市街地を抜けると、秋の装いがいっそうはっきりと目に映るようになる。
燃え盛るようなイロハモミジ、柔らかな橙色のコナラ、艶やかなまでに色づいたヤマウルシ。フロントガラスに流れる風景は錦を着飾ったように華やかな色合いで溢れ、そんな山間の国道をのんびりと愛車を走らせている。
秋晴れの日差しは車のガラス越しには暖かそうだが、外に出るならば上着はしっかりと着込んだ方がいいだろう。なにせ外気温は5度しかないのだ。
晩秋の身延町――あともうしばらくすれば初霜が下り、山々の紅葉は真っ白な冠雪に取って代わられる。おおよその人にとっては外に出るのもつらい季節がやってくる。
けれど、キャンパーにとっては絶好の季節がやってくる。
やがてトンネルを抜けた辺りで富士山が姿を現した。写真の一つでも撮りたかったが、あいにくと運転中だ。ハンドルから手を離すわけにはいかない。山頂には雲がかかっているが、美しい富士の稜線が拝めないことは何一つ問題にならなかった。
「今日は雲でよく見えない……か」
一人そう呟くと何とも言えない笑みが浮かんでくる。誰か同乗者が居れば気色が悪いと眉を顰めたろうか。たとえそうだったとしても構わない。
何せ僕は念願だったあの”浩庵キャンプ場”へと向かっているのだから。
浩庵キャンプ場――
本栖湖のほとりに位置するその場所は、富士山を目の前に臨む眺望並びにウォーターアクティビティの拠点として非常に高い人気を誇るキャンプ場だ。風光明媚な自然を楽しむには申し分のないロケーションだが、それに加えてしばらく前に放送されたとあるアニメ作品がその人気をまた一段と押し上げた。
女子高生たちがときに仲間と、ときに一人で、様々なアプローチからキャンプを楽しむ様をゆるく描いた、『ゆるキャン△』という作品。
その中で主人公の「しまりん」こと志摩リンと「なでしこ」こと
ずっと訪れてみたいと思っていたが、残念ながら僕の住居はそこから600km以上離れていたため易々と足を運ぶわけにはいかなかった。いつもキャンプの候補地を探すたびに浩庵の名前が頭を掠めるのだが、移動だけで一日がかりなその距離にどうしても尻込みしてしまい、その機会を逃し続けていたのだ。
だからこの度の急な転勤で赴任地が山梨となったのはきっと天運だったのだろう。入居先での荷解きもそこそこにキャンプ道具を一式積み込んでやってきた最初の連休は、奇しくも作中でのしまりんと同じ11月の初頭だったというわけだ。
道中にあった公衆トイレを通りすがる。特に催しているわけでもなかったが、無性に立ち寄ってみたくなるのは巡礼者の性だろう。ちらりと横目で見たベンチには誰も寝てはいなかった。ここまでくればキャンプ場はもう目と鼻の先だ。
セントラルロッヂと書かれた建物でチェックインを行い、湖畔への道を下りて車を停める。ドアを開けた途端に本栖湖を渡る冷え冷えとした空気が出迎えてくれる。鼻の奥にきんと響くような冬の香を含んだそれを胸いっぱいに吸い込むと、そのまま小石の混じった砂利の岸辺を歩いて水際まで足を運ぶ。
微かに揺れる本栖湖の湖面はぼんやりとした富士の影を映し出していた。湖岸に打ち寄せる小さなさざ波が静かにリズムを刻む。周囲の落葉樹は色めき立って居並ぶ山々を紅に黄色にと染め上げ、その景色の中にあって白を湛えた富士山の姿はよりいっそう際立っている。
しばらくそうして辺りをじっと眺めていると、スマホとPCのモニターに馴染んだ両の眼がみるみると息を吹き返していくようだった。
この瞬間がたまらなく好きだ。
自然を愛してる。火を木を水を土を。それと同等に孤独である自分の生き方を愛してる――おっと、これは違う方か。
「貸し切り状態……シーズンオフ最高……!」
そうそう、こっちだ。
しかしまさかこの台詞を正しく使えるとは思いもしなかった。
辺りを見回しても周囲に他のキャンパーの姿は見当たらない。夏場のレジャーやBBQの客が居なくなるとはいえ、紅葉シーズンともあれば一年で最も快適なキャンプを行うのに申し分ない時期なのだからこれには驚きだ。辺境の地にある野趣に溢れすぎた野営場ならともかく、この有名キャンプ場でただ一人の時間を贅沢に過ごすことができるなんて滅多にあることではない。あまりにも出来過ぎている。
なんて素敵な週末だろうか。
早速好みのポイントにあたりを付けて車から荷物を下ろす。風も穏やかで絶好の設営日和だった。
しまりんに倣って簡単に体をほぐしていくと、徐々に身体が温まってくる。普段は周囲の目が気になるところだが、今日はそんなことを考える必要もない。
持ってきたTC素材のワンポールテントは一人でもあっという間に張ることができるスグレモノだ。カンカンとペグ打ちの音を響かせながら、しまりんはよくぞこの地面に石で立ち向かったものだと彼女の逞しさに思いを馳せる。幕体にポールを差し込んでガイロープを引けば三角形のとんがり屋根が立ち上がる。少したわんだけれど満足のいく張り姿だ。
それから袋から取り出したカーミットチェアをてきぱきと組み上げて火床の傍に置く。焚火テーブルは少しがたつくけれど、石を噛ませればなんとでもなる。シングルバーナーをセットして小さなケトルを置けば、こぢんまりとしたキャンプサイトは早々に出来上がった。
バーナーを点火してケトルを火にかける。白い湯気が立ち上るまでチェアに身を預けてしばし待つ。音楽を聴こうかと思ったけどやめることにした。かわりに目をつぶって辺りの音に耳を傾ける。
風の音。
枝葉が擦れ合うカサカサとした音。
湖面で魚が跳ねる。
国道を車が通り過ぎていく。
遠くからキジバトの鳴き声が微かに聞こえてくる。
バーナーの火が揺れる。
ふつふつとケトルの底が振動する。お湯が沸いたようだ。
ケトルの蓋を取ってそのままティーバッグを放り込むと、テーブルに置いたシェラカップになみなみと注ぐ。飲もうとして唇に触れた途端あまりの熱さに火傷しそうになったので仕方なくテーブルに戻す。今度、ダブルウォールの真空チタンマグカップを買おうかどうか真面目に検討に入る。
そんなことをしながら一人の時間をのんびりと過ごしていると、ようやく他のキャンパーがやってきた。時計を見ると14時を回っている。この時間帯であれば場内は既にテントで埋まっていてもおかしくはないのに、相も変わらずこの日はガラガラだ。先程の僕と同じように広く開放された湖畔を何やら見渡している辺り、思うことは一緒なのだろう。さぞやご満悦に違いない。
どうやらそのお客さんは若い女性のキャンパーであるらしい。そして珍しいことに、彼女は一人でやってきたようだった。
とはいえ今では女性のソロキャンプも決してありえないという程ではない。昨今のキャンプブームはファミリーキャンプ、ソロキャンプといったくくりだけでなく、大人数でのグループキャンプ、グランピング、ブッシュクラフトキャンプといったキャンプスタイルの多様化を生み出した。そして女子キャンプや女子ソロキャンプといった特集が組まれるようになってモデルケースが提示されると、キャンプ場では女性だけの姿も見受けられるようになる(そこにはゆるキャン△の存在も無関係ではないはずだといったら言い過ぎだろうか)。
彼女たちはウッドファニチャーにお洒落なネイティブ柄のクロスを被せ、ベジタブルスティックだとかカプレーゼだとか僕が決して作ることのない見た目にも華やかな料理をカッティングボードの上に盛り付けて、知り合いの誰それの友人の旦那さんについての噂話に花を咲かせる。あるいは一人でゆっくりと豆から挽いたコーヒーを淹れ、持ち込んだ文庫本の活字に目を通しながら仕事も家のことも忘れて優雅な午後をのんびりと過ごす。
そのいずれにも男一人のキャンプで陥りがちな野宿という言葉が示す野卑な感じとは縁遠いイメージが浮かんでくるのは、僕の勝手なステレオタイプの産物なのかもしれない。
それはともかくとして、新しいお客さんは僕のサイトからだいぶ離れたところを選択して設営を始めた。遠くから見えるあの張り姿はおそらくモンベルのムーンライトテント3型だろう。それもアイボリーカラー――しまりんと同じテントだ。コンパクトなローチェアを組み立てて座った彼女の様子は、まさに”しまリング”を満喫しているように見えた。
つまり、一人でゆったりと自然に浸りながら手にした本に目を落とし、文字を読むのに疲れれば温かな飲み物をちょっと飲んでまったりと景色を楽しみ、そしてまた読書に戻る。誰に邪魔されることもなく思い通りの時間を過ごす、理想的なソロキャンプの楽しみ方だ。
僕はその様子を遠目からうかがう。ゆるキャン△のファンの人だろうか。ちょっと気になりだす。
彼女が席を離れた隙に近くを通りかかるフリをしてキャンプサイトを眺めてみた。蝶々がアクセントのメイフライチェアに、質実剛健なアルミロールテーブルに乗せられたクリーンカンティーンのボトル。ウインドマスターにはしっかり四本の五徳が取り付けられている。地べたにほど近いロースタイルで構築されたサイトには、紛れもなくしまりんの装備一式が設えてあった。その完成度に思わず口笛を鳴らしそうになる。
きっと彼女はゆるキャン△を見てこれらの道具を揃えたに違いない。その気持ちは僕にも良く分かる。放送からしばらくは相当に悩んだものだ。結局は愛用の道具があったために諦めたのだが、なるほど、実際にやっているのを見るとまるでそこにしまりんがいてキャンプをしているような雰囲気が漂ってきて、なんだか不思議な心地よさが感じられた。
見も知らぬソロキャンパーにちょっとだけ親近感が湧いた瞬間だった。
――――――――――
本栖湖から吹く風は穏やかだが冷たい。日が落ちればよりきつい寒さが襲ってくるだろう。その前に焚火の準備を始めなければならない。
ありがたいことにこのキャンプ場では落ちている薪を拾い集めて利用することができる。もちろん自前の薪を用意してはいるが、現地調達もそれはそれで楽しみ方の一つだ。今日の閑散とした場内なら薪拾いをしても迷惑にはならないだろうと、乾いた枯れ枝を探すためにサイトを後にして木立の中へ足を踏み入れる。
松林を散策していると視界の中をちょろちょろと駆けまわるものがいた。ふわふわとした冬毛をまとったニホンリスだ。野生のリスに出会うのは初めてのことだった。丸々としたドングリを抱えて松の木を軽々と登っていく姿を目で追いかける。彼らも冬に備えて脂肪を蓄えるのに余念がないのだろう。僕も夜に備えて薪を集めなければならない。「お互いに頑張ろう」と僕はリスに向かって小さく手を振った。
人がいないからか、そこかしこに手ごろな枯れ枝が落っこちていた。太いのから細いのまでまんべんなく拾い集めていく。それから忘れてはいけないのは焚き付けだ。松ぼっくりは自然の優秀な着火剤。傘の開いた大ぶりの物をいくつか拾う。それと茶色くなった葉のついた松の枝先も。少し煙は出るがこれもよく燃える。
枝を踏む音がして僕はふと前を向いた。すぐ近くに女性がいた。足元ばかり見ていたから接近に気付くのに遅れたのだろう。それは向こうも同じようで、意外そうに顔を上げると小さく会釈をしてきた。たぶん、お隣キャンパーさん――しまりん装備の持ち主なのだろう。
けれどその姿を見て僕は息をのんだ。若い女性だとは思っていたが、僕の想像以上に若かった。おそらく高校生くらいだろうか。下手をすればその身長を見て小学生かと勘違いしそうになるが、流石に小学生がソロキャンプをしているということはいくらなんでもありえないだろう。髪の毛を頭上でお団子状に纏め上げ、灰色の長いストールを羽織っている。その姿に僕は見覚えがある気がした。
そんなことってあるんだろうか? 念願の本栖湖に来て浮かれているせいで、あるもの全てがゆるキャン△に関連して見えているのだろうか? このときの僕はあまり冷静ではなかったのかもしれない。けれど、僕にはどうしても彼女がそうだとしか思えなかった。
しまりんだ。彼女はあまりにも志摩リンにそっくりだったのだ。
驚きで硬直しかかった僕に彼女は訝し気な視線を向けてくる。僕は慌てて「こんにちわ」と会釈を返す。なるべく落ち着いて、声が震えないように出来ていたか、はっきりいって自信はなかった。
そのまま挨拶だけを交わして何事もないようにすれ違う。何度か僕は後ろを振り向いた。十分に薪を集めた彼女はサイトへと戻っていくようだった。見間違いではないのだろうか。あるいはコスプレイヤーさんか。狐につままれたような気分で僕もまた自分のサイトへと戻った。
――――――――――
夕焼けが一瞬だけ富士山を赤く染め上げると、次第に闇が本栖湖を覆っていった。人のいない湖畔に明かりは少なく、夜空の星が良く見える。
ランタンに火を入れる。ガスカートリッジを接続してツマミを回せば、マントルが輝いてオレンジの光が明るく辺りを照らし出した。ぱちぱちとはぜる焚火に当たりながら三本目になる缶ビールを開ける頃には十分に腹も満ち足りた。後は焚火と宵の景色だけが肴だ。
ちらりと遠くの光源に目をやれば、同じく焚火とランタンの光。けれどその明るさは僕のサイトに比べると幾分かは暗い。
結局、今晩宿泊するキャンパーは僕と彼女の二組だけだった。おかげで場内はしんと静まり返っている。僕のサイトも彼女のサイトもひどく静かだからだ。焚火の音とガスの燃焼音、テーブルの物を取ったり食事したりする音以外に発するものは何もない。けれどその静けさが他の何にも代えがたく心地よい。ソロキャンパーとはそういうものだ。
そうして暫く夜の雰囲気を愉しんでいるうちにふと尿意を催したので、トイレに行こうと立ち上がる。
しかし場内のトイレまでたどり着くと、なんとそこには張り紙がしてあって故障中の三文字が表示されていた。なるほど、これではいったん外に出て道路沿いの公衆トイレまで向かうしかないのだろう。
スマホの明かりを頼りにして僕は暗い坂道を上り、出入口を封鎖している鎖に引っ掛からないよう乗り越える。そう、なでしこが足を引っ掛かけた例の鎖だ。あんな転び方をしてよくもまあ無事だったと思うが、現実にあんなことが起きれば骨折さえしかねない。無論酔っ払いは注意を払うべきだろう。そのまま公衆トイレまで歩いて、恙なく用を足す。
手を洗ってトイレから外に出たところで、僕は周囲を軽く見回してみた。
街灯に照らされた路上にはどこにも人の姿はない。「あんなことがあったのだから、今度はもしかするとなでしこに遭遇するかもしれない」、そんな考えがなかったと言えばウソになるが、どうやらただの妄想で終わったということらしい。
どこかがっかりしている自分に気付いて苦笑する。考えてもみれば昼間来た時にベンチでいびきをかいている女の子なんていなかったのだ。あれは漫画だから許されるのであって、そもそも実際にそんなことがあれば誰かしら声をかけるだろうことは想像に難くない。それでも少し期待してしまうのは……ちょっとばかり酔いが回り過ぎたのだろう。
早くサイトに戻ってキャンプの続きをしようと、そう思って踵を返したときだった。
いた。
何の気配も感じさせず、いつの間にか彼女はそこに立っていた。街灯とスマホの僅かな光で照らし出された人影が、さめざめと涙を流しながら必死の形相でこちらを見つめている。その姿は一瞬、まるで幽霊か何かのように見えて僕の心臓を怯ませる。
たまらず叫び声を上げそうになったが、すんでのところで抑え込めたのは幸いだった。なにせ相手は女の子で、こちらはいい年をした男なのだ。脱兎のごとく逃げ出したりするのもされるのも外聞が悪いにも程がある。
それに、曲がりなりにもこういうことがあるんじゃないかと予想はしていたのだ。それがたとえ酔っ払いの戯言じみた下らない妄想だったとしても、心構えがあるのとないのでは随分と違ってくる。
きっとそうなんだろう。
ここにきて僕は確信した。本来の姿とかけ離れてはいるが紛れもなくこの夜は”彼女”と”彼女”の出会いの一夜――それを模している。
どうしてなのかは分からない。現実なのか、空想なのか。その境界は定かではないが、けれどもきっと僕は居合わせてしまったのだ。
ふじさんとカレーめん――
その世界に、今僕は触れている。