辿り着いた先には、立派な門扉が構えていた。門からは小路が続いており、建物は夜の暗さもあって姿が見えない。
かけられた表札には「津上」と苗字が記してある。
門まで辿り着くと、アンノウンはふわりと浮き上がり、何処かへと飛び去っていった。
「ここ……だったんだ」
先頭を歩いていた翔一は門の前で立ち止まって、門の中を見上げて口を開いた。
「……お前、この家知ってるのか? 知り合いの家か何かか? それともお前の……」
「ええ、ちょっと。俺の家ではないです」
巧の質問に応じた答えの言葉尻を濁して、翔一はまた歩き始めた。門扉は開かれている。門を潜ると、そのまま歩いていく。
「おい乾、さっきの話だけどな」
「……」
呼び掛けられて巧は、視線をちらりと海堂に向けたが、すぐに翔一の背中へと戻した。
「ちゅーか、相変わらず愛想悪ぃなおめえは。どうにかなんねぇのか」
「何でお前に愛想良くしなきゃなんないんだよ、気持ち悪ぃ」
にべもなく巧に返されて、海堂は左の頬を歪めて、むず痒いような顔をした。
「お前の知りたい事も、多分もうすぐ分かる」
もう一度横に並んだ海堂に向けた視線を前に戻して、巧は静かに言った。根拠は明らかではないが確信に満ちたその言葉を聞いて、海堂は答えを返さないで、自身も前に視線を戻した。
前庭の小路を進むと、やがて立派な玄関ドアへと突き当たった。鍵はかけられていないようで、翔一は当然のようにドアを開けると、案内も請わないでどんどん邸内を歩いていった。
大きな屋敷に人気はなかったが、廊下には淡い灯りが燈されていた。空調が働いているのか、外に比べると大分暖かい。
翔一は迷いなく足を進めて、二階の奥まった部屋のドアを開けた。
そこは応接室のようだった。十二畳ほどの広々とした室内には、テーブルとソファ、暗い色合いの調度が据え置かれている。
広い窓の前には椅子が置かれていて、一人の青年が座っていた。
上下とも黒い衣服を身に付け、ゆったりと椅子に凭れさせている。薄明かりで確とは容貌は見えないが、いるのかいないのか分からなくなりそうな、存在感の薄さがあった。
「アギト、私に何を問いたいのです」
「どうして……どうしてオルフェノクは、滅ばなきゃいけないんですか? オルフェノクって、何なんです」
「オルフェノクとは、黄泉路から舞い戻ったエノクの子ら」
翔一の疑問に対する青年の答えは、聞く側にとっては答えと呼べないものだった。続ける質問を考えているのか、翔一は黙りこんでやや俯いた。
「お前が人間を造り出した神とやらなら、オルフェノクを造ったのもお前か」
ハカランダ前からここまで、無言を通してきた相川始が、青年をきつく睨み、低い声で言葉を吐き出した。
青年は翔一から始に視線を移すと、優しげでほのかな微笑を浮かべた。
「オルフェノクはもともと人であった者。私がオルフェノクという存在を造り出したわけではありません。ジョーカー、あなたが狙われる理由も、彼らの成り立ちにある」
「……その名前で、俺を呼ぶのはやめろ」
ぞわりと、今まで落ち着いていた部屋の空気が動いた。始は青年の呼び方が余程気に入らなかったらしく、敵意に眼をぎらつかせて青年を睨み付けていた。
「失礼しました。では相川始、話を続けましょう。オルフェノクはエノクを復活させようとしている。二年前に復活したエノクは、活動を維持するだけの力を取り込む前に、乾巧、あなたに倒された。その体を持ち去った影山冴子は、エノクを完全に復活させる方法を知ったのです」
「完全に……復活?」
「そう。エノクは不完全なのです。『生命の実』を与えれば、エノクは目覚め、今度こそ滅ばない者へと変じる」
「……待て、生命の実…………って、じゃあなんで相川が」
「アンデッドこそ、生命の実だからです」
巧の質問に、青年は短く答えた。実、というのは、木に生る果実の事ではないのか。巧は青年の言葉の真意を測りかねて、言葉なく青年を見た。
「……楽園の中央には、生命の樹と知恵の樹があり、蛇に唆されたエヴァとアダムが知恵の実を口にして楽園を逐われた。ただの伝説だろう」
始の言葉に、青年は首を横に振ってみせた。
「あるのですよ、今も。楽園を逐われたアダムとエヴァは子を成した。その子ら、兄のカインは弟のアベルを殺して、放浪の身となった。カインは辿り着いた先で町を作り子を成した。カインの子孫の中に、エノクはいました」
それは、どの位遠い昔の話なのだろう。青年の力を知る翔一はともかく、他の三人は怪訝そうに眉を顰めて、青年の言葉を聞いていた。
「エノクは清く優しく、美しい心の持ち主でした。地に罪は満ちつつあったが、エノクは義人を集め町を作りました。私はエノクを愛し、彼に生命の樹の実を半分与えたのです。彼が生き続け、人を治める事が、最善の道であると思われた。だが、人の体は、生命の樹の実の齎す力に、耐える事が出来なかったのです」
「……死んだ、って事じゃ、ねえな」
「彼は、あなたがたがオルフェノクの王と呼ぶ姿へと少しずつ変わっていった。美しい心も失っていき、本能のままに殺戮を始めたのです。私は彼の体を滅ぼした。だが、生命の実の力を得たエノクは完全には滅びなかった。人の中にその魂を潜ませ、次々に宿主を渡り歩き、眠りについたのです」
真偽など確かめようもない。雲を掴むような話だった。
だが巧は、これは嘘ではないのだろうと思った。彼の身に起きた事の数々も、彼の常識では計りきれなかった故に。
「その後、別の戦いで深い傷を負った私もまた長い眠りについた。私の手を離れ世に満ちた生物達は、地上の覇権を賭け争うようになりました。生み出されたシステムが、太古に生命の実から生み出されたそれぞれの生物の祖の眠りを覚まし、バトルファイトと呼称する戦いで地上の支配者を決めるようになっていった。エノクの子孫は長い長い時の中で人の中に散らばり、命脈を保ち続けました。黄泉返り生命の実の力に支配される者とは即ち、エノクの子ら。遠い遠い血の繋がりを持つ者達が、死に際してエノクの力を呼び覚まして変じた姿。そしてアンデッドとは生命の実より生み出された、生命の実と同等の存在。人が楽園に行く事が出来ない今、エノクの完全なる復活には今起きているアンデッド……相川始、あなたかもう一人のジョーカー、どちらかが必要となる」
もう一人のジョーカー。その言葉が青年の口から発せられた途端に、再び場の空気がぴりりと張り詰めた。始は怒りなのか敵意なのか、とにかく強い感情を込めて、青年を睨み付けていた。
「……あいつだけは、絶対に巻き込ませない。教えろ、どうすればいい」
「オルフェノクが今動き出した理由は、アンデッドさえ確保できればエノクが完全に復活するのだと知ったことによります。彼等は、人類を一気にオルフェノクへと変じさせる作戦も準備しています。エノクの子らは哀れなる者、また数も少ない。自然に生じているうちは捨て置くつもりでしたが、このままでは人は滅びます。だから私は使徒たちにオルフェノクを滅ぼす事を命じ、乾巧、あなたにもお願いをした」
青年の言葉があまりに意外過ぎて、三人は一斉に巧を見たが、当の巧は、面白くなさそうな顔で顎をやや持ち上げ、青年を見下ろしていた。
「一個気になってたんだが、何で俺だ?」
「あなたは、エノクを倒すのに最も相応しいからです。以前はエノクを砕くには到りませんでしたが、ブラスターと呼ばれるあの姿には、エノクを焼き尽くすだけの力がある。身体砕かれたとしてもエノクの魂は人を渡る。しかし、エノクが宿れるのは、純然たる人間だけです。身体を砕いたその場に宿るべき人間さえいないなら、後は私の使徒に任せてくれればいい」
エノクが宿れるのは人間だけ。それを聞いても、薄々感付いていた翔一も、感じ取っていた始も、巧に問い掛ける言葉を口にしようとはしなかった。
してみればこの場に、純然たる人間、とやらは存在していない。拘りも恐れも、いつまで経っても捨てきれない事が滑稽で、巧は眉根を寄せた。
翔一は勿論、相川始だって、必要以上に隠そうとはしなかった。信用してもらうにはまず人を信じる事だと、いつもの口煩いお節介な調子で、誰からだってすぐに信頼を得る啓太郎が言っていたのを、ふと思い出した。
「オルフェノクの不死とは、アンデッドとは異なる物。アンデッドは私すら滅ぼす術はないが、完全でない今のエノクは、滅ぼせるのです。それはエノクの力を受けた影山冴子も同様の事」
「王を潰したいなら、王だけを狙えばいいだろ。何で無差別にオルフェノクを襲わせた」
「エノクの子らは、本来存在していてはいけない。人は生命の実を口にしてはならない。だから、私の愛する人間を滅ぼそうとするのならば、滅ぼさねばならないと思いました」
「それは、今も変わらないのか」
「変わりません。あなたに与えた命にも、限りがある。エノクの子らは、もうこの地上に存在すべきではない」
はっきりとした口調で、青年は言い切った。不服そうに眉を寄せ唇を尖らせた翔一が、身を乗り出して何か言い掛けたが、巧に右手で制されて、一歩後ろへと下がった。
「あんたの言いたい事は分かる。俺も、あんなもんはもう生まれるべきじゃないと思う。けどな……今必死で生きてる奴を、手前の気持ち一つでどうにでも出来るって思ってんなら、気に食わねえな。大体、自然になる奴がいるんだ、オルフェノクは滅びようがないだろうが」
「死者を黄泉路から呼び戻すものがあるから、エノクの子らは呼び戻されるのです。あなたがたは憶えていないでしょうが、地に満ちたエノクの意志が、エノクが眠る間も死者を呼び返し続けている。それを絶てば、エノクの子らは呼び戻される事はなくなる」
「……王の眠りは深いんじゃなかったのかよ」
「知恵の実を口にした人の子が、生命の実をも口にすれば、その力は神にも
「…………神様でも、間違えんのか?」
「私は、あなた方が思うような、悠久無辺の存在ではありません。私を造り出した者は誰か、私は答えを知らない。宇宙には果てがあるがその外に何があるのかを、私は知らない。生命の樹と知恵の樹は、私の造り出したものではない。だから私は、それを人の子が口にする事を恐れたのです。未来も見えはしない、アギトがどうなってゆくのか、人がどうなってゆくのかなど、見えはしない」
気付けば、青年の黒いタートルネックの向こうに、焦げ茶の椅子の背凭れが透け見えた。存在が薄い。青年は、困ったように薄く、自嘲気味に笑ってみせた。
「オルフェノクがどうなるかを、あなたが決めるべきじゃない。アギトの未来を決めるべきじゃなかったように。オルフェノクも人です、自分達で選んでいける筈です」
「アギト、あなたはそう言うだろうと思いました。だが、オルフェノクはアギトとは違う。誰もがあなたのように在る事ができるなどと、思わない事です」
翔一に答えると、青年の姿は掻き消えた。まるで最初から誰も座っていなかったかのように、焦げ茶色の椅子が、そこに置かれていた。
『災いは空より来るでしょう……鉄の船から絶望は撒き散らされる』
抽象的すぎる呟きが最後に響いてすぐに闇に溶け、青年の気配は完全に消え去った。
ふっと、室内の気温も、心なしか下がっているように感じられた。
翔一はやや俯いて、何事かを考えている様子だった。
ここで得られた物は何もなかった、ともいえた。王は倒さなければいけない、オルフェノクは滅びなければならない。結論は何も変わっていない。
「……俺も付き合わせてもらうぞ」
始が低い声で告げた。彼にとっては少なくとも今の話は、何かを決心させるだけの内容があったのだろう。
「……海堂、お前はどうする」
「俺は俺で適当にやらあな。ちゅーか、あの王って奴ぁ、一遍殴らんと気が済まん」
「やめとけ、お前じゃ返り討ちだ」
軽く笑いを浮かべて巧が軽口を叩いて、海堂が渋い顔をすると、携帯電話の着信音が鳴り響いた。翔一がポケットから携帯電話を取り出して、電話に出る。
「はい津上ですが……えっ、河野さん、氷川さんじゃなく?」
暫く話し続けて、翔一の顔ははっきりと硬く厳しいものになっていった。
「はい……、はい、分かりました。すぐ行きます。何とか持ち堪えて下さい。じゃあ」
携帯電話を畳むと翔一は顔を上げ、三人に向き直った。
「今……G5部隊がオルフェノクに囲まれてるって……オルフェノクの本拠地かもしれない所です。俺は行きますが皆さんは」
「ああ、行くさ」
「付き合わせてもらうと言った筈だ」
「ショーイチ君は、俺の側にいないとまずいだろ。なら俺も付いてってやるよ。仕方ねえからな」
三者三様の返答が返される。
翔一は実に嬉しそうに満面の笑みを浮かべると強く頷いて、来た時と同様に先頭に立って部屋を後にする。三人もそれに続き、人気の絶えた屋敷だけ、寒々と残された。