AKIRA´s Story.   作:百田

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#1 AKIRA´s Story.

これは

ある街のはなし。

 

そこには、何時の時代にも

幾つもの 〝変わった技〟 と 〝変わったモノ〟 が明白に存在している。

 

そして、これは

そこに住まう、不思議な力を持った 〝アラユルモノ達〟 のおはなしなのです。

 

 

~〇章 招かれる~ 

 

四番地のビル街のホテルを右に。

その先、三番目の小路を左に。

時間は22:00迄に着く様、厳守。

 

 

「そこに君の『部屋』があるから」

 

そう言って手渡されたのは、小さい封筒に入った手書きの地図と鍵だった。

 

◇惺 AKIRA◇

〔21:00〕

夜風が冷え冷えとしている。吐息が白い。

辺りは真っ暗で。どこか哀しくて。

遠くの方に、微かな灯りが、ぼうっと見える事が救いだった。

〝目的地〟までは、指定された番地を見る限り、大分離れているのだろう。

だから、指定時刻の一時間前には孤児院(いえ)を出る事にする。

 

「今まで…有り難う」

僕は、薄暗い夜道に踏み出した。

 

   *

 

〔21:29 TL.残り31m〕

やっと四番地まで来た。幸運な事に、ここまでは何事も無く、順調だ。

でも、ここから既にカウントダウンが始まっていたのだ。

 

「この調子なら、余裕を持って行け…」と、唐突に何かが飛んで来た。

しかも、後ろから。間一髪で避けたものの、それは服を掠め、花弁の様な衣を一片(ひとひら)風に乗せた。そのまま身を翻(ひるがえ)しながら振り向くと〝それ〟は、軽く高らかな音(ね)を上げ転がっていった。

「やれやれ、刃物とは…」

苦笑しながら、目線だけをそちらに向ける。そこには、一〇センチくらいの短刀が月光を反射しながら厚顔無恥な姿で居座っていた。

その時、また背後に気配を感じ、反射的に振り向…いた先には、白いフード付きのマントを身に纏った者が、一人。見たところ、身長は一七〇センチくらいだろうか…。

「ああ…時間厳守、ってこういう事だったんだね」

直感だが、要は、このマントの人物という障害を越えて、時間内に目的地まで辿り着かねばならない、という事なんだ。そんな事を考えていたら、マントの人物が此方に向かって歩いて来た。

そして徐(おもむろ)に、懐から先程と同じ短刀を取り出した。

「あれ…? じゃあ、さっきの…」飛んで来た短刀は言うまでもなく、こいつの仕業か。目の前の人物は、刃を向けてゆっくりとした足付で歩み寄って来ている。そして何を思ったのか、急に飛び掛かって来た。驚きながらも、それを躱(かわ)しながら少しでも先に進もうと、進行方向に身を運んで行く僕。躱しながら進む事くらいは、思ったよりも簡単なものなので、ひょいひょいと避けつつ腕時計をちらりと見遣(みや)る。

〔21:32 TL.残り28m〕

 

不覚だった。時間は刻一刻と進んでいるのだ。

「すみません。僕、貴方とあまり長く、追い掛けっこしていられないんですよ」

取り敢えず、奴の持っている刃物があると面倒だ。そう思った瞬間には、既に身体の方が動いていた。擦れ違い様(ざま)に奴の手元を掴み、そのまま距離を計り、虚を衝く。刃物を握っている手を封じたまま、腹部に一発お見舞してやった。

拳(こぶし)を受け、そのマントの人物は、いとも簡単に蹲(うずくま)る。

それにしても、反射的に手向かってしまうとは。我ながら快くないものですね…。

 

すると今度は、唐突に「ああ…やっぱり。あの子、近距離戦法だから」

少し間延びした、呑気な声が降って来た。

見上げると、身長が一六〇センチくらいの、同じ風貌の者が近くの建物の屋根に立っている。声音から女性だろうか。

その女が屋根の上を歩き出す。辺りが一気に無音になる。

何の音も聞こえない……

いや、そんな事は良い。今は時間が無いんだ。

そう己を鼓舞し、歩を速めた甲斐あってか、何とか二つ目の小路まで辿り着いていた。

それを見た女は、薄ら笑いを浮かべ、字の如く見下ろして言う。

「あら、逃げるの?」と。

それから、彼女も懐に手を滑らせたかと思うと何かを取り出した。

そして、ひとつ。それが、乾いた音を立てる。一瞬、何事かと戸惑ったが、それは、直(す)ぐに判った。威嚇射撃。彼女が取り出したのは短銃だった。

気付くと、つい先程まで対峙していた者も微動だにせず、呆然としている。

……何だ、奴等は仲間じゃないのか?

と、女が冷たい笑みのまま、もうひとりを人差し指だけで手招きした。まあ、やっぱり共謀者ですよね。

 

それより…。

一刻も早く解放してくれないものか。心なしか、段々、苛々してきた。

〔21:36 TL.残り25m〕

 

「さっきから言ってますけど。僕、今時間が無いんですよ」

そう、もう一度言ってみた。すると、女の方が何やら構えた。

「…じゃあ、私に勝つ事ね」

銃口を此方に向け、にっこりとする。

「ほら。でも僕、戦える様な物、何も持ってないから」

僕が苦笑いで肩を竦(すく)めると、直(す)ぐに何かを投げ渡された。短銃が飛んで来た…弾でなく、本体が。

「これ、使って良いわよ」

……ああ、全くもう。物凄く厄介だ。

暫しの思案と、女との睨み合いで沈黙が続いた。

そして、構える。両者同時に。しかし彼女の方が断然、慣れている。ほんの僅かに動作が速かった。その一発を避け、また見詰め合う。

…再び。もう一発。今度は本当に不意だった。微塵(みじん)も前触れを感じさせないまま、飛んで来たその弾は、僕の肩の服を軽く掠めていった。

それでも此方が抵抗や焦りを見せないからか「貴方は打たないの?」と、退屈そうに小首を傾げる女。

「だって、いくつ弾が入っているか判らないし……」

「判らないし、何…」

彼女が、不満そうな顔で口を開き掛けたところを狙い、わざと間抜けな素振りのまま、僕は引き金を引いてみた。

唐突な銃声に、彼女は短く「きゃっ」と声を上げる。よく見ると、短銃が主の元を離れ、どこかに消えていた。良いのか悪いのか、一応…命中した様だ。

「それに、女性にはあまりこういう物を向けたくない」

「…ゆ、油断したわ」

そう言った彼女は手を押さえているので、今の撃たれた衝撃で痺れているのだろう。

「では、失礼」

それ以上、何も言わなくなった彼女に、半分謝罪の意も込めた一礼をして先を急ぐ。

それにしても時間も時間、場所も場所だからか。全く一般人と呼べる者には出会わない。更に、こんな、おかしな事だらけの夜だ。頬に触れる風ですら、不気味なものに感じてしまう。

それに…何と言うか。夜道を走りながら、こんなにも心の余裕があり〝何か〟に期待してしまっている自分に、半ば嫌気が差してきた。

「はあ……」と情けない溜息。気を取り戻す為に、再び時間を確認する。

 

〔21:38 TL.残り23m〕

「本当に時間が無いねー」と、また投げ遣りな、溜息混じりの声が出た。

因(ちな)みに、生まれて初めて扱った銃。

あの華奢な彼女もそうだが、よく撃った反動で吹き飛ばなかったものだ。

 

   *

 

三つ目の小路に入…ったところで。

「またですか」と失笑。予想通り、またまた、例の如くマントの人物です。

今回は、道の随分と先に居るので、余計に大まかな事しか認識出来ない。しかし身長は、この距離にしては高く感じられる…一八〇センチくらいはあるだろうか。

と、月光が何かを弾いた。フードの奥で、きらりと一瞬。それで、きっと眼鏡をしているのだろう、と思った。いや、まあそんな事は良いか。

…さて、今度の御相手は。

行く手に在る、見上げる程の塀の上に立って居た。

が、そこから優雅に飛び降り…道を塞ぐ。

「やっぱり、こうなりますか」

仕方無いので、此方は歩みを止める。そうやって対峙した形になったところで、眼鏡の人物は前の奴等同様、懐に手を伸ばした。

そして、こいつが取り出したのは…少し変わった洋弓だった。きらきらとした硝子の様な、宝石の様な装飾が施されていて、微かにだが、弓矢自体が光を纏っているみたい……って、見惚(みと)れている場合じゃない。その弓から、瞬く間に、次々と輝く矢が放たれてゆく。僕はまともに対抗出来そうな武器を、何ひとつ持っていないのだ。仕方無く、唯一、手に持っていた武器…先程の短銃を眺めた。

「これ…使うしかないのかな」

波の様に押し寄せる光の矢から逃げつつ、その銃の弾数を確認する。

「…やっぱりね」予想通り、空っぽだった。

と、物凄い圧が背後に迫っている事に気付く。予想外な方向からの攻撃。幸いにも、また間一髪だった。

それにしても、マントの人物は、進行方向に仁王立ちしている為、進む事も難しい。此方は時間が迫っているというのに…。

ならば、ここは一か八か。

「あと、少し。もう少しで…着くんだ」

そう念じる様に呟き、前を見据えると、僕は地面を強く蹴った。

互いの距離が数十メートルになった時。いつの間にか、奴の手元からは弓矢が消えていて、その代わり、再び懐から怪しい物を取り出しているところだった。

……今度は、そう来ましたか。

奇妙な白い裾から姿を現したのは、長剣だった。どこか欧羅巴(ヨーロッパ)の貴公子を思わせる、細身の剣。月明りで複雑な陰陽を醸し出すフードの下で、奴がにやりと、口角を釣り上げる。そして走り続ける僕と擦れ違った瞬間、何故か、取り出した剣を構える事もせず、ただ立ったままの奴は飄々(ひょうひょう)と、どこかで聞いた科白(せりふ)を言い放った。

「私から逃げるのですか…?」と。

「……!」

突然、全身を包み込まれる様な違和感を覚えた。

言葉では言い表す事が出来ない…。

強いて言うならば「ただ懐かしい」感覚。

初めての感覚だった…筈なのに、不快過ぎない。不安でも無い。

……何だ、これ。

思わず足が縺(もつ)れそうになるが、何とか耐える。

この時、僕の思考は限界だった。こんな状況で冷静にじっくり考える事なんて、もう不可能だった。

だから今、唯一、僕に出来ること…

ただ、自分を信じて…進むしかない!

走る。走る。走る。

突然、襲って来た〝謎の違和感〟をも無視して…思考を止め、ここまで来たのに諦めるものか! とばかりに。

走る。走る。走る…

 

「あれか!」

見付けた。やっと…目的地が! 門が!!

目的地(そこ)に在ったのは、また何とも欧羅巴(ヨーロッパ)を匂わせた建物だった。

僕は、それを目指し、とにかく走った。

 

門にあと一歩のところで、硝子が割れた様な音が響き渡る。

同時に、視界の端で一輪の華が散った。 

人ひとりが通れる程の小さな門は、黒い金属製でアーチ状。更に、そこに蔦が絡み付いていた。

いつの間にか、さっきまでの違和感が消えていた僕は…門に足を踏み入れたところで、ゆっくりと振り返る。

そこには、今まで追って来た者の代わりに、あの長剣が在った。

きらきらと、今にも消えそうな弱々しい光を放ちながら、砕けて逝く様(さま)は、儚く…正に、華の終焉(おわり)の様に見えた。

〔21:57 TL.残り03m〕

 

 

門の先は、暫く広い庭だった。芝生に敷かれた小道に沿って歩くと、建物の玄関が見えてくる。玄関には、短い階段があり、その上に外国のパブを連想させる古惚けた木製の扉が待ち構えていた。頭上には鈴蘭形の洋灯(ランプ)が吊り下げられ、橙の柔らかい灯りを零している。洋灯の優しい灯りに導かれる様に…ゆっくりと、僕は、その〝扉〟を開けた。「…失礼します」と、恐る恐る。

 

建物に入ると、開けた広間(ホール)になっていた。臙脂色(えんじいろ)の絨毯(カーペット)が一面に敷かれ、正面の突き当りには、小さな木の丸テーブルがちょこん…と置いてある。僕は見慣れない空間を、慎重に進んでゆく。少し行くと、左側には同様の絨毯(カーペット)が敷かれた、大きな上り階段。突き当たり…小さな丸テーブルの手前を左に曲がり…階段の前を横切ると、部屋が在った。

…ゆっくりと足を踏み入れる。

部屋(そこ)は薄暗い照明で満たされ、ほんのりと良い香りを漂わせていた。入って直(す)ぐ左にカウンター…何だか、ちょっとした喫茶店(カフェ)か酒場(バー)みたい。

そして。そこには、先客が居た。清楚で大人びた雰囲気を纏った少女。肩の辺りまで伸びた、ふわふわとした、栗色の髪が彼女の微かな笑みに合わせて揺れる。その隣には、美しい黒髪に、切れ長の紅眼を据えた少年。

「綺麗…」

気付くと、そんな科白(せりふ)が零れていた。

だって、彼女の微笑みと、彼の横顔が余りにも愁(うれ)いを帯びていたから…。

少年が、ふと顔を上げた。それに釣られる様にして、少女も一瞬驚いた顔をしたが、直(す)ぐ此方に気付く。

「お兄様…! お客様よ!」

少女は、カウンターの奥へと姿を消した。

それを呆然と眺め、立ち尽くす僕…を見た少年は、少しだけ優しい目を向けて口を開いた。

「いらっしゃい、惺(あきら)君」

……名前。どうして。

 

そこへ、先程の少女と、もう一回りくらい歳が上であろう青年が現れた。

「お兄様、彼かしら?」

「ああ、そう。本当に…惺…よく来たね」

「えっ」

 

……僕は、この声を…知っている。

目の前で、優しく微笑み、僕の名を呼んだのは誰なのか。

必死に記憶を呼び起こす。〝彼〟は、少し笑いながら、ちらりと視線を横に向けた後、再び僕を見詰める。そして、「久し振りだな、惺(あきら)」と言った。ふと…そこで、ぴんと来た。

「お前…棕矢(そうや)か…?」

僕の問いに、彼はにっこりとして言う。「正解」と、子供みたいな無邪気さで。

と、そこで暫く黙っていた黒髪の少年が口を開いた。

「…取り敢えず、座れよ」

その言葉を聞いた途端、何だか急に気が抜けてしまった。思っていたより疲弊していたのかも知れない。それでも、今は休んでなどいられない。

彼等には、訊きたい事が山程あるのだ。

 

「そうだなぁ…惺には、どのくらい会って無かったんだろうな…」

想いを馳せる、その表情は記憶の中の棕矢と全く変わっていなかった。

こいつは昔から、色んな意味で〝年相応〟という言葉を無視した奴なんだ。

「どのくらいって…僕が〝院〟に入ってから、そんなに経ってなかったから…えっと…七年くらい前からじゃないか?」

「七年…。もう随分、会ってなかったもんな」

「そうだよ。急にお前が、待ち合わせに来なくなったから…」

 

……本当は、凄く不安だったし、心配だったし、寂しかったんだ。

なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えないな。

「…どうした?」

「…え? いや」

此方をじっと見詰める彼は、何故か少し悲しそうな瞳をして言った。

「…お前。飛び出してきて、後悔してないのか…?」と。

 

   *

 

〝院〟…それは、僕の家だった場所……〝孤児院〟。

その孤児院は、一風変わった処(ところ)で。魔法と呼ぶのが相応(ふさわ)しそうな…何だか不思議な部屋が、いくつか在った。幼い頃の目には物珍しく、興味で目を輝かせていたであろうが、今となっては、そんな事より〝外〟に出たいが故、結果として此処に居る自分(ぼく)…。

 

   *

 

そこへ、コトンと鮮やかな色彩のカクテルグラスが置かれた。見ると少女が、あとの二人の分も並べている。

「え…っと。これ…」見慣れないきらきらと煌(きら)めく洒落(しゃれ)たグラスを前に、言葉を詰まらせると、少女がくすりとして「お酒じゃないわ。見た目だけ」と、少しだけ肩を竦(すく)めて見せた。

彼女の一言を境に、淡い照明を纏うグラスを見詰めながら、僕は新たに話題を切り出してみた。

「まさか、あの手紙を送って来たのが、お前だと思わなかったよ…」

その一番気になっていた話題を。

でも…その自分の言葉が、何となく恥ずかしく思えて、はにかむと…カランとグラスも、はにかんだ。

手紙…。

「まさか、あの手紙を送って来たのが、お前だとは思わなかったよ…」

僕はてっきり、棕矢(そうや)があの手紙と鍵を送って来たものだと思っていた…のだが、その返答は意外なものだった。

「手紙? いや、知らない。俺じゃないよ」

「え? じゃあ…誰から…」

一瞬、背筋に氷を当てられたみたいに、ぞくりとした。

 

……では、誰が〝此処〟に招いたのか。

 

この少女か? さっき、棕矢が「お兄様」とか呼ばれていた筈…。

「あれ? お前…妹…いたのか?」

それを聞いた彼は、何だか複雑な表情(かお)をした。微々たるものだったが、確かに。

そして、打って変わって笑顔になると「ああ…お前は、恭と面識が無かったのか」とだけ言った。

「改めて、いらっしゃい。惺(あきら)さん」

彼女は、半分ドレスの様な凝(こ)ったワンピースの裾を軽く摘(つま)み上げ、丁寧にお辞儀をする。その淑(しと)やかな所作に、思わず、見惚(みと)れてしまう。

…そうか。兄妹だからな。やはり、大人びたところは、似ているらしい。

 

   ***

 

……棕矢。

僕が幼い頃。気付けば、彼は直(す)ぐ隣に居る程の存在だった。

〝ある理由〟があって、彼と一緒に居た期間は短かったけれど…。

でも、それなりに親密な関係だったと思う。

「棕矢とは、ずっと前から幼馴染だったみたい」と思うくらいには。

だから「恰好良くて、兄貴みたいだな…こんな兄貴が欲しいな…」なんて、よく思ったものだ。

無論、あの大人びた言動や、包容力に救われてきた僕であったから。

 

 

「ああ、そう言えば…」

懐かしさが尾を引く中、大いに逸れた話を本題に戻す。

あの手紙が入った封筒を、がさごそとポケットから取り出し…その中に光る小さな鍵を、カウンターの上に乗せた。

「これ…」

それを覗き込んだ棕矢(そうや)の碧と金の瞳が見開かれ、僅かに揺れる。後(のち)、同じ瞳の色をした恭さんと顔を見合わせ、二人は互いに小首を傾げた。

「確かに…館(ここ)の鍵ね」

冷静にゆっくりと切り出したのは、彼女の方だった。

「でも何でまた?」

兄妹は「最近、部屋の鍵を紛失したのか」やら「合鍵の確認」が何とかやら…と、話し出す。

それから話が済んだかと思うと、恭さんが棕矢に何事かを指示され、部屋を出て行った。…間も無くして、彼女が戻って来た。そして一言。

「惺(あきら)君、こちらへ」

 

   *

 

「じゃあ、この部屋が、今日から貴方の〝居場所(へや)〟よ」

〝それ〟を使ってカチャリと音を立てた後、扉(ドア)ノブを回した彼女は、此方を向く。

 

淀み無く澄んだ、左右で〝色違い〟の瞳。

……そう言えば。

「ひとつ…訊きたいのですが、良いですか?」

それは、極自然と思い、何の気もなしに出た言葉だった。

僕の言葉に「なあに?」と優しい表情を見せる少女。

「…あの」と言い掛け、そこで。僕が今訊こうとしているのは、本当に「彼女に訊いても良い事なのか?」と思い止(とど)まる。

何故だろう…。錯覚だろうか。それとも、その先の〝何か〟を予感してなのだろうか…。だからこそ、僕は躊躇した。

今、目の前に立って、此方の言葉を待ってくれている少女に向けて訊くか否か。

 

……どうして。どうして、棕矢と貴女の瞳は。

……瞳は。

 

しかし、そこでその問いは、ただ僕の喉を詰まらせるものに終わった。

じっと言葉が投げ掛けられるのを待っている彼女は、初めて出逢った時と同じ顔をしていた。

愁(うれ)いを帯びた瞳。

曇っている訳でも無いのに、どうしてあんなにも哀しそうなのか。

……何なのだろう。この少女の、儚さにも似た違和感は。

僕が此処へ来てから、数日が経つ。

部屋に籠(こ)もって、ぼんやりとしていた時の事だった。

 

その日は、何となく落ち着かず、朝からずっと気を張っていたのだ。それは…いつに無く。これは…。新たな環境に、まだ慣れていないからなのか。

「それとも…」

彼処(まえ)〟と〝此処(いま)〟の類似点。

そんな風に、何時間も掛けながら、じわじわと気力を消耗させられていた。

その削れていく感覚を紛らわす為に、備え付けのベッドに寝転び、何度も体勢を変える。

 

と、コンコンと部屋の扉が叩かれた。足音も気配も無く、本当に唐突だった。だから一瞬、飛び上がってしまう。僕は、その反動を使う様にして起き上がり、一呼吸、吐いた後「どうぞ」と短く応じた。

ゆっくりと開いた扉の向こうに立って居たのは、あの黒髪の少年。改めて思うと、歳は…僕と殆ど大差無い気がする。

鮮血の様な、鮮やかな紅(くれない)の瞳が、頓(ひた)と此方を捉える。

途端、貫かれた気がした。それ程に強い目をしていたのだ…彼は。

驚きつつも、一先(ひとま)ず「どうしたんですか?」と、簡潔に訊いてみる。

すると意外にも、迷い無く見据えていた視線が落ち…それから俯き加減のまま、彼は言う。

「話がある」

それから、少し間が空いた後「お前…何かあったのか?」と続けた。

その脈絡無き言葉は、予想していたものと遥かに違っていた。

あんな深刻そうな目をしていたのに、出てきた言葉が、あまりにも抽象的過ぎて…。

だから恐らく、僕は不思議そうな顔か、苦笑いでもしたのであろう。何となく、彼に睨まれた気がする。でも、仕方無いだろう? 脈絡が無いのだから、君が何を言いたいのか解りっこないさ。

 

「急に…どうしたんですか?」

しかし、その答は実に簡単だった。

ただ、朝から僕が顔を出さないものだから、兄妹(ふたり)が心配しているらしい、と。

…そうか。気付けば、相当考え込んでいたのか時刻は昼過ぎだった。

それは、さて置き。

「君は…僕に話があるんだろう?」と、第二の疑問を投げる。すると、彼は一瞬向けた瞳を再び伏せ、暫くの沈黙の後で「そうだな」と答える。

そういう訳で、先(ま)ずは、その場に立ち尽くしていた彼を部屋に招き入れ、ベッドに座らせる。それから、彼から聞いた伝言のこともあったので、階下に居ると言う兄妹に顔を見せて来る、と告げ部屋を出た。

 

もう、今では見慣れた広間(ホール)に足を運ぶ。

コツコツと靴音が響く廊下。建物の外装からは、想像も付かない様な、長い長い廊下…。そして、平然と並ぶ扉達。まるで、高級ホテルと言う例えが具現化されたかの様な、ちょっとばかり非日常的な場景。柄でも無く嬉々(わくわく)として、その奇奇怪怪な道を踏み締めた。

 

……どこか、懐かしい想いとも取れる心持で。

あの開(ひら)けた部屋に入る。

そこには、カウンターの中でグラスを拭いている棕矢(そうや)と、古風な洋書に目を落とす恭さんが居た。此方の足音に顔を上げ、安堵の表情を向ける二人に挨拶をする。「彼等は、何もかもが絵になるなぁ」なんて沁み沁み(しみじみ)としながら…。

取り敢えず、具合が良くないと言う理由を付け、早々に部屋へ戻ろうか…〝彼〟も待ってくれている。…なんて。嘘か真か、こんな曖昧な理由。

……きっと、この二人の事だ。「取って付けた様な科白(せりふ)だ」と、お見通しでしょうね。

けれど、そんな上辺ばかりの理由を伝えると、恭さんは顔色ひとつ曇らせる事無く「食事は?」とだけ訊ねてくれた。

が、僕は、ただ首を横に振ることしか出来なかった。

 

今、僕の瞳には……。

明るい時の〝其処〟は、初めて見た時とは、全く違う処(ところ)の様に映っている。

穏やかな喫茶店(カフェ)でも、薄暗い洒落(しゃれ)た酒場(バー)でも無い…。

でも、言葉に表せずとも、独特な雰囲気を漂わせる、落ち着いた空間。

 

見慣れてきた筈の場所なのに…

やはり其処は、まだ〝別世界〟なのである…。

 

……そして、それは時に。この心を締め付ける。

 

   *

 

部屋に戻ってみると…。先程の少年は、部屋を出て行った時から微塵も動く事無く、ベッドに腰掛けていた。

「待たせてしまいましたね…」と苦笑を浮かべると、彼は小さく首を振って否定を示す。

「では…話がある、と?」

部屋の南側にある出窓の縁に腰掛けながら、静かに訊ねる。それに「ああ」と口を開いた彼は〝先程〟と同じ瞳(め)をしていた。

「お前は…あの手紙を不審に思わなかったのか…?」

そして開口一番、突飛な質問であった。

あの手紙。初めて此処に来た時に見せた、手書きの地図と、此処の鍵が入っていた封筒のことを指しているのだろうか。

「不審ねえ…僕は、ただ受け取っただけですよ。ああ…でも、その…直接じゃなかったですけどね」

「ほう…」

ちらりと此方を、紅(くれない)が見遣る。

「直接でない、か」

「はい。僕は此処に来る前まで、孤児院に入っていたんですよ」

僕は、遠くを見ながら呟いた。

それから「だから直接でなく、保母さんを介して受け取ったのだ」と付け加えた。と、それに、ぴくりと彼が身じろいだのが判った。

「孤児院…」

……どうしたのだろう?

「さて、その話題を挙げたからには…何か?」

僕がさり気なく促すと、少しの間の後に肯定の頷きが返ってきた。

「名前……」

それは、とても小さな声だった。

「名前…?」

「まだ…俺の名前、お前…知らないだろ」

また脈絡無し。拙く機械的に話す彼は幼子の様でもあり、寂しそうでもあった。初めて顔を合わせた時の人物とは、別人の様に思える程。脆く、今にも壊れてしまいそうに見えたんだ…。

それきり黙ってしまった彼に、更にその先を促す。

「ああ、失礼しました。そう言えば、お訊きしていませんでしたね…」

そう言って、柔らかく微笑んでみる。

「因(ちな)みに、此方の名前は把握してくれて…」

言い終わらない内に、頷きと共に彼は、ぽつりと言った。

「アキラ」

「はい、惺(あきら)ですよ。僕は」

「そ、そうじゃない…アキラ」

「はい?」

「俺も…劍(あきら)だ」

その言葉に、一瞬息を呑んだ。

「君も、アキラ君…なのか?」なんて、繰り返し訊いてしまった。

素直に頷き、此方を見詰めた彼は…その表情(かお)は…どこかで、見た事のある顔だった。

「幼き頃の〝自分〟…か」

 

もうひとりのアキラは、僕の部屋から出て行った。

「あの手紙は……俺が送った…」と、目を合わせることも無いままに。 

 

 

◆劍 AKIRA◆

『万物は〝表裏〟故に存在する』

 

「裏…表…裏…」

手の中のコインを返し返し弄(もてあそ)びながら呟く。

 

……目に映るもの。いや、映らぬものでさえ、裏と表が存在するのか…。

 

〝万物の天秤〟に掛けられ。

〝釣り合う〟為に、引き合い。だからこそ、〝反発〟してしまう。

 

そして結局は、どちらが表なのか裏なのか、なんて判らないんだ。

所詮これは、根拠も無い論理(ロジック)。

「劍(あきら)? 何か悩みでも、あるのか?」

そう声を掛けたのは…「ああ、お前か」

棕矢(そうや)だった。その返事に、ソイツは肩を竦(すく)め、視線だけで宙を仰ぐ。

それから、にやっとして「深刻そうな顔してるから心配したのに、お前か、は酷いじゃないか」なんて笑って見せた。

……本当コイツ、昔から俺が考え事してると「深刻な顔」って言うよな。

「なあ…?」

「ん?」

「この世に存在するものの定義、って何だと思う…?」

「定義?」

「そう。定義…。在るとか、価値とかなんてこと以前の論理」

その科白(せりふ)に「何でまた」と笑いながらも考えてくれている目の前の男。

「…俺は、お前が苦手だ」

蚊の鳴く様な声…よりも小さく呟いた。

その言の葉は…彼に届く前に空(くう)へ褪(あ)せた。

……昼と夜。はたまた、狭間(はざま)の黄昏。

 

〝此処〟では、表裏の人格が具現し〝存在〟している。

明暗の空間を介し、この世界の何処かを行き来するモノ達。

それに、表裏の人格と呼べるものだけでは無いが故に、アラユルモノが蠢(うごめ)く世界。

 

……〝俺〟は、それを知っている。

 

◆己の〝表裏なる片割れ〟が居ると言う事も…。

 

そして、ソイツの事を知ったのは、夢の中。

その姿は、目を疑う程に〝己と対〟であった。

 

『劍 と 惺』……それは『アキラ と アキラ』

 

◆気付いた時には孤児院に居た、親も知らぬままの子…。

◇両親が忽然(こつぜん)と姿を晦(くら)ませ、孤児院に入れられた子…。

 

◆五歳の時に棕矢(そうや)が、孤児院から身元を引き受けてくれて…。

◇五歳の時に孤児院が、身元を引き受けてくれて…。

 

……〝俺達〟は、同じアキラでも同じアキラじゃない。

 

俺は、知っている事を元に〝もうひとりのアキラ〟へと手紙を書こうとしていた。

……彼(アイツ)が本当に、この世界の理である〝表裏=対(つい)〟の存在ならば。

「俺は…」

……その夢想な可能性に懸けてやる。

 

   *

 

その日、手書きの簡単な地図を用意し…兄妹の目を盗んで一室の鍵を調達した。

そこまでは良い。しかし、難はここからだ。

「さて、どうやって届けようか…」

此方にあるのは、同名、孤児院と言う、極少量の情報。

しかも言ってしまえば、これは所詮、俺の勝手な想像…要に夢物語だ。

「孤児院…」

あれは、本当に俺が知っている処なのだろうか…。

本当に〝あの孤児院〟なのだろうか…。

……幼い頃の曖昧な記憶だけでは、流石に情報が少な過ぎる。

そう思い、自暴自棄になり諦め掛けた時だった。

「何だか、お困りの様ですね? 劍(あきら)君」

そこには、白いマントを纏った青年が居た。

 

一体いつ、どうやって入り込んだのか判らない謎の人物は、南側に面した出窓の縁に腰掛ける様にして、フードの中から此方を綽々(ゆったり)と眺めている。

窓から差す淡く碧い月明りが、幻想的な影を生み出し…そして、それはその男を守護するかの様な陰影を映し出していた。

飄々(ひょうひょう)とした口調の男は微笑みではない、嘲笑でもない読み取りにくい表情をする。

「お前…誰だよ」

「さぁ…誰でしょう? と言いたいところですが」

ソイツは「棕矢(そうや)の〝裏〟だ」と、淡々と告げたのである。

……裏だと?

「そう。君の思う裏側の者ですよ、私は」

 

途端、思考が停止する。

意味が解らない……それこそ夢なのか、と疑う。

 

……いや、冷静になれ。

「先(ま)ず、ひとつ。お前は…どこで聞いたのか知らないが、俺のしようとしている事を知っているのか?」

 

「そうですね」

 

「次に。俺の計画を阻止する事が目的か…?」

 

そこで、棕矢の裏は鼻で笑う。

「いいえ、私は劍(あきら)君の計画の手伝いをしようと思って来たのに。これはまた、相当、警戒されている様ですね」

 

……得体の知れない奴を目の前にして、警戒しない奴はいない。

俺は、男を見据える。強く、強く。でも何となく、この意外な展開に期待してしまっている自分の気持ち。それが奴に見透かされぬ様に、と睨み付ける。

 

そして、いくらか見詰め合い、その先陣を切ったのは男だった。

「ふふ、君の瞳は綺麗ですね。鮮血の様に澄んでいるのに、深い色をしている」

「は?」……何だよ、それ。

いや、こんな奴の意味不明な科白(せりふ)を気にする事はない。ここは気を抜かずに問う。

「…それが、何?」

と、男はマントの内を軽く探り…「はい」と、静かにその掌(てのひら)を示した。

◆そこには『黒くも紅い光沢のあるもの』がひとつ。

 

……石…鉱物?

突然、差し出された物体に言葉が出ずにいると、再び男から言葉が紡がれる。

 

「これは〝君〟に相応しい」

 

「……」

「ふふ。これは失礼」

わざとらしく言った男は「その封筒、下さい」と付け足した。

「本当に、お前が〝アキラ〟に届けてくれるのか…?」

「はい」と笑む。

「じゃあ、ひとつ訊きたい事がある」

「何ですか?」

「俺の夢に出て来た〝アキラ〟は、一体…どこに居るんだ?」

「ほう…」

男が口元だけで笑みを作る。

実際、俺には〝裏〟とか〝表〟とか、そんな事はよく解らない。

 

でも。

……これは、単なる俺の夢想に過ぎないのか否か。はっきりさせたかったんだ。

 

奴の答はこうだった。

「ちゃんと居ますよ…〝君が居た処〟に」

 

〝君が居た処〟

「ああ。やっぱり、あの孤児院なんだな…」

 

それが判明した以上、気持ちの整理が付いた。

 

「それが判ったんだ…後は、お前に頼む」

「仰せのままに」

地図、鍵の入った封筒を懐に仕舞うと、男は瞬(まばた)きひとつの間に消えていた。

幻想の様に……そして、月光と戯(たわむ)れる『紅い石』だけを残して。

 

◇惺 AKIRA◇

「ねえ! 棕矢(そうや)は、この街…好き?」

 

……あれは、もう何年も前の事である。

 

「ん? ああ、そうだな。俺の家族も、この街の生まれで、ずっと〝ルナ〟の人間だ。だから俺も、此処(ここ)…Nid(ニ)=Argent(アルジャン)・Renard(ルナール) が好きだ」

 

年頃の男の子にしては随分と可愛らしい笑顔で、彼は言った。

御神木の様な大きな木の影が、その言葉に呼応するかの様にざわめく。

 

〝ルナ〟に在る唯一の大木。

 

そこは、あの日の〝僕達の約束の場所〟だった。

木の葉が擦れ、風が吹き抜ける木霊(こだま)の歌声を聴きながら…

幼い僕は、彼の言葉に安堵したのを覚えている。彼の堂々としたところが、僕が彼を実兄の様に慕っていた大きな理由だったのかも知れない…。

 

   ***

 

それから、五歳になった夏。僕は…孤児院に引き取られた。

理由は、両親が突然……消えてしまったから。

初めは失踪だとか、子供の面倒が見られない様な事が起こっただとか、他国絡みの問題が起きて連行されただとか。尾鰭(おひれ)がついた憶測ばかりが飛び交い、散々な言われ様だった。

あの時。特に裕福な家庭では無かったものの、少しは備蓄があったので暫くは何とか食い繋いでいたんだ。しかし、それも束の間。当り前だが、子供だった僕は、徐々にひとりでは生活が困難になっていった…。

日増しに薄汚れていく姿に、街の人間からも段々と見放されていった。擦れ違う度、怪訝な顔をされ、時には舌打ちをしてわざとぶつかってくる者さえも居る始末。

善意で食糧や小遣い程度の硬貨をくれる優しい人も居たけれど、所詮、気休め。

心身が傷付き、ますます、みすぼらしくなっていく僕の事を見兼ねて、ある日街の保母さんに引き取られたのである。

 

   ***

 

孤児院には、僕とあまり大差無い年齢(とし)の子が多かった。でも、新しい家には遅く入ったから…慣れるまで随分と掛かってしまった。孤独(ひとり)になってから、人と上手く話せなくなってしまったから、尚更…。

しかし、そんな孤児院(いえ)でも、ひとつだけ楽しみがあった。

孤児院の中に、古書室が在ったのだ。古書…ただの本でなく、見るからに古い辞典や図鑑。両手を使わないと持てないくらいの分厚い洋書。どこの国の文字か不明な不思議な物まで。

その古書室を毎週一度、保母さんが開放してくれた。それが何よりの楽しみだったんだ。

孤児院に入ってから、数年が経った頃。

また、いつもの様に古書室を開けて貰った時、一度だけ不思議な光景を目にした。

それを目の当たりにした僕は、つい「…魔法?」と、戸惑いと好奇心を含んだ声を漏らしていた。

 

古書室の分厚い本が、いくつも頭上を飛んでいたのだ。

ゆっくりと…勝手に本棚を行き来している古びた本達。

 

しかし、保母さんや他の子供達は、この風景に目も呉れない。

まるで……僕にしか見えていないみたいに。

 

僕は、意思を持ったかの様に浮遊している本を掴もうと手を伸ばした。

が、所詮子供の背丈。見上げても頂辺(てっぺん)が見えない、天井に届く程の巨大な本棚達が聳(そび)え立つ中。掴んだのは不可思議な好奇心、と言う名の空気だけだった…。

そんな時、目の前に一冊の本が現れた。…正確には、飛んで来た。

そして目の前に並ぶ本達の隙間に、すっぽりと収まったんだ。

「何の本だろう…?」と、そっと棚から取り出す。

それは分厚くて、赤茶色の立派な硬い表紙の本だった。目立った装飾は無く、ただ赤茶のざらざらとした触感が余計に、その存在感を主張していた。

 

ふと視線を感じ、僕は横を向く。其処には、いつの間にか、どこか懐かしい面影の女性が立って居た。初老の穏やかな顔付きをした人…。その表情に、何故だか安心感を抱く。でも彼女に、じっと見詰められて、少し恥ずかしくなって…ぎこちなく会釈(えしゃく)したところで、また本に視線を戻した。

 

さて、この本…。

僕は重たく鎖(とざ)されたかの様な表紙を…開いてみる。

その中身は、外見相応のものだった。

「…何だ? これ」

そこには、どこの国の言葉なのか、何と言う文字なのか。全く判らない文章らしき横文字が延々と書き連ねられていた。その他には…所々に何かの絵と数字があるくらい。

「やっぱり今日は、魔法だらけだ…」なんて。実に無垢な感想を覚えたものだ。

一頻(ひとしき)り、開いた頁(ページ)を眺めてから再び横を向くと。さっきまで居た筈の女性は、音ひとつ立てずに居なくなっていた。

胸に疼(うず)く名残惜しさを噛み締め…開いていた本を閉じる。

そこへ、保母さんがやって来た。そして「ほら。そろそろ、ご飯よ」と、手招く。

 

「……あの本。次は、ゆっくりと読もう」

ストーブがある、地下の小さな部屋。

ほのかな橙の灯りが、部屋全体をぼんやりと照らす…。

 

「皆さん。ちゃんと自分の分を持って席に着いてくださいね」と保母さんが子供達の着席を促している。

僕はというと…相変わらず。順番待ちする列に、上手く入れずに立ち尽くしていた。

近くの席に座っていた、僕より年上であろう少女が、こっち見ている。

あ、目が合った。「そんなに凝視されたって…」と、ちょっと惨(みじ)めな気持ちになる。

「惺(あきら)君。ほら、お椀出して」と、保母さんの言葉で我に返った。

「はい」

木で出来た浅い椀を差し出すと、そこに温かな湯気を立てたシチューが盛られる。

その〝暖かさ〟に不安な気持ちが、少し薄れる。

温かい食事は、僕達が和める一時(ひととき)だから…多分。

使い古されて所々ささくれた、大きな木の机と椅子。その角の席に腰を下ろす。そして「いただきます」と、保母さんの声で皆一斉に手を合わせてから食べ出す。

けれど、僕はその目の前に置かれた椀を見詰めたまま、スプーンを握り締めていた。

「〝家〟か…」

確かに、孤児院(ここ)には温かく接してくれる保母さんも、暖かな灯も、温かな生活もある。でも、〝何か〟が足りなかった。〝何か〟が違った。

笑顔、優しさ、満足感…そんなものではなく、もっと大切なものが抜け落ちている気がするのだ。

確かに、たったひとりの時とは比べ物にならないくらい、豊かになった。

でも同時に…

僕の中で〝本当の家族〟というものが無くなってしまったのかも知れない。

 

急に寂しくなった。

……ああ。あの人、どうしてるのかな。

なんて。ふと、あの古書室を思い出した。

   ***

 

「…お前。飛び出してきて、後悔してないのか…?」

そう目の前で問い掛けたのは、棕矢(そうや)だった。

「後悔…ね」

 

◇その問に関しては、肯定も否定も出来なかった。

両親が忽然(こつぜん)と姿を消した事に関しては、もう随分と時間が経った。

だから、その現実に慣れてしまったのかも知れない。

でも、あれから今まで、息苦しさは絶えた事が無いのも事実である。

 

保母さんが助けてくれて、ここまで生きてこられたのも事実。

 

◇しかし、いくら外に出たって〝あの頃〟には戻れないのも事実。

◇……けれど。あの頃から、あの時から、僕達は変わってしまったのだ。◆

 

 

「こんな風に…」

 

 

~一章 Nid(ニ)=Argent(アルジャン)・Renard(ルナール)~ 

 

□祖父 grandfather□

……消えた。

 

『〝あの娘〟が…神隠しに遭った』

 

私達は、一日中泣いていた。毎日毎日…只々、泣く事しか出来なかった。

涙が涸(か)れてしまう程に…。

 

「お兄ちゃん、ちゃんと恭の事、見ていて頂戴ね」

「棕矢(そうや)なら大丈夫だろう。もう、この子も十歳だ」

 

あの時……私達はどうして、あの子達を置いて留守にしてしまったのだろう。

 

少年と少女。

彼等は私達の孫だった。両親を早くに亡くした二人。

それは、その兄が十歳、妹が五歳の時の事。

季節は立夏の頃。早月(さつき)の始め頃であった。

 

そして、それは〝あの日〟の事。

 

 

だから。私達は……〝あの日〟を忘れられる筈も無い。 

 

■先祖 Ancestor■

霧雨、小雨が訪れ、霧に包まれる時。

石畳の道や、煉瓦(れんが)造りの建物。ほんの僅かに聳(そび)えるビル街やタワー…

それ等全てが、雨や霧で包まれた時。

淡く淡く霞む時。

 

『雨や霧の日は、ルナのお狐さまが街にいらっしゃる時なのです。わたし達を、見守ってくださるのです』

 

この街では、どの家でも古くから伝えられている言葉。

 

 

しかし、もうひとつ。

 

『〝晴れた空から雫が落ちて来る時〟は、お狐さまが苦しんでいらっしゃる時です。そして…時には、お狐さまが〝醜く凄惨な神〟と化してしまうのです』

……〝此処(ルナ)〟は〝此処(ルナ)〟で無くなってしまう。

 

『その時、わたし達は〝お狐さま〟に〝全て〟を捧げなくてはなりません』

 

 

何故、ここ迄〝この口碑(はなし)〟に拘(こだわ)るのか…。

それは、件(くだん)の〝掟〟に在るのです。

 

……故、わたし達は後世に伝え続けなければなりません。

『あの大きな木にはね、この街の神様が住んでいらっしゃるのですよ』

 

『それから…これは〝わたし達、工匠〟だけの秘め事…』

 

〝お狐さま〟は、〝この街の表裏〟を支えているのです。

 

『此方側の世界に雨が降れば、お狐さまは直ぐ近くで、わたし達を見ていらっしゃる。逆に、晴れている日には、そのとき雨降る地のお傍にいらっしゃる』

 

 

そして。

天気雨…〝狐の嫁入り〟の日には…『〝全て〟を捧げるのです』

 

XX11年 5月 

 

□祖父 grandfather□

その日の朝は、やけに薄暗かった。

私はベッドから起き上がると、寝室のカーテンを開ける。

 

窓の外は…雨だった。

 

しとしとと言う表現が実によく似合う、淡い雨の朝。

そんな風景に私は安堵しつつも、何故か漠然とした胸騒ぎを覚えていた。

 

   *

 

一階に下りると「お祖父様(じいさま)!」と言う声と共に、恭(きょう)が飛び付いて来た。私は「お早う」と彼女を抱き寄せると、そのふわふわとした栗色の髪に優しく手を置いた。

カウンターの奥から顔を覗かせた妻が、くすくすと笑いながら「お早うございます」と言い、それに続いて現れた棕矢(そうや)も「お早うございます。お祖父様」と言う。

 

ああ。こんなにも穏やかな朝なのだ。何も起こる筈が無い。

私は心の中で呟くと、カウンターの端の椅子に腰掛けた。

 

暫くすると香ばしい匂いと、甘味を凝縮した様な優しい匂いが、仄かに鼻を擽(くすぐ)った。

そして、カウンターの上には、こんがりと焼き上げたバゲット。ミルク多目のカフェ・オ・レが並べられた。簡素(シンプル)だが、温かな湯気を立てている朝食は、見ただけで心が温まる。

 

「恭。はい、これ」

棕矢が隣に掛けた恭に、硝子の椀と、小柄なマグカップを手渡していた。中身は小さく切った果実と、温めたミルクみたいだ。

「さあ、冷めない内に頂きましょう」と妻が促す。

私と妻は、棕矢と恭を挟んだ位置に掛けている。故、もう恭の面倒は、棕矢が自ら焼いているのだ。そんな私の気持ちを察したのか、妻は此方に眴(めくば)せすると「良いお兄ちゃんになりましたね」と微笑んだのだった。

四人で並んで食べる朝食。

私の中に燻(くすぶ)っていた不安は、いつしか消えていた。

 

■先祖 Ancestor■

〝あの日〟には、必ず結界を張りなさい。必ず、です。

 

『もし、あの日が〝天気雨〟になってしまったら…』

 

『お狐さまが邪神と化してしまうから…』

 

その時の〝お狐さま〟は、容赦無いのです。

 

 

そして。

……あの幾度も繰り返されて来た、悪夢の様な出来事。

 

それが、どうかこれ以上起こらぬ様に。

 

そう…故に。

『結界の張り方は、貴方に教えた通り。』

 

絶対に忘れぬ様。

 

『そして、後世にしっかりと伝えなさい』

 

□祖父 grandfather□

私は出掛けに、館(みせ)に結果を張った。

館の四方に代々在るとされる鉱物の原石を基(もと)に、其処から建物全体を包み込む様にして満遍(まんべん)なく。

私達工匠は、〝この日〟に必ず結果を張るのだ、と。

何代にも渡って、その独特な方法も、技術も…口頭のみで、教えられてきた。

 

……何も起こらないで欲しい、と。いつの時代も只々、そう願い。

 

「お兄ちゃん、ちゃんと恭の事、見ていて頂戴ね」

「棕矢(そうや)なら大丈夫だろう。もう、この子も十歳だ」

私がそう言うと、笑顔で「はい、お祖父様(じいさま)」と頷く棕矢。

その直(す)ぐ隣で、兄の手をしっかりと握り締めていた恭も「お祖父様、お祖母様(ばあさま)。お気を付けて、行ってらっしゃい!」と言った。

 

   *

 

今日はルナに在る、唯一の〝大木〟に御祈りを捧げる日だ。

年に一度…立夏の頃に、御祈りをして、街や人々の安寧を願う。此処には、そんな〝暗黙の一日〟があるのだ。

けれど、今。祈りの日に集まる人間は、少なくなってしまった。

 

…それには、大きな〝理由〟がある。

 

故に、きっと今回も街の者はあまり来ないであろう…。

「今年は、何も無いと良いですね」と横で不安そうに目を伏せる妻。

私はそんな彼女に向かって「お前が不安そうな顔をすると〝お狐さま〟も心配なさるぞ」と微笑んで見せたのだった。

 

しかし。

この時、私は…朝感じていたものと同じ、不穏な胸騒ぎを覚えていた。 

大木の在り処(か)に着くと、やはり人はまばらだった。

しかし、その中にも見知った面々を見付けたので「ああ、貴方達も来ていましたか」と声を掛けた。其処には三人の若い男。

「これは、どうも。…今年もこの調子だと、皆さん来ないでしょうね」

 

ある男は、その優美且つ精悍(せいかん)な口元に、爽やかな笑みを作り、所作美しくお辞儀をした。

またある男は、綺麗に散髪された髪を掻き揚げながら「そうですね」と宙に視線を向ける。

そのまたある男は、いつ見ても異様な程に伸びた、真っ白な前髪の隙間から此方を少しだけ見遣ると、それに頷いた。

……ああ。この三人については後、各自A氏、B氏、C氏と記すとしよう。

 

「そちらは結界、張って来ましたか?」

「はい、勿論」

そう直(す)ぐ答えたのは、A氏であった。他の三人も、当然と言った風だ。

 

この若手三人とは、同職故に深い付き合いだ。我々は、鉱物を用いた宝飾品作りを手掛けているのである。室内装飾や壁への宝飾、時には歴史的建造物の補修をも受け持つ。今や、この手の工匠は激減した。いや…寧(むし)ろ、残ったのは、もう、ほぼ「私達四人だけ」と言っても過言では無くなってしまったんだ…。

そう。彼等は、同役(どうやく)であった故人達の息子なのだ。

 

……そんな宝飾の工匠を継ぐ私達には、仕来りと言う名の義務があった。

『毎年、必ず〝お狐さま〟に御祈りを捧げる事』

それが我々に課せられ、託された〝掟〟だった。

 

どうして、宝飾品を生成する者の掟か…?

それは昔から、お狐さまへの奉納品を作るのが宝飾の工匠であったから、と聞いている。

この、Nid(ニ)=Argent(アルジャン)・Renard(ルナール) でしか産出されない貴重な鉱物も然(しか)り。

古(いにしえ)から人々や、神々を支えて来た、あらゆる〝宝飾〟と〝工匠(たくみ)〟は、この街の誇りでもあるのだ。

祈りの時間は、約一時間半。代々、教わってきた儀式と共に、お狐さまに奉納品を捧げる。毎年多少の差はあるものの、奉納品に鏤(ちりば)められているのは、大半がルナでしか産出されない鉱物である。

 

「貴方」

突然、妻に呼ばれた。妻は青ざめ、空を見上げている…。

「貴方…陽(ひ)が!」

しとしとと降り続く雨。しかし、少し離れた所。

雲の切れ間から青空が現れ、徐々に明るくなってきていた。

儀式の進行を任されていた私は、その時〝それ〟に気が付いた。

 

「まさか!」

 

今年も…!

 

辺りを見回すと、皆一様に、確実に近付いて来る〝晴れながらも雨降る空〟を見上げていた。あの三人も苦しそうな表情(かお)をしている。私は〝掟〟であるこの儀式の進行を止める事も出来ず、ただ「どうか、今年は誰も居なくならないでくれ!」と心で願う事しか出来なかった。

 

〝今の状態〟では、無茶な願いなのに…。でも、お狐さまに願う。そうする他無かった。

 

 

『〝晴れた空から雫が落ちて来る時〟は、お狐さまが苦しんでいらっしゃる時です。そして…時には、お狐さまが〝醜く凄惨な神〟と化してしまうのです』

 

『もし、あの日が〝天気雨〟になってしまったら…お狐さまが邪神と化してしまうから…』

 

『その時の〝お狐さま〟は、容赦無いのです』

そして。

『……あの幾度も繰り返されて来た、悪夢の様な出来事』

 

『それが、どうかこれ以上起こらぬ様に』

 

 

悪夢の様な出来事。

 

この街では……祈りの日が〝天気雨〟になってしまったら。

この街の少女がひとり消える。

 

◇恭 Kyoh◇

たまにね?

 

……お兄様が、とても寂しそうなの。

 

どこかを見詰めて。

何かを〝想う〟様に。

その〝碧〟と〝金〟を微かに濡らして…。

 

「お兄様…」

 

……貴方の瞳には、何が映っているの?

 

 

私には、貴方を…「救う事が出来るのでしょうか?」 

私は、お兄様が大好きです。

 

どんな時でも優しくて。毎日、ご本を読み聞かせてくれて…ご本を読み終えた後は、必ず頭を撫でてくれます。

 

私はそんな物知りで優しい、お兄様とのお話が凄く好きなの。

あ! 勿論、お祖父様(じいさま)、お祖母様(ばあさま)のお話も、とても面白くて好きよ!

 

でも、やっぱり…私は、お兄様と過ごす時間が一番好きです。

だから、いつも、お兄様の傍(そば)に居るの。

そうすると安心するし、素敵な事もたくさんあるから。

 

私は。

お兄様も、お祖父様も、お祖母様も。

この家族が大好きです。 

この日も、私はお兄様に、ご本を読んで貰っていたの。今日の、ご本は少し難しくて…残念だけれど、全部は解らなかったわ。でも、どの頁(ページ)にも綺麗な絵が描かれていて…それに楽しそうに読んでくださるお兄様を見ていたら、私まで嬉しくなっちゃった。

きっと、あのご本には、お兄様の好きなことが一杯書いてあるのね!

 

私は〝あのご本〟が、お気に入りになったの。

きっと、お兄様にとっても、お気に入りで大切なご本だから。

 

だから、また。お兄様に読んで頂きたいと思っています。

その時は…今より、ちょっと理解できる様になっていたら良いな。

 

   *

 

ふと気付くと、もう昼食の頃合いになっていました。

お兄様は掛時計を見ながら「ちょっと待っててね。一階(した)に行って、ご飯を持って来るよ」と、私の髪を撫でながら微笑み、言いました。

 

お兄様が部屋から出て行くと、急にしんと静まり返ってしまい、何だか心細くなってくる…。

私は、何となく手元に置いてあった、お兄様のご本を手に取ってみました。それは思ったよりも重たくて、大きくて。私では若干(じゃっかん)、腕で抱え込む感じになっちゃった。

 

と…〝こんにちは〟

 

「え?」

どこからか声が聞こえた気がする…。

お外かしら?

 

私は本を抱えたまま、つま先立ちをして窓の外を見てみたの。

…お外は明るく陽が出ているのに、何故か雨が降っていました。

 

でも、いくら探しても、お外には誰も居ない…不思議だわ。空耳かしら…。

 

すると。

今度は〝おいで〟と言う声がした。

 

私は、少し怖くなる。

お兄様は、まだ戻って来ない…。

「どうしよう…」

涙目になりながら、一階に下り様とすると…

 

急に身体が軽くなった。

 

どうしてか判らない。少し朦朧(もうろう)としてきた。

しかし混乱している間にも、自然と足が動いてしまっていた。勝手に、私の足は真っ赤な階段を駆け下りて行く。

 

怖いのに。もう今にも泣きそうなのに…

私の足は、どうして止まらないの! どうして? どうして!

遂に、玄関の前まで来てしまって…目の前で、勝手に扉(ドア)が開く。

「お兄様!」

呼んでみたけれど声は届かない。お外は普段通り。けれど、今の私は変になってしまったのかも知れない…。私の身体はそのまま門を潜(くぐ)り、館(みせ)の外に出てしまいました。

 

…ふと。硝子の割れる様な音。

 

そして。

眠りに墜ちる様に、意識が遠退(とおの)きました。 

 

 

◆棕矢 Sohya◆

紅茶とラスク。恭が好きな、お祖母様(ばあさま)の特製苺ジャムを盆に乗せ…慎重に階段を上る。紅茶の茶葉を探すのに、手間取ってしまった。

「恭は大丈夫だろうか?」そう思いながら、部屋の扉(ドア)を開ける……と。

…そこに居る筈の、恭が居ない。

 

驚いて、盆を机に乱雑に置く。その拍子に紅茶がカップから零れ、飛び散った。

部屋の窓辺には、さっきまで読んでいた本が置いてあった…が窓を開けた様子は無い。

……いや待てよ?

冷静に考えると、お手洗いに行っただけの可能性だってある。

「何もそんなに、焦る事は無いじゃないか」

自分にそう言い聞かせ、そのまま待つ事にした。

 

   *

 

「遅い…」

部屋に戻ってから、もう数十分が経っている…。昼食は、すっかり冷めてしまった。

流石に心配になってきた。

 

僕は部屋から出て、捜す。

ホテルの様にいくつも似た扉が並ぶ廊下に、ますます不安を煽(あお)られる。

 

   ***

 

館(みせ)中を捜した。

どれくらいの時間、捜していたのかは判らない。

始めは慎重だった足取りも、段々と速くなっていった。

汗が目に入って痛い。

涙が出てくる。

不安の涙なのか、汗が目に染みて出た涙なのか、もう判らなかった。

走り続けて息が苦しい。

この広い館中を、ひとりで隈無く探す事なんて出来ないんじゃないか…と、何度も立ち止まりそうになる。

けれど、いくら走っても。いくら部屋の扉を開けても…いくら呼んでも、恭を見付けられない。…その時。

 

「結界が解けた…!」

 

日頃から多少の〝技術〟は教わっていたから、何となく判ったのだ。

……きっと、お祖父様(じいさま)達が帰って来られたんだ!

僕は、とにかく一刻も早く、お祖父様とお祖母様の顔が見たくて。

玄関まで駆けた。 

□祖父 grandfather□

御祈りの儀式が済むと、私達は挨拶もそこそこに、急いで館(みせ)に戻った。

もう若くも無い身体故、必死だった。

おぼつかない足取りで息を切らしながらも、門まで辿り着くと館の結界を解く。

そして、震える手で扉を開けた。

 

其処には、棕矢(そうや)が立って居た。

驚きながらも「ただいま」と声を掛けようとして、私達は彼の異変に気付く。

少年は肩で息をしながら、拳を握り締め、瞳一杯に滴(しずく)を溜めていた。そして、それが零れぬ様に口を真一文字に結び、唇を強く噛み締めた顔は…明らかに、何かを訴えている。滅多に泣く事の無かった彼の姿に、私達は戸惑う。

刹那。途轍(とてつ)もない不安が襲い掛かって来た。

 

……そうだ。恭は? 恭はどこだ!

 

普段は中々、兄の傍から離れない子なのに…。

様々な思考と想像、憶測が荒波の様に押し寄せる。

 

やっとの事で絞り出した私の声は、驚く程、酷くしわがれていた。

「恭は…どこだ? 一緒か?」

幼いこの子には、私の切羽詰まった醜い(あの)声は、どう届いたのだろう。

途端に彼の瞳から、ひとつ。またひとつ…滴(しずく)が零れてゆく。

それから喉を詰まらせる苦しげな音と共に、棕矢は泣き崩れてしまった。

 

その「ごめんなさい! ごめんなさい!」と繰り返す姿に、私達は訳も解らず、ただ黙る事しか出来なかった。

 

   *

 

それから一時間くらい、彼は泣いていた。一旦治まっても、また直(す)ぐ赤子の様に泣き出す。何度も、何度も…。

 

  *

 

妻の介抱の末、ようやく彼が落ち着いた頃。

棕矢は、私達が危惧していた事を、淡々と語り出したのだった。

 

…昼までは、二階で、二人で本を読んでいたこと。

…昼食とお茶を取りに、棕矢だけが一階に下りたこと。

…部屋に戻ると、恭が居なくなっていたこと。

…そして、窓辺には読んでいた本だけが残っていたこと。

…しかし窓の鍵は閉まっていたこと。

…それから館中を捜し回ったこと。

 

話が終わると「そうか…。棕矢、よく頑張ったな」と言いながら、その小さな頭を撫でてやった。

 

すると、少しは安心した様で、私の胸に顔を寄せた彼の口元が緩むのが判った。

それに釣られ、此方も少しだけ、緊張が解(ほぐ)れる。

 

 *

 

その後、三人で必死に館(みせ)の中を捜し続けたが、その甲斐も虚しく、恭の行方は全く不明なままだった。

 

 

◇恭 Kyoh◇

〝ねえねえ〟

 

〝この子は、だあれ?〟

 

〝うーん。起きないね…〟

 

あら…?

声がする。

女の子の声みたい…。

それもひとりじゃなくて何人か居るの…?

 

 

私は、ゆっくりと目を開けた。

その目に飛び込んで来たのは、いつも見ている…お空?

お空の、あの雲が、ふわふわと浮いている…。

 

……?

 

あまりにも、おかしな景色で、何が何だかよく解らなくなってしまった。

でも。お空?

 

「ここは…〝お空〟なの?」

 

〝そうよ〟

 

隣から可愛らしい声が答えた。私は、びっくりして声がした方を向く。

そこには、ふんわりとしたワンピースを着た、三つ編みの少女が、にっこりとしていた。更に、その横には、胸にリボンの付いたブラウスを着た、ブロンドの長い髪の少女も居る。

 

「貴女達は誰? ここはお空って、どういう事…?」

私は慌てて訊いた。

すると少女達は、くすくすと笑った。

 

そして。

 

「ここはね」長髪の少女が言う。

「大きな木の上なの」三つ編みの少女が言う。

 

……大きな木?

 

「それって…」

私は、ほぼ確信を持って訊く。

 

「ルナの大木(たいぼく)の事?」

 

〝そうよ〟

 

後ろから聞こえた。

振り返ると、そこには見覚えのある顔立ちの少女が立っていました。

 

「あ…」

 

……そう。

〝この娘(こ)〟は、去年のお祈りの日に行方不明となった娘(こ)でした。

この娘(こ)達の話によると、やはり〝ここ〟は、ルナ唯一の大木(たいぼく)の真上に位置する空みたい。

 

そして〝彼女達〟は…

 

〝お狐さまに選ばれた娘達〟だと。

 

それを聞いた私は、お祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)が話していた事を思い出していた。

 

『貴方! 九番地の所のお嬢さんが行方不明らしい、って…!』

『そんな! まさか、また…! ここ十年間で、もう七回目じゃないか!』

『ああ…きっと、また〝お狐さま〟の仕業なんだわ…』

そう。あれは去年の、お祈りの日でした。

その日もやっぱり、今日みたいなお天気…だったかしら。

 

行方不明となった彼女を捜す為、街中にその娘(こ)の顔写真付きのポスターが貼られたり、大人達が総出で何日も捜したりしていたのを覚えている。

それに、私とお兄様も、大人達から「この娘を知っている?」って何度も訊かれたもの。

 

そして。

〝その娘(こ)〟は結局、一年経っても見付かっていなかった…。

 

 

でも! でも今、私の目の前に、その娘が居る…!

 

あの時、お祖父様達が言っていたわ。

『また〝お狐さま〟の仕業だ』って。

 

お祈りの日に連れて行かれちゃうと、その娘には…

もう絶対に会えなくなってしまう、と。

 

 

その時、私はふと閃(ひらめ)いたの。

 

……ああ。私も〝選ばれた〟んだわ。

 

頬の上を涙が伝っていった。

 

 

「……ごめんなさい。お兄様、お祖父様、お祖母様」 

 

 

□祖父 grandfather□

あれから数日が経った。私達は、毎日毎日、ひたすら恭を捜している。街の者達にも、声を掛けた。…しかし、一向に事態が変わる事はない。

 

私達は悔やんだ。

 

……何故だ! 今まで通り、ちゃんと結界を張っていたのに!

 

……どうして…どうして、恭なんだ!

 

こんな事が、起こり得る筈も無い、と勝手に安心し切っていた自分が憎い。

 

……一体、何がいけなかったって言うんだ…?

 

原因すら、全く分からない。

自責し切れぬ程の感情を抱え、もう幾日も眠れていない。

身体も心も、あちこちが、ズキズキと痛む。

涙すら…出ない。

 

妻は、あっと言う間に痩せ細り、寝込んでしまった。

きっと、私も酷い顔をしているのであろう。

棕矢(そうや)も口数が減った。

もう皆、苦渋の表情を浮かべ続けるしか無かったのだ。

 

それでも時々。

「お祖父様(じいさま)、何か僕に出来る事はありませんか?」と、声を掛けてくれる棕矢は、私の心強い支えだった。

ある朝、私は妻に粥を煮てやった。

棕矢(そうや)が自分にも何かさせてくれ、とせがむので、妻が好きな紅茶を淹れる様に頼んだ。よく妻の手伝いをするからか、この子も随分と手際が良くなったものだ。

妻は一時もう駄目なのではないか、と思う程に窶(やつ)れていた。

しかし、今ではかなり回復して自力で動けるくらいにはなった。

「それも、きっと棕矢(そうや)のお蔭なんだろうな…」

呟くと、少年は顔を上げて「どうかなされましたか? お祖父様(じいさま)」と小首を傾げる。

その姿に、私は柔らかく微笑んだ。

「棕矢は立派になったなあ、って思っていたんだよ」

少年は、碧い瞳を輝かせ、心から嬉しそうに言った。

 

「有り難うございます!」

 

 

XX11年 6月 

 

◆棕矢 Sohya◆

僕は、お祖父様(じいさま)達との約束を守れなかった。

大切な家族のひとりを失ってしまった。

僕をあんなに好いてくれていた、恭(いもうと)の事を…守れなかった。

それに、お祖母様(ばあさま)だって心身を病まれてしまった。

 

「僕のせいだ…」

 

僕は無力だったんだ!

何日も頭の中で、ぐるぐると後悔の念が渦巻いている。

 

「恭……」

ぽつりと口から出た声は、とても弱々しかった。

けれど、その自分の声で、また泣きそうになる。

 

 

お祖父様達は

「お前は、やれる事は、ちゃんとやってくれたんだよ」と。

「大丈夫よ。お兄ちゃんのせいじゃないわ」と、言ってくれる。

そして、優しく抱き締めてくれる。

 

そんな〝おじいちゃん〟と〝おばあちゃん〟が居てくれたから…。

 

だから…恭が居なくなってから、一ヶ月くらい経った頃。

「僕に、もっと出来そうな事をしてみよう」と決心した。

 

それは、少し強い雨降りの日だった。

六月六日の早朝。

お祖父様達が起きる前に、僕は起きた。

 

静かな朝。

ベッドに寝たまま耳を澄ますと、室内に雨音が聞こえてくる。

この日も、あの決心した日と同じで雨が降っているみたいだ。

 

今日は…

〝失った後悔の念〟と〝お祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)への償い〟を込めて、恭を捜す事にしたんだ。

 

……僕ひとりで。

 

   *

 

簡単な身支度を済ませ、物音を立てない様にしながら一階に下りて行く。

忍び足で、何とか玄関まで辿り着く事は出来た。

僕はひとつ深呼吸をする。そして以前、お祖父様から教えて貰った〝鍵の解除術〟を遣って、その扉(ドア)を開けた。

……よし。何とか成功…鍵は、ちゃんと開いた!

 

 

外に出ると初夏だからか、雨が降っていても、空は少し明るかった。

持って来た傘を、音が立たない様に気を付けながら広げる。

そして館(みせ)で、ただ一つの出入り口である門まで、ゆっくりと進む。

注意しながら慎重に歩かないと、この館の〝機巧(しかけ)〟に捕まりそうで怖かったから。

そっと、警戒しながら歩を進めて行く。

今、僕の心臓は、物凄くドキドキしていて…気を緩めたら、直(す)ぐにでも館の中に駆け戻ってしまいそうだ。

「でも…今日こそは、諦められないんだ! もう決めたんだ!」

そう自分を鼓舞して、僕は館の外に向かった。 

お祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)は、ルナの中で有名らしい。

街の皆、全員が二人を知っていると言っても過言ではないのかも知れない。

 

きっと、理由(それ)は…二人の仕事にあるのだろう。

二人は様々な鉱物(いし)を使って、色んなものを作ったり、直したりしている。それに僕が物心ついた時には、もう既に、この仕事をしていたから相当、長いこと続けているのだと思う…。そして、いつか二人に『これは大切な仕事で、守っていかなければならない仕事でもあるんだよ』と、聞かされた事があった。

そう。このまま往(い)けば、きっと僕が跡を継ぐ事になる。

だから今から、お祖父様達から多少の〝技術〟は教わっているんだ。

 

 *

 

「おじいちゃん達には、どうやったって敵わないけれど…」

 

僕だって…。

僕が出来る事をやるんだ!

 

「恭…」

絞り出した声は震えていた。

そして気が付くと、涙が止まらなくなっていた。

 

「恭…恭!」

大木の下、冷たい雨の中で叫ぶ僕の涙も降り続いた。 

 

◇恭 Kyoh◇

六月六日。

私は、お兄様を見付けた。

お空からルナの大木を見ていたら、棕矢(そうや)お兄様が、ずぶ濡れになって走って来たの!

泣きながら、私の名前を叫びながら…走って来るお兄様。

 

……そっか。

「今日のルナは雨なんだわ」

だから私にも、あれが〝お兄様〟だ、って判ったのね。

 

お空(ここ)の女の子達が教えてくれた。

街に雨が降った時が、一番近くでルナを見渡せる、って。

それは、〝お狐さま〟が街(ルナ)を見守っているから、って言っていたわ。

だから〝お狐さまに選ばれた私達〟も雨の日だけは特に、街に近付ける、と。

 

あれは間違いなく、私を探している。

私は…息を切らしながらも必死に走り回って、自分の名前を叫び続けるお兄様を、こうやって、ただ見詰める事しか出来ない。

 

「お兄様…」

 

私が〝ここ〟に来てから、もうひと月くらい経つのに。それなのに。

それなのに、今でもあんなに必死に…

「お兄様!」

私は〝あの日の玄関〟で叫んだ様に、力いっぱい〝彼〟を呼んでいた。

 

「恭ちゃん…大丈夫?」

ふと横から女の子のひとりが、私の顔を覗き込んでいた。

ああ…私は、ぽろぽろと涙を零していたみたいです。

その娘(こ)に「うん。知っている人を見掛けただけよ」と、ぎこちなく笑って見せる。

 

 

……お兄様。私の〝この涙〟は、雨と共に貴方のもとに届いていますか?

 

◆棕矢 Sohya◆

「恭…恭!」

あの大木の下、冷たい雨の中で叫ぶ。いつの間にか手にしていた傘も放り出し、僕はびしょ濡れで、身体は冷え切ってしまっていた。

 

でも。

どれだけ名前を呼んでも、恭は現れてくれない…

 

と、どこからか一瞬、恭の声が聞こえた気がしたんだ。

それは、いつもの明るい声ではなく、哀しそうに「お兄様…」と呟いている様だった。僕は雨に濡れて、ぼやけた目で宙(そら)を仰ぐ。

灰色の薄暗い空からは、顔に、ぱたぱたと雨粒が落ちて来るだけだった。

 

 *

 

それから僕は、恭が行きそうな場所を、虱(しらみ)潰しに当たって行った。

一緒に出掛けた所から、街の色んな店、街外れの海辺まで…とにかく捜した。

今が何時かも判らないまま、捜し続けた。

 

  *

 

陽が傾いて来た頃。僕は、大木の下に戻って来ていた。もう雨は止み、木陰の涼しさと、なだらかな丘を上って来る風が火照(ほて)った身体を心地好く冷やしてくれている。

僕は疲れ切っていた。心も身体も、もう泣き叫ぶ力さえも無くなってしまった。

 

そして、朝方聞こえてきた、恭の声。あれは僕の幻聴だったのだろうか…。

ぼんやりとしながら、木に凭(もた)れ掛かり鮮やかな夕焼け空を見上げる。

少しずつ暮れゆく空は、綺麗だな…。

よく、これくらいの時間に館から出て、この木の下で恭と一緒に星を見たっけ…。

「懐かしいな…」と呟くと、また涙が零れた。

 

……あはは。僕、こんなに泣き虫だったっけ。

 

そして。

そのまま僕は眠ってしまった。 

「棕矢(そうや)!」

僕を呼ぶ声と、明るさで目が覚めた。

「ん…」

目を開けると眩しくて、一瞬、視界(め)が眩(くら)んだ。辺りは真っ暗だった。そして、目の前にはお祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)。二人は手に持った洋灯(ランプ)で、僕を照らしていた。

「お前は、今までどこに行ってたんだ!!」

暗闇に迫力のある声が響いた。…お祖父様の声だった。

突然のことに驚き、縮み上がる。こんなに怖くて、大きな声を出したお祖父様は、初めて見た。僕は固まったまま、お祖父様から目を離せない。正に、蛇に睨まれた蛙だった。

更に、ついこの間まで優しく慰めてくれていたお祖母様も、今は黙っている。その瞳の端が潤んできたかと思うと

「恭が居なくなってから、まだ少ししか経っていないのに…お兄ちゃんまで居なくなっちゃったのかと思って…凄く凄く心配したのよ!」と、半分叫ぶ様にして、泣き崩れてしまった。

 

……ああ。そうか、僕は…

 

「また、お祖父様達を困らせただけだった…んだ」

 

   *

 

それから僕達三人は、真っ暗な道を歩いて帰った。洋灯の灯りだけを頼りに、寄り添いながら。

僕等の頭上(うえ)で、いくつもの星が瞬(またた)いていた。 

お祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)と三人だけの食事。もう、これは何度目だろう…。

ふと隣の席に目を遣(や)る。

今日も…僕の隣には、甘えてくる妹の姿は無い。

 

けれど、今。

お祖母様は、やっと食事が摂(と)れる様になったし、顔色も良くなった。

お祖父様も少しだけれど、前より表情が柔らかくなった。

 

だから。

大丈夫。

これでも、きっと良い方向に進んでいるんだ。

 

 

…でも。

…だけど。

僕だけは、まだ何にも受け入れる事が出来ず、隠れて泣きながら過ごしていた。

曖昧な二十四時間を、只々過ごすだけの日々だったんだ。

 

 

季節はもう夏になるのに…僕の雨は降り止まない。

 

□祖父 grandfather□

六月の末。

私達は、恭が居ない現実と少しずつ向き合い始め、心の整理を付けつつあった。

 

しかし。棕矢(そうや)だけが未だに、大半を受け入れ切れない様子だった。

昼間、私達の前では、前と変わらず、明るくて誠実な兄のままで居てくれている。

でも…夜、彼ひとりの時間になってしまえば、部屋に籠(こ)もって、声を殺しながら、泣いているのだ。静かな館(やかた)の中故(ゆえ)、声を殺しても、嗚咽はどうしても部屋の外に漏れてしまう。

 

……きっと今は、棕矢が一番、苦しんでいるのだ。

 

妻は、そんな彼の声を聞く度「お兄ちゃん…大丈夫かしら…」と、とても悲しそうな顔をする。だから私も、不安そうな二人の姿に心苦しくなるばかりだった…。

 

こんな事が〝また起こるなんて〟

 

それを、十歳ばかりの少年に受け入れろ、だなんて。

酷過ぎるのは、私達も解っているんだ。

 

  ***

 

そんなある日、私と妻はこんな話をしていた。

 

「なあ、私達は〝あの本〟を、また開かなければ、ならないのだろうか…」

「でも。上手くいくのでしょうか…」

「けれど、このまま何もしないなんて…」

「そうかも知れませんが…」

 

「これじゃあ、息子の時と同じだ」

私が言うと、妻は黙ってしまった。少し強く言い過ぎただろうか。

 

 

〝あの本〟

それは〝鉱物〟と〝工匠(わたしたち)の技術〟を用いて…

新しい存在(カタチ)を創造する計画(プロジェクト)を記録した書(もの)だった。

 

 

しかし

その本は〝未完成〟だった。

 

つまり、その計画も〝未完成〟のまま。

 

そう。

私は、この計画を再開しようと考えたのだ。 

大切な者(もの)が欠けてから。

私は〝禁忌の計画(あるプロジェクト)〟を進めていた。

 

それは…

〝存在創造計画(カタチそうぞうプロジェクト)〟

 

つまりは、無から有を生み出す。

 

   *

 

私が継いだ、この技術と様々な鉱物を用いて…どうにかして〝何か〟を生み出せないものか、と考えていたのだ。

こんな技術を操れるのだから、何か特別な事を起こせる筈だ! と。

今思えば、実に無謀だった。ただ、その時は自信過剰だったのか、それこそ空回りで自棄(やけ)になっていたからなのか。私は狂った様に毎日毎日、研究していた。

仕事部屋に籠(こ)もり〝あの時の息子〟の様に、私にしか解けない結界を張り…妻を無理矢理、納得させて……本当に、妻には悪い事をした。

 

でも、私は後悔していない。

いや。あの時は、後悔する余裕すら無かったのかも知れない。

この世で叶う事の無い〝亡くなった者達と、また会いたい〟という望み。

 

私は、禁忌だと覚悟して、己の手で叶えようとしました。

 

   ***

 

私達は若い頃から、この技術を教わり、何年も…何代にも渡って継いできた。

長く…永く……。

私は両親に教わり、妻もそれを継ぐ決心をしてくれ、今に至る。

故、今もこうして〝古(いにしえ)の掟〟を続けていられるのだ。

そして。私の跡を継ぐのは、勿論、私達の子供…の筈だった。

 

  *

 

数年前。

私達の息子と、その連れが…要に、棕矢(そうや)達の両親が亡くなった。

理由は二人共、病だった。息子夫婦が、隣町へ買い物に行った時。その辺りで密かに蔓延していた症に罹(かか)ってしまったのが始まりだった。最初は連れが患(わずら)い、必死に看病していた息子も、やがて…

彼等も私達も、そんな病の事など微塵も知らなかったんだ。

息子は「看病をする為に」と一室に結界を張り、毎日、一日中、彼女に付き添っていた。私や妻が、身体を休める様にと促しても聴き入れなかった程だ。

それに…息子が遣っていたのは〝張った本人しか解けない結界〟故、私達にそれ以上の事が出来なかったというのもある。

どうして息子は、そこまで頑(かたくな)だったのか…

それは、その時〝彼女〟が恭を身籠っていたからだった。

 

〝母親〟も必死だったんだ。まだ六歳ばかりの棕矢の事も相当、心配していた。更に、そんな大事な時期に病で寝たきりだなんて。

私と妻は、少しでも彼女達が楽になる様に、と最善を尽くした。…その分、棕矢に構ってやる時間が減り、きっと棕矢にも長い事、寂しい思いをさせていただろう。

「お母様と、お父様は?」と度々訊いてくる棕矢には、いつも誤魔化しながら、読書や技術の特訓等で気を引いてやる事くらいしか出来なかった…。

 

その後も病状が悪化した身体で、彼女は耐えに耐え続けた。

そして時が来ると、産婆の懸命な介助の末、何とかお産したのだ。

隣で横たわりながらも優しく見守る〝父親〟の励ましの声を聴きながら。

 

お産から一週間程が経った頃。

〝母親〟は、お産で大分(だいぶ)、無理をしていたのだ。急激に衰弱し、危険な状態となっていた。そして同じ様に傍で寝ている〝父親〟も、眠っている時間が長くなり、中々目が覚めない状態が続いていた。

 

それからは早かった。

後(のち)の数日の間に、母親が逝き、後を追う様にして父親も逝ってしまった…。

私達は彼等が亡くなった瞬間から、自分の命をも奪われたかの様な毎日を過ごした。

ただ、陽が出て沈むまでの時間を、淡々と同じ事をしながら繰り返すだけだった。

 

でも。

それでも。

……私達には、棕矢と恭と言う、息子達が残してくれた命が在った。

いくら、憂鬱という言葉なんかで言い表せない程の苦しい日々が続いても。

あの兄妹(子たち)の世話をしなければならなかった現実が、私達をここまで生かしてくれていたんだ。

息子夫婦が逝ってしまってから、少しして。

私と妻は、棕矢(そうや)に、ゆっくりと噛み砕いて〝現実(いま)〟を説明した。

始めはきょとんとしていた顔が、次第に強張り、複雑な表情となってゆくのを見るのは、とても辛かった。

私が何か一言を発する度に、棕矢の碧い無垢な瞳が濁ってゆく気がして…罪悪感が物凄くて…話し終えた時、私達三人の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。

私達の嗚咽が聞こえたのか、少し離れた所に寝かせていた恭までもが泣いていた。

妻が涙を拭き、あやしに行く。この時「子を持った女(はは)は、本当に強いな…」と痛感したのを、はっきりと覚えている。

 

  *

 

その晩、妻と息子達の話をした。

懐かしい話も、馬鹿話も、困ったところも、良いところも…色々な話をした。

ぼんやりとした微睡(まどろ)みの中で、二人の面影を思い出し、語るのは幸せだった。

 

話の途中。

「棕矢と恭の為にも、今を乗り越えよう」と。

「現実(いま)がどんなに辛くても、あの子達は、ちゃんと育てていこう」と、私と妻は誓った。

 

そして、妻が眠ってしまうと、私も目を閉じ眠りに就いた。

 

XX11年 7月 

 

□祖父 grandfather□

七月に入った頃の夜。

私達は〝いつか〟の様に寝室で、妻と話していた。

 

恭は、いつも兄に付いて回ってばかりいた、とか。

五歳になってからは、兄妹そっくりで好奇心が旺盛だった、とか。

私達がよく本を読み聞かせていたら、棕矢(そうや)も真似する様になった、とか…

 

それから、また〝いつか〟の様に…

妻が眠ってしまうと、私も目を閉じたのだった。

 

 *

 

ふと目を開けると、其処には信じられない光景が広がっていた。

私の目の前には…

大切で大切で、今直(す)ぐにでも会いたいと懇願していた〝あの二人〟が居たのだ。

しかし、此処はさっきまで、妻と会話していた部屋。私達の寝室だ。

それにしても、少し怖いくらい静かだ。いや、目に見えているもの全ての気配が消失している、と表現する方がしっくり行く…。

動揺しながらも、私は息子の名前を叫んだ。叫んだ…? 力一杯、名を呼んだ筈なのに、自分の声が聞こえなかった。物音ひとつしなかった…。

「何で…お前は私に会いに来てくれたんだろう!」

けれど、どんなに声を張り上げたつもりでも、其処はしんと静まり返ったまま。

困惑する私に、息子夫婦が微笑んだ。そして。

『有り難う』

二人の口が、はっきりと動いた。いつも見ている場所なのに、いつもと全く違う空間。静寂の中、その今にも、消えてしまいそうな二人に…私も無我夢中で、「有り難う」と返した。

息子は、それに頷くと…唐突に、掌(てのひら)を開いて見せた。

…彼の手の中には、ある鉱物の欠片(かけら)がひとつ。

 

『る・な・の・い・し』

 

口がそう紡ぐ。

……ルナの鉱物(いし)

私の視線は、差し出された鉱物と、息子の顔を何度も行き来する。

途端、無意識の内に、縋(すが)る様に手を伸ばし、私は叫んでいた。

「それが! それが何なんだ! 私は何をすれば良いんだ?!」と。

 

『また、会いたいです』

 

今度は聞こえた気がした。懐かしい息子の声が。

しかし、その直後の一瞬で、彼等は居なくなっていた。 

私は目覚める。

身体中、汗でびっしょりだった。

頬に違和感があって、指で触れると涙の痕が付いていた。

外は白み始めているのか、カーテンの隙間から、一条の淡い光が差している。

……夢。幻想。正に儚く、朧げな夢だったな。

私は、ひとり寂しく微笑むと、横で眠っている妻を起こさない様、そっと階下に下りたのだった。

 

私は台所に行くと、ミルクを温め、カウンターの椅子に腰掛け、飲む。昨夜の夢を出来るだけ細かく思い出そうとした…が、目頭がじわじわと熱くなるだけで、カップが空く頃には、考えるのを止(や)めていた。

流しでカップを洗おうとした時…。「今まで、妻が食事を作ってくれていたんだよな…」と頭を過(よぎ)る。普段、私が起きる時間も早い方だとは思うが、妻はもっと早くから朝食の支度をしてくれている。

……今朝は、私が作ろうか。

私達の朝は、いつも軽食程度だが…今日は何か、少し手の込んだものでも出してやろう。

大抵、カフェ・オ・レや、ミルクで済ませるところを、スープに。バゲットには、薄(うっす)らマーガリンと、マーマレード…その上に、軽くシナモンを振り掛ける。そして、付合わせに、ほんの少しのサラダを。

 

   *

 

「よし」

出来上がった、少し豪華な朝食を前に、私は大変、満足で優越感たっぷりだった。

「ふふ。貴方、良く出来ました」

急に声がして飛び上がる。見回すと、階段の陰から此方を見ている妻の姿があった。私は途端に恥ずかしくなって、目を逸(そ)らす。頬が紅潮しているのが嫌でも判った。

「い、居たなら、声くらい掛けてくれ」と、上擦った声で、ぎこちなく言うと、妻は「だって貴方、こっそり部屋から出て行くんですもの」と笑う。

「起きてたのか」

「ええ。一階(した)に下りて行ったかと思えば、何だか物音がするし、段々良い匂いがしてくるし…だから、たまには貴方のご飯が食べたくなったのよ」

期待が混じった嬉しそうな笑顔を見せる妻の姿は、どこか若き頃を思い出させた。

私は、何となく、むず痒くなって「じゃあ、棕矢(そうや)を起こして来るよ」と言い、そそくさと逃げる様に二階へと向かったのだった。

 

   *

 

コンコン

扉(ドア)を叩く。

……あれ? 普段なら、妻の手伝いをする為に、この時間には起きている筈だが…。

私は、そっと扉を開ける。

 

…棕矢は、まだベッドで寝ていた。

彼の腕の中には〝本〟が抱かれている。

「ああ…」

これは、棕矢と恭がよく一緒に読んでいた、鉱物図鑑だ。そして、彼の五歳の誕生日に、私があげた物だった。大事そうに本を抱えて眠る少年を前に、哀愁を覚えると同時に、微笑ましさも感じる。

 

「棕矢、起きなさい。ご飯、出来てるぞ」

そっと声を掛けると、少年が、ぼんやりと目を開ける。そして私の姿を確認すると、急にぱっちりと目を見開いて大いに驚いた後、何故か、今度は赤面してしまった。本をタオルケットで隠しながら、桃色の顔を少し逸(そ)らして「お、お早うございます…」と。

私は、ついさっきの自分を見ている様で、思わず大声で笑ってしまった。

笑いを堪えながらも「ほら、食事も冷めてしまうから、早く来なさい」と告げる。

それから、扉のノブに手を掛けたところで振り返り…

「今朝は、おじいちゃんが作った、ご飯だぞ」と、わざとらしく言ってやった。

少年は少し思案した後、「本当?! やった!」と珍しく、実に子供らしい反応をしてくれた。

 

部屋を出ると気付かぬ内に、にやにやとしてしまっていた私。久しく見ていなかった棕矢の、素直な子供らしい反応が凄く嬉しかったのだ。

 

「子供は、ああでなくちゃな」 

 

 

◆棕矢 Sohya◆

今朝、お祖父様(じいさま)が、僕を起こしに来てくれた。

だから…恭によく読んであげていた本を、抱えて寝てるところ…見られちゃった。

昨晩は懐かしくなって、色々と思い返しながら、それを読んでいたんだ。でも、いつの間にか、寝ちゃっていたみたい…。

 

起きたら、目の前にお祖父様が居るし、何か楽しそうだし…それに、ご飯…作ってくれたんだ…。

 

「色々と恥ずかしかった」

僕は、そう思いつつも「おじいちゃんのご飯か…楽しみだな」なんて、嬉々(わくわく)としていた。 

 

□祖父 grandfather□

仕事部屋に籠(こ)もり、あの不思議な夢を思い返していた。

息子は何を伝えたかったのだろう…。

「ルナの鉱物(いし)が何なんだ!」

何も浮かばない自分に、苛々する。

私は、今年の奉納品を作った時に残った〝鉱物(それ)〟を取り出してみた。

滑(なめ)らかな銀色。綺麗な斜方の筋が入った断面。

見た目に反し軽く、しかし程良い重量感はある。

少し見る角度を変えると、また違った色と艶が美しい…

ルナの鉱物(いし)は、とても質の良い水辺でしか採れず、年間で採取できる重量も細かく定められ、基本的に採取できるのは私達工匠のみ。一般人は原則不可だが、研究等の特別な理由に限り、工匠の判断をもって可とする事はある。

因(ちな)みに昔から、この類の話になると、街の長(おさ)よりも工匠の方が優位という暗黙の了解がある。要に、それだけ貴重なものなのだ。

 

 

何となく窓を開け、陽に透かして見る。

しかし、何が起こる訳でも無く、直(す)ぐに窓から離れ、椅子に掛けた。

……本当に、どうしたら良いんだ。

 

頭を抱えていると…

 

トントン

 

戸を叩く音がした。

私は誰が来たのか判っていたので、「どうぞ」と答える。

案の定、入って来たのは妻だった。

此処には、私と妻しか出入りする者が居ないからな。

妻は、きっと察している…「私には、お見通しよ」と言わんばかりの瞳を私に向け、手に持っていた、ティーセットの盆を軽く示した。

「貴方、少し休みましょう」

 

行き詰っていた事まで、彼女にはお見通しか。本当に、妻には隠し事が出来ない。

私は観念して、懐中時計の蓋を開く。まあ、お茶をするには丁度良い頃合いだった。

部屋にあった丸椅子をもう一つ出し、妻に掛ける様に促した。

 

妻が持って来た布(クロス)を仕事机に広げ、ポットから〝いつもの茶〟を注ぐ。

庭で栽培してるハーブを使った、妻お手製のオリジナル・ハーブティーだ。

狭い部屋なので、直(す)ぐにふわっと良い香(こう)が立ち込めた。ほっと、安心する心地好い香りに、私は気が鎮まるのを感じる。更に、彼女は茶と一緒に、まだほんのりと温かいパウンドケーキを出してくれた。生クリームが添えられ、クリームの上には小さなミントの葉が乗せられている。この葉も、庭で育てているものだろうか。

私が皿を受け取り「有り難う」と言うと、彼女は「私が作ったのよ」と自信ありげに軽く笑った。

少しの間、お茶を楽しむと、私は「そう言えば、棕矢(そうや)はどうしたんだ?」と、気になって訊ねた。すると妻は「珍しく、お昼寝中ですよ」と、今度は優しく微笑んだ。 

 

 

XX11年 8月 

 

◆棕矢 Sohya◆

外は、ほんの数日前よりも随分と陽が長くなって、照り付ける陽光が強くなった。

まだ朝晩は少し涼しいものの、やはり日中、街に出れば熱気を感じる季節だ。

 

そんな八月のある日、お祖父様(じいさま)が僕にこんな事を訊いた。

「棕矢(そうや)。お前は、また恭に会いたいか?」と。

「そんなの、当り前だよ!」

僕はつい大声で言いながら、身を乗り出していた。

 

「じゃあ、おじいちゃんが会わせてあげるよ」

 

突然の言葉にその意味が解らず、目を屡叩(しばたた)かせる。

「でも、そんな事…」

「大丈夫、出来るよ。おじいちゃんを信じてくれ」

お祖父様はそう言って、にっこりとした。

 

そして「棕矢も協力してくれるか?」と、僕に訊いたのだった。

 

***

 

「棕矢、ちょっと良いか?」

 

その夜。

僕はお祖父様に連れられ、ある部屋へと向かった。

先を歩くお祖父様の背中は、いつもとは違う魅力(オーラ)を放っている。

僕達の横には、二階の廊下に沿って並ぶ、たくさんの扉。

けれど、お祖父様はどの扉も開けず、どんどんと廊下の端へ端へ…西側へと向かって行く。

……一体、どこへ向かっているのだろう?

 

そして。ある場所で、やっとお祖父様は立ち止まった。

〝ステンドグラス〟

きらきらとした、透き通った大きな絵は、僕の背丈では見上げる程である。何度、見ても、やっぱり凄く綺麗だ。

 

……いや。でも、此処は廊下の端で、行き止まり。それに、僕だって普段から見慣れている場所の筈だし…第一、ステンドグラスと、その向かいに窓が在るだけ…

どこにも、部屋なんて無いじゃないか。

と、お祖父様が悪戯(いたずら)っぽい瞳で僕を見る。

そして迷い無く、ステンドグラスの前に在った傘付き洋灯(ランプ)に手を伸ばした。

点けて…消して…点けて…三回、鎖状になった洋灯の紐を引っ張る。

 

洋灯が再び灯り、お祖父様が鎖から手を離し、ガチャリと大きな音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

その音に驚き、僕は一歩、後退(あとずさ)りする。お祖父様は、吐息混じりに少し笑うと「ほら、棕矢」と僕の背中を押し、前へやった。

「押してごらん」

お祖父様がステンドグラスに手を添えたので、釣られて僕も同じ様にする…。

お祖父様の足が一歩前に進む。僕も一歩進む。ステンドグラスが押されて行く。

すると、見た目よりあっさりと動き出し……洋灯の灯りに照らされて、木漏れ日の様な光と影が廊下に映し出された。

そして…。

ステンドグラス自体が巨大な扉みたいに、大きく開け放たれた時。

 

僕の目の前には…暗い階段が、不気味に上へと延びていた。

「さあ、行こう」

僕を見詰め、先を促すお祖父様(じいさま)。

しかし、意外な展開に思考が追い付かず、僕はゆっくりと首を傾げた。

愉快そうに笑ったお祖父様が…少し真面目な表情(かお)になってから告げる。

「今から、おじいちゃん達の仕事部屋に行くんだ。棕矢(そうや)…お前だけ特別に」

 

僕とお祖父様は、薄暗い階段を上る。

一歩一歩、踏み締める二人の足音が、やけに響いている。

……でも冒険しているみたいで、何だかドキドキしてきた。

階段を上り切ると、今度は少し大柄な扉(ドア)が現れた。その扉はちょっと変わっていて、扉の縁が絵画の額縁みたいな模様だったり、所々に綺麗な宝石が填(は)め込まれていたり…

「お祖父様? 此処が、仕事部屋ですか?」

「ああ、そうだよ。おじいちゃんと、おばあちゃんは、いつも此処で仕事をしているんだ」

 

……そうだったのか。

 

「何だか、凄い扉だね…」

半分呟く様にして言うと、お祖父様は誇らしそうに「大切な仕事をする部屋だからね。厳重なんだ」と言った。

そして「ここに填め込んである鉱物(いし)は〝黒翡翠(ひすい)〟と〝瑪瑙(めのう)〟と言って、〝厄払い〟とか〝守護〟の力、あとは〝仕事を円滑にする〟効力があるんだよ」と教えてくれた。

……恭によく読んであげた本に書いてあるかな?

「後で調べてみよう…」

 

   *

 

重そうな扉が押し開かれると、室内は暗かった。

いくら今が夜だとしても…月明りさえ差し込まない、真っ暗な部屋。

そこに、ほんのりと自然を感じさせる香りが漂っている。部屋に閉じ込められていた、夏の夜の生暖かい空気と、第一印象が相俟ってか、少し不気味な肌寒さを感じた。この真っ暗闇の中から、何か得体の知れない恐ろしいものが飛び掛かって来そうで。本能的な恐怖感が、僕の背を這う…。

 

しかし、お祖父様は慣れた手付きで室内の灯りを点けると、部屋の中に進み…左手の中程に在る、焦げ茶色の本棚の前に立つ。そして、僕を手招いた。

館(みせ)の中の一室とはいえ、初めて入るところは、やはり怖くて、恐る恐る進んで行った僕は…やっと目の前に、お祖父様の姿が確かめられると、ほっとした。

小さな部屋だから扉から此処まで数歩の筈なのに、凄く長い距離に思えた…。

 

ほんの暫しの沈黙。先に口を開いたのは、お祖父様だった。

「棕矢(そうや)。〝本棚(ここ)〟には〝とても大切な本〟が在るんだ」と。

「どの本か判るか?」

そう問う強い瞳に、僕は圧倒されて中々答えられずにいた。

それから下を向き「…ごめんなさい。判りません」と、何とか小さな声にすると、お祖父様が僕の肩に手を乗せた。温かくて、大きくて、ちょっとごつごつとした頼もしい手。僕は、その温かさに力んでいた肩を下げる。

と、肩に乗ったお祖父様の手に少しだけ力が籠(こ)もった。

「これから話す事は、私達だけの秘密だ。絶対に、他の人に言ってはいけない事だからな」

僕をしっかりと見詰め、そう静かに告げる。

「おじいちゃんとの約束、ちゃんと守れるか?」

……約束を…守る。

それは、恭が居なくなってから一瞬たりとも忘れられる筈の無い言葉だった。

何度も何度も心で繰り返し、僕を縛り付けている言葉。

そんな科白(せりふ)に戸惑いながらも、僕は「はい」と、お祖父様の目を見詰め返し頷いた…〝あの日〟と同じ様に。

同時に。

……きっと、これは〝跡を継ぐ為の話〟なんだ。そう感じていた。

 

僕の返答を聞いたお祖父様の表情が緩み、それから微笑んで「よし。よく言った」と、いつもより強く、くしゃくしゃと僕の頭を撫でた。

お祖父様の手が、ゆっくりと止まる。

一呼吸、吐く音。

 

「〝お狐さま〟は、〝この街の表裏〟を支えているのです」

 

「え?」

顔を上げると、お祖父様の瞳(め)は遠くの方を見ていた。

そして物語を語る様に、すらすらと続ける。

 

「此方側の世界に雨が降れば、お狐さまは直ぐ近くで、わたし達を見ていらっしゃる。逆に、晴れている日には、そのとき雨降る地のお傍にいらっしゃる。そして。天気雨…〝狐の嫁入り〟の日には…〝全て〟を捧げるのです」

 

僕は慌てて「ちょっと待ってください! 何ですか? それ…」と訊いた。

語部(かたりべ)は真面目な顔を此方に向け…

「これが工匠(わたしたち)の秘密だ」と言った。

 

秘密の話って…そんな。

 

世界を? …支えて?

 

お狐さま? …あの守護神の、お狐さま?

 

僕が困惑していると、横から「これは嘘みたいでも、本当の話なんだ」と、お祖父様の重く低い声が聞こえた。

「じゃ、じゃあ…つまり…ルナは、お狐さまが支えている、って事なんですか?」

「ああ、そうだよ。だから〝御祈りの日〟に私達は祈るし、奉納品を作り捧げるんだ」

現実味の無い話を僕は、ぼんやりと聞いている。

「棕矢、この口碑(はなし)を忘れないでくれ。これからも…」

 

これからも、お前がこれを伝えて行かなければならないんだ。

 

……ああ。やっぱり、僕が継ぐんだな。

 

現実を突き付けられた気がした。

 

……いや、こうなるって、分かってたんだ。

でも、こんなにも早く向き合う事になるなんて…「思ってなかった」

 

不意に、ギシギシと床板を踏み締める音がした。

見ると、お祖父様が本棚の下段から一冊の本を取り出しているところだった。

それから部屋の角に置かれていた机に近付くと、仕舞われていた椅子を引き出し、腰掛けた。傍に歩み寄った僕に、無言で本が手渡される。

……あれ?

「この本…。何か宿っていますか?」

本を受け取った瞬間、とても強い力を感じた。

例えるなら、突風が身体の中を一気に駆け抜ける感じ。

その本は…辞典のみたいに分厚くて、くすんだ赤色の硬い表紙。見た目は簡素(シンプル)でも、ざらざらとした触り心地が独特な印象を与える。

僕が感じた〝突風〟は、今まで、お祖父様達に教わって来た〝技術〟の感覚と似ていた。が、違う…似て非なるもの。上手く説明が出来ないけれど、そんな力を、この本から感じたんだ。仮令(たとえ)、それが何か判らなくても、何となく〝宿る〟って表現が相応しく思えて…

 

再びお祖父様の顔を見ると、お祖父様は、こう言った。

「この本にはな、〝ある計画(プロジェクト)〟の記録が載っているんだ」

「ある計画?」

「ああ。実際には、まだ未完成なんだが…」

お祖父様の瞳に、一瞬だけ影が差す。

「どんな…計画だったんですか?」と、先が気になって訊く。

 

お祖父様の瞳が、僕を見詰める。

数秒…。

鉱物を使った〝存在創造計画(カタチ そうぞう プロジェクト)〟

これを、書いたのは…私だ。

言い切った、お祖父様の表情(かお)には、色んな感情が混ざり合っていた。

けれど…凛々しくて。深い綺麗な碧色の瞳に、僕は胸を打たれた様だった。

「…鉱物を使った カタチ創造計画?」

僕は文字を思い浮かべながら繰り返してみる。

優しく微笑む、お祖父様。

何かを決断した様な、意志を持った声が部屋に響く。

 

「要に、これで〝恭を創り出す〟んだ」

 

□祖父 grandfather□

『今日も上手くいかなかった。』

 

『今日も、何も変わらなかった。』

 

『今日は、鉱物を数種類、混ぜてみた。』

 

『昨日、混合させたものは、失敗だった…。』

 

『悔しい…どうしてだ!』

 

   *

 

『今日は、何だか、やりたくない。…でも、進めなければ。あの子達に、もう一度会いたい。』

 

『今日は………

 

 

  ***

 

 

XX06年の夏。

第一回目の計画(プロジェクト)の期間。私は〝あの本〟に日記をつけていたんだ。

 

最初は試した事や、その結果をメモする「記録帳」として使い出したのだが、たまたま寝る前に、一、二行の感想を追記してみた日があって…。

そしたら段々と日課の様になり、気付けば〝あの本〟は「記録 兼 日記帳」と化していた。

 

  ***

 

『今日は………

 

 *

 

『今日は………

 

  *

 

『ああ…もう棕矢も八歳になった。あの子は賢い子だ。この研究を続けられるのも、ここまでなのか?』

 

  *

 

『諦めよう。』

あれから数年。

再び始めた『この計画(プロジェクト)』

 

  ***

 

何故。

 

私達は焦り過ぎなのだろうか…。

 

何故。

 

何故、こうにも進まないんだ。

 

いや…本当は、頭では分かっているんだ。

でも、それを心が受け入れない。

 

所詮は〝この計画(プロジェクト)〟自体が、〝錬金術師の真似事〟に過ぎないと言う事も…。

頭のどこかでは、知っている。

 

でも受け入れない己が居る。

 

ああ。

もどかしい。

 

もう、このまま諦めてしまう事が、正しい道なのかも知れない。

一.まずは、精神統一。

余計な思考、妄想的記憶を極限まで削ぐこと。

 

二.次に、生み出すモノを、心から〝想う〟こと。

  真の記憶から、手繰り寄せること。

 

三.そして、その想いを〝カタチに変える〟こと。

工匠(わたしたち)の想いと、念と、技術で。

 

これが〝過去〟に私が、辛うじて見付け出した〝創造の基礎〟だった。

 

しかし、この三つ目に当たる部分…〝創造の儀式〟自体には、まだまだ届いていなかった。

 

   ***

 

「棕矢(そうや)、良いか?」

「…はい」

私達の落ち着いた声が、結界の中で反響する。

 

此処は、仕事部屋。

照明は消してあるので、ほぼ暗闇の中。

今宵の月光と、蝋燭(ろうそく)の淡い灯りだけが、ぼんやりと私と棕矢を照らす。

今夜は、ほんの少し丸みを帯びた下弦の月。

妻は〝工匠の血〟を引いていないので、今回は館(みせ)の番を任せている。

それから本棚や机も、今は全て部屋の外に出した。

 

故に。

今、此処に在るのは、月光と、蝋燭の灯(ひ)と、術で清めた地下水、多種多様な数多(あまた)の鉱物達…。

そして、ルナの鉱物(いし)と〝あの本〟…。

「…良いか?」

少し間があったが、目を閉じた少年は頷く。

 

「はい」

「心から〝真の記憶〟を思い浮かべて…恭を感じるんだ。素直に想うんだ」

 

もう、これで何度目、そして何日目の夜だろうか…。

月は新月も過ぎ、三日月になっていた。

毎日、同じ様に「はい」と言葉では肯定を示す棕矢(そうや)にも、流石に、明らかな疲れと不安が滲んでいる。本当は、この子の苦しそうな声を聞くのは辛かった…。

それでも、子供ながらに「まだ、大丈夫です」と、真っ直ぐに見詰めて来る、純真無垢な瞳を信じていた。……私と似て非なる、独特な色合いの瞳を。

先(ま)ずは精神統一をして〝基礎の環境〟を造る。

…しかし。何度やっても、そこ止まりのままだった。

いくら基礎を固めても、この計画(プロジェクト)は〝完成〟しなければ意味が無い。

解っている。そんなに甘い話じゃないんだ…。

私は身を以(もっ)て、痛いほど知っているから。

何故なら…。

私が息子達と再会したいが故に、意地を張って〝計画(それ)〟を試みていた時期(とき)も、結局は同じ事をしていたからだ。

 

今と違うのは、前は、私ひとりの力だけで形成しようとしていた事くらい。

要に、力を持つ者が二人になっただけで、まだ、同じ事を試している…堂々巡りだった。

 

   ***

 

そんな日が続いた、幾日目かの事。

精神統一をしていた時。突然ドサッと、鈍い音が鼓膜を揺らした。

驚いて目を開ける。

 

……?!!

 

「棕矢!!」

目に飛び込んで来たのは、朦朧(もうろう)とした表情(かお)で床に倒れている棕矢の姿。

瞳は虚ろで、以前、病んで衰弱し切っていた妻の姿と重なる…。

少年は不意に手近にあった〝ひとつの鉱物〟に、ゆっくりと手を伸ばした。

それは、何となくだったのか…はたまた、彼なりに感じたものがあったのか…

私には判らないが、その時、棕矢が掴んだのは、偶然にも〝ルナの鉱物(いし)〟だったのだ。

と、急に棕矢の瞳に光が戻った。…かと思うと、少年は涙を流し始めた。

この子のことだ。協力すると答え、私と一緒に居る時は、ずっと涙を堪えていたのだろう。無理もない。素直になって、恭の事をひたすら考えろ、思い出せ、と言ってきたのだから…。

「ごめん。ごめんな、棕矢…」

抱き起こしてやる。無垢で温かな滴(しずく)が頬を伝い、ぽたぽたと零れてゆく。

胎児の様に身体を丸め、震えながら…私の腕の中で、少年は静かに泣く。

その彼が震える拳(こぶし)に握り締めた〝鉱物〟に、何度か滴(しずく)が滴り落ちた時だった。

それは、起こった。

 

……? この感覚。

 

私は、微かな波動を感じたんだ。確かに。今。

「どこから…?」

瞬時に意識を向ける。正直、勘程度のものだった。

……弱々しい反応だが、何かがこの状況に呼応している!

研ぎ澄ました精神の中、私が辿り着いたのは……棕矢の手の中に在った。

「棕矢…」

驚きと、様々な感情が身体中を駆け巡った。

鉱物(いし)が…

ルナの鉱物が。

少年の手の中で、薄(うっす)ら碧い光を纏っていた。

 

まるで、この子の瞳の様な…表現するのが難しい色で光っている。

いや…もしかすると、これは鉱物自体が、発光している訳では無いのかも知れない。

涙で濡れた鉱物(いし)は、どことなく夜露で妖艶(ようえん)に照る、果実を思わせた。

「棕矢…」

私は、もう一度、棕矢に声を掛ける。

多少、落ち着きを取り戻し、目を開いた少年も、この光景に息を呑んだ。

私の目を真ん丸の瞳が見詰めてくる。

 

お互い言葉を交わさなかったが、伝わるものはあった。

だから、互いに頷く。

 

「お祖父様(じいさま)…もしかしたら」

「ああ。少し進めるかも知れないな」

 

泣き笑いの様な顔をした少年と、きっと同じ顔をした私。

この瞬間(とき)、私達の微笑みは、そっくりだっただろう。 

 

◆棕矢 Sohya◆

八月も終わる頃。

僕とお祖父様(じいさま)が、色々と試し始めてから、約一ヶ月。

〝恭と再会する為の手掛かり(ヒント)〟を見付けてから…その甲斐あってか、あともう少し! ってところまで来ているんだ。

 

今夜も、今じゃ習慣みたいになった階段を、お祖父様と上っている。

そう言えば、初めてこの階段を上った時より、ほんの少し涼しくなったかな…。

「何だ、棕矢(そうや)。ご機嫌じゃないか」

突然、横に居た、お祖父様に「良い事でもあったのか?」と声を掛けられる。

「…へへっ。はい! だって楽しみなんです!」

「あと少しで恭に会えそうだからか?」

「勿論です!」

「はは、おじいちゃんもだよ」

僕は、とびきりの笑顔を、お祖父様に向ける。

「僕、諦めません! 絶対に成功させます!!」

「偉い偉い」

お祖父様は誇らしそうな顔で、頭を優しく撫でてくれた。

……あ、たまには〝お兄ちゃん扱い〟じゃなくて〝子供扱い〟されるのも良いな。

なんて、凄く嬉しかった。

 

「よし。おじいちゃんも諦めないからな」

 

僕達は、今夜も仕事部屋に踏み込む。

窓を開けると、窓枠からはみ出るくらい大きな満月が煌々(こうこう)と輝いていた。

「綺麗…」

その大きくて、真ん丸のお月様に、僕は元気を貰った。

 

……今日は、いつもより頑張れそうだ。 

 

□祖父 grandfather□

八月末。

今宵の月は、とても美しい満月だった。

私は、棕矢(そうや)と二人で、仕事部屋へと向かう階段を上っている。

隣…いや、私より少し先を歩く少年。

今日は、何だかやけに、ご機嫌が宜しいみたいだ。

拍子(テンポ)良く段を踏み進めている。

仕事(あの)部屋を、最初この子は怖がっていた様だが、今は慣れてきたみたいで助かっている。

「何だ、棕矢。ご機嫌じゃないか。良い事でもあったのか?」

ちょっと、からかう口調で、背中に声を掛ける。

 

「…へへっ。はい! だって楽しみなんです!」

軽く振り向いた棕矢は、速度を緩め、私の横に並ぶ。

 

「あと少しで恭に会えそうだからか?」

「勿論です!」

「はは、おじいちゃんもだよ」

 

「僕、諦めません! 絶対に成功させます!!」

 

暗がりの闇を吹き飛ばしそうな、明るい声が響く。彼の瞳が輝いていて見えた。

この時、私はこの子に慰められたのだろうか。急に誇らしさが胸に湧き上がり、照れ隠しに、彼の頭を優しく撫でてやる。

「偉い偉い」

すると彼は、凄く嬉しそうな顔で恥ずかしそうに、はにかんだ。

 

「よし。おじいちゃんも諦めないからな」

 

口ではそう言った。本心だ。

けれど…

 

……本当は計画(これ)が禁忌だという事を、

きっと、まだこの子は、完全には知らないのだろう。

 

ほんの少しだけ、胸の奥がピリッと疼(うず)いた。

 

XX11年 9月 

 

◆棕矢 Sohya◆

九月になった。

今夜こそは、本格的に〝本番の儀式〟を行うと、お祖父様と決めていたんだ。

 

   *

 

緊張するかと思っていたけれど、そこまでしていない。好都合だった。リラックスしていないと〝基礎〟だって始められないから。

 

仕事部屋に入ると、いつもの様に窓を開ける。

今夜の窓の向こうには、三日月をひっくり返した様な形をしたお月様。残念ながら満月じゃないけれど、月明かりが少しでも入ってくれば大丈夫…って、お祖父様(じいさま)が言っていたから、大丈夫なんだよな。雲が掛かっていなくて良かった。

 

もう慣れた暗い部屋に、お祖父様が結界を張る。今までよりも、少し強度を上げているらしい。大事な日だから。

 

先にお祖父様が用意したのだろう。床には、必要な物が、たくさん並べられていた。

 

・木の器

・蝋燭(ろうそく)

・多種多様な鉱物

・術で清めたルナの地下水

・ルナの鉱物(いし)

 

結界を張り終えたお祖父様が、今度は蝋燭に火を点け、部屋の真ん中辺りに置いている。立ったままだった僕が「何か手伝いますか?」と訊くと「大丈夫だよ。棕矢(そうや)は蝋燭の傍に座って居てくれ」と、返ってきた。

たくさんの鉱物が入った籠を持ち上げる、お祖父様を横目に蝋燭と向かい合う形で座る。

 

お祖父様が、僕の周りに鉱物を並べ始めた。

最初は、僕から一メートルくらい離れた床に。それが終わると、更に、もう少し外側にも同じ様に置いてゆく。鉱物の種類や大きさに、順番が決まっている訳ではないみたいだ。色も形も、大きさも、皆違う…

 

 *

 

暫くして。準備が整った。

部屋全体に、鉱物の力が蠢(うごめ)いている。流れる様な、漂う様な、重い様な…此処に在る、それぞれの鉱物達の息吹を感じる。それ等で出来た二重の環(わ)に囲まれて、どこかの遺産や歴史的な儀式みたいだと思った。

今、僕の前の床には木で出来た器が置かれている。

古めかしいのは、お祖父様より、もっと前の御先祖様から、ずっと使い続けているからだそうだ。器の中は、まだ空っぽ。

「これから、この中に清めた水と、数種類の鉱物を入れていく」と、お祖父様が言った。でも、僕が「ある特定の鉱物(いし)に意識が向かない様に」って…何を使うのかは、教えてくれなかった。

「今から、おじいちゃんが言った通りの事をするんだよ」

優しい笑みで、お祖父様が言う。僕は頷く。お祖父様が一呼吸吐く…。

 

「よし。やってみよう」

「はい」

先(ま)ず。いつもと同じく〝基礎〟から。つまり、精神統一。

目を閉じて集中する。

 

何だか、普段より研ぎ澄まされている気がする。

僕の呼吸が一定の深さで、一定の速さで繰り返す。

物音ひとつしないのが不気味だったが、お蔭でリラックス出来る。

 

少しして。

 

カタ

 

小さな音の直後、水の揺れる音がした。

 

……お祖父様が、器に水を注いでいる音。

心が落ち着き過ぎている僕は、驚きもしなかった。

 

「両手を出して」

 

言われるままに、手を前に差し出す。

ごつごつした、お祖父様の手が僕の手に触れる。僕の掌(てのひら)を上に向け、そのまま両手をくっ付ける。両手で水を掬(すく)う時みたいに…。

と、手の上に、小さくて、ひんやりとした物が乗せられた。

 

……あ。きっと、ルナの鉱物。

 

「そのまま器に、手を入れて」

 

僕は、意識を乱さない様に注意しながら、ゆっくりと〝手と鉱物〟を下に降ろしてゆく。

 

……冷たい。

無事、逸(そ)れる事なく、器の水に手の甲が触れた様だ。

 

「水に手、全体を浸して」

 

水中に、僕の両手と鉱物が呑み込まれていく。本当に、湧き出て来たばかりの水みたいに冷たくて…一瞬、本で読んだ事のある「禊(みそぎ)みたいだ」と思った。

 

「もう一度〝基礎〟…焦るなよ」

 

『ここが一番肝心な工程だからな』と言う感情が伝わって来る声音だった。

 

……お祖父様との願いを。計画(プロジェクト)を成功させるって決めたんだ。

 

それに応えよう。

 

「…………」

 

心の奥底から込み上げて来る、強い感情。

僕の精一杯の…最大限の気持ち。

それが、こうやって何日、考えても…何度、想っても。

変わる事は無い。

 

 

……大切な、愛しい妹を、僕は一生想い続ける事が出来る。

 

つうっ…と温かい滴(しずく)が頬を流れた。

水の中。それを、両手で受け止める。

 

零さない様に…

僕の掌(て)に〝僕の想い〟と〝かけがえのない記憶〟を掬(すく)い取る…溜めてゆく。

 

   *

 

ふと目を開けると、器の中にはふたつの鉱物(いし)が足されていた。

気付かなかった…こんなに、直ぐ近くに器があるのに、水音すら聞こえなかった。

熱い塊が、まだ僕の喉を、胸をじりじりと焼いている。

涙で濡れ、ぼんやりとした瞳は、半ば無意識にお祖父様を探していた。

「棕矢…目を閉じて」

諭す様な声がする。優しい、お祖父様の声にも…懐かしい、お父様の声にも聞こえる。深くて優しい響き…。ひとつ息を吐き、再び目を閉じる。

と、微かに〝技術の動き〟を感じた。

 

その力が、僕の身体を包み込む…。

すると、ついさっきまで全身を焼いていた塊が小さくなっていた。

小さくなった塊は、ゆっくりと溶けて、今は僕の心(なか)に広がっている感じがする。

……?!

その時、突然〝人影〟が見えたんだ!

目を瞑(つむ)っている筈の僕は、びっくりしたけれど、直(す)ぐに集中した。

〝その人物(ひと)〟を見ようと、心の瞳(め)を凝らす。

 

相手の輪郭が、段々はっきりと見えてくる…と、

その人は…

 

「あ…!」

きっと声に出ていただろう。

目に映った、その人……いや〝その子〟は…少女の姿をしていたんだ。

 

「僕達がよく知っている子」の姿を。

 

その子は、僕と目を合わせると、とても嬉しそうに笑ってくれた。〝その子〟のお気に入りだった、ふんわりとした輪郭線(シルエット)の白い薄手のワンピースが微かに揺れている。

 

「…恭!」

僕も笑う。少女と…妹と。

 

 

……本当に! 目の前に、本当に恭が居る!!

 

 

しかし。

束(つか)の間、〝鮮やかな夢〟は一瞬にして、白い霧に呑み込まれた。

 

◇恭 Kyoh◇

私が起きると、お祖父様(じいさま)とお祖母様(ばあさま)が、じっと私を見ていた。

「……?」

心なしか、お祖母様は泣きそうな瞳(め)をしている。

それから「お早う」って、二人は言ったの。

 

起き上がり見回すと、私の部屋でした。

 

「どうして、ここに居るの?」

私は首を傾げます。すると、何故か二人は顔を見合わせる。

 

「恭ちゃんが、酷い風邪引いちゃったのよ。覚えてない?」と、お祖母様。

お祖父様の方は「うんうん」って頷いている。

 

……あれ? そうだっけ?

 

でも、他に思い当たる理由も無いし、私は「そうなんだ…」って返したの。

風邪って言う割には、身体は軽かったけれど。腑に落ちないまま、私は曖昧に笑って見せました。

 

と、突然お祖母様が、私の顔に手を近付けてきたの!

びっくりして、思わず手で顔を覆ってしまって…

「ん?」

お祖母様の手が、私の横の方の髪を触っている。何してるのかな…?

柔らかくて、ほんのり温かい手が、私の髪を優しく梳(す)いている。そして「パチン」って、小さな音。お祖母様の手が離れると、私は気になって、そっと触ってみたの。硬くて、ちょっとだけ冷たい感触。

「これ…」

「ふふ、恭ちゃんにあげる。おじいちゃんが作ってくれたのよ」

 

お祖母様に手鏡を渡される。

そこには…金属の線(ライン)で細かい鉱物(いし)が繋がれた、少し複雑なデザインの髪留めがついていた。

「わあ! 綺麗!」

何故か、また、二人は眴(めくば)せしながら頷き合っている。その無言の会話みたいなものに、ちょっと違和感があったけれど「プレゼント、嬉しいから良いかな」って。

直(す)ぐに、気にならなくなりました。

「有り難うございます!」

 

改めて、お祖父様の手を握って言うと、お祖父様は「良かった」って。

 

そして…

「おじいちゃん特製だから、絶対に無くしちゃ駄目だよ」と、微笑んだ。

「うん!」 

 

□祖父 grandfather□

恭に、もう少し寝ていなさいと言い残し、私と妻は普段あまり使っていない部屋に入った。今、私達の寝室には棕矢(そうや)を寝かせているので寝室(そこ)が使えなかったし、一階で話すのも憚(はばか)られる極秘な状況、内容だ。故、二人きりで話したかったのだ。

 

「あの反応だと、恭…瞳の事、判ってなさそうだな」

 

先程の髪留めを即急に作り、渡したのには、二つの理由があった。

ひとつ。片目の色が変わった事について、彼女自身がどう反応するのかを見たかったから。鏡で顔を見せる切っ掛けを作りたかったのだ。

もうひとつ。〝今の恭〟は言ってしまえば〝鉱物〟で出来ている。その為、件(くだん)のお狐さまの事もあるし、魔除けのお守りとして持たせたかったから。あの髪留めは、結界に似た作用をする魔性具(ましょうぐ)の一種なのだ。

妻が遠くの方を見ながら頷き、ぽつりと言った。

「恭ちゃんが戻って来てくれたなんて、嘘みたい…」

「ああ」

「…」

「お前はこんな夢みたいな事…信じてくれるのか?」

不安で咄嗟に出た私の科白(せりふ)に、彼女はふふっと小さく笑って返す。

 

「夢みたい…ねえ。私は夢でも良いですよ。夢の中の物語はどんなに楽しくても、どんなに辛くても必ず目覚めて消えてしまう。

もし、その夢が自分にとって幸せな内容で、少しでも長く見続けられるのなら…私は、恭ちゃんが居るこの世界に、居られるだけ居たいです」

詩を朗読する様にゆっくり響く温かい声。愛する妻の、心からの肯定だった。

私達は手を取り合う。少し骨張ってきた妻の手は、ほんの少し冷たい。私は壊れ物に触れるみたいに、両手で優しく包み込んだ。

妻が私の目を見る。

 

 

私達は…いいえ。

棕矢(おにいちゃん)は、とても重大なものを背負う事になりますね。

 

◆棕矢 Sohya◆

〝鮮やかな夢〟は一瞬にして、白い霧に呑み込まれた。

 

……霧?

 

「棕矢(そうや)!」

 

あれ?

お祖父様(じいさま)が呼んでいる気がする…。

どうしたんだろう?

 

「棕矢…棕矢! おい! しっかりしなさい!!」

 

うん?

僕は大丈夫だよ…?

 

どうして、そんな辛そうな顔してるの?

ねえ! それより、お祖父様!

あのね、恭が! 本当に、僕、恭に会えたんだよ!

……この時、僕が自分に何が起こっていたのか、知る由(よし)もなかった。

 

  ***

 

気付くと…僕は、お祖父様とお祖母様(ばあさま)の寝室で、寝かされていた。

窓のカーテンは閉め切られていて、朦朧とした頭では、時刻が判らない。

仰向けのまま視線だけで部屋をざっと見渡したけれど、お祖父様達は、部屋(ここ)には居ないみたいだった。

「ん…?」

ふと手に重みがあって、見ると〝妹〟が手を握っていた。小さな両手は〝前〟と変わらずに僕の左手を、ぎゅっと握っている。そして、僕と同じベッドの上で眠っていた。服は、最初に見た、ワンピースではなく、小花柄の寝間着になっていた。

 

……計画(プロジェクト)は成功したって事なのかな。

 

今、恭が目の前にちゃんと居て、僕に触れている事が、まだ夢みたいで…少し不安になる。けれど。

「…あ、手。ちゃんと、あったかい」

とても心地の好い、安心感。また少し、眠くなる。

「んん」

恭がもぞもぞと動く。そして、ゆっくりと瞳が開いた。

 

……え?

 

僕を捉えた真ん丸の二つの瞳は、〝違った〟んだ。

違和感しかなかった。

だって「瞳(め)…」

正直、不気味にも思ってしまう光景に、悲鳴すら上がらなかった。

だって元々…恭の瞳の色は、僕と同じ色で。お祖母様の青緑に近いけれど、違う色で。そうかと言って、お父様と、お祖父様みたいな綺麗な碧色ともちょっと違う〝独特な碧色〟だったから。

よく周りの人達に「兄妹で、目の色がそっくりね」って言われていた。

でも、目の前で此方を見詰めている色は、違う。

 

〝この子〟の左目は、変わらず〝僕達の碧色〟だった。

でも、右目…右目だけは違う…〝金色〟みたいな濃い黄色だったんだ。

 

「何で…」

 

分からなかった。理解なんて出来なかった。

本当に、この子は、恭なのだろうか。なんて疑ってしまう自分が居る。そんな事を思ってしまう自分が嫌だった。

 

「どうして…」

言葉が、これしか出てこない。

 

……僕が寝ている間に、一体、何が起こったんだ?

 

困惑する僕に、いつの間にか起き上がった恭が抱き着いてくる。

僕は、今までと同じ様に、小さな軽い身体を抱き抱(かか)える。

瞳以外は何も変わらない、記憶の通りの恭なのに…。

 

なのに…。

 

僕の不安そうな表情のせいか、抱き着く恭の腕に力が込められた。ぎゅっと強く。

だから僕も強く、でも優しく抱き締め返す。

「お兄様」小さな声。久し振りの声。待ち焦がれた、大好きな妹の声。

複雑な心持ちで、恭の肩に顔を埋(うず)める。ふわふわの髪が頬を擽(くすぐ)る。

きっと、もう一度、顔を上げたら「さっきのは寝ぼけていただけで、ただの見間違いだった」って事に…

「駄目…か」

ほんの少しの前向きな期待は、一蹴(いっしゅう)された。

僕の胸元に頬を押し付けて抱き着いたままの恭は、人形の様に動かない。

けれど微かに聞こえる小さな吐息が、僕の冷静さを保たせていた。

 

ガチャ

 

急な物音に僕は飛び上がり、反射的に恭の事を、強く抱き締めてしまった。

「お兄様…痛い…」小さな声が聞こえる。

「あ、ごめんな」

「ううん。大丈夫よ」

「起きたか」

声がした。今の物音は、お祖父様が扉(ドア)を開けた音だったらしい。

「お兄ちゃんに話したい事があるんだ」

 

お祖父様は、真剣な目を、僕達に向けて言った。

……最近、真剣な難しい話ばっかり。らしくも無く、いじけたくなった。

 

僕達が起き上がり立とうとすると、お祖父様(じいさま)は「棕矢(そうや)は、此処で良いよ」と制した後、「恭は、ちょっと、おばあちゃんの所で待っててくれるか?」と恭を見た。

始め、僕の服の裾を強く握り締めて動こうとしなかった恭だが、眴(めくば)せして軽く笑い掛けると、少し躊躇(ためら)った後に「はい」と、ほんのちょっぴり寂しそうな表情を残して、部屋から出て行った。

 

お祖父様は最初に「身体や、具合はどうだ? 大丈夫か?」と訊いてきたので、肯定を頷きで示すと話し始めた。

「棕矢。気が付いていると思うが、恭の瞳(め)の事だ…」

「はい」

 

……やっぱり。

 

「先(ま)ず」

お祖父様が僕に小さな鏡を手渡し「顔、見てごらん」と、少し苦しそうに眉根を寄せた。訳も判らず、恐る恐る鏡を覗くと…途端、息が止まり、皮膚が粟立った。

 

鏡が映し出したのは、異様なものだった…自分の顔の筈なのに、自分じゃないみたいだった。

 

……何故なら。

僕の瞳(め)も、変わっていたから…〝恭と同じ色〟に。

唯一、違ったのは、彼女(いもうと)と色は同じでも、それが左右反対だった事。

 

僕が固まったまま無言でいると、お祖父様は静かに切り出した。

それは、まるで作られた物語を聞いているみたいで…

声は聞こえていても、最初に聞いた時は、きっと半分も理解していなかったと思う。

聞こえて来た断片的な話を繋げ、更に何度か、お祖父様に確認をして、ようやく解った事……

 

それは、こんな内容(はなし)だった。

 




to be continue…
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