仮面ライダーAGITO×AGITO feat. SPEC〜Shining Spirits are Awakening〜《完結》   作:田島

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 奥多摩にある某山中。観光客や登山者も多く訪れる山だが、ひとたび登山コースを外れると、進むのにやや困難を伴う山道となる。

 昼過ぎに、その山の森の奥から、鳥の群れが一斉に飛び立った。

 鳥の気配に気付けた者は、人も獣も一斉にそちらを見た。渡り鳥の群れは黒い帯となって空を覆っていた。

 空気がざわついている。登山者が戸惑って脚を止めていると、狸か鼬か、小型の四つ足が足元を駆け抜けていった。

 何という事はない、偶にある事だ。山に慣れた者なら野生の小動物位は何度も遭遇する。だが彼は、何故かどうしようもなく落ち着かなくなり、天気が悪くなるかもしれないと不確実な理由を付けて、山を降り始めた。

 少しずつ徐々にだが、彼と同様に、他の者達も獣達も、山を離れ始める。

 何が、というわけではない。だが、長い時の中に野生の勘を捨て去ってきた人間にも察知できるほど、その気配は異様だった。

 何か見えるわけではないが、それは確かにいる。だがそれが何なのかを知ろうとすれば、潰されるだろうという確信が湧き上がる。

 無邪気な好奇心がむくりと頭をもたげるのも許さぬほど、強固な予感が恐怖を呼び起こした。

 これは知らない方がいいもの、遠ざかるべきもの。何も分からぬうちから胸の内で警報が鳴り響いて、人も獣も隔てなく、抗わずに逃げ出した。

 夕暮れには、低い雲が厚く空を覆って、山の辺りは激しい雨に見舞われた。

 ぬかるむ山道を奥に分け行ったなら、ある地点から点々と、打ち捨てられた死体が続いている。所々白骨化を始めているそれらは、人型ではあるが人間ではありえない異形達だった。

 奥に眠るものが、動き始めようとしている。その気配だけで、人や獣を無意識のうちに恐怖させ、遁走させるに十分だった。

 

***

 

 芦河は呆気にとられて、アンノウンが姿を消した角の奥を覗き込んだが、もう姿も気配もない。どうした訳か、アンノウンは自身に有利な状況が揺るがないにも関わらず、退却していった。

 芦河には狙われる理由がある。それなのに見逃されたのは何故か。他に何かもっと大切な目的があるか、または芦河の窺い知れない緊急事態でも起きたか、程度しか思い浮かばない。アンノウンに、アギトの抹殺に優先するような目的があるのだろうか?

『芦河主任、すぐに退却を』

 通信が入る。八代ではない、聞き覚えのない若い男の声だった。

「……誰だお前は、八代はどうした」

『自分は捜査一課の南条です。八代さんは車外に出ていたG3ユニットの隊員を連れ戻しに出たのですが……彼がアンノウンに連れ去られて』

「何? そんな筈があるか、あいつは……」

『本当です。アンノウンの追撃はせずに、戻ってきてもらえますか』

「……了解した」

 短く返答すると、芦河は踵を返してガードチェイサーへと乗り込んだ。

 スペックホルダー、とかいう奴等に津上が連れ去られたのならばまだ話は分かる。

 津上は、アギトとしての体と高い戦闘能力は持っているが、副次的に目覚める超能力については(あの不思議な、アンノウン感知能力とでも呼ぶべき感覚以外は)持ち合わせていない様子だった。もし芦河の居ない隙に何らかの超能力を用いて襲われたなら、対抗は難しいだろう。

 だが、彼がアンノウンに対抗できないとは考えづらい。どこまで本当かは分からないが、一年の間様々なアンノウンと戦ったと話していたし、実際にアギトの姿をとった津上は強かった。彼がアンノウンを前に戦わないで手を拱いて拉致されるなど、有り得るだろうか。

 暫く走ると、Gトレーラーはすぐに見つかった。付近には何台かのパトカーが到着していた。G3‐Xの接近を察知したのかトレーラーの後部ハッチが開く。

 ガードチェイサーを収容し、差し当たりマスクを外して、芦河はオペレーションルームの扉を開いた。

 八代はいた。いつもの席に腰掛けて、両肘を突いて頭を抱えて項垂れている。

「八代、どういう事だ」

 八代は芦河を見ないままで、首を何度か横に振った。

「あたしが捕まって、来ないと殺すって脅されたの」

「脅す……? 奴ららしくないな」

「分からないけど、津上くんは何か特別なのかも。少なくとも、あの女の子にとっては」

「女……」

「あなたも見たっていう、あなたのお姉さんにそっくりな子じゃないかしら。津上くん、知ってる様子だったし」

 八代は依然として顔を上げず、声は微かに震えていた。責任を感じて、自身を責めているのだろう。

 そっと肩に手を置こうとして、無骨な金属の音が鳴って、芦河は眉を寄せた。そういえば、芦河はまだこの鉄の鎧を脱ぎ捨てていないから、八代の肩に手を置いたところで、伝えたい気持ちは鉄の塊に遮られてしまう。

 眉の間に皺が寄る、こういつもしかめっ面をしていれば、確かに眉間には深い皺が刻まれてしまうだろう。だけれども、どう笑ったらいいものか、見当もつかなかった。

 アギトなんてものの為に沢山人が死んだ、と津上は言った。もう嫌だと、心底哀しそうに声を絞り出していた。ならば彼はなぜ、そんな事などまるで何もなかったように、能天気に笑っていたのだろう。あまりにも楽しそうに笑うから、つらい事など何もないように見えてしまう。

「お前が気に病む事はない。逆に考えれば、あいつはアンノウンに命は狙われてない、ともとれる。なら無事だろう。寧ろ、アンノウン共に捕まってる間はスペックホルダーとかいう奴等に狙われる心配も減るだろうから、却って安全かもしれん」

 慰めたいという思いはあったが、状況をいい方向に言い直すような器用な真似は苦手だったから、芦河は思いつくままの可能性を淡々と述べた。

「何でそんな事が言えるの、どんな目に遭ってるかなんて分からないじゃない!」

 声を荒らげて、八代がようやく顔を上げた。誰かを責めずにはいられないかのように、強い目線で芦河を睨み付ける。だが彼女が今責めているのは、自分自身の他にはいないだろう。

「殺すなら、お前を人質にとって抵抗できない所を殺すだろう。俺がアンノウンで、アギトを狙ってるならそうする。連れていくってのは、何か生かしたまま知りたい事があるからじゃないのか」

「それはそうだけど……」

「あいつなら大丈夫だろう、自分でなんとかする」

 自然に口から漏れた言葉だったが、八代は怪訝そうに芦河を見上げて、芦河自身も今自分の口から出た言葉の内容に違和感を覚えた。

 決して口から出任せでいい加減な事を言ったつもりはなかった。それにしては根拠があまりにも薄弱だが、何故かそうであるのが自然、という気がした。

 八代は暫く芦河の顔を眺めていたが、芦河が居心地が悪そうに口を歪めると、くすりと軽く笑いを吹き出した。

「津上くんも言ってた、芦河さんがいるから何も心配してないって。いつの間に、そんなに仲良くなったの?」

「馬鹿を言うな、あいつと仲がいいだとか、気持ち悪い」

「だって、お互いにとても信頼してるじゃない」

 そう言った八代の眼は穏やかに少し細められていた。

 あいつならなんとかしてしまうだろう。この根拠のない確信を、信頼と呼んでいいのだろうか。

 津上翔一は妙な男だった。冗談は寒いし空気は読めない。いつでも馬鹿みたいに翳りなく笑っていて、好きなものが沢山あった。

 キャベツも茄子もトマトもレタスも好きで、肉も魚も卵もチーズも、パンにご飯にうどんにパスタ、何を食べる時にも、これが大好きだ、これがおいしい、という話をされたような気がする。

 ここに来る前に彼が世話になっていた人たちの何気ない話、彼は前に住んでいた家で庭に菜園を作っていて、それは今はどこにも存在しないのに、天気の事をよく気に掛けていた。彼は好きなものの事を実に楽しそうに話して、芦河にとっては不要な知識ばかりがどんどん増えた。

 好きなものの話をすれば、笑顔になれるだろう。胸に思い描けば、穏やかで優しい思いが広がるだろう。

 これ以上疑う事はできそうになかった。彼は八代を守ってくれたのだ。芦河が、例え側にいられなくなっても守りたかった、かけがえのない人を。

 その恩に報いないで、その気持に報いないで、芦河は一体、どんな自分になれるというだろう。

「八代、頼みがある」

 真っ直ぐに立ち直して居住まいを正し、芦河が告げると、八代はふっと芦河の目を見つめた。

 きっぱりはっきりとした性格だから、無遠慮に真っ直ぐ目を見つめる。最初のうち、芦河は八代の視線が苦手だった。

 彼女は「目を逸らす事ができない」のだ。それが彼女の強さであり、脆さでもあると知ったのはいつだっただろう。折れそうになっても、彼女は目を逸らせない。だから。

「次もし、アンノウンが現れたら、俺は、アギトとして戦いたい」

 自分で思っていたよりは、穏やかに滑らかに言葉が出てきた。八代は目を大きく見開いて、ややびっくりした様子で芦河の目を見ていたが、やがてふっと目に込めた力を緩めると、笑った。

「一つ聞いていいかしら。どうして急に?」

「……津上が、言っていたんだ。変わるのは怖いけれども、俺は俺のままだったから大丈夫だ、と。もしそうなら、俺もきっと大丈夫だし、俺が大丈夫なら、これからアギトになる人達だって大丈夫になれる。そう思った。俺はもう、怖がるのをやめにしたい」

「そう……そうね、そうよね。あたしも、それがいいと思う」

「お前の作ったG3‐Xを、もう、怖がっている言い訳に使いたくないんだ」

「いいのに、そんな事。でも、G3‐Xは、他の人が使った方がいいわ。そうしたら、G3‐Xがあなたを助けられるもの。力を合わせられたら、きっと今よりずっと、楽になるから」

 八代の声は低く、囁くようだった。芦河はその声を、落ち着いて優しい声だ、と思った。

「怖くないのか」

「どうして。だってショウイチは、ショウイチのままなんでしょう。なら絶対大丈夫よ。あたし、あなたの事を信じてるもの」

 低く穏やかだけれども、確信に満ちた声。芦河は思わず訝しげな目線を八代に向けたが、八代の笑顔は揺るがなかった。

「世界中の人が皆怖がったって、あたしは怖がったりしない。何も変わってない、素直じゃなくて怖い顔ばっかりしてるけど、誰よりも真面目で不器用で優しい、あたしの大好きなショウイチだもの」

 八代は本当に、心から嬉しそうに、明るい笑顔を見せた。

 きっと、待っていてくれたのだろう。芦河はいつだって、八代を待たせてばかりいた。怖がって踏み出せず、怖気付いて。

 もし、例え芦河が自分で自分の事を分からないのだとしても、八代がきっと知ってくれているのだ。芦河ショウイチとは何者であるかを。

 そんな気がした。

 

***

 

 八代が自分の名前を呼ぼうとした、そう思った次の瞬間には、目線の先は知らない景色に切り替わっていた。

 前に向き直ると、知らない建物。二階建てで、ぼんやりと薄汚れた剥き出しのコンクリートの外装は、雨や風に削られたのか窪みや凹みが多い。

 しんとしていて、人の気配や温度が感じられない。脇に積まれた廃材に被せられた青いビニールシートは、端が破れてばさばさと風に靡く。

 マナは津上の手を引いたまま歩き出した。大人しくそれに従い歩を進める。

 一階部分は遮る壁がなく、広いスペースとなっていた。何かの作業機械がいくつも乱雑に放置されている。打ち捨てられ蜘蛛の巣の張った機材を摺り抜けて二階へ上がり、少し進んでマナはある部屋のドアを開けて入っていく。

 何の変哲もない部屋だった。白い棚に古びたベッド、小さなテーブルと背もたれのない丸椅子。窓にはカーテンがかかっていて、外の様子ははっきりとは見えなかった。

「ここから出なければ、好きにしてていいわ」

 言い残してマナは部屋を出た。外から鍵のかかる音がする。

 する事もないのでベッドに腰掛ける。ポケットには、連絡用にと貸与された携帯電話が入っていた。もしここに電波が届いているならこの場所を知らせる事は可能だろうし、そもそも、抜け出そうとさえ思えば障害を排除してこの場からいつでも立ち去れる自信はあった。だけれども、今はその時ではない。

 分からなかった。アンノウンはアギトを抹殺しようとしている。それなのに何故、自分だけは来るように言われたのか。それはもしかして、自分が、この知っているようで全く知らない場所に来てしまった事と関わりがあるのではないか。

 そして、真魚と同じ顔の彼女を無視する事は、津上には出来そうになかった。別の人間なのは分かっている、だが、何故アンノウンを従えているのか、それを知りたい。

 立ち上がってカーテンから外を眺めた。広い駐車スペースが塀で荒地と区切られている。背の高い草の生い茂った更地が続き、なだらかな坂に従って次第に木が増え、山へと続いていた。東京近郊としても、かなり奥に入った山の麓のようだった。

 来たからといって何が出来るのかは分からなかったし、どうなってしまうのか不安もあった。しかし、以前にマナと会った時に瀬文が発した言葉が、ずっと津上の気がかりになっていた。

 死人に引っ張られるな、と瀬文は言った筈だ。そして津上はその言葉を正しいと直感した。

 そして、芦河は有り得ないと言ったが、芦河の姉と同じ名前で同じ顔だという。もし彼女が芦河の姉ならば、二十年以上前に社会的にも死んでいる事になる。

 まなちゃんは生きてるのに、どうやったらまなちゃんはちゃんと生きられるんだろう。気付けば、そんな事を考えていた。

 彼女はいるべき場所にいないから死んでしまったのではないか。そう思えた。

 

***

 

 津田の死体が発見された、という事実を瀬文が知ったのは、昼を過ぎてからだった。

 ミショウのフロアに至るまでの廊下で、珍しくもない不審死の話が流れてきて、それがやけに気にかかった。(さしたる特徴がない、そして身元を確認する物を一切所持していなかったという)死体の特徴を耳にしてもしやと思い、踵を返して捜査一課に駆け込み、アンノウン関連の可能性が高いから未確認生命体対策班に回されようとしているところを、もしかしたらうちにも関係があるかもしれないから、と半ば強引に資料を頒けてもらってきていた。野々村が後ろから一緒に資料を覗き込み、難しい顔で唸っている。

 検死によれば、死因は喉を切り裂かれた事によるショック性の心不全。絶命した後に何故か、高い場所から落とされて地面に激突し、体中の骨が砕かれた。

 発見されたのは住宅街の道路。周囲に三階建て以上の高い建物はない場所で、ビルに換算すると二十階に相当する高さから落ちた様子だという。

 津田の遺体は、身元不明者のものとして処置されている。どうせまた新しい津田が現れるだけなのだろうが、何故津田が死んだのか。

 彼は確か、組織が不自然に統合している原因を探っている筈だった。しかし手口から見て、アンノウンによるもの、と考える方が妥当だった。何も無い上空から突然人間が落ちてくる、という事件は何件か報告がある。

 組織の統合にアンノウンが絡んでいるのか、津田がアギトだったから狙われたのか、それともその両方か。

 考えたところで分かる筈はない。そして一つ、どうしても分からない点があった。

 もし、組織の統合にアンノウンが絡んでいるのだとすれば、何故アンノウンはスペックホルダーの組織に関係しようとするのか?

 アギトの力を秘めている者を抹殺したいのであれば、組織の統合など必要ない、殺すだけの話ではないのだろうか。

 スペックホルダーを集めて一体何をしたいのだろう? これこそ、考えて分かるものでもなかったが、どうしても気にかかった。

「アンノウンはアギトを襲う。でもそれは何故か? 瀬文さんと津上さんが会った女性は、アギトは罪だからと言った、って言ってましたよね」

 当麻の言葉は唐突だった。関係がない、とも言い切れないが、津田はアンノウンに殺された、と断定する材料もない。繋がりが曖昧だ。

 それにも関わらず口にするというのは、何らかの確信があるからなのだろう。そういう女だった。

「言ってた。だが意味は分からん。大体アンノウンの目的がどうであれアギトが襲われる事に変わりはないんじゃないか」

「そうでしょうか? 何か原因があるなら、それを取り除けばアンノウンはアギトを襲う理由を失うんじゃありませんか?」

「どうとも言えん」

 口を曲げて、瀬文は書類を机にばさりと置き、無愛想に答えた。どうとも言えなかった。何か目的はあるのだろうが、それがどうもはっきりしない。

 パズルのピースが足りない、確かにそうなのかもしれない。今この場にいる三人が知りたい事――何故ニノマエの遺体が盗まれ、それが再び息を吹き返して歩いていたのか――について、繋がるピースがない。当麻にはある程度見当が付いているのかもしれないが、それは瀬文には分からない。

 唐突に、エレベーターの駆動音が響いた。事前の連絡はない。上がってきたエレベーターに乗っていたのは、芦河ショウイチだった。

 エレベーターから降りた芦河は、真っ直ぐに当麻目がけて大股に歩を進めてくる。意外な来訪者に驚いた当麻と瀬文、野々村は、ぽかんとしてその様を見守った。

「おい、俺の父親は一体何を研究していた」

 開口一番、芦河が言った言葉を、三人はやはりぽかんと聞いた。

「確かに親父が変わったのは海外出張に行ってからだった。そこで何を見つけたっていうんだ」

 早口に、荒い口調で一息に芦河がまくし立てる。当麻はその様子を冷ややかに見つめると、眉を寄せ口を尖らせて、女子高生がパパに甘えるような表情を作ってみせた。

「興味ない、って言ってませんでしたっけ?」

「事情が変わった。津上が奴等に連れて行かれた」

 切羽詰った芦河の早口からは、緊迫した状況が見て取れる。当麻も他の二人も芦河の次の言葉を待った。

「あの女はきっと俺の姉だろう、おかしいし認めたくないがあれだけ似ていればそう考えるしかない。そして俺の姉には、確かに少し変わった力があった」

「分かりました、分かってる事はお教えしますから。ええと……」

 芦河の剣幕にも動じないで、当麻は机の上に積まれた紙の束をひっくり返し始め、やがてその中から一枚の紙を引っ張り出した。

「まず、これです」

 乱雑に紙の広がった机の上に当麻が広げたのは、薄汚れた一枚の絵だった。絵とはいってもA4サイズの紙に印刷されたもののようで、つるりとした表面の光沢が蛍光灯の白い光を照り返している。それを眺めて芦河は息を飲んだ。

 奇妙な絵だった。余り芦河は詳しくはないが、昔教科書で見たような気もする。ルネサンス前の宗教画のような画風と色彩。

 向かって右に群衆、左には翼を持った獣のような人のような、それはそうだ、まるでアンノウンや未確認にも見えるものの集団。群衆と羽持つ獣は、互いに剣と盾を手にし戦っていた。上方には幾人かの天使が描かれ、画面中央やや上に、女に赤子を授ける天使の姿があった。その下に、胸に剣が突き刺さり堕ちる天使、大きな船。下方には船から降りて道を歩く人々。その中に紛れて、大きな赤い目と金の角を持った異形の姿があった。道行く人の手を引いているようなその姿は、未確認生命体第四号に似ているようにも思われた。

「何だ、これは」

「あなたのお父さんが、シリアで見つけた古い絵です。推定では六世紀か七世紀に描かれたもののようです。この絵は、絵単体ではなく、ノアの箱舟の話によく似た、とある伝承と一緒に伝わっていました」

 そこまで言って当麻は、隣の机の椅子を芦河に指し示した。話が長くなる、という事なのだろう。芦河は素直に従い、腰掛けて再び、食い入るように机の上の絵を見つめた。

 

***

 

 津上が入れられた部屋に、マナが再び現れたのは夜になってからだった。

 不思議な事に電気は通っているようで、暗くなる前に灯りは点けた。部屋に入ってきたマナは両手でトレイを持っており、テーブルの上に湯気の上がった深皿とスプーンを置いた。

「食事……持ってきたから、食べて」

「あ、どうも……ありがとう」

 礼を述べて、津上は椅子に腰掛けてスプーンを手にとった。明らかにレトルトのものを温めただけ、といった風情の白粥だった。

 病人じゃあるまいし、と半ば呆れるものの、出して貰えるだけ有り難いのかもしれない。いただきますと律儀に小声で挨拶をして、粥を掬って口に入れ、津上は難しい顔をして暫し黙り込んだ。

「…………あの、これさ、俺が作り直したら……駄目、だよね……」

「どうして?」

「だって美味しくないからさ」

 難しい顔で呻いた津上の文句を耳にして、マナは無表情のまま首を軽く傾げた。

「それが何か、問題なの?」

「大いに問題ありだよ。美味しくない食事は楽しくないし、ただのお粥じゃ栄養だって偏るし」

「分からないわ。私はいつもそれだけど、別に困った事はなかったから」

「いや、困るっていうかさ……うーん」

 スプーンを置いて、津上は腕を組んで首を捻り考え込んだ。暫しの時を置いて、何か思いついたのか破顔して面を上げる。

「そうだ、材料があったらさ、俺がマナちゃんの好きなもの何でも作っちゃうよ。何が好き?」

「……好き?」

「そうだよ。何か好きな食べ物あるでしょ?」

「…………分からない、そんなの、考えた事なかった。昔はあったような気もするけど、もう思い出せない」

「うーん、そうだなあ、真魚ちゃんだったらケーキとかパフェとか甘いもの……でもそれだとご飯じゃないしなあ」

 上げたばかりの顔をまた落として、津上は真剣な顔をして考え込んだ。不思議そうに津上を眺めるとマナは考えこむように目を伏せ、やがておずおずと目線を戻した。

「そういえば……一つ、思い出したわ」

「えっ、何何」

「私、チャーハンが好きだった。学校が休みの日に、お昼は家で食べるでしょう、お母さんが作ってくれるチャーハンが、とても楽しみだった。ような、気がする」

 抑揚のない口調で恬淡と、低い声でマナが呟いた。その様子を少し目を細めて津上は眺めて、言葉が途切れると、スプーンで粥を掬って口に運び始めた。

「……チャーハンなら、俺も得意だよ。お母さんのよりは美味しくないかもしれないけどさ、食べてもらいたいなあ」

「どうして?」

「どうしてって……そう聞かれてもなあ。料理作って、食べた人が喜んでくれたら嬉しいじゃない。俺もさ、休みの日のお昼にお母さんが作ってくれるチャーハン好きだったな。ちゃんと覚えてないんだけどさ」

 津上が拘りのない様子で笑うと、マナはまた不思議そうな顔をして津上を眺めた。

 暫く黙々と津上が粥を食べ続ける。皿が空になるころ、ドアをノックする音が二度響いた。

「マナ、もう食事は終わったかね」

 ドアの向こうから、やや太い男の声がする。マナはドアに向き直ると、相変わらず表情のない目を冷たく光らせて答えた。

「ええ、終わったわ。準備が出来たの」

「会われたいそうだから、連れてきてくれないか」

「分かったわ」

 マナの答えを聞くと、足音が遠ざかっていった。マナが振り向いて、目線で着いて来るよう促す。津上は残りの粥を掻きこむと、ごちそうさまと軽く手を合わせてから立ち上がった。

 部屋を出て暗い廊下を進む。電灯は点いておらず、床には埃が溜まり、所々で主を失って久しい蜘蛛の巣がだらんとだらしなく垂れ下がっている。

 暫く進むと突き当たりに出る。左側のドアを、マナは躊躇なく開けた。

 部屋の中は薄暗い。中央に椅子、壁際に背の高い棚が二つ三つ、窓には暗い色合いの遮光カーテンが引かれている。椅子の側に、男が立っていた。

「お待ちしていました」

 まだ少年と言ってもいいのかもしれない、若い男の姿には軽い既視感があった。黒いタートルネックに黒いスラックス、美しい顔立ち。だけれども彼の顔は、翔一が知るその人物とは全く別の知らないものだった。

「……俺に、何の用なんです?」

「あなたはここに来なければならなかった。あなたの存在が歪みを拡げ、混乱を大きくしている。あなたは、この世界に存在してはならない者だ」

 マナと同じような感情のない目で、冷たい声が淡々と事実を告げた。思わず息を呑んで翔一は、男の怜悧な面を言葉なく見つめ返した。

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