余命宣告というのは、テレビドラマだけのものではないらしい。
朱音は、医者の言葉が頭の中でリフレインさせながら、そう思った。
六月。梅雨の時候。一人っきりの小さな待合室。しとしとと中庭を打つ雨の様を、窓際に腰掛けた朱音は、ぼうっと心非ずに眺めていた。そんな彼女の頭を占める最もホットな話題は、余命半年。ホットではない。どちらかといえば、冷たい。あまりにも冷酷で無慈悲。変えられない、現実。
「案外、身近にあるもんだね」
末期の癌。ステージ4。子宮から始まり、全身に転移した癌はもうどうしようもないと、医者は朱音に言った。抗がん剤による延命が出来るかどうか。したところで、半年が一年か、未満かに伸びるくらいだと神妙な顔の医者には、おすすめされなかった。
この後、カウンセリングや諸々があると言う話だが。
「……帰ろ」
全く聞くにならない。わりとすぐ死ぬという宣告を受けてからそうそうに死ぬ準備に移れる人間が居るんだろうか。朱音は、その枠ではなかった。だから彼女は、ぺったんこなソファから腰を上げた。正午のくだらないバラエティが流れるテレビの前を通り過ぎて、廊下に出た。
「お帰りですか?」
「あっ…………」
タイミングが悪い。もっと早く決断するべきだった。ぼうっとし過ぎた。目の前で苦笑する看護婦に、朱音は、気まずげな微笑を浮かべた。
「構いませんよ」
「えっと…………」
言葉の意味を図ろうと朱音が思考を回す前に、人の良さげな看護婦は、言葉を作っていた。
「また気が向いた時、聞ける気分、話せる気分になったら来てください。先生方には言っておきますから」
「……すみません。お言葉に甘えます」
「いいんですよ。お大事に」
生温い風の中に踏み出し、傘を広げる。透明な膜の向こうを雨が打つのを見、何気なく振り向くとエントランスまで先の看護婦が見送りに来てくれていた。朱音は、軽く頭を下げ、病院を後にした。
呪術高専を辞めてから、三年が経っていた。実家のある青森に戻ったものの、寺のある山に戻る気にはならず、譲って得た資金等を元手に青森市内のマンションの一室を購入していた。
「……はぁ」
これからどうしよう。朱音の頭を占めるのはそれだけだった。三年はあっという間だった。気づけば季節は巡り、今日になっていて、余命の宣告を受けた。
余命宣告って当たるんだろうか。朱音は、ちょっと疑ってみる。けれど、無駄だと直ぐに悟る。
「分かんないや。あんがい、死なないかもしれないし」
雨音と時折通る車の駆動音をBGMに、とぼとぼ帰宅していると、くぅくぅ腹が鳴る。うーん正直。朱音は、自身の腹の正直加減に少し驚いた。
ついさっき道端で倒れて病院に運ばれた上、死の宣告を受け取ったのに、食への欲求は変わらない。憂鬱の欠片も感じさせない生体反応の実直具合に、朱音は、ふっと笑みを零し、信号で立ち止まると共に道向かいに見つけた馴染み深いロゴマークに、思わず笑みを深めた。
「マック食べて帰ろっ」
五条の甘党が乗じ、マックシェイクやら目当てに連れて行かれたマックで、ジャンクフード大好き女になってしまった田舎っ娘たる朱音は、週に三度はマックに行っている。コンビニ限定スイーツやら駄菓子好きやらも五条のせいだ。
昔は毎日行っていたのだが、体重の激増の煽りを受け、控えていた。それも今日までだ。半年後に死ぬなら毎日マックを食べても問題ない。体重なんて気にしなくていいのだから。
気持ちよく食べてやろう。三角パイはチョコから月見も全部。バーガーもたっぷり。ノリノリで朱音は、マックの自動ドアを潜った。
「やあ、朱音」
――潜ろうとした時、脇から声がした。懐かしい声。そう、実に懐かしい声だ。そして、朱音としては正直、聞きたくはない声。しかし、足は止めてしまった。ああ、いや、止めなくても無駄だろう。
「……久し振りですね」
「うん、久し振り」
視線の先には、胡散臭い笑いが袈裟を纏っていた――夏油傑。現代最悪の特級呪詛師は、朱音が知っている笑みをいつも通りに湛えていた。
「夏油さん、死んだって聞いたんですけど」
「見ての通り。まだピンピンしてるよ」
両手を広げてみせる夏油は、なるほど確かにと朱音に思わせるくらいには、元気そうだ。朱音同様、末期患者でも見た限りは元気だったりするから、見た目とテンションほど元気でもないかもしれないが。
「それで何かようです? 私、お腹減ってるんですよね」
「丁度いいね、奢るよ」
「わーい、嬉しい」
「はは、棒読みだ。もっと喜んでいいんだよ」
「じゃあ、帰ってもらえます? お連れさんも一緒に帰ってもらえたら喜びます」
「流石だね。気づいたか」
ちょっと以外そうな夏油に、朱音は苦味渋ったように唇を歪める。
「嫌でも気づきますよ。それに、気づいただけで、私は何も出来ない。なにより、居られるとご飯が喉を通らないです。帰ってもらえますか?」
朱音が見ている方。道路脇の柵に、一人の少年が傘もささずに腰掛けていた。縫い目を顔面に走らせた白髪に黒を纏う姿は、雨の中、傘を刺していようがいなかろうが目立つだろうに、誰も気にしないし目もくれない。そのまま通り過ぎていく。視線に気づいた彼は、笑みと共にぴらぴら手を振ってきた。
「何もしないよ。付いて来たいと言ったから連れてきただけさ。ほら、入ろう」
「……そうですか」
逃げ場は無いらしい。溜め息を隠しもせずに落とすと打って変わってテンションを下げると朱音は、夏油の後に続いた。
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「単刀直入に言うけどさ。仲間になってくれないかな?」
「余命半年なんですけど、私」
ポテトをケチャップに押し付け、朱音は口に放り込んだ。
窓際の二人がけ席で、朱音と夏油は向き合っていた。合間のテーブルの上には、前言通りに夏油が奢ったバーガーからポテトにドリンク等が並んでいる。トレイに乗せられているが窮屈そうだ。
「知ってるよ」
「…………え、なんでです?」
「暫く見てたしね」
「ストーカーとか最低じゃないですか……」
溜息を押し殺すように手元のハンバーガーに食らいつく。オーソドックス故の懐かしさ美味しさが口いっぱいに広がる。パティやパンズにピクルスを噛み砕き、喉の奥に追いやって、
「ご存知の通り、大した術式は持ち合わせていないので、役には立てないと思いますけど」
「確かにそうだね」
「喧嘩売りに来たんです……? 買いませんけど」
思った以上に、あっさり頷かれた朱音は、軽く睨んだ。
「はは、違う違う」
軽快な笑い声を上げる夏油は、親しみやすさを滲ませた笑みで語りだす。
「昔は確かに取るに足らなかった。けど今は違う。死を自覚した今、君の術式は変貌を遂げている」
「はぁ……」
変貌――どういうことだろうか。要点が掴めない朱音は、怪訝な顔で相槌を打つ。
「何よりの証拠が真人を感知できたことさ」
「……ああ、さっきの」思い至り、「呪霊ですよね。ついに人以外と組んだんですね。五条さんは、そんなに強敵ですか」
「煽りが下手くそだね。とっくの昔にあいつのことは承知してる。まあ確かに、」
一瞬、叩きつけられた冷気に朱音は、動揺をどうにか内心に隠した。
「現状、組まなきゃ勝ち目も見えないってのは尺だよ。私だって、プライドを捨てた覚えは無い」
「……怒って帰ってくれれば助かったんですけど」
「私、そんなに怒りっぽかったかな」
「怒れなかったからこうなってるんでしょう」
「違いない。そういう君は思いの丈一つぶつけられなかったね」
悪い笑顔で、ぴしりと指を突きつけた。すると、朱音は苦々しく口を歪め。
「……性格悪いですよ」
「心外だ」
片眉上げた夏油は、肩を竦めた。
「面の皮が厚い……。それで私の術式はどうなってるんです? そこの呪霊と何の関係が?」
「母子感染術式、聞き覚えは?」
「不躾ですね。知りません。それが私の?」
「YES。名は体を表すとはまさにこれだ。この術式は、君の母親から君に感染している。そもそも術式の継承は、ムラがある」
「流れた涙は数知れず。酷い世界ですよね。天性の才が全てを決める」
「能力がないのは、呪いに愛されなかったからだ。当然だと私は思うね」
「そういうとこ、ほんとに相変わらずですね。酷い選民思想」
「変わらないのが美徳なのさ――話を戻そう。君は、受け継いだわけではなく、感染した。これに関しては100%だ。ムラはない。確実に次代に感染る」
「それがどうして今更?」
嫌な予感がした――朱音の呪力感知は、非常に高い。通常の感覚に加え、存在する知覚機構は、第六感と言ってもいい。
「簡単さ。自身の死への認知をトリガーに、この術式は起動する。時限式で自動的。そういうものなんだよ」
手元の水で、夏油は唇を湿らせ、
「かつて、御三家に一人の呪術師がいた。非常に優秀だったが、好奇心が旺盛でね。何もかも試さずには居られなかった――加茂憲倫、知ってるね?」
「……嘘でしょう?」
現代呪術史において、この名は、悪名高い。呪術より離れて暫くしている朱音も忘れてはいなかった。
「君の母親は、この男の作った術式にどこかで罹患し、君に
「どういう、術式なんです?」
朱音は、乾き切った口を無理矢理動かす。腹の中身をぶちまけてしまいそうなまでに胃は捻れていた。出た声は、あからさまに震えていた。
「君の母親は、君を孕んでいた。だから、何ともならなかったが、君はどうだ。 もう、子を作る事はできないんだろう?
そうすると、残された術式は、術式を通し、
「どこへ、って……」
「加茂憲倫は、件の研究の結果として、呪胎九相図という特級呪物を得ている。
そう、結果だ。君の術式は、それの副産物にあたり、君の呪力感知の高さ、呪媒体質もまた術式の一端だよ。
なら、結果とは? 君に感染した術式は、果てに何を生む?」
「…………呪胎――受胎……まさか、私は今」
青を通り越し、朱音の顔は白く染まった。
「そう、呪霊を孕んでいる――しかも、とびっきりのものを」
おどけていうものだから一瞬、朱音は、嘘を疑った。しかし、そんな荒唐無稽な嘘をわざわざ吐くだろうか。
「……私が、何をしたっていうんです」
嘘ではないのを理解してから暫く後に、朱音は呟いた。それは、あまりにも信じ難い現実に圧し潰される寸前の声だった。
「さあ? 交通事故に会うようなものさ。君の死がそういう形だっただけでね」
「そん、な……」
言葉に詰まる朱音の脳裏に父の死に顔が過ぎる。彼女の父は運が良かったのだ。普通に死んで、家族に看取られるのは、恵まれたことだ。呪い蔓延る現代において、人の形で死ねるのは、とても幸せなことだろう。
「それで、どうする。君も母親と同じように首を吊るか?
まあ、それも選択の一つだ。もっとも、簡単に死ねるかどうかは保証しないがね」
この夏油からして、とびっきりと言わしめた呪霊が簡単に楽にしてくれるとは、朱音自身も思わない。もう彼女は、死を選ぶことすら許されていない。まともな死は望めない。
なにより、彼女は呪霊を恐れに耐えきれず、呪術高専を去った。今、彼女の中に膨れ上がる恐怖は、他者の想像を絶する。
「私に、何をさせたいんですか」
本題に、朱音は震える声で切り込んだ。活路を見出すために。
「敏い子は、嫌いじゃないよ」
それを待っていたとばかりに、夏油は、口端を持ち上げ、三日月を作った。まるで、悪魔のような――朱音は、その笑みを生涯忘れられそうになかった。
「君には、呪詛師をやってもらいたいんだ」