
ああそういえば、失念していた。普段名乗る必要などない身だ。電文という形とはいえ、手紙を出すのは彼女も数万年ぶりだ。宛名には思い至っても、自らの署名のことはすっかり忘れていた。
「なるほど――そうですね、では『深海棲艦』と名乗りなさい。それで、
「では、そのように」
そう言って、マサキは今度こそ広間から立ち去った。純白の神殿に残された彼女は、特に感慨もなく、玉座への階段を上っていく。
古来より、神とは頂きにいるものだ。そして、人の王は、卑しくも神に近づこうと、高い玉座を築く。玉座とは神への冒涜に他ならない。
神たる彼女が、玉座という人の王に収まる矛盾。だがそれも致し方ないことと、彼女は受け入れている。
初めから決まっている。人に神の理を求めるのはナンセンスだ。神でありながら、人の上に君臨することを求められた者は、それを弁えなければならない。
ゆえに彼女は、玉座に収まる。人と対峙するものとして。あるいは――災厄の王として。
「さて、私への拝謁を許されるかしら」
彼女――深海棲艦の女王は、冷たく、そして穏やかに笑った。
彼女の身が玉座に収まった時、ついに全てが動き出した。
サンプルとしての公開はここまでとなります。
こちらの作品は12月29日(日)N-29b「MASA」にて頒布いたします。ぜひ、お越しください。