普通、女性の上司に休日の外出に誘われたらどう思う?
ひょっとして遠回しなモーションをかけられてるのかと勘繰るだろう。もっと進めて一夜のロマンスだって期待しちゃうかも知れない。
しかし、生憎、オレの女性上司は普通じゃなかった。まあ、あんなちみっこな時点で、甘く危険な大人の駆け引きの匂いなんざ感じるわけもない。
それでも一応、いつものスーツ姿の制服ではなくカジュアルなデート向けの服装をしていたオレの前に、エルフナインちゃんは現れた。
「お、おまたせしました」
歩きやすそうなスニーカーは、まあいいだろう。
しかし、いつも通りのオーバーオールにジャンパーを着て背中にはナップザック。
とどめとばかりに肩から赤い水筒を吊るしている時点でオレは悟った。
あ、これは遠足だわ。
「ど、動物園に行ってみたいんですッ!」
エルフナインちゃんのリクエストに応じ、電車で上野駅まで移動する。
なんでも今日は、動物園のあとは神田の古書店にも行きたいとのこと。
ますます遠足じみてきて、多少格好をつけてきた自分が恥ずかしい。
それでも彼女は間違いなく護衛対象だ。
休日で結構混みあう電車内に座れる席はない。仕方なくエルフナインちゃんを壁側に立たせ、その前に立ち塞がるようにガードする。
本音を言えば、電車なんぞ使わず本部の車でも使って欲しいところだ。
まあ、今は彼女のプライベートだから、そこいらの意志は尊重せねばなるまいて。
オレはつり革に捕まりながら、さりげなく周囲へと視線を飛ばす。
スーツ姿の見知った顔がちらほらと。オレ以外の護衛人員も、もちろん配置されている。
上野駅で降り、上野公園前から外へ出た。
美術館と文化会館を横目に、正門から入るルートを選択。
料金所で、エルフナインちゃんが一般料金で入ろうとしたところを、無料ですよと返金される一幕があったが割愛。
本人は『日本の施設は素晴らしいですね!』と感激していたが、中学生はおろか小学生に見られたであろうことは伝えないでおこう。
遊園地内も、やはり結構混んでいた。
さっそく名物のジャイアントパンダを見に行けば、すごい人だかり。
客寄せパンダとは良くいったもんだな、と感心するオレの横で、ぴょんぴょんとエルフナインちゃんはジャンプを繰り返している。
どうやら人を掻き分けて前へ行くという発想がないらしい。
「南雲さん、どうしましょうッ! ぜんぜんパンダが見えませんッ!」
なんかもう涙目だ。
「既に映像や図鑑でご覧になっているのでは?」
そうオレが返したのは、錬金術師に限らず研究者とかは、とかく資料や机上での知識を重視するのではないかという偏見からだ。
「キャロルのパパからの遺言なんです。世界を識れって」
「え?」
「なので、ボクも色々と実際に見てみようかと思って…」
思いの他、真摯な答えが返ってきて面食らう。
元はキャロル・マールス・ディーンハイムの予備体でホムンクルスであるエルフナインちゃんの出自は、トップシークレット中のトップシークレットだ。
しかし、錬金術の使用の対価に記憶を燃焼しつくしたキャロルの肉体に、ホムンクルスとしての寿命を迎えていたエルフナインちゃんの精神が融合したのが今の彼女ということは、もはや全職員が承知している。
なにせかのシェム・ハとの戦いで、多くの職員がダウルダブラの聖遺物を纏って戦うエルフナインちゃんを目撃していたからな。
あれは一時的にキャロルの精神が復活した結果だ、などと説明されるまでもない。
日本を―――この地球を護るために装者と一緒に戦ってる彼女は、関係者の誰もがエルフナインちゃん本人だと確信して疑っていなかった。
ともかく、今の彼女はキャロルの記憶も持ち合わせている。それだけわかっていれば十分だ。
「わかりました」
オレは苦笑して、彼女の両脇に両手を差し込む。
「きゃッ!?」
「失礼します」
そのまま一気に高くエルフナインちゃんを持ち上げた。
「な、南雲さん、恥ずかしいですよッ!」
じたばたと足を動かす彼女を、ひょいと肩車した。
ふわんと焼き立てのクッキーのような甘い匂いがする。
「これで良く見えるでしょう?」
恥ずかしがってもっと暴れるかな、と思ったけれど案外オレの肩の上で安定している。
もっともその表情を伺い知ることは出来ないが。
「…見えました! 本当に大きい…」
結構家族連れもいて、同じように肩車をしているお父さんたちも多い。
おかげでオレたちも目立つことはなかったが、そろそろ流石に後ろの観客には迷惑だろう。
「もうよろしいですか?」
「は、はい、大丈夫ですッ」
ゆっくりと後ずさり、人の輪を離れたところでエルフナインちゃんを肩から降ろす。
「ありがとうございましたッ」
ペコリと頭を下げられた。
「南雲さんのおかげで、キャロルの記憶が少しだけ見えました。…キャロルもパパに同じことをしてもらって喜んでいました」
そのままてへへと笑うエルフナインちゃんは可愛い。
「それは何よりでした」
オレは鷹揚に応じる。
「えーと、次は象さんを見たいんですけど…」
「象はあっちですね」
オレも上野動物園に来るのは久しぶりだが、配置はそう変わっていないはず。
護衛兼にわかガイドとして、オレはエルフナインちゃんをエスコートする。
猿山、ライオン、ゴリラを見たあたりでエルフナインちゃんはギブアップした。
どうにもあまりの観客の多さに人酔いしてしまったようだ。
普段はほとんど研究所に引きこもりのようだからな。さもありなん。
「また出直しましょう」
「…わかりました」
本人はまだ未練があるようだったが、素直に頷いてくれる。
「弁天門の方から入れば、まだ半分以上見る場所があるんですよ」
いっそそっちから出ようかとも思ったが、想像以上に人波が濃い。
来たときと同様、表門から帰ることにする。
上野駅から神田なら電車で一息の距離だが、駅も人でごった返している。
人酔いしたばかりのエルフナインちゃんには辛いだろう。
「…少し距離はありますけど、歩いて行きましょうか?」
「はいッ」
エルフナインちゃんが同意してくれたので、そのままぶらぶらと秋葉原方面へと足を向けた。
天気も良く、風もそこそこあって気持ち良い。絶好の散歩日和というやつか。
混みあうアメ横付近をさけ、エルフナインちゃんの歩幅に合わせて進む。
すると間もなく、
「あ、エルフナインちゃ~ん!!」
「響さんッ! 未来さんも!」
おしゃれな格好をした響ちゃんが手を振りながら駆け寄ってくる。
振ってない方の手は、当然のように小日向さんと繋がっていた。
こちらに来た響ちゃんは、マジマジとオレとエルフナインちゃんが並んでいるのを見比べて、
「もー、エルフナインちゃんも隅に置けないなー。こんなとこでデートしてるなんて!」
ま、そう見られるだろうな。あまりにも予想通りの反応に、オレは余裕を持って応じる。
「いえ、立花さん。自分はエルフナイン特別顧問分析官の護衛でして」
しかし響ちゃんはニタリとした眼差しで言ってくる。
「もう! 嘘ばっかり! そんなに仲良く手を繋いじゃってるくせに~!」
「へ?」
指摘されて初めてエルフナインちゃんと手を繋いでいることに気づいた。
…そんないつの間に? 全然つないだ覚えがないぞ?
慌てて義手である右手をほどく姿は、きっと恥ずかしがっている風に見えていただろう。
肝心のエルフナインちゃんも、顔を真っ赤にしてないで弁明してくれればいいのに。
「ごほん。自分たちのことはさておいて、立花さんたちはどうしてここに?」
「もちろん、わたしたちもデートだよ!」
うん、そりゃそうだろうね。分かりきったことに突っ込む気も起きないが、話題逸らしを継続する。
「ひょっとして上野動物園とか美術館とかに?」
ちょうど自分たちも動物園に行って来たのですよ、という感じに話題を膨らませようかと思ったが、響ちゃんの返答は予想の斜め上を行った。
「ううん、焼き肉食べ放題だよ!」
なんでも近所に新鮮な精肉を格安で提供する食べ放題の名店があるそうな。
次も近所のビルにあるスイーツバイキングに行くんだ~♪ という響ちゃんたちと別れ、オレたちは再度歩き出す。
「…なんでしたら、立花さんたちと一緒に行かれた方が良かったのでは?」
響ちゃんに誘われて、あっさりと断ったエルフナインちゃんだった。
「いいえ。さすがに響さんと一緒に食べ歩けるほどボクの胃袋は大きくないので…」
苦笑する彼女に、当然の反応だなと思う。オレだって聞いているだけで胸ヤケがしてきたくらいだもん。
黙々と歩いていると、間もなく秋葉原の派手な色彩の街並みが見えてくる。
学生のころは良く漫画やラノベを買いに来たもんだが、最近はとんとお見限りだ。
「ななな南雲さん! あれはなんですかッ!?」
エルフナインちゃんの指さすところには、チラシを配るメイド喫茶のメイドさん。
まだああいう子がいるのか。懐かしい。
適当に説明すると、エルフナインちゃんは深刻そうな顔で考え込んでいる。
「そもそもメイドとはイギリスの労働者階級の一種では…?」
「日本は往々にして海外の文化を自己流に解釈、改造してしまうのですよ」
「…なるほど! 文化の解体と再構築ということですねッ!」
よく分からんが納得してくれたようだ。
そんなエルフナインちゃんが次に興味を示したのは、ゲーセンの店先に設置されたクレーンゲーム。
「…気になりますか?」
「い、いえッ! 以前、響さんたちと一緒に遊んだことはありますけど、それほど…」
嘘だな。オレの方を向きながらも、ちらちらと視線が筐体に動いている。
筐体の中には、巨大なウサギのような生き物のぬいぐるみ。
ふむ、あれが欲しいのか?
「ちょっと待っていて下さい」
オレは素早く両替機で万札を両替。
「これがいいんですか?」
「えっ!? あッ、はい!」
返事をしてくるエルフナインちゃんに頷き、百円玉を投入。
ボタンを押せば、ピンポンピンポンと電子音を立ててクレーンが動く。
いまや誰もが知っていると思うけれど、クレーンゲームとかは確率機だ。
つまり、コイン投入時に当たりを引かなければ、クレーンのアームの力が弱いままで絶対に掴み上げることは出来ない。
当たりを引いたタイミングで、しっかりと掴まないと、目当ての商品を取ることは難しい。
なので長期戦を覚悟しての両替だったのだが。
「すごいです、南雲さん! 一発で取っちゃうなんて!」
…オレって運が良いんだよな? 微妙にショボイ運だけどさ。
しっかし、この余りまくった百円玉はどうすりゃいいんだよ。
でもまあ、エルフナインちゃんは大喜びで、おまけに軽く尊敬の眼差しで見られているのは悪くない。
「一生の宝物にしますッ!」
あんまりに大袈裟な物言いに苦笑していれば、もはや神田に達していた。
時刻もそろそろ昼時なので、古書店に行く前に昼食を摂ることを提案する。
承知してくれたエルフナインちゃんと以前に来たことのあるカレー店へ。
神田はとにかくカレー店が多くて美味い。エルフナインちゃんの口にも合うだろう。
穴場的な店なので、昼時なのに空いていた。
四人掛けのテーブル席に案内され、そこでエルフナインちゃんがナップザックを横に降ろす。
「あ、もしかしてお弁当でも持って来ています?」
迂闊にも、その可能性に店の中に入ってから気づく。
お弁当でも入ってなきゃ、なんでわざわざナップザックなんか持ってくるってんだ。
「いいえ?」
首を振るエルフナインちゃん。
「じゃあ、おやつとか?」
そう訊ねてもなおキョトンとしているエルフナインちゃんだったが、ようやくオレが言わんとすることを察してくれたようだ。
「あ、このナップザックの中身は、南雲さんの義手のメンテナンス道具ですよ」
「え?」
素直に驚く。
「今日は普段の南雲さんがどんな感じで義手を使っているのかも見たかったんです。研究所にいるだけでは見られませんから」
「なんと」
「普段使いしている分には全く問題ないみたいで安心しました」
そういって微笑むエルフナインちゃんにオレは大いに反省する。
まさかオレの義手のメンテナンスの一環だったとは。
遠足とか馬鹿にしてごめんよ、エルフナインちゃん。
「ちなみに、その水筒の中身はなんなんですか?」
「これはお砂糖入りの冷たい麦茶ですけど」
訂正。やっぱ遠足じゃねえか。
昼食は、エルフナインちゃんはチキンカレーでオレはビーフカレー。
仮初にも護衛任務と心得ているいので、量はエルフナインちゃんに合わせて腹六分程度にとどめている。
支払いはさっき両替した百円玉で済ませた。けどまだまだある。どうしよう、これ。
カレー店を出て歩く。
「神田は日本でも有数の古書街と聞いてますから、楽しみですッ」
研究者ってのは本当に古書とか好きだなあ。
カレーを食べて元気いっぱいのエルフナインちゃんの後ろ姿を眺め―――オレは違和感に眉を顰めた。
瞬時に意識を警戒モードへ切り替え、大股でエルフナインちゃんを追い越し、彼女を背後に庇うようにして周囲を見回す。
神田もそれなりに人通りが多い。最近は、外国籍の方も多く、人種の色彩も豊かだ。
そんな行き交う人の中に感じた違和感の正体は―――あれか。
道路の真ん中に、一人の背の高い女が立っていた。
真っ黒いレザーのような上下。濃いアイシャドウと真紅の口紅が印象的だが、それ以外の真っ白い顔はまるで能面のようだ。これだけでも大概なのだが、なによりインパクトを与えてくるのは太腿付近まで伸びた真っ青なストレートヘア。
1000万都市の東京にはエキセントリックな風体をした人間も多い。
でも、こいつは違う。人間じゃあない。
あの女が立っている場所そのものが、まるで切り取られた別世界のように異質な空気を放つ。
その証拠に、他の通行人は、あんな風体の女が道路の真ん中に突っ立っているにも関わらず、まったく気にしている様子がないじゃないか。
数々の超常に触れた経験が募ると、やがて超常に関連するものが見えるようになるらしい。
―――あの女も、おそらくその類の可能性が高いな。
周囲に視線を飛ばす。
同僚の護衛たちが目線で頷いてくるのに頷き返す。
「…エルフナイン特別顧問分析官」
「はい、わかってます…」
どうやらエルフナインちゃんも気づいていたようだ。小声で返してくる彼女の肩を抱くようにして青髪の女とすれ違う。
でかい。178cmのオレより更に頭半分は大きいみたいだ。
これだけでも妖しく思えてくるが、超常の存在が必ずしもこちらへ害をなしてくるとは限らない。
地縛霊の如く、ただそこに留まるだけの例も知らないわけではなかった。
とりあえず何事もなくやり過ごそう。取りうる手段としてはそれが最良だ。
目を合わせないようにして、努めて平静に歩を進める。
よし、無事通り抜けられそうだ…。
そう思った瞬間、エルフナインちゃんの足が止まる。
オレたちの行く手を遮るように、大女が腰を曲げてこちらを覗き込んできた。
ざざざと長い髪が流れる。
大女は首をコキコキと傾げるようにしてエルフナインちゃんを見つめ、呟く。
「見ィツケタ」
オレはとっさにエルフナインちゃんの腕を引っ張って引き寄せた。
そのまま背中へ庇うようにしながら後退。距離を取る。
呼応するように横路地から飛び出してくる保安部の護衛たち。
それぞれが既に銃を構えていたので、行き交う人もびっくりして足を止めている。
しかし、たちまち剣呑な空気が周辺へと満ち、危険な気配を感じ取ったものから悲鳴を上げて遠ざかって行く。
オレも青髪の女に向けて銃を突きつけた。
「貴様、何者だ?」
答えはない。
それどころか、この女は、オレたちすら見ていなかった。
視線はじっとエルフナインちゃんには固定したまま。
毒々しいまでに赤い唇が半円を描く。笑っているのか?
開いた唇の隙間に見えるのは漆黒で、そこから出た声は鳥肌が立つほどおぞましい。
「見ィツケタァアアアアアアアアアア!」
まるで泥濘地を蛇が這うような生理的不快感を催す声。
コイツはヤバい!
オレがそう直感すると同時に、同僚の一人が既に躍りかかっている。
顔見知りの彼は大東流合気の達人だ。腕を取ってからの肩固めは、同レベルの達人でもなければ抵抗することも叶わない。
同僚は腕を取り、青髪の女は組み伏せようとして―――五メートルは先の土塀へと叩きつけられていた。
「動くなッ!」
叫びつつ、銃の狙点を定めようとしたもう一人の同僚も、すぐその場に昏倒する。
凄まじい速さとリーチで拳を顎先に見舞われたのが辛うじて見えた。
見えたと意識するのとほぼ同時にオレは発砲している。
わざと派手な発砲音が出るようにした銃は、周囲の一般人への注意喚起の意味がある。
左手で撃つように矯正していたはずが、つい右手で撃ってしまう。しかし義手は上手く動いてくれたようで、容赦なく五発とも顔面へと叩きこんでくれた。
衝撃に女の首は後方へガクリと仰け反る。
これが効いてくれれば―――。
大女が発条仕掛けのような動きで顔を起こした。首と肩をボキボキっと一つ巡らして、赤い唇を開く。
そこから弾頭がボロボロと落ちた。五発分。
甘すぎる期待は瞬時に打ち砕かれた。
こいつは間違いなく超常の存在だ。
そしてその目的は。
「見ィツケタァ!
エルフナインちゃんに向けて突進してくる大女。
その目前に立ち塞がるオレ。
腰を落とし、震脚の威力を転化した肘を突き込む渾身のカウンターが決まった。
モロに胸骨へぶち込んだ一撃は、大の男でも悶絶するか吹き飛ぶ程度の威力がある。
しかし、女は小うるさそうに身じろぎをして、ちらりとオレを見た。
次の瞬間。
「がっ!?」
世界が二転、三転した。
全身に衝撃。
脳も派手に振り回されたらしい。一瞬意識が飛ぶ。
「南雲さんッ!?」
エルフナインちゃんの声を遠くに聞き、どうにか意識を繋ぎとめた。同時にあれだけ吹き飛ばされたのかと認識。
しかし内臓がもんどり打つ痛みに声も出せない。
動悸に合わせて波打つ視線を上げ、彼女の姿を見ようとする。
他にもいた同僚の護衛たちが青髪の女に跳びかかり、オレのように吹き飛ばされて行く姿が見えた。
護衛部隊はそれで全滅。
女は悠々とエルフナインちゃんを小脇に抱え込もうとする。
「や、止めてください! 離して…ッ!」
…やめろ!
そう声に出す代わりに、口から血が零れた。
「南雲さん! 南雲さん! 助けてッ…!!」
くそッ! くそくそくそッ!
目の前でエルフナインちゃんがさらわれようとしているのに、オレには何も出来ないのか?
やはり、オレは単なるモブAで、彼女を助けるような真似は端から出来ないというのか…!?
血と一緒に歯を喰いしばる。しかし、オレの視界は白く染まっていく。
ちくしょうッ。駄目だ。もう意識が―――。
―――それは、平穏な日常と唐突な超常の落差が見せた幻影か。
だだっぴろい無人の野を一人行く影がある。
果てすら見えない荒野に、他の生き物の影はない。びょうびょうと風が吹きすさむばかりだ。
それでもその人影は歩みを止めない。
荒野の果ては見えず、その先に希望があるのかすら定かではない。
それでも進める足に、力強さが加わった。
いつの間にか、風の中に口笛が混じる。
それはただの口笛ではない。
それは歌だった。
絶望を奏でる風に抗う歌。
見果てぬ征途の先へ希望を見出す歌。
すなわち。
―――オレの視界は急速に輪郭を取り戻す。
同時に、萎えたと思った勇気が奮いたった。
よし、右手は動く。
むしろ右手である義手は勝手に動いていた。
スラックスのポケットに手を突っ込んで、残った百円玉をごっそりとつかみ出す。
「おい待て、そこの化け物野郎ッ!」
オレの声に、エルフナインちゃんを小脇に抱えて去ろうとしていた大女が振り向いた。
その振り向き頭に、顔面目がけて右手から百円玉の連射が炸裂。
義手が神速の親指で弾く百円玉の威力は凄まじく、大女はたたらを踏んで仰け反った。
その隙を逃さない。百円玉を撃ち尽くした右手に引っ張られるように、オレは猛然と前方へとダッシュ。
ヘッドスライディングするように大女の足もとへと達し、右手の義手でガッチリとその長靴を掴むことに成功。
大女は無表情で足もとのオレを見下ろしてくる。くそ、分かっちゃいたけど、それほどダメージを与えてはいないか。
なら打つ手なし、か? いや、まだある。
「この〝検閲削除表現〟野郎! さっさとエルフナインちゃんを返しやがれッ!」
オレの必殺の罵詈雑言口撃に、大女の能面のような眉がピクリと動く。
続いて唇が動いて何事かを喋ろうとする寸前、
「おまえは〝検閲削除表現〟だ! そんな小さい子をさらっていこうとする〝検閲削除表現〟で〝検閲削除表現〟の〝検閲削除表現〟だ! 〝超検閲削除表現〟の変態野郎がッ!」
大女は無表情のまま、掴まれていない方の片足を上げた。
無造作に顔面を踏みつけられ、痛みに目の奥から火花と涙が散る。しかしオレは内心でしてやったりと喝采を上げた。
相手を激昂させ粗野な暴力行為を選択させた時点で、オレの目論見は半分達成している。
オレにこんな化け物をどうこう出来ない以上、出来ることは時間稼ぎしかない。
既に他の保安部からシンフォギア装者たちに連絡が行っているはず。
それとさっきの発砲音を聞きつけた響ちゃんが駆けつけてくれれば…!
更に顔面を踏まれる。何かが砕ける音がしたが、構わず左手でも長靴を掴む。
もっと罵詈雑言を投げかけようとすれば、開いた口に踵がぶち込まれた。
痛い。死ぬほど痛いけれど、掴んだこの手は絶対に離してやるもんかッ!
血反吐を吐いて、それでも顔を上げれば、視界の半分は真っ赤に染まっている。
残った半分も涙で滲んで、そこには大女に小脇に抱えられながら何かを叫ぶエルフナインちゃんがいた。なんかボロボロと涙を零している。
―――泣かせちまうなんて、カッコ悪いな、オレ。
そう思って、安心させるように笑って見せたつもりだ。
直後、長靴の裏が視界いっぱいに広がる。
無理やり意識ごと何もかもが真っ黒に染められる寸前、澄んだ聖詠を聞いたような気がした。
「―――さん! 南雲さんッ!」
…あれ? どうしたんだ、エルフナインちゃん?
無事か? 無事みたいだな。
あ、響ちゃんがいる。間に合ってくれたのか。
なら、良かった。良かったよ。
でも、どうしたの、そんなに泣きじゃくって。
オレは、大丈夫だから―――。
しゃべろうとした途端ごぼっと血が込み上げて来て、咽る。
前後左右、あらゆる方向から凄まじい痛みが押し寄せてきて視界が渦を巻く。
ああ、これはマジでヤバいかもな…。
だけど、オレは今度こそ安心して意識を手放した。