やはり俺のボーダーでの短編集は間違っていない。 作:ハーマィア
と言っても今回のお話は序章のようなものでして、本格的な本編は次回となります。
書いてたら収拾がつかなくなっただけですけどね。
どうぞ!
少女は時々、自分でも気付かないうちに窓の外を眺めていることがあった。
そのような時は決まって、鳥が空を飛んでいた。
だが、鳥に向ける眼差しに憧れなどはない。家にしか居場所がない自分と同じようにその鳥にも空にしか居場所がないのだから、空を自由に羽ばたく鳥に哀れみを抱いたとしても、憧れの感情を持つことはなかったのだ。
少女は、生まれついての病弱体質だった。
年中無休で集中治療室か扉の厚さが定規凡そ一本分もある隔離部屋にいなければ生きていけない程ではなかったけれど、彼女は病弱であるが故に
別に寂しくはなかったけれど、無限とも思える永い時間を独りで過ごす中で、少しも病原菌に対して抵抗力を増す素振りを見せることのない己の体を彼女は憎んでいた。
病弱な体はあらゆる病を呼び寄せる。
彼女にとって病気とは防ぐものではなく付き合うものであり、自分が元気に外を走り回る姿を想像した数は一度や二度ではない。
前に、たった一度だけ、旅行をしてみたいと両親にねだった事がある。
普段から口数も少なくわがままを言った事のない少女のおねだりは、少女の体質に悩んでいた両親に明るさを取り戻させた。
「空気が美味いところが良いだろう」「富士山はどうかしら」「体調に余裕があれば、二箇所くらい回ってみたいな」
父親がその時期にあった大事な取引を中断させてまで考えてくれた少女の旅行計画だったが、結局その旅行は中止となった。
体調の良い日が続き、医師からの診断書にも激しい運動をしなければ問題なしと太鼓判を押されていた少女は、出発日の直前になって血を吐いた。
病名は消化性胃潰瘍。少女が来る旅行を
『……っ、ごめ、なさい……! おとうさんも、お母さんも、わだしが、こんな弱いからだに生まれたせいで……!』
その日の夜、少女は病院のベッドで泣き喚いた。
少女の泣く姿は、少女の両親に、旅行に行けなかった悲しみよりも、娘が生きていく上でなによりも重いものを背負わせてしまった事に対する悔しさを与えていた。
しかし、幸か不幸か、この日に少女が血を吐いたことで、少女の運命は変わっていたのだ。
『ばあか。おまえがおまえのとーちゃんとかーちゃんに謝るより、おまえがおれにまず謝れ』
『ぅ、ぅえ……?』
少女が額に痛みを感じて頭を上げると、不貞腐れた顔で少女を睨む少女と年齢が同じくらいの少年がそこにいた。
ぽかんと口を開けて呆然と少年を見る少女と、眉間にシワを寄せて睨みつける少年。
どちらもその後に暫く言葉は無かったが、乱入者である少年に見舞いに来ていた少女の父親が話しかけた。
『
すまなさそうに頭を下げる少女の父親。
今回の旅行は、少女の家族だけではなく少女の家族と付き合いがあった隣家の家族と一緒に行く予定だった。少年はその家族の息子。だが、少年が口にしたのは旅行中止に対する文句ではなかった。
『ちがうよ、なすのおじさん。おれはおじさんに謝ってほしいんじゃない。おれにゲボしたこいつに謝れって言ってんの』
少年は、少女に血を吐きかけられていた。
今まで互いに見かけたこともなかった相手なだけに、乱暴な少年の言い分も、少女に対する遠慮がないだけなのかもしれない。
だけど少年の言い分はもっともで、少女は自分の体質のせいで絶えず誰かに謝ってばかりだったから、謝罪の言葉はすんなり出てきた。
『りょこうにいけないのは残念だけど、そのぶん、ざいもくざとかとあそべばいいし』
その言葉が少女の耳を打つまでは。
『……ざいもくざ?』
『知り合いだよ。近所のやつで——って、そんなのはどうでもいいんだよ。はやく謝れ』
少女は、少年の言葉に痛みを覚えた。
『遊ぶ——って、外で、体を動かして遊ぶの?』
『そーだよ。でも最近は暑いから、部屋の中でゲームをしたりするけどな』
『……………』
『
何より、その言葉が少女には重く突き刺さった。
『………………い!』
それは、少女にとって久しぶりの感情。
今は。
『あん? 今なんて——』
自分の体と同じくらいに、少女は少年が憎かった。
『あやまらないっ!』
自分に振り出せる精一杯の声で、少女は自分を睨む少年を睨み返す。
『れ、玲?』
激昂する少女の側で、父親は困惑の声を上げる。当然だ、自分の娘がここまで感情的になったことなど、一度もないのだから。
『あなたはお外で走ったり、遊んだりできる! だからあなたはわたしがわからない! わたしはあなたがきらい! きらいなあなたにわたしはあやまらないっ!』
『……なんだよおまえ。悪いのはおまえなんだぞ』
『きらい!!』
感情の奔流。決壊したダムのように、今までに溜め込んでいたあらゆる言葉が、不満が、少年にぶつけられた。
側にリモコンでもあれば投げつけてしまいそうな剣幕で怒鳴る少女に、気圧されたかのように少年は後退り、背を向けた。
ただ、少年も黙って出て行く訳ではなかった。
部屋の扉を少女の父親に開けてもらって、少年は振り返る。
『……俺のいもうとも、楽しみにしてたんだ』
『————え』
おそらくは彼の本音であろう〝文句〟を言い残して、少年は少女の病室を後にした。
少年の一言で我に帰った少女は、世界に突き離されたかのような、周りの景色が急激に遠ざかるような、そんな幻覚を見た。
そうして、少女はまた自宅での生活に戻る——ものと思われた。
少女にとっての運命の岐路は、あの少年に出会うことだったのかもしれない。
少女が退院してから数日が経過した、ある日のこと。
『おかわりちょうだい、お母さん』
いつものように、少女は自室で食事を摂っていた。が、いつも食べる量では足りなくなってしまったのだ。
『……ど、どうしたんだ玲? そんなに食べて……』
自分でトレーを持ち、しっかりとした足取りで自分の部屋から降りてきた少女を見て、母親は皿を落として割り、父親は慌てて母親をフォローしながら、信じられないといった視線を少女に向ける。
『なんか、お腹がへるの。ここで食べていい?』
少女の瞳はハッキリと見開かれていて、頬は血色の良さを表すように赤みを帯びている。普段、良い意味でも悪い意味でも覇気のない少女からすれば、病が治ったかのような快調ぶりだ。
『皿の片付けは私がしておくから、母さんは玲に何か食べさせてあげてくれ』
『……』
父親の言葉。だが母親は、口に手を当てるばかりで何も言葉を返さない。
『お母さん?』
少女が母親のエプロンを掴んで漸く、母親は反応を示した。
『……あなたの口からおかわりなんて言葉が聞けるなんて……!』
頬を伝うのは一筋の涙。それは、間違いなく胸にこみ上げる嬉しさが溢れたもの。
ぽたぽたと垂れる母親の涙を顔に受けながら、少女は首を傾げた。
『お母さん、もう大丈夫だから。なんかね、ちからがみなぎってくるの』
『ええ……そうね。でも、無理はダメよ。食べ過ぎて吐いたり、脂っこいもので気持ち悪くなったりしてもいけないから、まずは同じもので我慢してくれる?』
『うん!』
その時少女が両親に見せた笑顔は、きっと少女の両親にとって何よりも価値があるものだったに違いない。
その日から、少女が病気にかかることは殆ど無くなってしまった。
逆に、走って転んだ、などというヤンチャな話が増えたくらいだ。
在籍だけしていた小学校についても、少女の両親が学校に連絡し、自宅学習から登校学習へと切り替えて行くことに話がまとまった。
久し振りの学校に、感激したのは少女よりもやはり両親の方。付き添いをしていた父親は娘のランドセルを背負って歩くという行為にすら感動を覚えていて、それはもう存分に破顔して、入学式でもないのに校門で写真を撮っていたくらいだ。
校門をくぐり、玄関口に着いたとき、少女は見覚えのある女性がいるのを発見した。
『お父さん、あの人……』
『ああ、比企谷さんだね。こんな昼間にどうしたんだろう』
少女が見つけたのは、あの日少女が啖呵を切った少年の母親。職員から書類——にしては分厚いものを受け取っていた。
少年にはあの日以来会えていない。嫌いだから謝るつもりもないのだが、同じ学校だったのか、と少女は無機質な感想をこぼしていた。
少年の母親がこちらを向いた時、少女の父親が話しかけた。
『やあ比企谷さん、お久しぶりです』
『あ……那須さん。お久しぶりですね』
久し振りに見る少年の母親の顔。あまり会ったことはないが、少女にはどこか顔色が悪いように見えた。
『お陰様で娘もこの通り元気になりまして。何が原因かハッキリとはしていないんですが、急に病気に掛からなくなったんですよ』
『そう……ですか。それは良かったです。玲ちゃん、学校はきっと楽しいわよ』
『はい! ありがとうございます!』
和かな笑みでおめでとうと言ってくれる少年の母親のことが、少女は嫌いではなかった。
『偉いわね……はぁ、うちの息子とは大違い』
少女の返事に、少年の母親はうなずいた後にため息をついた。
『そういえば、玲も八幡くんと同じクラスなんですよ。八幡くんとはあの日に喧嘩して以来会っていないものですから、是非とも仲直りさせてください』
『あんなの、うちのバカ息子が玲ちゃんの事を考えずに自分の気持ちだけで行動したのが悪いんですよ。本当にあの子ったら、空気を読む事が出来なくて……』
『……そういえば、比企谷さんは今日はどうされたんです?』
少年の母親の背後に教職員がいる。少女達のことを待っていると思った父親は、早く済ませるため、話題を切り替えた。
少年の母親は少女の父親の言葉にああと相槌を打つ。
『ウチの息子、今日から暫く自宅学習をすることになったんです。今日は教材の受け取りですね』
さらりと口にされた来校の理由。だが、少女と父親は引っ掛かりを覚えた。
『……え?』
『先月くらいからかしら。急に体調を崩すようになって、高熱を出すようになったのよ。しかもそれがインフルエンザとかじゃなくて、原因不明なんですって。カレーとかが大好きで、おかわりなんかも良くしていたのに、今はもう一人前ですら吐き戻すようになってしまって……お医者さんが言うには解熱剤しか出せる薬はないから、数ヶ月は自宅で安静にしているように、ですって』
『………………』
少女は、その話に憶えがあった。聞き覚えが、ではなく身に覚えが。
『……おとう、さん……』
『……まさか、玲の病気がうつったのか……?』
学園生活への期待に胸を膨らませていた少女にとってはじめての登校日は、その胸に傷を残す形となった。