「じゃあ、これ、お返しします」
睦月が差し出したバックルとカードを受け取ると、橘は表情を変えず、無言で頷いた。
「何故お前が来た? 橘も橘だ、巻き込みたくないと言っていた筈だ」
やや眉根を寄せて、人の姿に擬態した始は、苦々しい声で疑問を口にした。
睦月は巻き込みたくない、というのは共通の見解の筈だった。乾巧や津上翔一といった他の戦力があったし、平凡な学生に戻り大学に通う睦月を、一時的にとはいえ、今更戦いに引き戻したくはなかった。
「俺が橘さんに無理言ったんです。水臭いですよ、俺にだけ秘密にしてるなんて」
爪弾きにされたのが面白くない、そんな機嫌の悪い顔をして、睦月は始に言葉を返した。
「俺だって、橘さんと気持ちは同じです。黙って見てるなんて絶対嫌です」
「……という訳だ。一生恨むと脅されてな、仕方なくレンゲルのバックルとカードを渡した」
「そうですよ、俺だけ仲間外れなんて、顔向けできなくなります、そんな事になったら一生恨みます」
橘が苦笑して、睦月もつられたのか、苦く笑って、冗談めかした口調で零した。
始もつられ、薄く笑いを浮かべた。
ここにいる誰もが、ここにはいない男の事を思って戦っていた。彼が何をどう望むかを考えて。それを自分が嬉しいと思えた事が、始には不思議だったし、当然のような気もした。
これから眠らずに辿る時間の事を思えば、瞬きにも足りぬ一瞬かもしれない。だけれども、ここにもういないあの男の事を同じように思える人間がいる事に、安心していた。
「でも、王もいなくなったし、これでまた、平和に戻るんですよね」
「多分な」
睦月の呟きに、始は軽く頷いてみせた。
オルフェノクはもう不死を得る事はなく、短い命は近い将来には灰に散るのみとなった。乾巧を含めて。
皮肉なものだった。永遠の長さに目眩する者がいると思えば、明日崩れ去るかもしれない命に怯える者もいる。
概ね、静かに時は過ぎ去っていくだろう。
過ぎ去った日々の如くに始の心を激しく波立てるものは、会ってはならぬ彼との再会まで、きっとないだろう。そう思われた。
***
長い夜は明け始め、東の空は明度を上げて、水を引いた半紙に薄墨を流したように、透けるような瑠璃色を湛えていた。
海堂は足を止めない。何だか腹が立っていた。
何も戻らない事など分かり切っていた。だが区切りが付けば、このずっと薄れないまま遣り所のなかった気持ちにも、整理が付くかもしれないとどこかで思ってもいた。その淡い期待は、見事に裏切られた。
照夫も木場も結花もいないのが悲しい事と、オルフェノクの存在に一応の決着が付くことは、考えてみればまるで相関関係がなかった。
オルフェノクはもう生まれない、海堂を含め、今存在する者達の短い命が終われば、滅びる。
使徒再生により増える道は残されているだろうが、増えたからといってどうにもならないし、アンノウンとやらが黙ってはいそうにない気もした。
オルフェノクは滅びる。
その結末を望んでいたのは事実だが、それは海堂が眩しさを覚えた木場の理想とは違う結末で、悲しみを慰め得るものでもなかった。淡々と、そうあるべき当たり前の事実が、ようやく当たり前に現実になっただけだった。
「おい海堂、ちょっと待て」
後ろから声がかかり、海堂は足は止めたが、振り向かず立ち尽くした。
乾巧は、バイクを呼べる筈なのに呼び出そうとはせず、当てなく歩く海堂の後を追ってきていた。
「お前、これからどうする気だ」
「どうって別にどうもしねえよ。今まで通り、気の向くまんまぶらり旅だ。おめぇとの腐れ縁も、今度こそこれっきりだ、二度とその無愛想な面見なくていいと思うとせいせいすらぁ」
「それはこっちの台詞だ。でも、そうは思わない物好きも世の中にはいる。どうせ急ぎじゃないんだろ、少し付き合え」
「氷川って刑事が、捕まると面倒臭ぇんだよ。とっととドロンしちまいたいんだ」
「そんなに時間は取らせねえよ、そろそろだ」
巧も足は止めたらしく、背中からかかる声は近付いてこない。海堂は、振り向かないままで話し続けた。
「悪ぃが、付き合う気はねえな。俺様は一刻も早く貴様の事を忘れたくて仕方ねぇんだ」
「お互い様だ……お、来たな」
悪態をついた巧が何に気付いたのか、言葉を止めた。ちらりと振り向いて盗み見ると、携帯電話を右頬に当てて、何かを話していた。
「そうだ、その道を真っ直ぐだ。おう、見えてきた。じゃあな」
巧は話しながらやや顎を上げて、前方に立つ海堂の向こうの道の先を見ていた。海堂もそちらに首を向けると、よく見覚えのあるバンが走って近付いて来るのが見えた。
そうだ、よく見覚えがある。二年前、よく目にしていた。走り回ればオルフェノクに遭遇するのは、車の故なのか、運転する人間の故なのか。
西洋洗濯舗菊池の配達車は、海堂が立ち止まる地点の十メートルほど手前でハザードを出すと、道の端に車を付けて停車した。
「たっくん、海堂さん!」
菊池啓太郎は、後ろの確認も疎かなままで、運転席側のドアを開け放つと駆け出し、もどかしそうに低いガードレールを跨ぐと、海堂へと走り寄った。
「海堂さん、ホントに海堂さんだ、今までどこ行ってたの、どうして何も言わないでいなくなるんだよ!」
泣きだしそうな顔をして大声でまくし立てられる。海堂はやや辟易として眉を寄せると、苦々しげに息を吐いた。
「るっせぇな、俺様は何者にも縛られないんだよ。お前等の顔は見飽きたから、自由を求めて旅に出たんだ、悪いか」
「悪いよ! 心配するじゃない! 俺、海堂さんとはいい友達になれたって思ってたのにひどいよ!」
「わーったから落ち着け、唾が飛んでんだよ、唾が」
満面に不服の色を浮かべて、啓太郎は海堂を真っ直ぐ睨み付けていた。
結花はきっと幸せだったろうと思った。海堂でさえこれだ。啓太郎はきっと、疑いなど挟む余地もなく、ただひたむきに、結花を愛してくれただろう。
例えそれが数日の間でも、愛されず愛せない事に深く傷付いていた、傷付くあまりに醜さを憎むしかなかった、あの臆病で優しく寂しい少女の心を、どれだけ満たしてくれたろう。
誰もがこうして、人を思い愛し伝える事が出来たなら、問題はもっとシンプルになっていたのかもしれなかった。それは不必要に捻くれた海堂や巧には、人に裏切られ信じたいと願いつつ疑いを捨て切れなくなった木場には、決して為せない事だったけれども。
「悪ぃけど、また行くわ。ま、行く前にお前の顔を見られたのは悪くなかった。二度と会う事もないだろうけど、達者でやれや」
「なんだよそれ、意味分かんないよ……どうしてどっか行かなきゃいけないんだよ、ずっといればいいじゃない」
穏やかな笑みが、海堂の頬には自然に浮かんだ。悪くない気分だった。
昂揚はないけれども、深い満足があった。啓太郎は度を過ぎたお人好しでお節介だったが、だからこそ、こんなもう人間ではない海堂をも、隔てる事なく、友達だと言ってくれる。
壁を軽やかに飛び越えるものは、きっとこんな馬鹿正直さだ。木場にも海堂にも、それが分かっていなかった。
「乾の事、よろしく頼んだぜ。あんな性格曲がった野郎、お前にしか頼めないからよ」
「なんだよそれ、そんな事言うの嫌だよ」
「まあそう言うなや。白い洗濯物見たら、お前の事、思い出してやっから。あと真理ちゃんにもよろしくな」
啓太郎は顔を歪めて必死に抗議するが、海堂の顔を見ると、歯を食いしばったのか口元を低く引き結んで俯いた。追い付いてきた巧が、啓太郎の肩に手をそっと添えた。
「お前もくたばるまで元気でやれや」
「お前もな。今回は、助かった」
「お互い様だ。じゃあな」
軽く手を上げると、巧が軽く頷いて応じた。啓太郎は顔を上げないで、右の手の甲で目元を拭った。
背を向けたら、もう振り返らないで海堂は歩きだした。
「元気でね、海堂さん、気をつけて、元気でね!」
背中を啓太郎の鼻声が追ってきたが、左手を軽く上げ振って応じて、振り向かなかった。
二度と彼等とは会う事はないだろう。全て、灰に帰して風に撒き散らされてしまう、そんなものでしかないだろう。
だけれども海堂は、良かった、と感想を胸に浮かべた。何がなのかは分からなかったが、とにかく。
失ったものは何も戻りはしない。もうどこを探しても、どこにもありはしない。だけれどもそれは、オルフェノクが皆灰になってしまってもきっと、啓太郎が覚えていてくれる。
太陽が山の端から顔を覗かせて、郊外の片道三車線の国道に、鋭く白い光が射し込んだ。今日は眩しさに居心地の悪さを覚えないで、海堂は当てもなくただ、漫然と歩き続けていった。
***
未確認生命体対策本部の看板を会議室の入り口から取り外すため、脚立が立てられている。
氷川が中を覗き込むと、忙しく資料を片付ける捜査員の中に北條がいた。
「北條さん」
声をかけると北條は、書類の束に落としていた目線を上げた。
「何ですか、今忙しい」
「海外に戻ると伺ったので。慌ただしすぎます、もう少しゆっくりしていかれてもいいのでは」
「私の能力が必要とされているんですよ。何だかんだ言って、人間の一番の敵は人間自身だ。人類の進化がどうだのアギトだの言う前に、世界には無数の犯罪があり理不尽に巻き込まれた犠牲者がある」
「仰る通りだと思います。また一緒に働けるかと思っていましたから少し残念ですが、陰ながら北條さんの活躍を願ってます」
寂しそうに笑った氷川を見て、北條は苦笑を漏らした。困った人だ、とでも言いたげに目線を逸らす。
「氷川さん、あなたに一つ聞いておきたい事がある」
「何ですか?」
「今でも、アギトは人類の進化の形だと、そう思っていますか」
北條は再び目線を書類の束に落として、纏めては袋に収めていた。氷川は答えを迷い、戸惑って黙りこくった。
「私は、海外にいる間もずっと考えていた。日本に戻って、人を超えた力を得てそれを進化と呼称するオルフェノクを見て、再度考えさせられました。アギトになるという事は人のありようを変える事はできるのか? 小沢澄子の言うように、人の可能性の体現なのか? 津上翔一のように、アギトとしての力を得ながら人であり続ける事は、進化と呼べるのか? そも進化とは何か? 答えは出る筈もない、これから長い時間をかけて作られていくのでしょうからね。だが、今あなたがどう考えているのかを聞きたい」
相変わらず書類を纏める手は止めず、北條は長い質問を早口に紡いだ。黙りこくったまま聞いていた氷川は、俯いてやや考えた後、意を決したように顔を上げた。
「……僕は、進化と呼べるようにしたいと、そう、思っています。それが出来ると信じてもいる。力に溺れるのが人間なら、それを律する事が出来るのも人間です」
「理想論ですね、だがあなたらしい答えだ」
答えを聞いて、北條は顔を上げ、にやりと口元を上げ歪めて笑った。
***
ぱらりと、瓦礫が内側から動いて、やがてがらがらと突き崩される。
骨の浮いた左腕が宙を掻いて、瓦礫の山に開いた穴を少しずつ広げていった。着込んだ濃紺のジャケットの袖口は擦り切れて、白くなっている。
やがて山の中から出てきたのは、子供だった。駆け出すと振り向いて、笑顔で何かを穴の中の男に告げた。
言葉が分からないのだろう、男は困ったように苦笑を返して、手を振った。
子供も手を振り返して、踵を返すと駆けていった。
古ぼけた低いビルが並んだ街並みからは、あちこち黒い煙が上がっているが、今は目立った音はなく静かだった。
アスファルトは砕け盛り返っている。戦車のキャタピラが作った轍が黒々と焦げたような跡を道に残している。
ふと、じくりとした軽い痛みを覚えて頬を拭うと、乳緑色の粘り気の強い液体が手の甲にこびりついた。
それでもあの子は笑って(多分)お礼を言ってくれたのだ。
石畳の継ぎ目を覆った白い灰が、風に流されて巻き上がり、飛ばされていった。どこへ行くのだろう。
放置されたショーウインドウに飾られたテレビではニュースが流れている。暫く眺めていると、見覚えのある姿がちらりと映った。
灰色の怪物と戦っているのは、ギャレンとレンゲルだった。日本でも、灰色の怪物が混乱を巻き起こしているのだろう。
きっと皆、運命と戦い続けている。そこには重いも軽いもなく、人は生きる限り、望むものを叶えようとすれば、戦い続けるしかない。
いつまでこうして人間のような風をしていられるのかは分からなかったが、戦い続け抗い続ける限りは、人でいられる気がした。
会ってはならぬ彼は、少しは素直に笑えているのだろうか。それが気がかりだったが、きっと苦味を交えて苦笑のように喜びを表しているのだろうと思えば、妙な可笑しさも感じた。
映像の切り替わったテレビから目を離して、男も人気のない道を歩き出した。あいつのいない場所、それ以外はどこへ行くかなどあてもなく。
最後までご覧いただきありがとうございました☺