すっかり帰りが遅くなった。啓太郎が配達に出なければならない時間はとうに過ぎている。
やや早足気味に歩き、西洋洗濯舗菊池のドアを開けると、園田真理がカウンターに座っていた。
「あ、巧、おかえり。遅かったね。何かあった?」
「……ちょっとな」
巧が言葉少なに真理の質問に答えると、巧の後ろからもう一人、青年が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ。ちょっと巧、お客さんの邪魔だからどいて」
接客を優先させようと、真理がカウンターの前からどくよう巧に手振りで促すが、入ってきた青年はやや困った顔を見せて、肩まで上げた両手を軽く横に振ってみせた。
「あの……俺、クリーニングじゃなくて」
「えっ、ここ、クリーニング屋ですけど……まさか押し売りとかですか? それならお断りします!」
「違ぇよ、早とちりすんな。俺は奥でこいつと話がある、店番頼む」
巧の答を聞いて、真理はきょとんとした顔を見せた。
「……何それ? 何隠してるの? その人何なの?」
「お前には関係ない」
「関係あるわよ、せっかくの休みにこうやって代わりに店番してる! 啓太郎と二人してコソコソ何してるのよ!」
「うっせえなぁ、お前には関係ないったらないんだよ」
カウンター越しに詰め寄る真理からぷいと視線を逸らして、巧はそれ以上何も答えずに、早足で奥へと入っていった。
「ちょっと待ちなさいよ巧!」
即座に真理も後を追い、カウンターは無人となる。
呆気にとられてその様を眺めていた青年――津上翔一は、困惑して頬を掻いた後、遠慮気味な歩調で二人の後を追った。
リビングに入ってソファに腰掛けた巧は、追い掛けてきた真理を一瞥すると、あからさまに面倒臭そうに眉を顰めて、顔を背けた。
「巧、ちゃんと話して。あたしの事、そんなに信用できない?」
「……そんなんじゃねえよ。それより、客が来たらどうすんだ」
「そんなの、待ってて貰えばいいのよ。今はこっちの方が大事」
「啓太郎に聞かせたら怒るぞ……」
「今怒ってるのはあたしよ。どうせ啓太郎もグルなんでしょ。本当に頭に来てるんだから」
真理は全く引く気配を見せなかった。
ここ数日、巧と啓太郎が交替で店を空けていた事、見知らぬ青年の来訪。勘の鋭い真理が、何かあると確信を抱いてもおかしくはなかった。巧と啓太郎の隠し方が徹底していなかった為だろうが、そもそも二人とも、上手く隠し事をする器用さは不足している。
「あたしを巻き込みたくないような事って……オルフェノク?」
真理の疑問を、巧は肯定も否定もしなかった。横を向いたままで、軽く目を細める。
真理を巻き込みたくないというのは図星だった。彼女は、関わってしまったために、二度も命を落としているのだから。
幸い、美容院で修行中の真理は忙しい。美容師は激務だし、真理は自分の技術向上の為、夜遅くまで店に残り練習している事も少なくない。
隠しおおせると、いや、絶対に隠そうと思った。
巧は(余計なお世話とはいえ)借りを返すために戦おうと思っていたが、それに真理を巻き込む理由など、何一つ無かった。
真理は休みでもあれこれと出かける事が多いから、今日も、巧が出る時には居なかった。まさか、店番をしているとは思わなかったのだ。
「あの……オルフェノクって、何ですか?」
声を掛けるタイミングを失していたのだろう。開けっ放しのドアからリビングを覗き込んで、津上翔一が恐縮している様子で、弱い声で質問を投げてきた。
「……ああもう、面倒臭ぇな。分かった、話すよ、それで満足なんだろ」
根負けした巧が苦々しい声で吐き捨てると、当然でしょ、と真理の、まだやや硬い声が返ってきた。
***
「じゃあさっきのは、ファイズっていうんですね。ベルトの力で変身かー。ちょっと変わったアギトかと思ってました」
すっかり感心したように、神妙な顔つきをして、翔一は一人で納得して何度か頷いてみせた。
翔一はリビングのソファに腰掛けて、巧はダイニングテーブルの椅子に座っている。
真理は、後で必ず事情を説明する事を約束し、カウンターに戻ってもらった。レジも置かれているし、さすがに無人の状態は不用心すぎる。
「それが乾さんで、オルフェノクって怪物と戦ってる、と。成程、大体分かりました」
「……まだ全然説明してねぇんだが」
「乾さんが悪い人じゃないって分かれば十分です」
呆れた顔で、巧は翔一の自信満々な顔を眺めて、長く溜息を吐いた。
それでいいのであれば、それでいいだろう。もし巧が逆の立場なら、もう少し細かい話を聞こうとするが、折角納得しているのに、話し辛い事をくどくどと話し続ける必要も感じられなかった。
「じゃあ次はお前の事だ。津上、って言ったよな。お前何で、あの時あそこに来たんだ?」
聞きたい事は色々あったが、巧は一番不審に思っていた点をまず口に出した。
あまりにもタイミングが良すぎるし、聞けば翔一の住まいは全く別の場所。仕事場を突然抜け出した事と帰りが遅くなる事を詫びる電話を入れていた。
彼が嘘をついていないと仮定すれば、彼があの場所を偶然通りかかる可能性はゼロに近かった。そして、断定はできないが、津上翔一はあまり嘘をつくのが上手そうにも見えない。
「自分でもよく分かんないんですけど……俺、他のアギトが危ない目に合ってると、何か分かっちゃうんですよね。百パーセントではないんですけど。さっきも、危ないって思って急いで行ってみたら、乾さんがアンノウンに襲われてたんです。だから俺、乾さんがアギトだって思ってたんですけど……」
「俺はそのアギトだか何だかじゃない」
「本当ですか? 最近何か、触らないで物を動かしたり、壁の向こうを透視できたりとか、ないですか?」
「ないね。何で俺がそんな超能力みたいなもんが使えるんだよ」
翔一の質問は突拍子もなかった。巧が訝しげな目線を向けると、翔一はうーんと唸って難しい顔をし、首を軽く捻った。
「それと、そのアギトだ。アギトってのは一体何なんだ?」
「……何、って聞かれると困っちゃうんですけど。今までと違う形に人間が進化し始めた姿……ってとこですかね。アギトになるかもしれない人は沢山いて、力が目覚め始めると、超能力が使えるようになる、らしいです。それで、なりかけの人も含めて、アギトは以前、アンノウンに狙われたり殺されたりしてたんです」
自分がアギトだと言っていたにも関わらず、翔一の答えは明瞭でなく、どこか他人の事を説明している様な雰囲気があった。
巧は答を聞きながら、表情を曇らせ目線を伏せた。
「……進化? アギトってのは、そうなのか?」
「いやぁ、俺にはよく分かんないんですけど……何かそういう事みたいです」
「……人類の進化なんてのは、信用できねえな。お前、アギトだっつったな」
「はい」
今度は翔一が、訝しげな眼差しを巧に向けた。
「進化した者たち」の多くは、スマートブレインの介入と教唆もあって、唐突に手にした力に溺れ、自分を進化した優良種と錯覚した。自分達はただの死者、滅びゆく運命にある事も忘れ果て、心のままに暴力を振るうようになる。そうでない者も勿論いたが、概ねそれが、巧が目にしてきた自称「進化」だった。
アギトというのが何なのか巧には確とは分からないが、人類が進化した姿、という存在の事を信用しようとする気持ちは、沸き上がらなかった。
「お前も、自分が、進化したって、思ってんのか……?」
暫くの沈黙の後に巧が口にした言葉を聞いて、翔一は、腹の底から分からないと感じているのが嫌でも伝わってくる、困惑しきった表情を見せた。
「すいません、それは俺、分かんないです。確かに俺アギトだけど、だから何だって言われたら、何でもない事のような気がしちゃって。だって、アギトでもそうでなくても、俺は俺だったし。何か進化したとかそんなの、全然ないです。アンノウンと戦えるようにはなったけど、それが進化っていうのも何かピンとこないし……」
ゆっくりとした口調で、言葉を探しながら、翔一は答えを口にした。
「分からない、か」
そう口に出して、巧はその言葉が、自らの実感でもある事を思い出した。
能力は人を超えたのかもしれない。だけれどもそれを進化と呼べるのか。人でなくなってしまうなら、心の有り様まで根本から変わってしまうなら、それを。
分からなかった。
「……アンノウン、とか言ったな。あいつらは今は、オルフェノクを襲ってる」
巧の言葉に、翔一は伏せていた目線をはっと上げた。
「進化した人類、って奴があいつらに狙われるんなら合点がいく。オルフェノクってのは、生きてる筈のない人間が、持っちゃいけない力を持った存在、自称人類の進化形だからな」
「……乾さんは、その、オルフェノクってやつは、人間じゃないから、アンノウンがどんどんオルフェノクを殺した方がいいって思ってるんですか?」
「誰がそんな事言った」
巧が面白くなさそうに答えると、翔一はきょとんと巧を見た。巧の目線は今ははっきりまっすぐに、前に向けられていた。
「誰も好きでオルフェノクになるわけじゃない。人を襲いたいって本能と必死で戦ってる奴もいる。人間と共存したいって、そんな夢を持ってた奴も、いた」
「そうですか、ちょっと安心しました。……それ、素敵な夢ですね」
「……まぁな。そいつはもう、いないけどな」
「でも乾さんが、覚えてるじゃないですか。そしたらその夢はまだきっと、生きてるんです」
翔一が、そう言って、にこりと笑った。
夢はまだ生きてる。巧は、そんな風に考えた事はなかった。ただ、巧が分かり合いたいと願った、友になれるかもしれないと感じた青年の夢は、まるで呪縛か何かのように胸を離れなかった。
幾人もの人が、オルフェノクが死んでいった。果たされなかった彼らの夢は、澱のように巧の心に降り積もり、奥底にこびり付いた。
溶けも消えもしない砂のように、凪いだ心の中で、流される事もなく。
微笑んだ翔一の顔を見て、巧は、この男の心の中にももしかしたら、似た様なものが降り積もっているのかもしれない、と、根拠もなく感じた。
「お前には……そういう夢って、あるのか?」
巧の唐突な質問に、翔一はまた、きょとんとしてみせた後、楽しそうな笑顔を見せた。
「ありますよ、夢。そうだ、見せますから来てくださいよ。お友達も一緒に」
「……来て? どういう……」
巧が質問を口にしかけると、携帯電話が着信音を鳴らし始めた。開くと、三原の名前がディスプレイに表示されていた。
***
そのレストランは小ぢんまりとして、中もそれほど広くはない。木目がそのまま出たテーブルが、どこか家庭的な雰囲気を漂わせている。
店内には今、他に客はいない。オーナーの厚意により、貸切となった。
六人がけのテーブルの片方に巧と啓太郎、真理。向かいには三原と、初対面の男が二人。
一体どうしてこうなった。巧は考えてみたが、翔一に何となく押し切られてしまったとしか言い様がなかった。
三原からの電話は、オルフェノクに狙われている男と出会った、というものだった。互いの状況報告の為顔を合わせようとしたところ、何故かこのレストランで、という事になった。
「やあ、皆さんお待たせしました」
陽気な声で料理を手に現れたのは、この店のオーナーシェフ、津上翔一だった。後ろには、従業員と思しき女性がやはり料理を運んで従っている。
二人は料理を、手際よくテーブルへとセットしていった。完了すると、端に置かれた椅子に、翔一が腰掛けた。
「さっ、皆さん、冷めないうちにどうぞ。今日は俺の奢りですから」
「……おい津上、今日はどういう集まりか、分かってるよな? 俺は別に料理を食べに来たわけじゃないんだ」
「えっ……だって、冷めないうちがおいしいですよ?」
巧の文句に、翔一は心底心外そうな顔を見せた。すでにフォークを手にしていた啓太郎が、口を挟む。
「いいじゃないたっくん、まずはいただこうよ。腹が減っては戦は出来ぬって言うしさ」
「そうそう。折角ご馳走してくれるっていうんだから。さっ、いただきまーす」
真理も啓太郎に同調し、さっさと料理に手をつけ始める。折角の料理を無駄にしては、という事だろうか、向いの三原と他二人も思い思いに料理を口にし始めた。
「あっ、おかわりありますからね」
「いらねえよ」
苦々しく返して、巧も鶏肉のソテーらしきものにナイフを入れた。他に、ライスとサラダ、コンソメらしきスープが置かれている。
鶏肉は柔らかくジューシーで、ご飯の進む味付けが丁度良かった。料理は美味しい。
「あっ、そうだ、俺まだ皆さんのお名前をちゃんと伺ってないんですよね。俺は津上翔一って名乗ってて、見ての通りの料理人です。えっと、そちらの方は……」
「橘。橘朔也だ。BOARDという研究機関で遺伝子の研究をやっている」
黒いスーツの男が簡単に名乗った。食べる速度が早く、既に彼の皿から料理は無くなりかけていた。
「……相川始だ」
「三原修二っていいます」
続けてその隣の眼光鋭い青年と、三原がそれぞれ名乗る。
「ありがとうございます。で、こちら側が、園田真理さんと、菊池啓太郎さんと、乾巧さんですね」
啓太郎と真理がそれぞれ頷き返す。
「んで、橘さんと相川さん? 三原さんとどういう関係なの?」
口の中の物を飲み込み終わらない内に啓太郎が口を開いて、横から真理が行儀が悪いと嗜める。
橘朔也と相川始はそれを見ても、特に表情は動かさずに、料理を食べ続けている。
「相川さんが、オルフェノクに狙われてたんだ。まだ理由は分からないけど……。俺は白い鳥の奴を探してる時にたまたまその現場に居合わせて、一緒に戦った。それで、橘さんもオルフェノクについて調べてるって事で紹介されて、何か目的があるなら奴らまた相川さんを狙ってくるだろうし、協力しようって事になったんだ」
「……協力? 三原、そりゃどういうこった」
「スマートブレインの作ったベルトじゃないけど、相川さんは俺達みたいに変身して戦えるんだよ。オルフェノクが絡んでるなら放っとけないだろ?」
「信用できんのか」
遠慮や配慮のない巧の疑問に、相川と橘はややむっとした顔を見せたが、相川はやはり口を開かず、橘が巧を見た。
「それはこちらも同じ事を思っている。俺はまだ君たちの事は何も知らないし、君たちもそうだろう、当然の事だ。今すぐ信用しろとは言わない。俺の目的は、始に降り掛かりつつある火の粉を払う事だけだ。君らに害をなしたり、邪魔をしたりする意志はない。オルフェノクについて情報が欲しいだけだ」
「胡散臭すぎる。スマートブレインのベルトもないのに変身できるだとか、オルフェノクの事を知ってもあまり驚いてないようだしな。お前ら何者だ。そもそも人間なのか」
「ちょっと、たっくん、さすがに失礼すぎるよ」
「啓太郎は黙ってろ。隠し事の多そうな奴らは信用できねえって言ってんだよ」
橘に反論され、啓太郎に嗜められても、巧は悪怯れずに、橘を睨み付けた。
何か大事な事を隠しているから、この橘と相川という二人の話は、実態のない掴み所のない話に聞こえているのではないか。そう思えた。
「俺たちが人間か、だと? 乾とか言ったな、そういうお前はどうなんだ?」
今まで無言だった相川始が、巧を鋭く睨みつつ、口を開いた。
その言葉の内容に、巧は勿論の事、真理も啓太郎も三原も、どきりとして始を見た。
暫くその場を、重苦しい無言、沈黙が支配する。
「……そんなの、どっちだって良くないです?」
沈黙を破ったのは、やや抑え目の翔一の声だった。
「アンノウンが無差別にオルフェノクを殺すのを止めたい、相川さんが狙われるのも原因を突き止めてどうにかしたい。それが目的でしょ? 俺アギトで、普通の人間だとは言えませんけど、乾さんは俺の事も信用できませんか?」
「……全面的には信用はしてねぇよ」
巧の答えに、翔一は不服そうに口を尖らせてみせた。
「ええ、それって淋しいなぁ。俺は乾さんの事、会ったばっかりだけど、かなり信用してるんですよ?」
「はぁ? 何でだよ」
「だって乾さんいい人だし、友達も皆さんいい人だし」
横で啓太郎と真理が、我が意を得たりといった様子で、満足気に頷いている。翔一のペースに乗せられて、どうにも旗色が悪い。
「アギト、というのは、何年か前に騒がれた、超常能力を持った新しい人類、というやつか。駆除の法案が提出されていた……」
「ああ、そんな事もありましたね。まあでも、そんな大したもんじゃないですよ」
橘の言葉に、翔一は、本当に何でもないかのように、軽く答えた。
「とにかく、細かい事はどっちでもいいじゃないですか。折角こうして知り合って一緒に食事してるんですから。橘さん、ですっけ? 俺の料理をそんなに美味しそうに食べてくれる人が悪い人な筈がないです。乾さんももっと信用していいと思いますよ?」
「どういう基準だよ……」
「たっくん、津上さんの言う通りだよ。疑ってばっかりいないでもっと人の事信じなきゃ、自分も信用してもらえないんだよ?」
「ああもう、右から左からギャアギャアうるせぇな!」
翔一ばかりか啓太郎からも説教を食らい、巧は実に面白くなさそうに上を見上げた。右を向いても左を向いても面白くない顔なのだから、上か下でも見るしかなかった。
そんな様子を見て、橘がくすりと笑いを漏らした。
「俺も、君たちをもう少し信用する事にしよう。始、話しても構わないか」
「……構わん。どうせいつまでも隠せる事じゃないし、話が進まないからな。自分から堂々と打ち明けてくれる奴に隠しておくのも居心地が悪い。俺は人間じゃない、アンデッドと呼ばれる、人間とは別の生物だ」
淡々とした相川始の言葉に、橘を除いた一同は一様にぎょっとして、始を見た。
「何だ、その、アンデッドってのは」
「全ての生物の始祖となった、不死の生命体だ。全部で五十四体存在している」
「不死……?」
声を漏らして、巧はもう一度相川始を見た。どこから見ても人間そのもの、人間でないなどと告白されても俄かには信じ難かった。
「オルフェノクは寿命の短い種と聞いている。もしかしたら、アンデッドの不死のメカニズムを解明して寿命を伸ばすために狙われているのではないか、というのが、俺と始の推測だ」
「それもあるかもしれないが……想像もしたくねぇが、もっと別の企みかもしれないな。あの海老女辺りならやりかねない」
「乾……それって、まさか」
巧の言葉に答えた三原の顔は、やや青ざめていた。三原も巧も、もう思い出したくない恐ろしい記憶、忌まわしい存在。
「奴ら、王を起こそうとしてんじゃねえか? 王を起こすために不死の存在の力を、どうにかして使おうとしてるんじゃないのか」
「王……?」
「そうだ、オルフェノクの王。オルフェノクに不死を与える存在だ。二年前に倒したが、あいつは灰にはならないで、配下のオルフェノクが身体を持ち去った。そいつを、復活させようとしてんなら……」
怪訝そうに漏らした橘に、巧が簡単に答えると、眉を寄せて考え込んでいた翔一も口を開いた。
「それなら、アンノウンも、オルフェノクを危険な存在と見なして、攻撃するかもしれないですね。そんな奴らが不死身になっちゃったら、人間が滅んじゃいますもの」
「津上。お前の言いたい事が今一つ掴めねえんだが……アンノウンってのはアギトを殺してたんだろ? それとオルフェノクと、どう関係があるんだ」
「アンノウンは人間を作り出した存在の使いで、その存在が望まない力を持って、人間に取って代わる可能性のあったアギトを滅ぼそうとしてたんです。今までは、オルフェノクは寿命が短いし、危険が少ないとか何か理由があって介入してこなかったけど、目に余る事態になったからオルフェノクを排除しようとしてるなら、話は分かります」
翔一の言葉を、一同はぽかんとして聞いていた。急に話が壮大になってしまい、少々着いていけない。
「……つまり、オルフェノクが何故始を狙うのか、何をしようとしているのかを突き止めるのが肝要、それさえはっきりして阻止できれば、アンノウンの活動が止まる可能性もある、という事だな」
橘が話を纏めると、一同頷き、皆無言でやや考え込んだ。
活動を停止した王の身体を持ち去ったロブスターオルフェノクの行方は分からない。探すにしてもどこをどう。皆目見当がつかなかった。
「……俺は戻って、オルフェノクの潜伏先を探れないか情報をあたってみる。始、白井にも情報を集めるよう伝えてくれるか」
「分かった」
始の返事を聞いて軽く頷くと、橘は席を立った。
「オーナー、今日の料理、本当に美味かった。今度は客として来ていいか」
「はい、ありがとうございます、勿論お待ちしてます! お気をつけて!」
元気よく応じた翔一に笑いかけて、橘は店を出ていった。
「つまり、アンノウンよりは、オルフェノクを探した方がいいって事、なのかな?」
「そうなるだろうな。今んとこ只の推測だが、そう外れてる気はしない」
三原の言葉に、巧は同意してみせる。その様子を見て、相川始も席を立った。
「俺も帰る。何かあったら橘に連絡してくれ」
「ありがとうございました、お気をつけて」
始は翔一の挨拶には特に何も返さずに、早足に店を出ていった。
***
その後デザート、食後のお茶まで振舞われた後で、四人はレストランAGITOを後にした。
翔一も、警視庁の知り合いにオルフェノクの潜伏場所について相談をするという。
最後尾の巧は振り返って、入り口のドアまで見送りに来た翔一をまっすぐに見た。
「この店が、お前の夢か?」
「そうですよ。ここで、細々とでもいいから美味しい料理を作って、食べた人に幸せになってもらうのが、俺の夢です。素敵な夢でしょ?」
翔一の声には、迷いなど微塵もなかった。まっすぐだけれども強すぎない、軽やかさがあった。
答えを聞くと、巧の頬に自然と、笑みが浮かんだ。
「ああ、そうだな、いい夢だ」
巧の笑顔を見て、翔一もにこりと笑みをこぼした。
何故アンノウンに狙われたのか、どうして見逃されたのか。翔一は追及もせず、話にも出さなかった。
ほんとうの事を自分から言い出せなかった事が、少しだけ、針先のように巧の胸を刺した。
じゃあな、と呟いて軽く手を振ると、翔一は大きな身振りで手を振り返した。