ぴー、ぴー、ぴー…………。
早朝の暗い室内に鋭く微かに時計のピープ音が鳴るのを聞いて、僕の一日は始まる。
ピッ。
止めてみれば、午前五時。意味もなく早起きをしている…………たぶん。
まず、身体を起こすことなく背筋を意識して肩を後ろに反らしてアーチ状にしてほぐす。続いて首を左右に回して捻る。その時、目線も捻る方向の限りなく先へ向けようとすることで眼筋もほぐす。あ~気持ちがいい。そして、手足、腰、骨盤関節を、上体と下半身を意識して緊張させることによりほぐす。あ~これがいいんだ、これが。
それから暫し、ぼお……とする。その間に今日は……と予定をリストしていく。これすると、頭が気持ちいいんだよね。やってごらん………オイオイ、誰に喋っとんねん。
それから、せーの。
「あ・い・う・え・お・い・う・え・お・あ・う・え・お・あ・い・え・お・あ・い・う・お・あ・い・う・え」
「あ・い・う・え・お・い・う・え・お・あ・う・え・お・あ・い・え・お・あ・い・う・お・あ・い・う・え」
「あ・い・う・え・お・い・う・え・お・あ・う・え・お・あ・い・え・お・あ・い・う・お・あ・い・う・え」
「あ・い・う・え・お・い・う・え・お・あ・う・え・お・あ・い・え・お・あ・い・う・お・あ・い・う・え」
自分の喉から相手を想定して出力されたモノトーンの群れが空間を満たす。簡単な規則性があるだけの声が部屋の雰囲気そのものになる瞬間は、この同じ単調な日課を何度繰り返しても新鮮に感じる。
ただの発声トレーニングだけど。計四セット、これが気持ちいいのよ。
さて、(一階に)降りようか……居間に。
階段を降りると、居間の方からフライパンでものを炒める音が聞こえてくる。入ると、台所に、適度な長さの黒髪を一つに結った家人の後ろ姿が見えた。僕はとりあえず、朝の挨拶をした。
「おはようございます。ミサキさん」
西木 巳咲。今ではあまり見ない割烹着を着て食卓に立つ彼女は、僕の『保護者』である。当時(おそらく)歳若く未婚であるにも関わらず、僕を孤児施設から引き取ったという、僕には奇特に思える里親であった。家事とパート業を両立し、何と言っても生を受けて十五年も経ち、自立の時が近づきつつあるこの「バカ息子」との時間を大事にするという彼女は、本当に理想を絵に描いたような親である。
それに彼女は非常に綺麗な顔立ちをしている。僕と十五年を過ごしてきているにも関わらず、それはもう、依然として若々しい外見をしていた。その容姿は、中学の頃に保護者参観で学校に訪れると、日頃は僕と面識のない生徒でさえ関心をもったほどである。
彼女は綺麗だ…………だから見ていて切なくなる。
僕の生前における経験では、彼女のように綺麗な女性ほど結婚が早く、従って関心を抱いたところで間もなく嫁に行く。そして、しがらみや絶対に狭めることのできない距離が生じる。それは実質的には「他界」したも同然である。それにきっと、自分はその時、彼女の負担でしかなくなってしまっている。
だから僕は当初のところ、情が移らないように適度な距離をおいて接することにしていた。
そんな僕の思惑に気づいていたのか、そもそも端から関係がなかったのかは今でもわからない。ただ一つ一緒にいて窺えたことには、彼女は本気で自分を心から愛そうと努め、大事に育てるつもりでいたらしい。
彼女はどんなときでも僕の心の揺らぎを見逃さない。
僕の日頃の表情や行動の微々たる変化から感情の機微を感じると、蟷螂のように頭を両側から抑え、至近距離からじーと、『黄金色の瞳』で見つめながら、どうかしたの、何か言いたいことがあるの、言いなさい、と問いただすんだよね~。そして、満足のいく情報を聞き出せるまで半刻だろうと反日だろうとそのことになると矢鱈粘り強さを発揮するから、こちらが白状するしかないわけなんだよ。
まあ、その際に古き良き笑の文化の産物とも言える「ストーンフェイス」で感情を抑制して話すので「可愛くないわね」と眉を顰められるのだが。
彼女は、七五三の時に伝で服を揃え、カメラに詳しい友人をわざわざ読んでまで、記念写真を撮ったことがあった。
新しい服を買うごとに写真に着た姿を収めていた時期もあったっけ。
小学校の運動会の時も、同じ友人がアダッシュケースに入れた機材をゴツい車に乗せて駆けつけた時には、苦笑いしたものだ。
もちろんアルバム写真は誕生日はもちろんほぼ全ての行事事件を網羅していると言っていい。
あと、最近知ったが、アルバムのフォルダに「パジャマシリーズ」なるものがあるらしい。もう、空いた口が塞がらなかった。
「おはよう。もうすぐできるわ。そこに座って」
まあ、何と奥ゆかしい言葉遣い。
そうか、君と僕は赤の他人だったっけ? 言葉遣いもそりゃ丁寧になるね。
どーでもい~けどさ。
それにしても、今ではその話し方はほぼ絶滅危惧なものと思っていたよ。
案外、チカクニイルモノネエ。
「オウムの鳴き真似してる暇があったら箸入れ出しなさい」
「はい」
こうして、西木家の食卓は今日も始まる。
日々の食事の献立を考えている巳咲さんは高度な専門職に務めているわけでもないから、贅沢をしようにも限りのある家計であるが、その分、彼女の時間にゆとりがあるので、原材料が安くてもさまになった食事が惣菜ほぼなしで食べられる。本人曰く、美味しい食べ物を求めて、日本中を行脚していたこともその肥やしになっているのだとか。
ご飯に味噌汁、焼きシシャモ二つに卵焼き。小鉢入りのサラダ。たまに豆腐。
洋風の時もある。最近は食パンにこだわっているようだ。
巳咲・お手製。朝食(小)定食。
本人の願いで軽めに作られている。
卵焼きは塩で味付けされていてシンプル。
焼きシシャモはほんの少し付いた焦げ色が、食欲の他に家庭へのノスタルジーを誘う。
味噌汁は辛すぎもせず、甘すぎもせずな出汁加減が馴染みの友人みたいで居心地の良い。
割合からして、大盛りの白米がメインという、やや素朴で昔風な見た目が特徴。
漬物は付いていないが、サラダがその役を担う。
というテロップをじっくり見て(脳内で)目の前の皿の傍に添えて手を合わす。
いただきます。
……うんうん、シシャモの香ばしい香りがいい。少し焦げてもそれは家庭の懐かしさを醸し出すから、返って癒されるんだよ。
「いつもダミ声出してるけど誰の真似?」
「大人」
「……そういうお年頃なのね」
バカ息子がまた外から変な影響を受けたと苦笑気味に呟く巳咲であった。
新聞をちら見しつつ朝食を食べ終わると、洗面を済ませて鞄を持ち、玄関を出る。
「では、行ってきます。」
「張り切って、どうぞ! 寄り道しないでまっすぐ帰るのよ。遅くなるなら、連絡いれなさい」
僕の他人行儀な挨拶に対し、おどけた様子で巳咲さんは返した。そして、なるべく早く帰ってきなさいという旨をそれに添えた。
自分の送り出した少年が遠くに消えていくのを眺めながら彼女は、ひとつ息を吐くと、心の声を漏らした。
べつに、百年待とうが、死にはしないけど。
彼女は、たった今送り出した少年がいつも見ている「日々の節度と偶にある幸せを心の底から楽しんでいる」ような穏やかな顔で、彼の知らない彼女を誰にというのでもないが、垣間見せるのであった。
…………ああああ。
【転生後、十五年】続く。