〈がしゃ髑髏〉は、自身に真っ直ぐ駆け寄る虎杖を見ていた。見ているだけではない。一番下の腕を振り上げる。指先が地面を削り、勢いよく前方に巻き上げた。 泥と砂、砂利から岩、果てに金属塊からなる建材。それらは、速度と熱を帯びて、射線上の虎杖に襲いかかった。
「うぅぉぉぉおおおおおお!!」
障害物が限りなく少ない以上、虎杖は、躱すしか無い。巻き込まれ、斃れる事になれば、作戦は全て台無しになる。だから、虎杖は、躱すしか無い。それしか道はない。
石礫を弾く。鉄材を蹴る。大きな岩を避けて飛ぶ。着地と同時に駆け、薙ぐように飛んできた鉄柱をスライディング。躱しきれない細かな砂利や鉄片が虎杖を痛めつけ、切り裂く。だが、虎杖は止まらない。まっすぐに突き進む。
与えられた役目を全うするのだと、今これが出来るのは自分だけで止まるわけにはいかないと。そう思うから、虎杖の足取りに緩みはない。
陸の津波を抜けた先、虎杖の視界が暗くなった。ビルに囲まれている以上、そもそもこの空き地は、薄暗い。それがさらに、暗く染まる。視線を持ち上げると自然と答えは現れた。真ん中の二腕、覆い被さるような振り下ろしがくる。
面の攻撃。先よりもずっと躱しにくい攻撃を〈がしゃ髑髏〉は、選択した。
やばい――そう思いつつも、虎杖は、足を止めていない。進み続けている。呪力を十全と扱う虎杖の身体能力は、人外的だ。呪力なしで彼は、五十メートルを三秒で駆け抜ける。
だが、事前の津波が足を鈍らせた。地面をめくりあげ、叩き込まれた一撃は、実に戦略的だった。
にたりと口端を持ち上げ、伽藍の眼底に揺らす炎を瞳が如く下げ、〈がしゃ髑髏〉は醜悪に嗤う。ちっぽけな人の抵抗を叩き潰さんとせせら笑う。
勝機など無い――〈がしゃ髑髏〉は、言葉無く語る。
直後、衝撃を受け、派手な砂埃が舞い上がった。
会心の笑みを浮かべた〈がしゃ髑髏〉は、すぐに笑みを引っ込めた。手応えがない。持ち上げたそこに死体はない。
どこだ。〈がしゃ髑髏〉の首が左右を振り、空いた腕が適当に薙ぎ払う。指や掌、腕。浚うのは泥に砂。肉の生々しさには辿り着かない。
どこだ……!! どこにいる……!!
繰り返す。〈がしゃ髑髏〉の苛立ちは昂り、怒りに炎が強く強く瞬いた。暗がりの篝火が如く。
「――今だ」
伏黒が呟いた直後、そこから少し離れた、また別の場所――空き地を囲うビルの一つの屋上にて。
鋭い呼気と共に「――芻霊呪法」野薔薇愛用の金槌は、痛烈に振り下ろされた。
弧を描く一撃は、振り下ろした先、釘に打ち込まれる。すると他多数設置された釘にも呪力は迸り、勢いよく流れ込む。その先に満たされた流体へ呪力が纏わりついた。
〈がしゃ髑髏〉は、"何か"に気づく。同時に、呪力が自身の周りを這うように走っているのも感じ取った。
"何か"が起ころうとしている。しかし、それは"何か"――〈がしゃ髑髏〉自身、そこまで考えることは出来た。
しかし、"何か"を理解したのは、起こった後のこと。それは、明確な詰みの一手。〈がしゃ髑髏〉という呪霊を祓う為に仕掛けられた作戦の第一段階。
そして、術式は、
「簪――!!」
水道パイプ、貯水タンクそれらの内で水と呪力が渾然一体となって膨れ上がれば、あまりの圧に容れ物が耐えられないのは必然――破壊という現象の先、吹き出ると〈がしゃ髑髏〉の頭上より降り注ぐ……!!
+++
何か騒がしくなったように感じたから、朱音は、ふと目を開けた。
しかし、視界に映る縁側の様子に変わりない。小さな庭を濡らす雨音はまだ、終わりそうになかった。軒先から雨粒が垂れ、朱音の目の前を通り過ぎると床で弾けた。
同じく、子守唄も止んでいなかった。調べは、彼女が望む限り続く。そう調和は乱れていない。微睡みを包むシャボン玉のような薄い膜は、まだ破れていない。終わりは近くともまだ終わりではない。
「気の所為……」
――――本当か?
「…………」
安堵を零す朱音へ、間髪入れず、しわがれた声が問いかける。
――――私には、聞こえる。崩れる音が聞こえる。
「…………」
――――炎はすぐ近くだ。
「……どっちにしろ、私は死んでいる。これも隙間の、刹那の、ほんの少しの安らぎよ」
いずれ、終わる。炎はいつか来る。必ず来る。なんの感慨もなく朱音は言う。諦めや悲観ではない。純然たる事実を淡々と口にしていた。
――――そうではない。
「何を、言いたいの?」
自問自答だ。分かってはいても朱音は、訊ねずには居られなかった。
――――このまま、あの夏油という男の思い通りになってもいいのか?
「……それは」
夏油に、何か仕込まれているのは分かっていた。何か思惑があって接触されたのだとも理解できる。
朱音は思う。このまま自分が消え失せ、自身の孕んでいた呪霊が呪いをばら撒き、夏油の計画に従う――なるほど、確かに癪な話だ。
「癪だけど……」
何度も言う。朱音は残留思念か何かでしかない。こうして、未だ現世にしがみついていられるのは、奇跡だ。
生きていた時ならまだしも、こうなってはもう諦めるしかない。
――――出来ることはある筈だ。
「出来ること……」
それでもと声は言う。オウム返しに呟き、朱音は起き上がった。膝枕は、思考を巡らせるのにはあまり適さないと判断したのだ。上体を持ち上げて、縁側に腰を掛ける。
――――背、伸びたな。
「……まあ、ね」
見上げた影が漏らす言葉に答えてから、朱音は思わず苦笑してしまう。彼女自身が言って欲しかったことをこの影は出力する。あまりにも正直に、自分の欲求が出力されているから出た笑みだった。
「……雨、激しくなってきた」
しんしんと降っていた雨は、いつの間にやら強くなり、土砂降りの様相を見せていた。そこで朱音は、気づく。
「炎が……」
雨に濡れながらも燃え盛っていた炎が微かに弱まったのを感じた。依然と火勢が強いのは変わらない。
けれど、聞き続けていた朱音には、分かった。何か外で変化があったのだ。あの炎は、呪霊の勢いを示しているに違いない。ならば、相応の何かが起こった。
「今なら、何か」
出来るかもしれない――僅かな希望が朱音に灯る。
「行くか?」
「……うん。年下の男の子に、後始末を押し付けるなんて、よく考えたらすっごい情けないしね」
朱音が縁側から腰を上げ、庭に立つと子守唄が止んだ。それから、誰も居ない縁側に彼女は振り返り、
「行ってきます」
そう、笑いかけた。
+++
水が降り注ぐ、一瞬手前のこと。虎杖が〈がしゃ髑髏〉の掌に潰される時。
走った呪力は、野薔薇のものだけではなかった。伏黒の体で膨れ上がり、溢れ出る力の奔流。これもまた全身全霊。
それは、術式の拡張。それは、一つの極限。それは、魂の発露。呪いを手繰る者たちは、それらを合わせ、
「領域展開」
と、呼ぶ
「――
影が広がっていく。それはまるで海。影が形作る漆黒の大海。この空き地の隅々に手を、足を、全てを伸ばして影は支配領域を拡大する。無論、〈がしゃ髑髏〉も虎杖の居るそこも含まれる。
〈がしゃ髑髏〉の両掌が虎杖を踏み潰す、0.005秒前に影は、虎杖へと到達しており、足裏から影に虎杖は沈み、呑み込まれた。その後すぐに、〈がしゃ髑髏〉の掌が誰も居ないそこを叩き潰した。
そして、呪力を纏う人工雨が降り注ぐ。
雨は、〈がしゃ髑髏〉の炎をかなり抑え込んでいた。また完全に消えたわけではない。だが目に見えて、火力が下がっていく。
故に、好機。
伏黒の領域展開は、自身の術式を展開し、影の中を移動、分身体の作成、式神の無制限召喚を行う。
影とは光の合間に生まれるもの。強過ぎる光は、影の存在を許さない。そういう意味でも〈がしゃ髑髏〉との相性はあまり良くなかった。だが、今、力は削ぎ落とされている。炎に先までの火勢は見えない。
影の海面より、〈がしゃ髑髏〉へ〈蝦蟇〉の舌が無数に伸び、絡まった。頑強な拘束が〈がしゃ髑髏〉の動きを確実に制限する.
『マンマァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!』
いやいやと赤子のように暴れようと〈がしゃ髑髏〉は、腕を振り回し、藻掻く。
けれど、伏黒は、この領域展開に賭けていた。離すものか。逃がすものかと歯を食いしばり、拘束の維持に注力する。領域展開における呪力消費は、膨大だ。彼は、ここまででかなりの呪力を消費している以上、この領域展開は、腹の底の底の隅々から呪力を掻き集めて成り立っていた。この一瞬のため、伏黒恵は、振り絞る。
「やれ、虎杖ッ!」
額に汗を浮かべ、思わず叫ぶ。応えはない。代わりに、虎杖が姿を現した。〈がしゃ髑髏〉の背後。海面から垂直に飛び出た〈鵺〉を破って現れ、続いて飛び出す〈鵺〉を足場に目標へと一直線に駆け抜ける。
領域展開下における展開者の術式は、必中だ。ルールとして存在する以上、覆らない。そして、幾つかの修羅場を共にした二人だからこそ、ここまで精密なコンビネーションがとれた。
「――――ッ!!」
つるりと曲線を描く後頭部が虎杖の視界一面に映り込む。振りかぶった拳の行く先は、もう決めている。なら、もうやることは唯一つ。渾身の一撃を叩き込むだけだ。ぐっと握られた拳は、引き寄せられるように〈がしゃ髑髏〉へ迫った。
やった――!? 誰もがそう思ったその時。
『パッパパァ……』
――ぎゅるんと首を回し振り返った髑髏は、虎杖を見、嗤う。
「虎杖ッ!」――叫んだのは、野薔薇。
声も出ず、目を見開いたのは、伏黒。予測できなかった。虎杖は理解していても〈がしゃ髑髏〉の動きを完璧に把握する事は出来なかったのだ。
この時を待っていたとばかりに〈がしゃ髑髏〉が浮かべた笑みは、悪辣だった。
そして、逃げ場の無い虎杖の眼前、三日月形に開かれた大口の中、とろけた様な炎は、青く収束して。
+++
『駄目だよ。君は、もう人を殺したら駄目だ』
+++
虎杖の視界を満たしていた光が消え失せる。伏黒や野薔薇には、何が起こったか見えていた。〈がしゃ髑髏〉の口が閉じられたのだ。出口を失った炎は、〈がしゃ髑髏〉の体の中に逆流していた。
光に焼かれ眩んだ虎杖の目は、元の世界を取り戻していない。だが、見えている。虎杖悠仁には、この拳が届く先が見えている。
集中の果て。コンマとコンマ、瞬間の彼方。0.000001秒、秒針の一刻みを何度と刻んだ結果を世界は、黒い火花として表現する。
――黒閃。
刹那、黒の一撃は、〈がしゃ髑髏〉を完全無欠に粉砕した。
+++
かつんとティーカップの底をソーサーで鳴らし、
「……おっと、祓われたか。残念」
肩を竦め、夏油は、何も期待してなかったかのように独りごちた。
「そうそう、私、君のこと嫌いだったんだよね。お蔭でせいせいしたよ」
クックックと夏油は、一人、小さく笑った。
+++
「…………朱音さん」
未だ止まぬ雨の中。色を取り戻した視界で〈がしゃ髑髏〉は崩れ落ちていた。炎は灯らず。既に息絶えている。立ち竦んだ虎杖は、拳をじっと見つめていた。
+++
『空木田朱音は、末期癌を宣告されていたようです。それが半年前、そこからの消息は、現在に至るまで断片的にしか確認できませんでした。都内に住居を移し、SNS上での呪術師及び、呪詛師として活動していたようです』
詰まり無く語られるのは、朱音に関しての伊地知の定期報告だった。これも後は書面に纏めるだけの事。わざわざ口頭で伝えているのは、五条が望んだからに他ならない。
『虎杖くんへ開示された術式を使用可能となった契機も半年前の宣告でしょう。死への接近、自覚が現在の調査から最も有力な
「分かった。伊地知、ありがと。……虎杖の様子はどう?」
『表面上は、普段と変わりません。まあいつも通りです』
「成長かな?」
浮かぶ苦笑。どうやら伊地知も五条と似たような表情らしい。次に作った言葉の端々に苦味が見えた。
『どうでしょう。彼ら、自分のことを隠すのが思った以上に上手……いや、最近の若者は、隠し事が上手ですね。私の頃は、すぐにボロが出ていました』
「僕がやるべきだったんだけどね。ほんと」
『仕方ありません。タイミングが悪かったんです。アイヌ呪術連との対談は今後の情勢に大きく関わります。これもまた、外せない案件でした』
「……そうだね。それじゃ」
通話を切った五条は、一人、歩みを再開した。
「半年、か……」半年前、6月。浮かぶのは、「宿儺……関係があるのか?」
呪いは連鎖する。以前、伏黒が対敵した橋の下の呪霊も、受肉した宿儺に呼応したかの様に起動していた。
「だけど、宿儺の指じゃなかった」
戦闘の行われた空き地は、確かに何かが封印されていた。宿儺には及ばずともそれなりの呪物だったようだ。周辺のビルにも影響を及ぼし、出ると噂になっていた。実際、あてられたのか、幾人か自殺していた。しかし、自殺が起きる間隔も空いた上、それぞれ近くはあれど別のビルだった為か、単なる偶然と処理された。結果、呪霊案件として上がる事もなく終わった。
だがそういう建物として箔がついてしまう。当然、不動産屋も隠すわけにもいかず、大体の買手が気味悪がって中々買手も現れず、所有者が居ても倉庫代わりに使われており、一部若者の間では心霊スポットとして扱われていた。
「強い呪いに誘発されるのはありえる。ましてや、彼女の術式は、呪いを取り込んで呪霊に変換するもの。実際、昔から呪いには過敏だった」
それに、術式への覚醒が半年前だ。短期間で術式を使い熟すっていうのは、普通じゃない。高専所属当時を知っている五条には、朱音が才能に満ちていた様には思えなかった。
しかし、三年。三年は短くも長い。何か変化があったのかもしれない。心境の変化。環境の変化。もしくは。
「……誰かが使い方を教えたのか」
五条は、何かピースがはまった気がした。思考の一欠片。大きな絵を埋めて、真相に辿り着くための一手。重要な一ピース。
と、そこで、「おっと」見慣れた顔を見つけた。そちらに足先を向ける。公園の敷居を跨ぎ、ベンチに腰掛けた彼の前に立つと。
「や、悠仁」
「……あ、五条せんせ」
声をかけて、やや遅れて、虎杖から反応がきた。近づいているのに気づかなかったのは、何か考え事でもしていたのだろうか。
「こんなところで、何やってんの?」
「せんせこそ、何やってんだよ。ああ、出張だっけそういえば」
「その帰り。秋の北海道はいいよ。最高だった。じゃがバター旨かった。ホッカホカでホックホクだ」
「マジで? 俺も連れてってよ。カニとかいくら食べたい」
「んー。まあ、また今度ね。それで、何やってたのさ。ここ寒くない?」
「うん、ちょっと寒い」
それだけ言い、少しの間、虎杖は口を閉じていた。
「……ここでさ、朱音さんに会ったんだ」
「そっか」隣に五条は腰掛け、「悠仁、朱音を祓ってくれてありがとう。僕がやるべきだったんだ」
「止めるべきだった。あの喫茶で止めておくべきだったって、俺思うんだ」
「悠仁――」
「分かってるんだ。もう終わったことだってさ」
五条が何事か言わんと口を開けたところ、虎杖は遮るように口を開いた。
「分かっていても、後悔しちゃうんだよな。なあ、先生」
「なんだい、虎杖」
「呪術師って、ずっとこういう後悔を繰り返すのかな」
「……そうだね」
沈黙の後、五条は、ゆっくりと口を開いた。
「でも生きてたって同じだ。呪術師は、それがちょっと多い。人より見えるものが多すぎるから、どうしても後悔も増えてしまう」
「……うん」
「呪術師って、職業はさ。いっつも何か起こってからだろ? 警察もそうだけどさ。呪いって予防のしようがないから、どうしても後手後手になっちゃう。どうしても誰かが傷つかないと動き出せない」
「せんせも?」
「そうさ。いくら特級だなんだと持ち上げられても。僕らはいつも始まらないと動けない。そうやって後悔は積み重なる」
「そうだよな。そうだよな……」
「でもさ、それでも救えるものがある。呪術師は、他の人に救えないものが救える。虎杖は、救いたいんでしょ?」
「……なんかそう言われるとちょっと気恥ずかしいけどさ」
微笑を浮かべた虎杖は、それから確かに頷いて。
「うん、俺は、救いたい。だから、折れないよ」
「それでよし」五条もまた笑顔を浮かべ「それじゃ、僕は帰るけど。虎杖はどうする?」
「もうちょっと、ここに居る。門限までには必ず戻るよ」
「うん、分かったよ」
そう言い残して、五条は去っていった。落ち葉を踏む音が遠のき、背中が見えなくなった時。虎杖は、脇に置いておいたビニール袋に手を伸ばし、何かを取り出した。
「相変わらず、よく分かんない名前だな」
手の中にあったのは、細長い白地のパッケージ。そこに黒字で、『ウマすぎ棒!~スクラロース味~』と印刷されている。無言で開け、出てきた棒状のスナック菓子を虎杖は一口、頬張り。
「……しょっぱい」
と、呟いた。
スクラロースはショ糖(スクロース、砂糖)の約600倍の甘味を持つ甘味料である
※Wikipediaより引用
以上で完結です。短い間ですがありがとうございました。
よければ感想評価等頂けると助かります。