Dead Man Walking《完結》   作:田島

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光が見えても振り返ってはならない(2)

 蓋を開いたカツ丼は、ほかほかと湯気を上げている。そこから湧き立つ、出汁と醤油、とろりと光る半熟卵の匂いが鼻孔を甘くくすぐる。

 海堂は可能な限り上げた眉の下で眼球を忙しなく右左に動かして、何度か丼を見た後、ふん、と鼻から息を噴き出して横を向いた。

「どうぞ、遠慮しないで召し上がって下さい。お腹空いてるでしょう?」

 取調室の広さは四畳ほどだろうか。狭く薄暗い。向かいに腰掛けた刑事――氷川誠の表情は穏やかで、取り調べの厳しさや海堂に対する何らかの猜疑を今は発していない。

「うっせえよ。俺ぁ今、腹が減ってねえんだよ。大体にして、取り調べでこういう食事を出したりするのは、供述の内容を誘導とか何とかで駄目なんじゃねえのか」

「あなたは被疑者ではありません、被害者です。それにさっき、お腹鳴ってたじゃないですか。公費ではなく僕の自腹です。あくまで僕個人の、ささやかなお詫びとお礼の気持ちですから、どうぞ遠慮なく」

 言われて海堂は、横を向いたままでちらちらと何度か、微笑んだ氷川の顔を盗み見て、今度は口から長くゆっくりと、息を吐き出した。

「……ちっ、しゃーねえな。そこまで言うなら食ってやる。いいか、あくまでも、お前の好意とカツ丼を無駄にするのが勿体ないから、仕方なく食ってやるんだからな!」

「ええ、ありがとうございます。冷めないうちにどうぞ」

「けっ」

 舌打ちをしながら丼に向き直って、取り上げた割り箸を勢い良く割るや否や、海堂は丼を持ち上げて、猛烈な勢いでカツ丼を掻き込み始めた。

 相当空腹を覚えていた様子で、あれよという間に、丼の中は半分程が一気に消えていた。

「うひゃあひゃへえは、はかはか」

「そうでしょう、人気あるんですよ、このカツ丼」

 一気に掻き込んだ口の中のものを飲み込まないうちに海堂が感想を口にする。何を言っているのか定かでないが、氷川はある程度内容を推察出来たのだろう。嬉しそうに口元を緩ませて答えた。

 横に置かれた茶碗の焙じ茶を啜って落ち着くと、海堂は再度丼に向かう。ややあって、丼の中は飯粒一つ残らず、綺麗に空になった。

 軽くなった丼を机に置いて、再度茶を啜ると、海堂は今度は、満足気にゆったりと息を吐いた。

「ふぃー、ごちそうさん」

「ご満足頂ければ何よりです」

 先程よりは丸みを帯びた声で海堂が告げると、氷川はやはり嬉しそうに返した。

「……んで、お前さっき、俺様が容疑者じゃないっつったよな」

「はい」

「じゃあ、お前に俺様を引き止められる理由はないし、俺様が質問に答える義務もないな。そろそろ帰らせてくんねぇか?」

 その申し出を耳にすると、氷川の表情は途端に硬くなった。氷川の首が横にはっきりと振られるのを見て、海堂は不満そうに頬を膨らませた。

「駄目です、あなたはアンノウンに狙われている、危険です」

「うっせえなあ。いいか? 俺ぁな、警察って奴が、鳥肌立つ程大っ嫌いなんだ。一秒たりともここの空気吸ってたくねえんだよ。反吐が出そうで気分悪くなる」

「……それは、あなたと一緒に何度か目撃されていた、長田結花の事が、あったからですか?」

 図星を指されて、海堂はばっと首を振って氷川を見た。

 警視庁が南を使いオルフェノクを捕えて研究していた顛末の記録は、極秘の研究所が何者かに襲撃され、南が行方不明になった際に失われ、或いは破棄された。

 だが、やはりつい先日、その資料の写しが匿名で、北條へと送られてきた。

 もしオルフェノクを人間だと言えるのであれば、非人道的としか、言い様のない陰惨な実験の経過と結果が、淡々と綴られた資料が。

 資料の最後の方に、長田結花の記録はあった。

 彼女も海堂と同じ時期に行方不明となっていた。彼女の家族を含む高校女子バスケ部員が、やはり同じ頃に、十人近く行方不明または灰と化し死亡している。所轄の添野という刑事が一年近く追っていたようだったが、解決しないまま添野は定年を迎え、警察を去っていた。

 彼女の実験記録は途中で途切れていた。逃げ出したのか、研究所が襲われた際に巻き込まれたのか、それは分からない。

 氷川に分かっているのは、彼女が警察に捕らえられ実験材料とされた事と、彼女は海堂と一緒にいる所を何度も目撃されていた、という事だけだった。

「……んな事ぁどうだっていいんだよ。気分悪ぃわ、さっさと帰らせろ」

「何故です。アンノウンは絶対にまたあなたを狙ってきます、ここの方が幾分かですが安全です。我々はあなたを守りたい」

「はっ、ご立派ですこと。けどなぁ、そういうの何て言うか知ってるか? 『小さな親切大きなお世話』っつうんだ、バーカ」

 口調こそ悪態をついているだけに聞こえるが、海堂が氷川を睨み付ける瞳の光は真剣そのものだった。真剣な嫌悪だ。

 一度息を飲み込んで、氷川は躊躇って、その後にようやく口を開いた。

「……あなたは、どうしてここを出たいんです? 行きたい所でもあるんですか?」

ここ(警察)にいたくないんだっつっとろうが、分からん(やっ)ちゃな」

 苛ついた様子で海堂は吐き捨てるが、氷川は目を逸らさないで、真っ直ぐに海堂の目を見つめ返した。

 信頼されていない氷川が海堂を守るためには、まずは信頼されなくてはならない。真っ直ぐ相手を見て正直に話す。氷川は、信頼を得る方法を他に知らない。

「会いたい人が、いるんですか? 僕がここに連れてきます。何かしなければならないなら代わりにやります。だから……」

「そんな奴ぁいねえし、用事もねぇよ」

 横を見て苦々しく海堂が呟いた。尚も氷川が言葉を継ごうとすると、ノックが二三度響いた。

「氷川刑事、面会の方が」

「僕に? 誰ですか?」

「津上さん、と名乗っておられました」

 ドアを半分ほど開けて中を覗き込んだ制服姿の若い警官が告げると、氷川の表情がやや険しいものへと切り替わった。

「いいですか、すぐ戻りますから待っていて下さい。勝手に帰らないで下さいよ」

 念を押して氷川が足早にドアを出て行った。

 勝手に帰ろうにも、書記の警察官が部屋の隅で今の言葉を書き留めている。警察は嫌いだが、危害も加えられていないのに罪の無い彼を殴り倒してまで無理矢理出て行く気にもなれなかった。

 残された海堂は、傍らに置かれたままの丼に蓋をしてから、面白くなさそうに頬杖をついて横を向いた。

 

***

 

 以前、風谷伸幸の事件などで風谷真魚が何度か警視庁に氷川や河野を訪ねた際に使っていた、小さな会議室。そこで津上翔一は、ジャケットも脱がず立ったままで、氷川を待っていた。

「津上さん、お待たせしましたお久し振りです」

 ドアを開け早足で中に入った氷川が、一息に忙しない挨拶を告げると、翔一はにこりと、懐かしく変わらない、陽気な笑いを浮かべてみせた。

「氷川さん、お久し振りです。お忙しいのに済みません」

「構いません。こんな時に君が来たんだ、まさか僕の顔を懐かしんで世間話をしに来た、というわけではないでしょう」

「あれっ、何で分かるんですか? 氷川さん凄いなぁ、推理力に磨きがかかってますね。突然氷川さんの事思い出したら、顔を見たくなっちゃって」

「……は?」

 アンノウンが動きだしたとあれば、翔一の突然の来訪もその事と何か関わりがあるのかもしれない。そう考え、氷川は幾分緊張した面持ちで翔一に向かったが、答を聞いて思わず、素っ頓狂な声を上げた。

「なななな、何を言ってるんですか君は! 僕は今忙しい、非常に忙しいんです! 君と世間話をしてる時間などありません!」

「やだなぁ、冗談ですよ。俺だって忙しいんですから、わざわざ氷川さんと遊ぶ為だけに来る時間はないです。実は、調べてほしい事があって」

「君の冗談と本気は区別がつけにくいんです、真面目な話で冗談はよしてくれませんか!」

「はいはい、もう、相変わらずだなぁ氷川さんは」

 自分の何が相変わらずなのか、については、氷川は敢えて触れなかった。そんな事よりも、早く本題に入らなければならない。海堂からあまり目を離していたくなかった。

 先程まで海堂と向かい合っていた取調室とこの部屋は、そう離れていない。何かあればすぐに知らせは来るだろうが、落ち着かなかった。

「それより、何ですか、君が調べてほしい事とは」

「はい……あの、オルフェノクって、知ってますか?」

 珍しく、翔一はやや物怖じした様子で恐々と口を開いた。

 質問の内容に驚いて、氷川が小さく、えっと声を上げた。

 その時。部屋が強い震動に襲われた。地震ではない、揺れは一瞬で収まった。

 その後聞こえてきたのは、誰かの絶叫。氷川も翔一も、辛うじて転倒はせず、ややバランスを崩した体をすぐに立て直した。

「氷川さん! まさかと思いますけど、今、オルフェノクがいるんですか、ここに!」

「……君は、何を知って」

「それは後です、案内して下さい!」

 翔一に強く告げられて、氷川はやや躊躇ったが、結局頷いた。

 今すぐとは言わずともなるべく早くに、起こっていると推測される事態を収拾するには、翔一に頼るのが最も安心且つ確実な方法だった。

 二人は頷き合うと、やや焦ったように、もどかしそうな忙しない足取りで、ドアを出ていった。

 

***

 

 薄暗かった筈の取調室は、今は眩い陽光で満たされていた。

 海堂は壁を背にして、部屋の隅で怯えきった警官の進路を塞ぎ、覆い隠すように立っていた。

 テーブルは横倒しになり、行儀良く蓋まで戻したというのに、丼は床の上で粉々に割れていた。

 そして海堂の向かい、部屋の反対側には、白い鳥のような姿を持った人型の何かが、立っていた。またオルフェノクではない何か。氷川という刑事は確か、アンノウンと呼んでいた。

 この狭さでは、ドアまで走る間に確実に捕まる。ましてや、後ろの警官に走れなどと、今の様子では無理な注文だろう。

 ドアの向かい、採光窓のあった壁には、白い鳥に開けられた大穴がある。だがこの部屋は、残念ながら地上五階にあった。飛び降りるのは海堂でも無理があるし、後ろの警官など、下手をすれば潰れたトマトになってしまうだろう。

 この状況で残された手はたった一つ。スネークオルフェノクの本性をあらわし、白い鳥と戦う、それしか思いつかない。

「何なんだ、何なんだよお前ら! いいか、俺様はな、人間滅ぼそうなんて、今は思ってねえんだ、今度こそ寿命まで生きられりゃ、それでいいんだよ!」

 海堂が喚いても、白い鳥は、やはり返事を返さなかった。無言のまま右手を頭の上に翳すと、頭上に円盤状の白い光が――まるで天使の輪のように――輝き現れ、その中からずるずると、弓が引き摺り出された。

 海堂の胸に、躊躇いがあった。今ここで正体を晒せば、後ろの警官は海堂を化け物と認識するだろう。

 嫌だとか、腹立たしいとか、そんな気持ちもあるのかもしれない。だがそれよりはただ、単純に、辛かった。

 白い鳥がどこから出したのか矢を番えて構え、海堂はきつく目を閉じた。

 すると何故か、ドア側の壁が砕ける轟音が短く響いた。

「アギト……!」

 恐らく白い鳥の、低くくぐもった声。恐々目を開くと、ドア側の壁は派手につき崩されていて、もうもうと粉塵が上がっていた。

 その向こうで白い鳥は、金色と黒の、人に似た形をした生き物に、左手の弓を押さえられ押し合っていた。

「逃げて下さい、早く!」

 突然闖入した金色の生き物が振り向いた。その大きな瞳は深紅、立派な角が、額の上へと突き出て割れている。それなのに声は若い男のものだった。

 あまり驚きに気をとられてばかりいられる状況でもない。どうやらこの金色は自分たちを助けようとしてくれているらしい。それなら。

「わーった、頼む!」

 海堂は縦に一回大きく首を振ると、後ろの警官の手首を鷲掴んで、二体の異形の脇を擦り抜け、金色の方が開けた穴から廊下へとまろび出た。

「海堂さん、二宮さん、無事ですか!」

 廊下には、氷川が待ち構えていた。この混乱こそ逃げ出す絶好の機会だというのに、この期に及んでとんずらするチャンスを悉く潰されるとは、今日の海堂はよくよく運がない。

「何とか生きてらぁ。お前の言った通り、ここぁ、幾分は安全みたいだからな」

「面目次第もない。それよりこっちです、来て下さい」

 二宮と呼ばれた警官の手を引き摺りながら、海堂は氷川の背中を追いかけた。勝手の全く分からない警視庁の中の事、彼の後を追いかけるしかない。

 しばらく走り続けると、何人かの男達が廊下を走ってくる。男達はヘルメットや防弾チョッキで簡単に武装して、大振りの銃を肩に提げている。

「氷川さん、何事ですか!」

 先頭の男が叫んだ。彼は武装せず、スーツ姿のままの出で立ちだった。

「北條さん、アンノウンです。今津上さんが戦っていますから、恐らく心配はいりません。ここから外に引き離してくれると思いますから、G5部隊がアンノウンを包囲できるように、部隊の出動と付近への避難勧告、現状の監視を。僕は被害者を護衛して退避します」

 氷川の答えを聞くと、北條と呼ばれた男は顔色を変えて氷川を睨みつけた。

「何て事を……氷川さん、そんな事が許されると思っているんですか! ここは警視庁、何故上司である私に何の報告もないままアギトがアンノウンと交戦しているんです!」

「お言葉ですが、急を要する事態でした! 一歩遅ければ、被害者と二宮刑事は死んでいたんですよ!」

 負けじと言い返した氷川の剣幕に、北條はやや鼻白んだ様子で口元を歪めたが、すぐに何事もなかったように、表情を整えた。

「まあいい、その話は後です。だが……津上翔一、何で彼がここに?」

「僕に何か頼みたい事があったようでしたが、それはまだ聞いていません」

 北條は頷くと、携帯電話を取り出して操作し、何事か話しながら歩きだした。武装警官達も後に続き、アンノウンが金色と戦っている取調室へと、小走りに去っていく。

 氷川も駆け出し、非常階段の重い鉄扉を開いた。

「二宮さん、捜査一課の河野刑事に、僕が被害者と格納庫に向かったと伝えてくれますか。被害者といれば、別のアンノウンが襲ってくる可能性もあります、あなたは離れた方がいい」

 氷川の言葉に、やや生気を取り戻し始めた表情の書記が頷いて、海堂の手を離し、一礼を残すと走り去って行った。

 それを見送る間もなく、氷川は非常口を潜り階段を降り始めた。海堂もそれに続く。

「Gトレーラーの格納庫なら、未確認生命体の襲撃を想定して防御できる造りになっています、そこの方が安全な筈です!」

「何だか分からんが任せた!」

 階段を駈け降りながら氷川が説明をするが、海堂には未確認がどうのといった話は分からない。

「おい、さっきの金色、ありゃ何だ!」

「あれはアギトです!」

「だから何なんだよその、アギトっちゅうのは!」

「人が進化していく、無限の可能性、ですよ!」

「おいコラ、意味分かんねぇぞ!」

「人が目覚めた姿、僕には分かりませんが、オルフェノクもそうではないんですか!」

「そんな上等なもんかあれが、言ってみりゃゾンビだろゾンビ!」

 駈け降りながら話す為、氷川も海堂も自然に声を張り上げてしまう。吹き抜けの階段に二人の声が響いて、吸い込まれ消えていった。

 進化なんて馬鹿を言うなと、海堂は胸の内だけで思い、舌打ちをした。

 人の心に、進化に耐え得る強さなどないのだ。

 脆弱な心のまま体だけが人を超えて、バランスを崩す。

 滅びだけが待っている。いや、滅びなくてはならない。そんな存在の、一体何が進化だというのか。馬鹿馬鹿しくてもう、溜息も出ない。

 木場も結花も、巻き込まれ結局は押し潰され、あたら命を落としていった。何の為にどうして、そんな問い掛けに答えなどない事ももう分かり切っている。

 あんなに善良で優しかった二人が、(正当と思える理由さえあれば)人を殺すのにも、オルフェノクを殺すのにも、躊躇など無かった。

 人で言えば狂気の沙汰だ。夢を見失い自棄になった海堂は気狂いを装う事もあったけれども、そんな本物の狂気は、ついぞ持ち合わせる事が出来なかった。さりとて乾巧の様に、人だった者を殺める、同族を殺める罪を全て我が身に背負うなんて覚悟も、持てなかった。

 俺はただ、生きていたかっただけか。そう考えると、自分の生に意味も価値もないような心持ちを覚えてしまい、駆ける海堂の顔は暗くなった。

 彼の天命は音楽にこそあり、人を超えたからといって、失われたその夢は彼の手の中には帰っては来なかった。そういう意味では、海堂の二度目の生に、価値など生まれようもなかった。

 ただそれでも、海堂はそれなりに、日々を過ごしていたのだから。命尽きる迄は生きていたいというのも、偽らざる望みだった。

 アギトが何かは結局よく分からないが、進化なんてどうせ碌なものではないのだろうとしか思えなかった。

 かなりの階数を駈け降りた気がする。氷川が階段の脇にある鉄扉を引き開けた。

 地下と思われるその空間は、デパートの地下駐車場のように薄暗く、剥き出しのコンクリートの太い柱が等間隔で並んでいる。

 今は青いトレーラーが二台停められているだけで、他には車も何もなく、がらんとしていた。

「安全が確認できる迄、隔壁を降ろしてもらいましょう。こっちです」

 氷川がトレーラーへ向かい駆け出し、海堂もそれに続こうとする。だが二人は、やや走った後に唐突に足を止めた。

 道の先、コンクリートの薄白い柱の影から姿を見せたのは、昨日海堂を追い掛け回した異形に相違なかった。

「トレーラーまで、走って! 中に誰か居るはずです!」

 叫んで氷川は、拳銃を取り出し、素早く構えをとると、異形に向け銃弾を続けざまに二発放った。

 そんな攻撃が通用する筈もない。銃弾はアンノウンに届く直前で速度を失い静止してから、からんと音を立てて、打ちっぱなしのコンクリートの床に転がり落ちた。

「おめぇはどうすんだよ!」

「市民を守るのが警察の仕事です、いいから逃げて!」

「馬鹿かお前は! 殺されっちまうだろうが!」

「それでも僕は、あなたを、罪なんてないあなたを守りたいんです! 今ので気付いてくれたかもしれませんから、早くあそこから助けを呼んで!」

 言い合う内にも、アンノウンは歩を進め、距離を縮めてきていた。氷川は再度銃弾を二発放つが、先程と全く同じ光景が繰り返されて、銃弾が転がってからんからんと乾いた音を立てただけだった。

「バッカかお前は! いいか、俺様はなぁ、自分より弱い奴に守って貰おうなんざ、ちぃっとも考えてねぇんだ、すっこんでろ!」

 言う通りに従うのは面白くないと思った。海堂はトレーラーには走りださないで、氷川の前に進み出た。

「実力的になぁ、どう考えてもお前が、助けを呼んでくる方なんだよ」

「そういう問題ではありません!」

「お前が行った方が二人とも生き残れる確率が高かろーが!」

 二人が押し合いへし合って問答を続ける間も、アンノウンは速度を変えず、淡々と距離を詰めてくる。

 だが氷川は退かなかった。

「絶対に嫌です、僕はあなたを見捨てるみたいな事をしたくありません!」

「だーかーらー! お前が逃げた方が理に適ってんだっつうの!」

「そんな事関係ありません、あなたがしたくない事を、させる訳にいかない!」

 言って氷川が海堂の脇から踊り出て、また二発銃弾を放つ。二発の銃弾はやはり先ほどと同じように、ただ転がり落ちた。

「バッカ野郎、お前一遍死ね、死んでその愚かさを俺様に詫びろ!」

「僕はまだ死にませんし、あなたを殺させたりもしません!」

「寝言言ってんじゃねえ! バーカバーカ、このバカチンが!」

 海堂が氷川を口汚く罵っても、アンノウンは顔を覆った羽毛一つ動かすでなく、一定の速度で近付いてきた。

 終わった、もう終わった。そう思った。海堂はオルフェノクの姿をとったからといって、アンノウンとやらに勝てる自信は全くなかった。

 銃弾が効かないのではなく、体に届かないのだ。海堂の攻撃だとて、届く保証は一つもない。ぴりぴりと肌を刺す無言の殺意に気圧されるのを誤魔化すために、海堂は何かを言うには声高に叫ばねばならなかった。

 例えるなら北崎に感じていた威圧感に似ている。こいつら桁が違いすぎて勝負にならないんじゃないか。海堂の直感は我彼の実力差をそう告げていた。

 汗が浮き出てこめかみを流れ、首筋へと垂れた。やけに冷たい。氷川も動かない、いや、弾が切れて動くに動けないのだろう。

 狙われているのは氷川ではない。海堂が奴に向かっていったその隙に逃げ出してくれれば、恐らく助けを呼ぶ事は可能なのだ。

 海堂も腐ってもオルフェノク、そう簡単にやられたりはしない、と思う。どう考えてもそれが一番効率がいい方法だというのに、何故この男はそれをこうも嫌がるのか。

 気付けば目前まで迫っていたアンノウンが右手に提げた剣を構え直し、振り上げた。

「まだ俺ぁ、生ききって……ねえんだ、死んでたまるかバッキャローっ!」

 呻くような声が徐々に大きくなって、海堂は叫んでいた。その顔に浮かび上がった影は彼を瞬時に灰色の異形へと変化させた。強化された脚力で横へ飛んだ海堂は、ついでに氷川を横へ大きく突き飛ばした。

 倒れこみゴロゴロと二転三転してから、海堂は体を起こして、こちらへと向き直ったアンノウンを見据えた。

 こうなってはやるしかない。勝てるかどうかなど問題ではない。意を決して開いた右の掌に左の拳を叩きつけた。

 唐突に横合いから、ガチャガチャガチャと忙しなく、重そうな金属がこすれぶつかり合う音が響いた。そして、アンノウン目がけて横合いから轟音が響き、何十発もの銃弾が飛んだ。

 それらは全て届くことはないが、アンノウンの注意は海堂から横合いへと移った。

 ガトリングガンを構えているのは、青い金属のプロテクターに全身を包んだ二人組だった。

 直線的なプロテクターはややくすんだ青、眼の部分は大きく赤い複眼、何かのアンテナの用途なのか触覚のような銀色の突起が額から上に二本伸びている。左肩には金色で「G5」の刻印があった。

「嘗て我らを倒した『ただの人間』よ。汝に問いたい」

「……何だ!」

 雨のような銃撃を受けてもアンノウンは身じろぎもせず、氷川へと顔を向けた。突き飛ばされ起き上がった氷川が、それに答える。

「エノクが甦れば、人は我らが手を下さずとも死に絶えるだろう。それは我らが主の望む所にあらず。汝は人の滅びを願うか?」

「どういう事だ……、エノクとは何だ! 何故人が滅びる? そんな事を願う訳がない!」

 氷川が答える間に、銃弾は止んでいた。青いプロテクターの片方が渡した部品を、片方が組み立てる。何かのニュースで見たバズーカ砲ほどの大きさの銃器を、片方が肩の上に抱え上げてもう片方が後ろから押さえた。

「氷川刑事、退避して下さい!」

 まさかこんな地下の閉鎖空間であの物騒な銃器を使用しようというのだろうか。そういえば未確認生命体の襲撃にも耐えられるとか何とか言っていた、もしかしたらこの格納庫は、あんな武器を使用してもびくともしないのかもしれない。

 ごちゃごちゃと考えていては巻き込まれてしまう。海堂もあわてて踵を返し、その場から少しでも遠ざかろうと全速力で走り出した。

 着弾した弾頭が派手な音と爆炎を上げ爆発を起こした。後ろから追いかけてきた爆風に軽く吹き上げられて、海堂は地面に叩きつけられ、打ち所の関係か意識を失った。

 

***

 

 目を覚ますと、くすんだオフホワイトの、黒胡麻が入ったような模様をした、無愛想な天井が見えた。

 ぼんやりと回りを見回すと、知らない男が顔を覗き込んでいた。海堂は不審に思って、首を捻った。

「……誰だ、おめぇ」

「あ、大丈夫ですか、どこか痛い所とかないです?」

 男の声は聞き覚えがあった。あの、取調室で海堂を助けてくれた金色の声に、良く似ている。

「ここぁ、どこだ、誰だよおめえは」

 胡散臭そうに眉を寄せた海堂の表情など気に掛けた様子もなく、男はにこりと、実に陽気に海堂へ笑いかけた。

「良かった、大丈夫そうですね。ここは警視庁の医務室で、俺は津上翔一って名乗ってます」

「何で俺がこんなとこに寝てんだ、あの氷川って野郎と怪物はどうしたんだ」

「氷川さんは今、大目玉食らってますけど、もう少ししたら様子を見に来ると思います。海堂さんは、爆発に巻き込まれて、頭打っちゃったんでしょうね。気を失ってたんですよ。アンノウンはどっちも追い払いましたから、安心して下さい」

「追い払ったって……まるで自分がやったみたいな言い方してんな……」

「はい、そうですよ。俺は鳥の方だけですけど」

 津上翔一と名乗った男は、実にあっけらかんとした口調で、海堂の問いに当たり前のように答えた。

「は……? じゃあおめえ、さっきの金ピカの……」

「アギト、ですよ。あれ俺です。あの時は遅くなってすいませんでした」

 やはり当然の事のように翔一は、滑らかな口調で淀みなく答えた。

 まさかとは思っていたがまさか。

 流石の海堂も、ぽかんと開いたままの口を閉じるのも忘れて、呆けたように翔一を見た。

 人類が進化していく、無限の可能性としてとった、異形の姿。

 それが己の姿なのだと、何でこうも何の拘りもなさそうに、当然自然とでもいうかのように、口にできるのだろう?

 呆気にとられたまま暫く、海堂が翔一を無言で見つめていると、ドアがノックされた。

「津上さんすいません、遅くなりました、海堂さんは」

 ドアを引き開けて氷川と、北條と呼ばれていた男が医務室へと入ってきた。

「あ、海堂さんもう、意識戻ってます。大丈夫そうですよ」

「そうですか、良かった」

 翔一の答えを聞いて、呆気にとられたままの海堂に視線を移して、氷川は腹の底から安心したように、嬉しそうに笑った。

「あの爆発に巻き込まれて大した外傷もない、流石人間を超えた化け物なだけはありますね」

「……北條さん、そういう言い方はやめて下さい」

 氷川の抗議を、北條は鼻でふんと笑い、軽く流してみせた。

「そんな事より津上さん、あなたは氷川さんに何か頼もうとしていたそうですが」

「はい、お願いしたい事があって」

「聞けば、オルフェノクが関係している様子だ。それであれば、私は今氷川さんの上司として、アンノウンとオルフェノクの一連の事件を追っている。私にもあなたの話を聞かせてもらえますか」

 やや躊躇いがちに翔一が頷くと、北條はそれを見て満足そうに微笑んだ。

「……俺この前、ある人に会いました。その人の事は、すいません、今はお話できないんですけど、やっぱりアンノウンに狙われていたんです。その人が教えてくれたんです。オルフェノクには、王がいる、って」

「王……?」

 不審気に眉を寄せて翔一を見た氷川と北條に、翔一は軽く頷いてみせた。上半身を起こした海堂の顔が驚愕の色を帯び血の気が失われた事には、他の三人は気付かなかった。

「オルフェノクが、今は動けない王を復活させようとしてるから、アンノウンはそれを阻止するために動き出したんじゃないかって」

 続く話の内容に、氷川はふっと、目を細めた。

 アンノウンは氷川に言った。エノクが蘇れば人は死に絶えると。

 エノクが王を指しているのだとすれば筋は通る。だが、エノクとは、一体何だ。

「それで、王の居場所を探して、もし何か企んでるとしてそれを止められたら、アンノウンもまた静かになるんじゃないかって思うんです。王の体は、部下のオルフェノクが持ち去ったらしいんですけど、企みがあるなら人の出入りもあるはずです。それを、探してもらえないかと思って」

「……成程。津上さん、あなたの話は分かりました」

 翔一の言葉に、氷川ではなく北條が頷いてみせた。

「確かに、あなたの話ならアンノウンの動きも納得できなくはない。だが、何か企みがあるとするのは、些か強引ではありませんか? オルフェノクが何かそういう動きを見せたならともかく」

「……すいません、それもあんまり詳しく話せないんですが、ある人が三人組のオルフェノクに誘拐されそうになりました」

「誘拐、ですか」

「そうです。ただ人を襲うのが目的なら、誘拐なんてしない。オルフェノクには何か別の目的があるんです」

 答えを聞いて、北條はふむ、と鼻を鳴らし、やや考え込んで目を伏せた。

「北條さん、僕は、津上さんの言う通りオルフェノクの動きを探る事が、解決の近道になると思います。アンノウンの目的はオルフェノクを絶滅させる事、オルフェノク自体は以前から存在していたのに何故今なのか。不可解な点が多すぎます」

 横合いから氷川が口添えをして、北條は氷川をちらりと見てから、翔一へ視線を戻した。

「……分かりました。一応、上に諮ってみましょう。アンノウンは人の敵ではない事は分かっている。一方オルフェノクが人に害を為そうとする可能性は、考慮しなければなりません」

「ありがとうございます、宜しくお願いします」

 翔一が安心したように笑い礼を述べると、北條は気味悪そうな顔をして、やめて下さい、と弱く漏らした。

「とにかく話は分かりました。必ずしもいい報告が出来るとは約束出来ませんがね。じゃあ、行きましょう氷川さん」

「あ、はい。僕は仕事が残っているのでこれで。すいません津上さん、お願いします」

「はい、任せといて下さい」

 翔一が大きく頷くと、氷川と北條は一礼し、早足で医務室を出ていった。

「…………おい、おめえ、まさかあいつに会ったのか」

 今まで黙っていた海堂が突然口を開いて、翔一は、不思議そうに首をやや傾げて海堂を見た。

「あいつ……って、誰ですか?」

「まさか、あいつが生きてる訳ゃあねえ……乾がまだ生きてるなんて、ありえねえ」

「えっ……乾、巧さん? 海堂さん、お知り合いですか?」

 翔一の言葉に、やや俯いていた海堂はばっと顔を上げ、目を一杯に見開いて、血の気の失せた顔で、怪訝そうに首を傾げた翔一を、穴が開く程に強く見つめた。


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