仮面ライダーAGITO×AGITO feat. SPEC〜Shining Spirits are Awakening〜《完結》   作:田島

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 元々愛想の良くはない芦河の面には、眉の間に怒りの色さえ見えて、彼が普段と比べても不機嫌であろう事は見て明らかだった。

 だが、同道者は芦河から放出される強い不機嫌オーラにも一切動じることはない。そもそもそんな事に動じる相手ならば、今ここには居ないだろう。

 そう。彼に所謂「空気を読む」というスキルが備わっていたならば、芦河はこんなにも苛つく事はなかった。

 ここは東京都八王子市。郊外ではあるが、既に他界した母から芦河が受け継いだ小さな家は、西洋風の瀟洒な造りだった。

 玄関先から家の外壁を見上げて津上が、素敵なお(うち)ですね、と呟いた。

 仮にも誉められているというのに、逆に迷惑に感じる。普通ならば例え明らかなお世辞と分かっていても、多少は誇らしく嬉しく感じるものだ。ここまで嬉しくない賞賛というのも珍しい。

 返事を返さず鍵を開け中に入ると、津上も「お邪魔します」と小さく頭を下げてから後に続いてきた。

 どうしてこうなった。

 宿のない津上翔一に部屋を貸してあげてほしい。他ならぬ八代の頼み故に断り切れず渋々引き受けてしまったからだ。こんな状況になったのは芦河自身に責任がある。

 確かに自分自身の責任ではある。だが、どうにも腑に落ちない納得いかない。

 電灯を点けると、後ろから入ってきた津上が息を呑んだ。

 玄関から入ってすぐ横は広めのダイニングキッチンになっており、そこから、他の部屋に抜ける廊下や二階へと上がる階段が延びている。芦河が点けたのはダイニングキッチンの電灯だったが、津上が驚くのも無理はなかった。

 忙しさと面倒臭さから、芦河宅の室内の状況は、門矢士が手紙を届けに来た時点と大差が無い状況だった。

 つまり、埃に塗れ、蜘蛛の巣だったものが厚く垂れ下がり、あちこちにおかしなものが散乱したあの状況から、一切の改善がない。

 こんな所にはいられないという人並みの感覚を津上が持っていてくれれば。一縷の望みを託して芦河は振り返ったが、津上の瞳に宿っていたのは困惑や落胆ではない、強い闘志だった。

「芦河さん……あの、不躾だとは思うんですけど、お願いしたい事があります」

「他の所に泊まりたいんなら、八代に連絡する電話は貸してやる」

「いえ、そうじゃありません。俺、ここを掃除してもいいですか」

「はぁっ!?」

 驚きのあまりにひっくり返った頓狂な声が喉から飛び出た。何を言っているのかと文句を付けようとしたが、津上は今まで見たこともないような(もしかしたら、アンノウンと相対している時と同じ位)真剣な眼差しでキッチンを見回していた。

「失礼かとは思うんですけど、許せないんです……こういう汚れた部屋。もしかしたら、アンノウンと同じ位許せないかも」

 決然と言い放って、津上は芦河の返事を待たずに歩き出し、シンクの下の引き戸を開けて掃除用具を物色しはじめた。

 面倒なので放っておいただけで、部屋が綺麗になるのを止める謂われは芦河にはない。問題は、津上翔一がすっかりこの家に泊まる気だという事だった。

 

 三時間の後。

 霊か何かが出てもおかしくない程に埃が溜まり、電灯を点けても薄暗かったキッチンは、長い間この家に住んでいる芦河すら見た事もないほど整頓され、明るく輝いていた。

 更に、途中で芦河を足りない掃除用具と食材の買い物に出し、津上は掃除の合間に晩ご飯まで拵えていた。

 時刻は八時を回っている。やや遅くはあるが、白いご飯と豆腐の味噌汁、開いた鰺に豆腐とレタスのサラダという、簡素な夕飯が並んでいた。

 以前は芦河も自炊をしていたが、アギトに目醒めてこの方、生きる望みも半ば失って自暴自棄にもなっていたから家の荒れようも見た通り、まして食事を作るなど考えもしなかった。この家もたまには戻ってきていたが、料理など全くしていなかったから、これが久し振りの我が家での食事となる。

 それにしても驚くべきは津上翔一の、まるで手練の主婦のような鮮やかな手際だ。

 コック見習いを自称するだけあって、鍋で炊いたご飯はふっくら、味噌汁もいい味、鯵の焼き加減も適切でサラダのドレッシングも甘過ぎず程よい。

 この食事を作りつつ台所の掃除はほぼ完璧、トイレも磨き上げられている。

 そして津上は今夕飯を食べながら、明日からは本格的に家中の掃除を始めて、明日晴れさえすれば布団を干したいという話をしている。芦河が相槌を返さないのでまるで独り言のように。

「…………掃除をするのはいいんだが、お前は補欠装着員をやるんじゃないのか」

「えっ、勿論やりますよ。でもまさか、掃除も出来ないほど忙しいってわけじゃないでしょ? ここも大体片付いたけどまだ壁とか窓とか拭けてないし」

 どういう手順で掃除をするのかを思案しつつ期待に胸を膨らませているのだろうか。答えた津上の声は弾んでいる。

「忙しいんだよ! お前はG3‐Xの装着員の仕事を何だと思っているんだ! それに別に俺は掃除をしてくれとも食事を作ってくれとも頼んでない、余計なお世話だ!」

「うーん、やっぱりお節介でした? でも、綺麗になると気持ちいいでしょ? 何かこう、本当はそんな事全然ないんですけど、新しく生まれ変わったみたいな気分になって」

 にこりと笑って津上が言う。まるで、津上翔一には何か後ろ暗い所がありはしないかという芦河の疑念まで、笑い飛ばしてしまうかのように、曇りなく。

「……言いたい事は分からんでもないが、お前が当たり前のように俺の家の掃除計画を立てているのが気に食わん。お前は俺の母親か嫁か何かか」

「あっはは、まさかそんな。下宿代払えないですから、とりあえず下宿代代わりって事で……ダメ、ですか?」

「…………お前、何を企んでいる?」

 思わず口をついて出てしまった疑念。しまった、と芦河は考えたが、今更引っ込めようもない。津上はきょとんとした顔で、箸を持った右手も止めて芦河を見つめた。

「何……って、俺はとりあえず、帰りたいんですけど……。方法も分からないし、分からなくってもお腹は空くし眠くなるじゃないですか」

「しらを切るならそれでもいい。だが、もし何かあれば、俺はお前を許しはしない」

 厳しい目線で睨みつけると、津上は困惑して眉を寄せ、口を窄めた。全く心当たりも覚えもない、という態度だった。

 実のところ芦河は、左手にご飯茶碗、右手に箸を持って険しい顔をしている自分の説得力について、甚だ不安を覚えていたのだが。

 

***

 

 津上翔一の入班手続きは八代によって滞りなく進められた。考えてみれば、既に過去に小野寺ユウスケ・海東大樹という『別の世界からの旅人』を二人も入班させているのだ。芦河には分からない何らかの手立てを使っているのだろう。

 津上翔一は冗談は寒いが概ね真面目に訓練をこなし、本人の言葉通り、G3‐Xもそつなく操ってみせた。

 本人は「アギトの方がやりやすい」と例によって緊張感のない口調で呟いたが、そんな事は芦河の知った事ではない。

 気には食わないが、八代の気持ちを無碍にもできない。八代の心遣いそれ自体は、嬉しいのだ。気に食わないのは、津上という得体の知れないアギトが関与する事だ。

 自分一人で戦えるしそうしたい、気負いが芦河にはあった。津上がアギトとして戦えるのはこの目で見たし理解したが、こんなふにゃらけたいい加減そうな男に何ができる、分かるというだろう。

 見た目で判断している、偏見という自覚はあったが、芦河は津上への警戒心を、捨てる気になれなかった。

 アギトと化しアンノウン共に命を狙われ、異形の姿故に誰にも打ち明けられない。その苦しみを知る者が、アギトに対してこんなにも能天気でいられる筈がない。それは偏見ではあったが、芦河の中ではほぼ確信でもあった。

 あれから一週間ほど。芦河邸は見違えるほど美しくなった。勿論芦河は頼んでいない。だが津上は何故かやけに楽しそうに掃除をするので、止めるのも憚られたし、家が人の住む場所になるのに文句を言う理由もなかった。ほぼ強制的に手伝わされるのには辟易したが、そもそも芦河の家だ、本来は自分で掃除しなければならない。

 津上翔一はあまり中身の入っていない財布の他は何も持っていなかった正体不明の男だ。服も雑多な生活用品もない、給与が支払われる翌月までは彼は一文無し同然だから、芦河が貸してやるほかない。

 試用期間中という事もあり、津上はほぼ定時に退庁するが、G3装着員の訓練は厳しい。くたくたになるだろうに、帰れば夕飯を作りがてら洗濯機を回しアイロンをかけ、とにかく何かしら動き回っている。

 「貧乏性なんですよ、動いてないと落ち着かないんです」と本人は笑っていた。

 津上翔一はあまりアギトの話をしようとはしなかった。時折気紛れに話を向けてみるが、気乗りしない様子で話が続かない。

 その代わりに、彼が前暮らしていた家の話は聞きもしないのに独り言のように話し続けた。先生と真魚ちゃんと太一、先生は普段は酒を飲まないが絡み上戸だとか、真魚は服を脱ぎっぱなしにする癖を直してほしいとか、太一はレバーを避けてしまうので困るとか、実に必要のない情報に詳しくなった。

 芦河はまだ、津上翔一が何らかの思惑から芦河や八代の信頼を得る為に、この嘘の無さそうな朴訥な青年を演じているという疑いを捨てていない。

 海に浮かぶ必要は皆無だが、何かの目的でSAULに近付く、というのは考えられない事ではない。

 世界を見渡してみても、G3‐Xほど完成度の高いパワードスーツなど他に例がない、それだけでも十二分にSAULに近付く理由にはなる。

 だが、芦河の信頼を得ようという下心があるのであれば、この方法は採らないだろう。

 今は昼時、芦河と八代は今まで昼食は、食堂に行くか店屋物を取っていたが、津上が来て状況が変わった。

「いやあ、お腹空きましたねー」

「今日のおかず何?」

 津上が鞄から取り出した三つの包みがそれぞれに行き渡る。そう、今や、何故か八代の分まで三人分の弁当を、朝早く起きた津上が作ってきている。

 蓋を開けてみれば、玉子焼きにひじきの煮付け、いんげんのきんぴらに唐揚げ、キャベツの浅漬。

 こいつお母さんか、絶対お母さんだろう。そんな思いがこみ上げる。弁当の中身がどう考えてもお母さんだ。

 そもそも、八代淘子はもっとクールな女ではなかったか。彼女が優しい心根と熱い情を持っている事は勿論知っている。だが、少なくとも初めの内は、彼女はG3を開発した才女で気性が荒いせいもあり、話しかけづらい雰囲気があった。それが一体何で。

「うーん、このひじきおいしい! おばあちゃんのひじきの次においしい!」

「はははは、おばあちゃんにはちょっと敵わないですねー、でも中々のもんでしょ」

「ねえ、今度教えて。練習して実家帰ったらうちの母ギャフンと言わせてやるんだから」

「あっ、じゃあレシピ作って持ってきますね。他に何か知りたい奴ってありますか?」

 何故どうして、会ってから一週間も経たないこの胡散臭い男と、和気藹々と料理談義をしているのか。頭を抱えたくなった。

 更に腹の立つ事に、津上の弁当はそれなりに美味かった。

 美味しいと言って笑う八代を見て、津上が嬉しそうに笑う。眼前でこんな光景を繰り広げられて、芦河は一体どうすればいいというのだろう。面白くないに決まっている。芦河の歓心を得たいならこの方法は下の下策と言わざるを得ないだろう。

 

***

 

 日は暮れかけている。遮るもののない公園の広場を、緩やかな風が通り抜けていく。昼間の暑さに比べると、冷え込むとまではいかないものの、やや肌寒い。

 低い位置から差し込む陽光で陰った植え込みの裏から、その男は姿を見せた。男が死ぬのは何度か見ている、気味の悪さは消えないが、瀬文は気を取り直して後ろのベンチに腰掛けた。

 津田助広。この男は幾人もいる。パブリックドメイン――自らの命や歴史を組織と使命に捧げた者達が、この名前と顔を、共同利用している。

 『私が死んでも、代わりはいるもの』を地で行く存在だ。今横に腰掛けた彼が、会ったことがあるのか初対面なのかも、瀬文には分からない。

 彼らの所属する特殊能力者対策特務班警視庁公安部公安零課、通称『Aggressor』は、ミショウとは違い正真正銘存在を秘匿された部署だった。創設からずっと、スペックホルダーの存在を公にしないための工作を続けており、また彼らに対抗する為にスペックホルダーを懐柔し手駒としてきた。ミショウは公安零課の陽動という役割を担い創設されたらしかったが、その辺りの事情は瀬文がミショウに入るもっと前の出来事の為、把握していない。

「未確認に襲われたと聞いたが」

「……アンノウンだ。どうせ知ってるんだろう」

「知っているというには分からない事が多すぎる。例えば津上翔一、何者だあれは」

 津田の言葉に、瀬文は意外そうに眉を寄せて津田を見た。凡そ日本国籍を持つ者の事を、津田達公安零課が把握できないというのは考えづらい。

「SAULに海で救助されるまでの経歴は一切不明、連絡先として告げた住所と電話番号は出鱈目、そもそも戸籍上では、今日本に存在している『津上翔一』で、あの年代の者は存在しない。持っている免許証もおかしい」

「どうおかしい?」

「発行の日付が2000年だ。それから更新もしないで使えなくなった免許を持ち歩くのは、理屈に合わない」

 今は2009年、免許の話は初耳だった。瀬文が面食らってやや顎を引いてみせると、津田は俯いて目を伏せた。

「まるで最初から存在しない人間じゃないかと思える。何か聞いていないか」

「別に、何も」

 顎を引いたままで瀬文はしらを切ってみせた。実際瀬文も、話を聞いたところで、津上翔一の素性などさっぱり分からないのだから、あながち全面的な嘘をついているという訳でもなかった。

 津上翔一の話など、そのまま信用できる筈がない。別の世界から迷い込んだらしい、と本人から聞いたが、誰がどうすればそんな荒唐無稽な話を信用できるだろう。

 とにかくアンノウンは、アギトの力を持つ人間と未確認、つまり人間をはみ出して強すぎる力を持った者を標的にしている、という程度しか理解は届かない。

 神とかどうとかいう単語も耳にした気がするが、アンノウンとやらは粛正でもしているつもりなのだろうか。気に食わない。

 月並みだが、瀬文は無神論者だった。神という単語を口にした途端に津上翔一が胡散臭く見えてしまう程度には。

「まあいい。今日は忠告に来ただけだ。津上翔一のデビューは少々華々しすぎた。SAULがアンノウンと呼んでいるあれ、あれは何故か写真にも動画にも姿が映らないが、アギト単体のものは何枚か画像を入手している。一日に二度も、都心のど真ん中でいきなり人間でないものに姿を変えたんだ、マークされて当然だろう、勿論我々以外にも。彼は今その界隈では、ちょっとした有名人だよ」

「あいつはあんた達じゃない、SAULの管轄だろう」

「彼が未確認ならな。だが彼は何だ? 人間ではないのか?」

 問われて瀬文は言葉に詰まり黙りこくった。彼が何者かなど分からない、実際に目の当たりにしても信じられないのに、何が答えられるだろう。

 津田はだが、瀬文の返答になど興味はなかったのだろう、そのまま言葉を継いだ。

「それと、組織の動きがどうもおかしい」

「おかしい?」

「何者かが、多くの組織を統合して一つに纏めようとしている。彼らはそれぞれに目的があって組織を作っているのに、大した抵抗も見せずに併呑されている。ニノマエの時のように粛清もなくだ。こんな事は、今までなかった事だ」

「あんた達にも、不都合という事か」

 津田は無表情のまま答えを口にしなかった。そのまま立ち上がる。

「おい」

「忠告は終わりだ」

 振り向かないで津田は短い言葉を残して、ずんずんと歩き去って行った。

 勿論津田が真に衷心から忠告などしてくれるなどと思えるほど、瀬文の頭の中に花は咲いていない。要は組織統合の対処に忙しくて、一度はニノマエに壊滅状態に追い込まれて人手不足の零課は津上翔一にまで手が回らないから、ミショウで対処しろ、という事なのだろう。

 未確認は、人間とは異なる化物だからこそ、実際に相対しなければ他人事として処理していられた。だが津上翔一は、少なくとも普段の見た目は人間だ。

 人が人を超えていく力。今まで存在していたSPECとは異なる、その力に興味のある者は、いくらでもいるだろう。

 瀬文も立ち上がり、早足に歩き出した。

 

***

 

 とっぷりと日は暮れている、都心では夜の間も灯火が絶えることはないが、人の作った灯りが夜の闇を全て覆い隠し尽くせるわけではなく、そこかしこの片隅には吹き溜まりのように前を見通せぬ闇に包まれた箇所がある。まして都心を離れた住宅街では、光の届かない場所などいくらでもあった。

 未確認生命体対策班を訪れると、津上はつい先刻退庁し、帰宅したという。普段は芦河と車で出退勤しているが、今日のように芦河が残らなければならない仕事がある時には電車を使って帰る。八王子駅で降りてからバスに乗り二、三十分。それから更に十分ほど歩くらしかった。

 詳しい経路を訊こうとすると、さすがに芦河は訝しげに眉を顰めた。

「……なんで俺の家の場所をそこまで懇切丁寧に教えなえきゃならん。確かに津上は胡散臭いが、それはあんた達とは関係ないだろう。アンノウン関連の管轄はうちだ」

「関係ある、という情報が入ったからこうして動いている」

「どこの情報だ」

「情報源を明かせる訳がないだろう、だが確かな筋からだ。護衛が必要なのは俺じゃない、津上だ」

 芦河はむっとして目を細めたが、動じない瀬文を睨みつけて、息を一つ吐いた。紙を取り出して、線を引いていく。

「そこまで慌てるような相手か」

「そうだ」

 芦河が描いた簡単な経路地図を受け取って未確認生命体対策班を出ると、護衛の刑事を呼びつけて急ぎ車を走らせる。退庁時間と所要時間を考えれば、途中で捕まえられる筈だった。

 八王子に入り経路通りに車を走らせると、それらしき後ろ姿が歩道を歩いている。近くで車を停め、瀬文は早足で茶色い頭の後ろ姿に駆け寄った。

 後ろから呼び止めると、津上翔一は軽い足取りを止めて、振り返った。

「あれ……瀬文さん、でしたっけ? 俺に何か?」

 津上は着付けないスーツに身を包み、やや窮屈そうに見えた。着慣れないというだけではなく、着られない程ではないがサイズもやや小さいらしい。足首から靴下がやや覗いているし、ジャケットの肩周りもきつそうに張っていた。

「……どうでもいいが、似合わないな」

「あ、やっぱりそう思います? 俺も自分で全然慣れなくって」

 津上が照れくさそうに笑って頭を掻いた。袖が張って、腕も上げづらそうだった。

 よく考えなくてもこんな世間話をしている状況ではなかった。今の所おかしな気配はないし、瀬文についた護衛の刑事も背後のどこかに潜んでいるだろう。だが、いつ何が起こっても何も不思議ではない。

「よく聞け、お前は狙われているかもしれん。誰に、かは分からんが」

「えっ、何で」

「お前が、普通の人間にない力を持っているからだ」

 瀬文の言葉に、津上は不思議そうに首を捻った。心当たりがない、そういう顔をしている。自覚の薄さにやや長く息が漏れそうになるが、通り過ぎずに津上の後ろで立ち止まった二人の人影に気付いて、そちらを見た。

「おい、何か用か」

 黒いスーツ姿の二人の男は、瀬文に返事を返さないで、冷たい目付きのまま二人一様に両手を胸まで上げた。

「おい……!?」

「えっ、何、何です、か……!」

 どん、と大きな音をたてて、二人の周りのアスファルトが凹み割れた。足の裏が崩れたアスファルトにめり込んでいき、立っている態勢も保持できずに前屈みに膝と掌が地面に付く。頭を上げる事もままならない。目に見えない圧力が、瀬文と津上、二人の周りを包んでいるらしかった。

 後ろから駈け出してきた護衛の刑事が二人、ひしゃげた声を上げて倒れたのが聞こえたが、首を向ける事ができない。

「なん……なん、ですか……こいつ、らっ!」

「知ら、んっ!」

 津上も瀬文も潰れた声でやりとりするが、互いの姿を横目に見る事もままならない。アスファルトにめり込んだ膝と掌が裂けて、血が滲む。

 だが急に、二人にかかる力が消えた。押し返そうと込めた力の勢いで、瀬文も津上も背中から勢い良く倒れこんだ。

「ぐが……が、あ……」

 顔を上げてみると、黒いスーツの二人の首に、何か紐のような物が巻き付いていた。

 いつの間にかその向こうに姿を現していたのは、朱に染まった体色、髪の代わりに幾筋も幾筋も、うねる蛇を頂いた異形だった。

「アンノウン……」

 津上が呟いて瀬文が携帯電話を取り出した。だがすぐに、ごきりと嫌な音が響いて、首に巻きついた鞭を引き剥がそうと首元にかけられていた二人の黒スーツの腕は、一様にぶらりと垂れ下がった。

 鞭が戻り、ゴミ屑か何かのように黒スーツ二人の体はアスファルトに投げ出された。こちらを見るアンノウンを睨み返して瀬文は息を飲み、津上が構えようとする。

 場違いな音が高く響いた。固い靴裏がアスファルトを叩く足音が、一定のリズムで繰り返され近づいてくる。

 歩いて来たのは、まだ幼いと言ってもいい、少女だった。

 踝まで丈のある、黒いワンピースの裾をゆるりと靡かせて、彼女は歩み寄ってくる。細い月が照らした肌は目に痛いほど青白い。

 蛇のアンノウンは下がり控え、津上と瀬文からやや距離を置いて立ち止まった少女に向かって膝を付いた。

「真魚…………ちゃん?」

 ぼんやりと津上が呟いた。ちらと見やると、津上は驚愕に顔を歪め、いっぱいに目を見開いて、現れた少女を凝視していた。

 津上翔一でもこんなにも狼狽する事があるのだろうか。知り合いが目の前に現れたというだけなら、こうは驚くまい。

「どうしてあなた、私の名前を知っているの」

「だって、真魚ちゃんは、真魚ちゃんじゃない。こんな所で何してるのさ、危ないから早く逃げないと……」

 津上の声は震えて弱々しかった。まな、と呼ばれた少女は、津上の言葉に特段反応を示さずに、じっと津上を見つめていた。

 死人の顔だ、と瀬文は思った。死んだ直後の顔ではない、送り出す前の静かに整えてやった顔をしている。どんな苦痛に満ちた死を迎えても、目を伏せ整えてやると、死者は一様に、まるで心残りなど何もないような穏やかな顔になった。この少女はそんな顔をしている。

 生きていない。少女は目の前で歩き喋ったが、何故か瀬文の胸に、動かしようのない確信が生まれた。生気、と言えばいいのか。呼吸と熱を感じられない。

「私はマナだけど、あなたの事は知らない。あなたを迎えに来たの」

「迎えに……って、どうやって」

「歩いてきたけど」

 津上は力弱く首を横に振った。茫然自失、信じられないものを見るような目で、自身が「まな」と呼んだ少女を見つめている。

 話が噛み合っていない。名前は同じだが中身が全く違うものについて、齟齬を無視したままそれぞれ話している、そんな印象があった。

「こっちに、来て」

 静かな声がゆっくりと、澄んで高く響いた。少女の白い腕が、闇の中から伸び、差し出される。

 津上は呆然としたままだったが、躊躇しながらも右手を上げかけていた。

「おい……待て、死人に引っ張られるな!」

 瀬文は叫び、咄嗟に津上の頬に張り手を一発浴びせていた。はっと、目が覚めた様に津上は瀬文を見た。

「いきなり、何するんですか」

「あれはお前の知ってる『まな』じゃない、違うか」

 言われて、津上は戸惑って僅かに頷き、少女へと向き直った。手が握り返されない事に失望したのか、少女が差し伸べた右腕は下がり、闇に溶けた。

「お前は何だ、何者なんだ!」

 瀬文が鋭く叫ぶが、返事は返って来ない。

「こっちに来て」

「どうして」

「裁きを免れるため。アギトは罪だけれども、悔い改めれば、罪は許されるから」

 かつり、かつりと、硬く靴音が響いて近づいてくる。津上はふっと悲しそうに目を細めると、すぐにきっと前に向き直った。

「俺は、行かない」

「どうして」

「アギトは罪じゃない、裁きとか何とか、何があるのか知らないけど、いちゃいけない人なんていない」

 津上の言葉はきっぱりとしていた。だが、それを聞いた少女の表情は動かない。

「人は人であればいい、だから」

「そんなの、誰かに決められる事じゃない。それより真魚ちゃんがこっちに来ればいいんだ」

「あたしが……?」

 戸惑って、少女は微かに眉を動かして歩みを止めた。

 睨み合う間に、エンジン音が割って入る。

「動くな!」

 金属音と駆動音を喧しく立てて、ガードチェイサーから降りたG3‐Xがスコーピオンを構え歩み寄ってくる。

「おい、つが……み…………」

 だが芦河は、津上と瀬文のやや後ろで歩みを止めた。何かに驚いた様子で、言葉も止まった。

 それを見て、少女は踵を返す。控えていたアンノウンも立ち上がり、少女の後ろを守るように続いた。

「待って!」

「また、来るから」

 静かな声だけが残って、少女とアンノウンの姿は深い闇に霞んで溶けてしまった。

「そんな、筈は……ない」

 芦河の呆然とした声に、津上と瀬文は訝しげに芦河を振り返ったが、それ以上は何も言わないで芦河は、スコーピオンを右大腿部にアタッチし直すと津上の手首を取り引いて、歩き出した。

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