彼の沈んだ黒い瞳には光は灯っていない。身動ぎもせず、仁王立ちしている。
おかしい、と士は感じた。今まで鳴滝が呼び出した刺客達には、ディケイドを倒そうという明らかな害意があった。それが感じられない。
目の前の黒い戦士からは、ただ、強い殺気が発せられているだけだ。それは士を対象にしているわけではないように思われた。
「あれが……クウガだって? あれが……」
士の右後ろで、ユウスケが呟いた。
「そうだよ小野寺君。君の世界では、リントの碑文は解読されていないのだったな。彼は、”聖なる泉涸れ果てし時、凄まじき戦士雷の如く出で、太陽は闇に葬られん”と伝えられている姿、最強の力を持ったクウガだよ」
鳴滝はさも可笑しそうに顔を笑みで歪めて、後ろに下がった。
代わりに黒い戦士が、一歩二歩、前へと出て、ゆっくりと右手を翳した。
何かがくる。察知した三人は思い思いに回避の構えをとったが、無駄な行動だった。
「うおぁっ!」
ディケイドコンプリートフォームの肘から手首にかけての右腕が、突如、大きく炎をあげた。
「士!」
「ユウスケ、あいつ、距離を開けてたらやばい!」
叫んで、ブレイドは黒いクウガに一気に駆け寄り、構えたブレイラウザーを振り下ろした。
黒いクウガは避けようとも防ごうともせず、ラウザーは袈裟懸けに黒いクウガの胸を裂いたが、黒いクウガはそれに怯んだ風も全くなく、左の拳をブレイドに、実に無造作に撃ち下ろした。
「うわ……っ!」
避ける間もなくブレイドは吹き飛ばされる。BORAD正門前の鉄条網に背中を叩きつけられ、ずるずると地に崩れ落ちた。
「カズマさん!」
今まで門扉の影から成り行きを見守っていた夏海がカズマの元に駆け寄る。
切り裂かれた黒いクウガの胸板は、見る間に塞がり、何事もなかったように元に戻った。
「これは……どういう、どういう事なんだ、鳴滝さん!」
どうやってか炎は消えたようだったが、ディケイドは右腕を押さえて蹲っている。
離れているわけにもいかず、さりとて近付けず。身動きが取れないままクウガは、鳴滝を詰るように叫んだ。
「ディケイドを助けようとする君に話す事は、もう何もない」
「何でそんなに、ディケイドを目の敵にするんだ! あんたが作ったんだろう!」
「……だからこそ、だよ」
鳴滝の声は静かだったが、興奮のあまり、彼の唇は小刻みに
「だからこそ、許せないのだよ。過ぎ去った過ちはもうやり直せない。失った物は二度とこの手に戻らない。だから私は、ディケイドを倒さなければならない」
話している相手はクウガである筈なのに、鳴滝はそのかっと見開いた目でディケイドを睨みつけていた。
「分からないな……あんたが、俺があるべき世界を見つけるまでディケイドが世界を作り続けるようにしたんだろう。望みどおり、ディケイドは世界を作り続けて、こうして滅ぼそうとしている。何が不満だ?」
ディケイドの口にした疑問を、鳴滝は鼻で、ふん、と笑った。
「私は世界の滅びなど望んではいない。そして君は何度でも繰り返す。だから、ディケイドは滅びなくてはならない」
「何度でも……だと?」
「そうだ。君と光夏海は、何度でも同じ事を繰り返す。全てのライダーを倒して、滅びの時を招く」
「……何でそこで、夏海の名前が出てくるんだ?」
名前を呼ばれ、夏海も鳴滝を見た。
夏海は無論、何度も繰り返してなどいない。何度も何度も、同じ夢を見ただけだ。
そしてディケイド同様、今ここで自分の名前が出てくる事に強い違和感を覚えた。
「全ては無駄な事だ。君らの足掻きは、無駄に過ぎない。”凄まじき戦士”よ、破壊者を滅ぼして、そして世界を守るのだ!」
鳴滝の言葉に応え、黒いクウガは走り出し、立ち上がっていたディケイドを殴りつけた。
重く鈍い音が響いて、ディケイドが弾き飛ばされる。黒いクウガの動きは、あまりに速すぎた。一瞬の事過ぎて、クウガは全く反応できずそれを眺めているだけの格好となった。
「士!」
走り出しクウガは地を蹴った。首を狙い右のキックを放つが、それが届く前に、黒のクウガはクウガの方を見ないまま、その右足首を無造作に掴んでいた。
「な……うわあああっ!」
黒いクウガはそのまま、ジャイアントスイングの要領で回転し、何度かクウガを地面に叩きつけ、その後に放り投げた。
鳴滝が居るのとは反対側のビルの壁まで飛ばされ、激突して、クウガは地面に転がった。
黒いクウガはそのまま歩き、起き上がれないディケイドの左の上腕を掴み引きずり起こして、幾度も殴りつける。
ディケイドは気力を振り絞ったのか、掴まれた左腕を振り切る事には成功した。
だが、腹に黒いクウガの右の拳を受けて、また吹き飛ばされ、地面に叩きつけられると、変身も維持できなくなり自動的に解除された。
寝転がったまま、士は腹を左手で押さえ、苦しげに呻いた。
「止めて! 止めさせて下さい、止めて! 士君を、殺さないで下さい!」
夏海は駆け出して、戦いをじっと見守っていた鳴滝のコートの襟首を掴んだ。
鳴滝は夏海を見つめたまま、やや驚いた表情を見せ、夏海の為すがままにさせている。
「……君にとって、門矢士とは何だ」
「士君はうちの居候です、ただの、図々しい、ただの居候です……」
「君は、受け入れるというのか。この世界の滅びゆく様を見ても……」
「そんなの……そんなの、何とかするって、きっと士君とユウスケが、皆が何とかするって……!」
掴んだ襟首を激しく揺さぶりながら、夏海は訴えた。だが鳴滝は、首を横に振った。
「私には止める気はない。こうでもしなければ、何も変わりはしない」
「鳴滝さん!」
夏海の叫びをよそに、黒いクウガは立ち上がれない士の前に立っていた。
士は、ひゅうひゅうと苦しそうに息を吐きながら、汗の滲む目を薄く開いて、黒いクウガを見た。
彼の濁った黒い瞳。そこには恐らく、悪意などない。彼はただ破壊している。本来ならば、破壊者とはこういう存在の事ではないのか。
不思議と頭は冷たく冴えて、そんな感想が浮かんだ。だが何の関係もなく、黒いクウガは拳を振りかぶる。
「うわあああああああぁぁぁ‼」
横合いからクウガが、士と黒いクウガの間に突っ込み、黒いクウガの胴を押して士との距離を空けさせる。
ダメージから回復し、立ち上がっていたブレイドも、そこに加わろうとするが、ふと何かを思いついたように足を止めた。
「……手はないんだ、駄目元で使ってみるか」
呟いてブレイドは、展開したカードトレイから一枚のカードを取り出し、ラウズした。
『Mimic』
電子音声が鳴り、ジョーカーのカードはエネルギーへと変換され、光となってブレイドの胸部へと吸い込まれた。
しかし、何も起こる様子はなかった。
「……? 何だ、ミミックって……」
音声からは全く効果が分からない。ミミックという言葉で思いつくのは、ゲームに出てくる宝箱を装った敵位だ。
だが考えている暇はない。早く助けに入らなければ、クウガまでやられてしまう。ブレイドは開いたままのカードトレイから、もう一枚カードを取り出してラウズした。
『Thunder』
ディアサンダーの効果により、ラウザーに雷の力が宿る……筈が、何も起こらない。ラウザーは雷の力を宿した様子もなく、何の反応もなかった。
「……?」
ラウザーを見て、違和感に気付いた。ラウザーを握っている自分の手がおかしい。
ミスリルアーマーを纏った青い手ではない。何か獣の蹄のような光沢を持った、黒い手。腕は毛並みのいい馬のような光沢。
それに気付いた途端、ラウザーの形が変わり、そして左手にも何かが握られた。それを見れば、燻したような黄金の七支刀。
これは確かディアーアンデッドの武器ではなかっただろうか。
「……ってまさか……俺、アンデッドに、なってる?」
客観的に自分を見る方法が今はない為、カズマには確かな事が判断出来ない。だが、ブレイド以外の何かに姿が変わった事だけは確かなようだった。
動揺も混乱もしている。だが、切り替えが早く適応力が高いところがカズマのいい所でもある。
「ディアーアンデッドなら……これが、出来るはずだっ!」
そうしようと思うと、不思議と、まるで元々知っていたかのように、その方法が頭の中に浮かんだ。
念じると、頭に生えている(らしい)二本の角から雷が生み出され、それが黒いクウガ目がけて落ちた。
流石の黒いクウガも、全く注意を払っていなかった敵からの突然の攻撃には対処出来なかったらしい。あっさりと落雷の直撃を受ける。
だがその雷は、黒いクウガと組み合っていたクウガにも、直撃していた。
「…………あ」
二人のクウガは倒れこむ。そして、黒いクウガが、よろりと体を起こした。
ユウスケには悪い事をしたが、何せ初めて使うのだから加減が分かっていない。許せ、と心の中で呟いて、ディアーアンデッドに擬態したカズマは二本の七支刀を構え、駆け出した。
ダメージを僅かでも与えた今なら、抑えられるかもしれない。そう思った。
自分の足ではないような心地がする。本当に鹿が岩場を駈けているように、滑らかに脚が動いた。
「止めろっ!」
カズマはそのまま、士を目指し歩くクウガの背中目がけて、右手に握る七支刀を振り下ろした。
がつりと、七支刀に硬い感触が伝わり、黒いクウガの背中が裂ける。
黒いクウガはすぐさま振り向くと、続けざまに振り下ろされたカズマの左手の七支刀を右腕で受け止め、左の拳をカズマの胸へ放った。
ディアーアンデッドの姿を借りていても、黒いクウガの素早すぎる動きに対処出来ない事に変わりはない。カズマは再度吹き飛ばされ、ディアーアンデッドへの擬態も解除され、姿がブレイドへと戻った。
そして黒いクウガは再度士の前に立ち、今度は足で踏みつけようとするが、上げたその足を、再度割って入ったクウガが受け止め掴んだ。
「やめろ……やめろよ! あんた、こんな事する為に、クウガになったのかよ!」
クウガの言葉に、黒いクウガは全く反応を見せなかった。足に込められる力は段々と強くなり、クウガは押し潰されそうになりながら、掴んだ右足を必死に押し戻す。
ややあって、黒いクウガが右足を右へと振った。クウガも引き摺られ、倒れこむ。
障害物がなくなり、黒いクウガは右手を手刀の形に構えると、既に気を失っているらしく反応のない士へと振り下ろした。
だがそれは、士へは届かなかった。
ぽたぽたと血が流れ、黒いクウガの右手を伝い零れ落ちる。地面に血溜まりが出来ていく。
黒いクウガの右手の先は、クウガの左肩の、鎖骨の下から胸にかけて突き刺さっていた。
クウガはがっちりと黒いクウガの右手首を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。
「こんな事……するな……、クウガの力は、皆を笑顔にする為に、あるんだよ……」
クウガは右脚を引いて、無理矢理に体を回し、黒いクウガの胴に回し蹴りを叩き込んだ。
右手はクウガの体から抜け、黒いクウガは仰向けに吹き飛ばされた。
「姐さんが、教えてくれたんだ。クウガの力を世界中の人を笑顔にするために使ったら、俺はきっともっと、強くなれる、って……。でも……強くなるって、いうのが、あんたみたいに、なる、ことなら……そん、なの……嫌、だ」
左手で右の肩を掴み、やや俯いて、クウガは脚を肩幅に開いて腰を落とした。
右の拳をがっちりと握りしめ、右脚に力を込める。
「うあああああぁぁぁっ!」
駆け出し、地を蹴って飛翔する。馬鹿の一つ覚えでも、クウガには、ユウスケには、これしかない。
残った力を全て込めた右の飛び蹴りにも、黒いクウガは素早く反応した。
キックが届く刹那、彼は左手で、クウガの足を鷲掴みにしていた。
そのまま押し返され放り出され、クウガはアスファルトの上に叩きつけられてごろりと転がった。
「おのれ……小野寺ユウスケ……!」
後ろから様子を見ていた鳴滝が歩き出した。黒いクウガは左の手首を右手で押さえて、蹲った。
掌には、クウガの紋章が光り、輝きを増しつつあった。
鳴滝が無言のまま早足で黒いクウガの元へと辿り着くと、オーロラが二人を包んで、消えた。
「士君……ユウスケ……ユウスケ!」
夏海と、立ち上がったブレイドがそれぞれに駆け寄る。
クウガも既に変身は解除され、その姿は小野寺ユウスケへと戻っていた。
左肩は血に塗れ、顔色から血の気も失せている。ブレイドが抱き起すが、彼は目を開けなかった。
「ユウスケ、おい、ユウスケ!」
「士君!」
ユウスケも士も、返事をしなかった。カズマが通信機能を使って連絡をしたのだろう、BOARDの中から、担架を運んだ男達が走り出してきていた。
***
ベットと簡単な救急道具しか置いていない白い医務室は、寒色系の蛍光灯に照らされている。
夏海は、士が横たわるベッドの側に椅子を置いて、まだ目を覚まさない彼を見つめていた。
カズマは壁に背中を凭れさせ、足側からベッドを見ている。
士も心配だったが、それよりユウスケだ。カズマも見ていた。肩口に、黒いクウガの手刀がめり込んでいた。
ユウスケの寝ているベッドは今カーテンで仕切られ、BOARDに常駐している医師がユウスケを診ている。
救急病院に連れて行く事も考えたが、今のこの状況では病院が機能しているかどうかも怪しい。
ユウスケの診察にかかる時間が、やけに長い。あれだけの大怪我だったのだから当然かも知れないが、気を揉まずにはいられない。
やがて、カーテンの中で人影が動き出して、壮年の医師と看護婦が二人、カーテンを開け出てきた。
「剣立さん……ちょっと」
出て行こうとする医師に呼ばれ、カズマはユウスケのベッドの脇に取り付けられた心拍計を見てから、彼の後に続いた。
心拍は百前後、最高血圧も百三十位。安定しているようだった。
医師は向かいの給湯室のドアを開けて中に入った。カズマが続くと、ドアを閉めるよう促す。
「私が今診たあの患者……剣立さんのお知り合いですか」
「ああ、そうだけど、それが何か?」
「……あの人は、人間ですか?」
潜めた声で医師に問われ、カズマは一瞬きょとんとしてから、ああ、と答えた。
「言い辛いのですが……およそ人間とは思えない。運び込まれた時には、ショック症状と多量の出血が原因で、彼の心肺機能は停止していたんですよ」
「え……」
「ここでは簡単な処置しか出来ない。一応の手術設備はありますが、輸血のストックも多くないし、近くの病院と連絡も取れない状況です。もう駄目かもしれないと思いました。だがあっさりと呼吸と心拍が戻って、彼の傷口が、塞がり始めた」
ぎょっとして、カズマは医師を見た。医師も、半信半疑といった難しい顔をしてカズマを見ていた。
「血溜まりを取り除くと、中の組織が、どういう訳か少しずつ盛り上がり続けているんです。確かに人間には自然治癒力があり、細胞を再生させる能力はある。だがあれは、そういうレベルの速さじゃない。目視できるなんて有り得ません。肋骨も折れているはずですが、そちらはレントゲンを撮らないと何とも言えませんけど、私の見た感じでは、くっつきつつあるのではないかと」
「何故」
「処置を全て終えてから触診して、折れている感触がなかった。確かな事ではありませんけど」
ぽかんとして、カズマは医師の言葉を聞いていた。医師は不思議そうな顔で、カズマを見つめている。
「……俺らだって、アンデッドと融合している影響で、怪我の治りは早くなってる。あいつもBOARDのライダーじゃないが、ライダーだ」
「私が知っている中では、まるでアンデッドそのもののような回復力です」
「あいつは人間だよ! 俺が知ってる中では、一番のお人好しで、馬鹿だけどまっすぐな奴だ!」
思わず、カズマの声は荒く大きくなっていた。医師は恐縮した、申し訳なさそうな顔をして、やや俯いた。
「……すいません、ご友人に失礼な事を言いました」
「いや……俺こそ、済まない。ついカッとなった。お疲れ様、ありがとう」
医師はぺこりと一礼をして部屋を出て行った。カズマも給湯室を出る。
「カズマ!」
横から声がかかった。菱形サクヤが、廊下を早足に駆けてきた。
「探したぞ。黒いのがいなくなったと思ったら、今度はまた別の怪物共が溢れてる。早く行こう」
「先輩、ムツキは?」
「ZECTとかっていう奴らが現れて、軍隊っぽいんだが、怪物と戦ってるんだ。そいつらと合流して戦ってる」
「分かった、すぐ行くから、先輩は先に行っててくれ」
サクヤは頷いて、元来た廊下を足早に戻っていく。カズマは医務室のドアを開けた。
「夏海ちゃん、悪い、俺行かなきゃいけない」
呼びかけると、夏海はカズマを見上げて頷いた。
「気をつけて下さい、無茶しないで下さいね」
「大丈夫、先輩達も一緒だし。それより、士とユウスケ、目が覚めても無理しないように見といて」
「分かりました、任せて下さい」
夏海がにこりと微笑んで、つられてカズマの頬にも笑みが浮かんだ。頷くとドアを閉め、カズマは廊下を駆け出していった。
***
知らない場所に立っていた。
ここは何処か山の中なのだろうか。辺りは切り崩されて、岩肌が露出している。
擂鉢の底のようになったその岩場に、士は立っていた。
目線を動かそうとするが、まっすぐ前を見るよう固定されていて、動かす事ができない。
ああそうか、これはもう、既にあった事なのか。
大体の事が分かったような気がした。
ぱちぱちと、火の爆ぜる音がする。何が燃えているのだろう。バイクだ。
何台ものバイクが横転している。数え切れないほど沢山の。
横たわる山、そして山ではない、赤い龍や黒い龍、城から竜の首が生えているもの、脱線したかのように横転した電車。
そして、折り重なり積み重なった屍の山。
仮面ライダー達だ。彼等は全て、仮面ライダー達だった。
そして、士の目線は、ただ一人立ち尽くす
「ディケイド……」
憎しみだろうか、悲しみだろうか、それとも喩えようもなく辛いのだろうか。
光夏海は顔を煤と泥だらけにして、白いドレスも見る影もなく汚れてしまっているのに、それでも、強い目でディケイドを見つめていた。
こんな風景は、士の記憶にはない。だが士は知っている。
これはもう、何度も何度も、飽きもせず繰り返されてきた事だ。
夏海は、決してディケイドを許さないだろう。いつもそうだったように。
そう思った次の瞬間、世界は真白く塗り替えられた。
地平線も何もない、上下左右も分からなくなりそうになる、足元に影もない。ただ、白い。
士は右腕を動かしてみた。右腕は思い通りに動き、掌を握り開く事も出来た。
すると、遠く、遥か遠くから、何かがこちらに向かって迫ってくるように見えた。
暫く見ていると、士の周りには、瞬く間に膨大な量の本棚が立ち並び、たちまち辺りは本棚に埋め尽くされていた。
「やあ、ようこそ
振り返って見やると、本棚と本棚の間に、一人の少年が立っていた。
肩ほどまで伸びているがまとめていない髪、緑のボーダーのシャツに長い袖なしのカーディガンを羽織り、七分丈で細身のカーキのパンツ。分厚そうな本を、右手に持っている。
大きな黒い目が、見透かすように士を見ていた。
「誰だお前、ここは何処だ」
「だから、ここは
「訳が分からんな。俺は何故ここにいる」
「来るべくして来たんだよ」
どう見ても東洋人だが、少年はフィリップと名乗った。にこりと、悪戯っぽい微笑を士に向ける。
「ここは地球の記憶が全て収められているデータベース。ディケイド、君の事も既に閲覧済みだ」
「地球の……記憶? 何を言ってる」
「アカシックレコードって知らないかい。正確には違うけど、あんなようなものさ」
アカシックレコードは、士も知識としては知っている。宇宙創成からこれまでに起こった出来事は、宇宙空間そのものにデータベース的に記録されており、釈迦やキリストなど偉人達はアカシックレコードにアクセスする能力を持っていた為に、真理を知り悟りを開く事が出来たという、オカルティックな言説だった。
士は胡散臭そうな目でフィリップを見たが、フィリップは意に介さず、右手に持った本を開いていた。
「……それで、俺がここで為すべき事は何だ。本でも読めっていうのか」
「勿論それでも僕は一向に構わないけど。君は、知りたい事があったんじゃないのかい?」
言われて士は、不思議そうにフィリップを見た。
「君が知りたいと思ったから君はここにいるのさ。僕が答えるのを許されている範囲で答えてあげよう」
「……何故?」
「何故って、それが僕の役割だからね。この無限に広がる情報の中から必要な物を検索し、提供する」
「……ありすぎて、何から聞いていいのか分からんな」
士がやや俯いて考えこむと、フィリップはその様子が可笑しいのか、楽しそうに笑った。
「じゃあ、君が多分聞きたいと思っている事をまず一つ。黒いクウガについて」
言われて士ははっと顔を上げた。フィリップは感情の読めない目をして、薄く微笑んでいる。
手に持った本を開くと、フィリップは語りだした。
「君は本当は情報として持っていた筈だけど、クウガの力の源となるアマダム。あの霊石は、下腹部に埋め込まれ、そこから神経細胞によく似たものを根のように体内に伸ばして、本来の神経細胞を侵していく。そして埋め込まれた者の体を戦うのに適したものに作り替え、怪我があっても治癒能力を活性化してたちまちの内に治してしまう」
言われてみれば、ユウスケは今まで戦った後でも、怪我はすぐに治っていた。だが士もユウスケも、それはそういうものなのだろうと思っていたし、第一士自身も普通では考えられないほど治癒能力が高い。あまり気に留めた事もなかった。
「アマダムから伸びた根が全身に張り巡らされ、脳まで達すると、ああなる。聖なる泉が涸れ果てる、という表現らしいね」
「心が失われる、って事か」
「そう。意志はなく、目的だけがある状態になる。戦うという目的だけが。丁度、ディケイドが作り出した門矢士が、ライダーを破壊するという目的の為だけに動くようプログラムされているようにね」
「俺は違うぞ」
不満げに士が漏らすと、フィリップは右手の本に向けていた視線を士に向け、ふっと笑った。
「君はイレギュラーなんだよ。本来なら有り得ない存在だ」
「偶然に突発的に……っていう訳でもなさそうだな」
具体的には分からないが、予感はあった。士の言葉に、フィリップは満足げに笑う。
「よく分かっているじゃないか。君の存在がイレギュラーになったのには、色々な要因がある。例えば、オリジナルに限りなく近いライダー達がディケイドが作り出した世界に現れた事。もう一つディケイドライバーが完成した事。そして、光栄次郎がとうとう君を見つけ出した事」
「……夏海といい爺さんといい、何でその名前が出てくるんだ?」
「彼等も、君と同じように、ディケイドが作り出す世界に於いて欠かすべからざる存在だからだよ。光夏海と光栄次郎は、ディケイドが作り出す世界に、必ず存在している」
あまりに意外な答えだった。士は怪訝そうにフィリップを見つめた。
フィリップは開いていた本をぱたりと閉じると歩き出し、すぐ横の本棚から一冊の本を取り出して開いた。
「悪いが、この件について僕が喋っていいのはここまでだ」
「……じゃあ、別の質問をするぞ。俺は何度も繰り返しているのか」
「そうだよ。正確には”君が”じゃないけどね。門矢士は拒否され存在を維持できなくなり消え去って、ディケイドライバーがプログラムに従って新たな装着者を生み出す。全てを失った状態で門矢士はまた同じ事を繰り返し始める。ディケイドは、永劫回帰の理に支配されている。どの世界、どの時間に於いても、ディケイドは迷いなく同じように判断し、同じ事を繰り返す」
「ニーチェの超人かよ」
「自己の善悪の判断基準に則って流される事なく道を往くヒーローに、憧れた男がいたのさ」
フィリップがまたにこりと笑って、士を見た。
「彼にとって『仮面ライダー』とは、己の信じる正義を如何なる時でも貫ける鉄の男だった。門矢士とは、彼の理想なんだよ。だから何でも出来る」
「その正義とやらが、ライダーを壊す事なのか」
「それは後付だよ。大ショッカーがそういう風にプログラムしたのさ。君は生み出されてすぐ、大ショッカーよりも前に光栄次郎と出会った。だからイレギュラーなんだ」
またしてもフィリップはぱたりと本を閉じた。士をじっと見つめるその眼から、何を考えているのかを読み取る事はできないし、彼が何者であるのかを知る事も出来ない。
「君は迷い、悩んでいる。それは人間の弱さだ。だが弱さがなければ、人は人らしく生きていけない。そして弱いからこそ、もっと強くなっていける。僕はそれを、僕の相棒から教わった。君は人として生きて、イレギュラーであるが故に、円環を断ち切る事が出来る可能性を秘めている」
「相棒……か。奇遇だな。俺も同じ事を、相棒に、それに仲間に、教えてもらった」
士がにやりと笑うと、フィリップも同じように笑い返した。
「さあ、そろそろ帰りたまえ」
「何処へ?」
「君はもう分かっているだろう。情報ではない、君の心、君の思いが、君の中にあるのだから」
「ああ、そうだな。俺は俺が帰りたい場所へ帰る」
フィリップの姿も無数の本棚も掻き消え、辺りを闇が覆う。そこに、光が一筋差し込んだ。
「……よう、夏ミカン。ただいま」
目を開けると、夏海が横に腰掛けて、士をじっと見つめていた。
照れくさくなって士は、右の口の端をやや上げて笑い、そっぽを向いた。
「おかえり……なさい」
夏海は微笑んでいるようだった。
これも情報として知っているだけなのだろうか。こうして、同じように優しげに微笑む夏海を見上げた事が、士ではない士の遠い記憶の中のどこかに、あるような気がした。