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昭和六年(一九三一年)七月某日。横須賀市街。
横須賀鎮守府のすぐ近くに、「ゆき」という和菓子屋があった。干菓子や練り物といった、お茶の席で使う菓子はもちろんのこと、隣の喫茶店内では、餡蜜やぜんざいといった物も扱っている。寡黙な店主と、器量の良い女将、穏やかなご隠居が切り盛りする、繁盛店だ。
鎮守府が近いこともあり、日曜日や半舷上陸の日になると、甘い物好きな士官や水兵も多数訪れた。中には、ご隠居が店主であった頃から通いつめているという将官もいる。噂が噂を呼ぶ軍隊の中で、「ゆき」の名前を知らない者はいなかった。
雪村きよし少年は、和菓子屋「ゆき」の次男坊である。歳は十四。学校へ通う傍ら、休日は兄や姉二人と共に店の手伝いをしている。妹もいたが、こちらはまだ小さいので手伝いは免除だ。
家の後を継ぐことが決まっている兄は、奥の調理場で店主――父の指導を受けている。きよしの仕事は、もっぱら姉と共に、給仕や勘定だ。そうした手伝いをこなしつつ、店にやって来る海軍さんの話を聞くのが、彼の楽しみだった。顔馴染みが多いこともあって、やれ訓練だの、遠洋航海だの、実に愉快な話をたくさん聞くことができる。が、あまり話に熱中しすぎると、姉からお盆が飛んでくるので、そこは見極めなければならなかった。
今日も今日とて、きよしは水兵たちに餡蜜やぜんざいを運び、軍艦の話を聞いている。
餡子の絡んだ白玉をおいしそうに頬張る一曹が、こんな話を聞かせてくれた。
「きよしくん、艦娘って聞いたことあるかい?」
きよしは頷く。一年くらい前、新聞で読んだことがあった。なんでも、軍艦の魂が少女の姿形を獲得して、人間の前に現れたらしい、と。あれから一年間で、合計五人の艦娘が現れたそうだ。
艦娘の正体はいまだはっきりしていないが、その目的だけは明確にされている。御子と名乗る神の使いが予言したという、世界に迫る危機に対抗できる存在、それが艦娘だ。
「僕が乗ってるのは、その艦娘搭乗艦なんだ」
「本当ですか!?」
店の中だというのに、思わず大きい声が出てしまった。慌てて口を噤むがもう遅い。恐る恐る厨房を窺うと、この世のものとは思えないほど可憐な笑顔を、下の姉が向けていた。が、その笑顔の意味するところを理解できるのは、この家の人間だけだ。お盆を指さすあの笑顔は、間違いなく「次は当てる」の意味だ。
無言のままこくこくと頷いて、きよしは水兵に向き直る。艦娘といえば、巷の少年少女が今最も興味のある事柄だ。海軍はその存在を公にしているのに、艦娘に関する具体的なことは何一つ語らない。
「〔吹雪〕!?それとも〔漣〕!?艦娘ってどんな見た目なんですか!?」
声のトーンを落として水兵に質問する。興奮を押さえろというのが無理な相談だ。この件だけは何としても話を聞いてみたい。
「艦は秘密。艦娘は、そうだなあ――丁度、向こうの娘さんくらいの、」
そこまで言った時、水兵の動きが固まった。不審に思って、きよしも水兵の目線の先を振り返る。
店の入り口に、女学生と思しき集団が立っていた。五人で来ているらしく、席の空き具合を上の姉に尋ねていた。大きめの机が開いていたので姉がお品書きを持ち、少女たちを案内する。
そのうちの一人、セーラー服を着て、髪を一つに結んだ少女が、こちらに――きよしたちのいる机に、軽く会釈をした。
「ふ、吹雪大尉!?」
すぐ近くで聞こえた野太い声に、耳の奥がキーンとした。水兵が慌てた顔で、先程の少女たちを見ている。
内心首を傾げながら、きよしはもう一度少女たちの方を見る。
見たことのないデザインのセーラー服だ。少なくともこの辺りの学生ではない。見たところ、年齢はきよしとあまり変わらない。十五、六歳くらいだろうか。全員揃って別嬪さんという以外、どこにでもいる仲のいい女学生たちだった。ただ不思議と、何か惹きつけられるものを感じる。それはオーラと言っていいかもしれない。
吹雪大尉と呼ばれた先程の少女が、眉を下げて笑いかける。
「見つかっちゃいました」
「ま、舞原大尉はどうされたのですか?」
水兵の問いかけに、吹雪は気まずそうに目を逸らした。他の少女たちも同じだ。にわかに椅子から腰を上げた水兵が、声をわななかせて尋ねる。
「まさか、黙って出て来たんですか……?」
「……お忍びですよ?」
何が違うのだろうと、きよしは訝しんだ。
いよいよ、水兵は頭を抱えだす。
「……ここで吹雪大尉を見たことは忘れます」
「あはは……お願いします」
溜め息交じりに水兵が着席したところで、きよしのタイムリミットが来た。姉に呼ばれて、きよしは厨房へ戻る。しかしどうしても、少女たちが気になって仕方がなかった。
何となく推察はできているのだ。おそらく、今姉がアイスクリーム付きの餡蜜を運んで行った少女たちが、噂に出ていた艦娘だろう。昇進が遅い女性士官の中で、あれだけ若いのに大尉の階級を持っているとなると、艦娘以外に考えられなかった。
お忍びと言っているところを見ると、お付きの士官には内緒で来ているんだろう。淑やかで落ち着いた雰囲気とは反対に、案外やんちゃな気質なのかもしれない。
改めて、五人の少女たちを見遣る。出された餡蜜を、少女たちは夢中になって頬ばっていた。水兵たちの心配をよそに、それはそれは幸せそうにスプーンを動かす彼女たちに、苦笑すら湧いてくる。何ともはや、のん気なものだ。
ふと、そのうちの一人、吹雪と目が合った。スプーンで餡子と寒天を口へ運んでいた少女は、ぱちくりと瞬きをする。それから、朗らかに笑みを浮かべて、軽く会釈してきた。パッと咲いた花が、風に揺られて頭を垂れたような、実に自然で様になっている礼だった。家が客商売をしている関係上、その美しさはよくわかる。
染みついた癖として、会釈を返す。吹雪は益々笑みを深めて、再び餡蜜を食べるのに集中し始めた。
「ごちそうさまです。また来ます!」
帰り際にそう言って、笑顔で手を振ってくれた少女たちの姿は、きよしの記憶に深く刻まれることとなった。
その日以降、少女たち――艦娘が、ちょくちょく「ゆき」を訪れるようになった。特によく来てくれたのは、きよしが真っ先に名前を覚えた、吹雪だった。一人で来たり、あるいは他の艦娘を連れたりと、何だかんだで一週間に一回は必ず店に顔を出した。
商売人の息子であるから、客の顔を覚えるのに苦労はない。それが、あの噂の艦娘となればなおさらだ。きよし含めて雪村一家は一発で吹雪の顔を覚えたし、吹雪も通っているうちにこちらの名前と顔を覚えてくれた。特に、店に出て給仕や勘定をしている、きよしと姉二人のことは、いの一番に記憶してくれた。
「吹雪さん、こんなに頻繁に来ていいんですか?お付きの士官さんに怒られるんじゃ……」
今日は一人でやってきていた吹雪に、
「大丈夫です。お土産はちゃんと持って行ってますから」
「いつも買ってる、餡蜜セットですか?」
最近、一番上の兄が開発した商品だ。寒天や餡子、黒蜜を別々の竹筒に詰めることで、持ち帰りができるようにしたものだった。店で食べる味には劣るが、好評を博している商品で、用意した一日分はいつも完売している。
吹雪は、「ゆき」に来る度、この餡蜜セットを買って帰っていたのだ。てっきり、来ることができなかった艦娘に渡していると思っていたが、まさかお付きの士官に渡っていたとは。
「……餡蜜セットを袖の下に、無断外出を許してもらってるんですか?」
「む、無断外出じゃないですよ!?ただちょっと、自由にさせてもらってるだけです」
頬を膨らませながら抗議の意思を示す吹雪に、きよしは無言で返す。お付きの士官の苦労が窺われた。
「そういえば、きよしくん」
最中をおいしそうに齧っていた吹雪が、きよしを呼んだ。売上金の確認をしていたきよしは、手を動かしたまま吹雪の方を窺う。もうすぐ暖簾を外す時間の店内には、吹雪が残るのみであった。
「なんですか?」
「きよしくんは、学校を卒業したら、どうするんですか?」
正直なところ、どきりとした。吹雪は、よくきよしの近況を尋ねてくる。学校の様子はどうとか、〔三笠〕の見学はどうとか、休日は何をしているだとか、本当に他愛のないことばかりだった。けれど今回の質問は、何だか雰囲気が違ったのだ。
自分がこれからどうするのか。何となく決めていることはある。それとなく、調べたり話を聞いたりはしていた。
「海軍に入ろうと思ってます。だから、海軍兵学校を、受験しますよ」
店は兄が継ぐことが決まっているし、次男である自分がこの家にいる理由はない。男子たるもの、自分の家を持って初めて一人前だ。一国一城の主になるには、何にせよ稼ぎが無くてはならない。幸い学はそれなりにあったから、選択肢は広くあった。
海軍を選んだことに、特に深い理由はない。普段から関わりが多かったのが、海軍だったというだけだ。海も船もそれなりに好きであるし、自分の中で違和感もない。
……もっとも、何か一つ、大きな理由を取り上げるとすれば、それは吹雪の存在になるだろう。世界の危機に立ち向かうという艦娘と、こんなにも近くで接することになった経験が、きよしに海軍への道を決心させた。
「そう、ですか」
餡蜜の器を空にした吹雪が立ち上がり、お勘定のためにきよしの方へとやって来る。いつも通り、釣銭なしのぴったりなお金を、吹雪は用意していた。加えて、きよしはお土産用だという餡蜜セットを準備する。吹雪のために取り置きしておいたものだ。
「わたし、横須賀から移動になるんです」
袋を受け取りながら、吹雪はさらりと言った。きよしは目を見開く。
別段珍しいことではない。艦艇の所属が異動になることなんてしょっちゅうだ。
「呉に、艦娘搭乗艦を集めた部隊が新設されるんです」
顔を上げた吹雪は、夕陽の中で寂しげに笑う。睫毛に反射するオレンジに、不覚にもドキリとしてしまった。
「今までお世話になりました。皆さんにもよろしく伝えてください」
「……こちらこそ。ご贔屓にしていただいて、ありがとうございました」
吹雪はもう一度笑って、彼女の艦へ帰っていく。店の片づけそっちのけで、きよしは彼女の背中を見つめていた。その背中が見えなくなったところで、彼は改めて頭を下げ、暖簾を店内へと仕舞い込んだ。
横須賀の街には、ゆっくりと夜の気配が広がっていった。