薄暗い部屋の照明は薄桃色で、居る者の輪郭を曖昧にする。そういう部屋が幾つもこの雑居ビルの三階にある。
所謂、ソープランドと呼ばれる性風俗店だ。
経営自体は、健全で、この店の――いいや、このビルに入っている店舗のオーナー達は、真っ白で経歴に傷はない。
……少しばかり語弊がある。経歴を白く維持するために、この店のオーナーをしている。真っ黒を真っ白なペンキで何十にも塗り重ねて、剥がれ落ちないようにするため。
維持対価として彼らは、件の暴力団の下での労働を強いられている。
労働内容は、様々な事情で身を切り売りするはめとなった女達をこの店に卸し、働かさせる。
この店はそういう風に回っていた。表向き女性たちは、彼女らの自由意志で所属している事になっており、警察も手をこまねいていた。
ただ、もうその必要はない。
オーナーに、経歴は必要ないし、女達がここで働く必要もない。警察も大っぴらに踏み込めるだろう。
「ここも、ハズレか……」
ソープの部屋のドアを無遠慮に開けて、伽藍とした中を見渡しながら朱音は呟いた。
一昔前の流行曲が薄っすら流れる部屋に、命の気配はない。在りし日の残影だけ。暗い部屋は死臭に満ちていた。女と男だったものがベッドに横たわっている。二つとも荒々しく腹が裂かれ、絶命している。ただ、平らな腹ではなく、内側から膨れている。まるで、妊娠でもしていたような。
男が孕むなどあるわけがなく、孕んだ女がこんな所で男の相手を出来るわけもなく。
興味を無くした朱音は、踵を返す。今のでソープの部屋は最後だ。上層に向かうべく、出入り口に彼女は向かう。上の階は、サラ金やバー。望みは薄いがそれでも。
客だったものや従業員だったものが転がる受付を抜け、階段フロアに踏み出した朱音の背中を、
「うわっ」
強い衝撃が襲う――カンカンカン!と階段を勢いよく下り、すぐに消えた後ろ姿を朱音は見て。
「あーー…………」
追いかけるかどうか少し迷ったが、まあ良いかと朱音は、上り階段に視線を向けた。どうせ追いかけても結果は同じだ。
殺人への忌避感は、相手が良かったのか簡単に吹っ切れた。あの路地で呪詛師を殺した瞬間、朱音の後ろに千切れ飛んでいった。それに、走り出せば後は止まらなければいい。そうすれば、ランナーズハイに浸れる。
養父が知れば、何と言うだろう。朱音は、狭い階段を登りながら自問する。養父の伝手もあって、朱音は呪術高専に入学した。きっと、呪いに向き合う為、呪いに立ち向かう為だろう。それがこのざま。怒るだろうか。失望するだろうか。朱音は、養父が感情を顕にするのを終に見ることはなかったから、想像は難しかった。
だが、まあ、深い溜息を聞けるだろうなと、朱音が亡き養父に思いを馳せていれば、階段が終わる。
すると、
「たずげ、で……だずげ………」
腹を抱えたスーツ姿の男が息も絶え絶えで、サラ金の入り口に倒れていた。虚ろに天井を見上げていた瞳が朱音の足音へ縋り付くように反応する。
「……ちょっと聞きたいんだけど」男の頭上でしゃがみ込み、「ここに、男女二人組……夫婦が連れてこられてなかったかな」
「だずげ、だずげて…………」
「話したら、助けてあげる」
朱音に、そんなつもりはない。というよりも、助けられる段階ではない。膨れた腹は、臨界を迎えつつある。出産は近く、生まれてしまえば後はない。
「しら、ない……!! しらな……い!!」
「本当に?」
「ほ、んとう、でず…………!!」
必死の形相が朱音を見上げる。朱音の唇から、嘆息が零れ落ちて――布を引き裂くような音がした。それはどこか小気味の良さすら感じさせ、次に生々しく柔らかなものがべちゃりと落ちて、床に汚らしい水溜りが広がっていった。
朱音は、背中から何かが入ってくる感覚に、眉を顰める。もう、慣れたことだが、何かしらの形で不快感を現してしまう。
男はもう動かない。朱音は、目もくれず立ち上がった。
「次は……」
ラスト一階。最上階のバー。階段を登る手前に、サラ金の中を覗き込んで見る――ソープと変わらぬ惨状。ただ、あったのは男ばかり。興味無さげに一瞥して、朱音は次なる階段に一歩足を掛けた。
ふと、朱音は顔を上げ、足を止めた。
数秒後。
呪力の炸裂と中身を覆い隠すように落ちてくる帳の感触、呪術師だ。
ちらりと上り階段を見て、朱音の内で走る思考。どうする。あまり時間はない。恐らく、降りていった女から生まれた呪霊と呪術師が遭遇したのだ。一体くらい、問題はない。だが、呪術師と真正面から殺り合うのは非常に困難かつ、避けたい事象だった。
「……仕方ない」
反転し、階段を戻る。確か裏口が合ったはずだ。記憶を手繰って、朱音は階段を駆け下り、来た道を戻り。
「あの子、ところに……」
戻らなくては、と、呟いた。
+++
「あんの馬鹿は……!!」
伏黒はマジギレ寸前だった。いや、既にキレている。激おこプンプン丸。マジギレナイフ。埼玉のキレたソードブレイカーは、伊達じゃない。千切っては投げ、千切っては投げた中学時代もそんなに昔じゃないのでわりと記憶に新しい。
「フラグ立てるから……」
「フラグも何もあるか! どうして後ろから付いて来るだけでこうなる! 餓鬼じゃないんだぞ!」
嘆息をこぼす野薔薇に、伏黒はキレ散らかす。地団駄しかねなかった。
「ほら、なんか考え込んでたじゃない、アイツ」
「いや、それは確かにそうだが……」
「いつもよりちょっと気にしとくべきだったかもしれないわね――電話、出ないわ。どうする?」
「……目的までは忘れてないだろ。あいつは馬鹿だけど馬鹿じゃない。それにここに来る事になったのは、アイツの因縁だ」
「まぁ、そうね」
肩を竦めた野薔薇は同意してから、
「で、乗り込む?」
傍らの雑居ビルに視線を持ち上げた。階下にあるコンビニは、特に問題なく営業している。野薔薇の手元で半分ほどになったミルクティーも先程そこで購入したものだ。
しかし、上層はどうだろう。二階以上の様子はここからでは、確認が出来ない。
「……安易には踏み込めないだろ」
渋面で、傍の看板を見上げる。風俗からサラ金、最後にバー。学生には荷が重いラインナップだ
「ほんと、他の人送りなさいよ。花の女子高生をどんなところに放り込んでんのよ」
「人材不足に、言った通り、虎杖繋がりだろ。しょうがねえ」
「はー……なんか買ってくる」
それだけ言い残し、野薔薇の背中はコンビニの中に消えていった。
残された伏黒は、手元のレジ袋をがさがさ漁り、中からおにぎりを取り出した。鮭だ。むしゃりと一口。
「本当に、全く」
嚥下後、一言ぼやいた。五条は何を考えているのか。伏黒の脳裏に飄々と笑うあの顔が現れる。おにぎりへ噛み付くように喰らいついて、顔ごと噛み潰す。
「空木田朱音、か」
片手のスマホをスワイプ。メールで送られてきた資料を開き、目を落とす。
名前、写真、経歴。高専所属時の使用術式――総じて、今回のような事ができる人材には見えない。
探知、感知。そういう事に特化した術は確かに有用だろう。だが、自身の性質に耐えられないのでは意味がない。伏黒は知っている。己の才能に心がついて行かずにこの世界を去った人間を幾人も知っている。
彼女も、その一人だ。高専を去る事となった理由として、彼女は自身に集まりすぎた呪いに殺されかけている。伏黒の見つめた文字は、語った。
「しかし、どうやってここまでの事を――」と言い掛け「……いや、まだ決まったわけじゃない」
頭を振って、新たなおにぎりの封を切った。梅干し。おにぎりは、普通の具が一番美味いと伏黒は、思う。
鰻やいくらなどは高いだけだ。特にコンビニのものは、具も小さい。
「た、タスケて!」
その時、コンビニ横の上層へ続く階段前のドアが勢いよく開かれた。現れたのは、女性が一人。日本人ではなさそうだ。音と声に反応して目をやった伏黒は、
「……!?」
思わず、息を呑んだ。
大きく腫れ上がった腹。むき出しの胸。血走った顔。なにより、化粧や素肌を上書く鮮やかな赤。
「タスケ、」
次の言葉は形にならなかった――腹が裂けた。勢いを維持したまま女だったものは、吹き上がる鮮血を撒き散らしながら地に転がると、もう二度と動かなかった。
伏黒の目は、もうそちらを見ていなかった。今は、じっとある一点を見つめている。
「……なるほど。〈玉犬・渾〉」
呼び出すのは、白黒混合の魔犬。影よりいでて、双眸を光らせると共に、伏黒に纏わりつくように爪牙を見せつける。その姿は、
伏黒の視線の先にある"それ"は、彼が眉を顰めるくらいには、
「ひっでえ見た目してんな」
伏黒の口から思わず出た感想は、端的に、"それ"を現していた。
赤子は微笑う。母の笑顔を真似るように優しげな口角と細まる瞳。産毛のような毛髪。白桃が如く柔らかで赤みのある頬。丸みを帯びた輪郭。
されど、騙されてはいけない。あれは、あまりにも優しくない。呪霊は例外なく、醜悪だ。呪いというものは、そういうもので、そうなるのは至極当然。だからこそ、伏黒の感想の重みは推し量れる。
ずるりと、母の遺骸より現れ出るのは、無数の骨が連なった蛇のようなもの。背骨が連なり、各所を肋骨がアクセントめいて生えている。がちがちと噛み合わされている辺り、普通の使い方はしないだろう。
『マ、ママァ……』
――来る。伏黒がトンファーを取り出すのと同時。
『パパァァァァァ!!』
「ッ!!」
赤子の口が開き、ミニチュアにした同じ呪霊――"子"と呼称しよう――が伏黒目掛け一直線――届く前に、〈玉犬〉が寸断。爪走り、即座と走り出す。3メートルと無いから一瞬で距離は詰められる。伏黒もまた、後に
続く。
迎え撃つのは、呪霊から射出される鋭い肋骨の弾幕。肋骨と肋骨の間は狭く、弾切れの様子は見えない。真正面からは危険だ。伏黒の思考は、答えを導き、印を刻べば、飛び立つ影。
〈鵺〉――怪鳥は、すんッと天を衝くように羽撃く。
多数の式神を使役し、操る稀代の式神使いである伏黒にとっては、当然の戦法。多面的な攻撃に対処できるのは呪霊に呪術師。双方ともそう居ない。
「マンマァ!!!!」
しかし、呪霊は例外だった。頭部が花開く。奥から吹き出たのは、同一の姿形、"子"。脳漿を撒き散らし、化粧代わりに顔面を彩った"子"が、〈鵺〉に迫る。翼が翻り、回避。直線軌道なら容易と躱せてしまう。故に急降下は続く。
「ッ〈鵺〉!! 避けろ!」
伏黒は、思わず口走っていた。"子"が旋回。重力を背中に受け、加速。自身を躱した〈鵺〉を追尾する――伸ばすだけではなかった。
――加速/加速/回転/停止/加速/旋回。
〈鵺〉は、攻撃どころではなくなってしまった。必死に逃げ続ける〈鵺〉をそのままにして、伏黒は更に接近を試みる。
〈鵺〉から他の式神に切り替えられない。切り替えてしまえば空中に居る"
故に、伏黒は、〈玉犬〉の背後から飛び出す。カッとコンクリートを蹴り、呪霊の射線から逃れ、脇へ回り込む。
追尾するように、呪霊の首が曲がり、放たれる"子"。
トンファーでは無理だ――顔面への一撃をしゃがみ躱し、即座にトンファーを投げ捨てれば、流れるように、影へ指を滑り込ませ、抜刀。しゃらんと鋼、心地よく刃鳴らせながら、"子"を斬り伏せると体勢低く前へ距離を詰めに掛かる。
ほぼ同時。〈玉犬〉は地を蹴った。前ではなく、上に。上から、山なりに呪霊へ飛び掛かるライン。すると、上に射線は向けざる得ない。すれば、
「こっちへの攻撃が逸れる……!」
伏黒、及び〈鵺〉への攻撃がおざなりになる。到来する隙を見逃すわけにはいかない――伏黒の腕が閃く。投擲される刀。名刀とは言えずとも、十全と伏黒の呪力が込められた刃は驚異的だ。
これを見逃す呪霊でもない。即座と"子"等がうねって、落としにかかる。しかし、呪力の冴えがそうそうと落とすのを許さず、叩き落としの代償に、"子"らが幾本か落とされる。すると、またチャンスは生まれる。
そう、チャンスだ。
ヒュンッと風鳴りが微かに戦場を切り裂きけば、弾幕の僅かな空白を縫うように、軽やかな音と成り、呪霊に突き立つ。
「忘れられちゃあ、困るわよね」
呪霊の頭部に釘が四本――出処を、釘の軌跡を逆に辿った先には、いつもの金槌片手で不敵に笑う野薔薇。伏黒は、自然と口角を上げ、
「ナイスタイミングだ」
「あったりまえよ!」
呪力、即座と迸り。顕現するは、芻霊呪法・簪!!
+++
「こっち、だったよな……?」
虎杖は慣れない池袋の人混みを縫うように、持ち前の健脚を唸らせる。雑踏を走るのは難しい。だが、虎杖の馬鹿げた身体能力には関係がない。すいすいと駆け、あっという間に目当ての後ろ姿を見つけた。
「おーい!」
足を止めさせるため、声を掛ける。視線が寄ってくる気にせず、もう一度、呼ぶ。やはり反応はない。
「むーあー、なんだ? こういう場合どうすりゃ……えーっと、あーんー……? ってあ、ストップ! ストップ!」
掛ける言葉が見つからずにあたふたする虎杖は、角を曲がった背中を見て、とりあえず、足の回転を上げた。見失っては元も子もない。
「うぉっ! どこ見てんだ!」
「ごめん!」
「きゃっ! 危ないわよ!」
「ごめんなさいっ!!」
横合いから出てきた人や前から来る人に、ぶつかりそうになりながら、目的の背中が曲がった角を虎杖も同じく曲がる。
「…………」
「うおっ!!」
と、曲がった直後にこんにちわ。
「…………なにかよう?」
小首を傾げた目当ての背中の主、少年は、虎杖に訊く。
「っと……」
衝動的に追いかけたからどうするか迷い、
「一緒に居た女の人――朱音さんは、一緒じゃないないのか?」
ええいままよと直球一言。ストレートだ。
「女の人……あかね……あの人、あかねって言うんだ」
すると想定外の返答で打ち返された。見事なピッチャーライナー。虎杖は目を丸くして。
「え、ああうん、そうだけど……知らなかったん?」
「…………うん」
「まあ、そういう事もあるよな。五条先生とかそういう事よくする」
「…………五条?」また小首を傾げた少年に、「気にすんな。こっちの話」と虎杖は、話を切り上げた。
「でさ、朱音さん、どこ行ったか知らね?」
「…………知らない」
ふるふると横に首を往復させる。
「そっかー。知らないなら、しょうがないよな」
むむーどうすっかなあ……と虎杖は腕を組む。正直、勢いのままに出てきたからには、収穫なしで帰れなかった。
ぶっちゃけ、釘崎が怖い。伏黒も怖い。俺のクラスメイトが怖すぎる――虎杖はガクブルだった。
「伊地知さんに連絡しよ」
日和った。虎杖悠仁、日和った。スワイプ、タップ。ちょっと指が固まる。着信履歴――野薔薇だ。親指がタッチパネルの上で躊躇いながらも、無事伊地知を履歴から見つけ。
「――あ、伊地知さん。しもしも~~」
『はいはい。虎杖くん、どうしましたか』
「監視カメラに映ってた男の子、保護したんだけどさ。どうしよ」
『あ、本当ですか。こちらで預かりましょう。今、どちらです?』
「えっと……ここは……」
『いえ、構いません。場所を指定しますので、そちらにお願いします。lineで場所送りますから、確認してください』
「了解ー」ぽちっと通話を切って「というわけでちょっと、一緒に――」振り向いた虎杖は、固まった。
「…………居ない」
きょろきょろ周囲を見回した後、虎杖は、泣きそうな顔で一言呟いた。