無と無限の落とし子(にじファンより移転)   作:羽屯 十一

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第参章 8 マキリ (Fate編)

 

 朧月が照らす夜。

 

 冬木の街でも指折りに大きな屋敷に一つの影が忍び込もうとしていた。

 

 

 屋敷に掲げられた表札は間桐(まとう)。

 冬木に存在する魔術師の家系であり本来の呼び名はマキリ、聖杯戦争のシステムを作り上げた三家の一角である。水の属性を持ち、魔術は吸収や戒め・強制といった他者からの略奪に限定される業を得意としている。

 しかし間桐という血族自体が魔術師として限界に達しており、世代と共に魔術回路の減少が顕著になりここ数十年でめっきり衰退した。数代前から魔術刻印の継承すら行われていないらしい。

 現在は隠居した六代前の当主・間桐臓硯(まとう ぞうげん)が魔術師としての能力を残しているばかりで、同じく三家の一角であり、冬木の魔術的管理者である遠坂家から二女である遠坂桜を後継者として譲り受けている。

 

 情報を今一度思い返しながら、影は足音一つ立てず玄関まで滑るかの如く辿り着く。微かな月明かりに辛うじて黒尽くめである事が見て取れる。

 幾つかの礼装を確認し、そっとノブに手を触れる。

 この家は五百年以上続いた魔術師の家系の工房。正規の入り口ならば侵入者を拒みはしないが、入った者を逃がさず確実に殺す為の仕掛けは、それこそ腐るほどにあるだろう。

 

 罠や魔術的な仕掛けを注意深く探査しながら扉を開く。

 施錠は成されていない。

 と、

 

「このような夜中に人様の家に忍び込むとはの。この家に何用がおありかな?」

 

 暗がりから声が響いた。

 影が僅かに重心を落とし次の行動に備える。

 視界を巡らせた先、差し込む月光の届かぬ闇に沈み、一人の老人が立っていた。

 どれ程の年月を生きたのか、やせ細った小柄な身体に杖を突き、皺に埋もれ果てた顔の中に炯々と不気味に光る目が此方をねめまわしている。

 

 ピッ!

 

 影の腕が翻り、月明かりを弾く煌めきが老人に向かって疾走する。

 宙を奔った銀光は過たずその胴体に吸い込まれ、

 

「カッカッカ、年寄りにいきなりこの仕打ちとはの」

 

 何の痛痒ももたらす事はなかった。

 

 小さく響く舌打ち。

 滑るように前進する影をあざ笑い、老人は闇に溶ける様に姿を隠す。

 

 姿は見えず。しかし濃厚な、人間とは明らかに違う気配は消え去っていない。

 

 

 ”下……”

 

 影は静まり返った屋敷を素早く、しかし慎重に調べてゆく。

 

 やがてとある一室に隠された階段を見つける。

 光の差さぬ地下へと続くものでありながら、その通路に照明は見あたらない。

 常人ならば降りる事叶わぬ暗闇。

 にも拘らず、影は躊躇う事無くおぞましい気配を追い、黄泉への入り口にも見えるそこへと踏み入った。

 

 

 まるで死者の行き着く先、根の国へと続くかのような闇を降りてゆく。

 階層にして二層ほど下っただろうか、段が途切れ、僅かな足場の先に扉が現れる。

 

 影はその向こうにあの奇怪な老人が居る事を気配で察し、躊躇う事無く、しかし最大限の警戒と共に扉を押し開け、踏み込んだ。

 

 そこは深いプールの様でもあった。

 内装も無くコンクリートが剥き出された四角い部屋。

 僅かながら光源が壁にとりつけられ、弱弱しく暗闇を薄めていた。

 扉からは降りる為の階段が続き、壁際に一段高い段差が通路となっていた。

 その下の壁面には黒々とした穴が複数口を開けている。

 地下施設などに必須の通風孔とも考えられるが、薄弱な光ではその穴の中は知る事は叶わない。

 

 床へ通りきった影の、黒尽くめの人物の視線の先に先程の老人が立っていた。

 

「わざわざ追ってくるとはのう。愚かなやつじゃ」

 

 杖と床に一つ突き、ニマリと嗤う。

 

「御主に儂を殺す事などできぬぞ。おとなしく儂の問いに答えれば生かしておいてやろう。貴様はどこの手の者じゃ? 聖杯戦争のマスターか? それとも協会か? はたまた聖堂教会か?」

 

「…………」

 

 影は答えない。

 唯一、黒衣に覆われていない目元は鋭く視線を巡らせ、この空間に脅威となる仕掛けが存在しないかを探り出してゆく。

 

「どうした、さっさと答えぃ」

 

 皺に埋もれた口から苛立った声が発せられる。

 影はそれに頓着せず、胸中にて結論を出す。

 ”仕掛けは無い”と。

 仮に壁の穴から何らかの攻撃が加えられようと、自身の攻撃が確実に先に届くと。

 

 シッ

 

 鋭い呼気が漏れる。

 黒尽くめの身体が瞬き一つの間に老人へと迫る。

 

 っ、シッ、フッ!!

 

 着物に包まれた胴へ二発、頭部へ一発、凄まじい拳速の拳が叩き込まれた。

 老人はそのあまりの速度に声を発する間すらなく一方的な蹂躙を受ける。

 胴が湿った音を立てて骨など存在しないかのように折れ曲がり、最後の一撃で頭蓋を破砕され壁まで吹き飛んだ。

 

 壁にべったりと体液を磨り付けながらずるずるくずおれるのを見て取り、影はその腕を下ろし一つ息をつく。

 しかしそれも老人の死体がどろりと崩れ去るまで。

 

 くずり

 

 叩き潰され変形した頭部が、奇怪な角度に捩れ折れた胴が衣服の内で、まるで肉体が脆い土くれだったかの如く崩れ去る。

 

 影は異変に気付くやいなや遅滞無く飛び退る。

 露出した瞳が細められる。

 今や死体は人間の形すらなく、崩れた黒い何かは床へと広がっていた。

 

 きぃきぃ、きぃきぃ

 

 暗い穴倉に小さな泣き声が響く。

 

 ぞわぞわと蠢いている何か。

 壁際の暗がりから這い出して来たのは”蟲”。

 およそ見たことが無いような奇怪な生き物だった。

 蚯蚓と御伽噺に出てくるワームを足して二で割れば出来上がりそうな醜悪な外見。

 それが何百と暗闇で蠢動していたいていた。

 しかも、それだけではない。壁の穴からも、入って来た入り口からも、まるで黒い汚水が流れ込むように侵入してくる。

 雪崩を打って地下室へと入り込んでくるその数は、もはや万を超えるだろう。

 正視すれば吐き気すら催す光景に影の目元が歪む。

 

 ここに至って脱出するには空でも飛ばない限り、あの蟲の海を渡らねばならなくなった。

 

 

「クカカッ、儂を殺す事などできんと言ったであろう」

 

 しゃがれ声が嘲る。

 音は地下室に反響し、発生源は人の耳では捕らえきれない。

 そもそも蟲へと崩れ去った身体を見てなお、あの奇怪な老人が人のまま(・・・・)隠れていると思うのは楽観だろう。

 あれが蟲を使った身代わり人形ならまだ良い。

 最も厄介なのは老人、いや、妖怪と言っていい存在がとうに人間をやめ、蟲そのものになっている場合だ。往々にして延命を繰り返し年を重ねた魔術師は、妄執の塊になった挙句に人間をやめる輩が多い。

 その場合、殺害には対象を完全に滅す必要があるが、これだけの数を閉鎖空間内で殲滅するのは難しく、それも例えやり遂げたとして、あの妖怪が他に”保険”をかけていない筈が無い。

 

 じりじりと迫る黒い波に囲まれ、影は地下室の中央へと追い詰められる。

 黒く波打つなかに、コンクリートの灰色が小さな小島となって残されていた。

 

 絶体絶命。

 事、ここに至っても、影は命乞いどころか唯の一言すら出さない。それどころかまだ抵抗しようというのか、素早く手足に指を滑らせ何かを描き、背負った筒の蓋を取り去る。

 

「どれ、自分で言えぬのであれば、儂が御主の身体から直接(・・)聞き出すとしよう」

 

 その声を引き金に徐々に距離を詰めていた蟲が、逃げ場のない愚かな獲物へと一斉に飛び掛った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は殆んど使われない自室のベッドに寝ていた。

 もう随分こうしているのに眠れない。

 

 原因は分かっている。

 

 兄が死んだらしい。

 今日の朝食でお爺様が言っていた。

 

『桜、あの出来損ないが衛宮の小倅に挑んで死におったらしいわ。ライダーも何処へ行きおったか判らん。つくづく使えん奴じゃったわい』

 

 先輩は無事。私はそれが嬉しい。

 兄が死んだ事を悲しむよりも、先輩の無事を安堵する気持ちがずっと強かった。

 

 あの人が、兄が優しかったのは昔の話。

 いつからか酷い事ばかりをされるようになり、それが先輩の耳に入り、あの出来事が起こった。

 その結果、先輩は弓道部を追い出され、兄はますます歪み影で私に当たった。

 

 私は兄が嫌いだ。

 私を殴る兄が、私の身体を好きにする兄が、先輩に酷く当たる兄が嫌いだった。

 それでも昔は優しくて好きだった人が死んで、それなのに何も感じない自分。

 

 あの暗い蟲蔵に篭る度に私がどんどん無くなって、もう残っているのは先輩が好きという気持ちだけだった。

 幼い頃から続く蟲に心を、身体を犯される日々。

 夜毎に蟲に仕え、身体を苗床とされ、魔力を捧げ、そしてお爺様自身の蟲にも身体を犯された。

 全身の神経は長い間蟲倉で刻印虫に蝕まれ、もう一体化してしまっている。

 そして心臓すらも、お爺様が巣食っている。

 

 後継者なんて嘘。

 私はお爺様と蟲を生かす為に魔力を捧げ貪られる贄。

 

(やめよう)

 

 諦め、諦観。

 そういったものがいつもの様に汚し尽くされた心と身体を満たす。

 

 今まではライダーが居てくれた。

 でも、ライダーも私を置いて何処かへ行ってしまった。

 私はこのおぞましく冷たい家に一人。

 

 もう眠ろう。

 現実は辛過ぎるから……

 

 

 

 

 

 

 

「サクラ。起きて下さい、サクラ」

 

 誰かが私の身体を揺すっている。

 この声は――

 

「ライダー? もう朝……、っ!?」

 

(ライダーの声!)

 

 慌てて飛び起きる。

 まだ私が眠りに落ちてそう長い時間は経っていないみたい。

 部屋の中は真っ暗で、窓から差し込む月明かりが(かろ)うじてライダーの紫色の髪を照らしていた。 

 

「ライダー無事だったの!?」

「はい。心配をかけました」

 

 涙が零れそうになった。

 ライダーが生きていてくれた。

 

「サクラ、すみませんが時間が無い。何も聞かず私に着いて来てくれませんか」

 

 泣きそうな私を気遣って手を握ってくれたライダーが突然そんな事を言う。 

 こんな夜中にいったい何処へ?

 何故そんなことを言い出したの?

 

「ライダー、貴方の今のマスターの指示?」

 

 もしもそうだとしても、ライダーが私を傷付ける事はきっと無い。

 ライダーもこんな言い方はしない。

 

「すみません」

「わっ」

 

 本当に時間が無いのか、ライダーがパジャマのままの私を抱き上げる。

 

「まって、せめて着替え」

「いきます」

 

 ばんっ! と開かれた窓から夜の暗闇へ飛び出す。

 

(二階なのに!)

 

 英霊の身体能力は知っていても、抱えられている私は唯の人間。

 落ちてしまえば怪我もするし、下手をすれば死んでしまう。

 死んだら先輩にもう会えない!

 必死でライダーに抱きつく。

 

「そのまましっかり捕まっていてください。急ぎます」

 

 声と共にぐんとライダーのスピードが増す。

 

 何処に行くのだろうという不安はあった。

 けれど薄着一枚に夜の空は肌寒く、駆ける内に不安どころではなくなってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ナノマシン群総数、目標値へ到達。

 対象、間桐邸を完全に勢力圏内に取り込みました』

「地下もか?」

『はい。バゼット様より連絡のあった地下空間とそこから伸びる横坑を含め、全て把握しております。それと、ナノマシンより送られてきた情報を解析した結果、間桐臓硯は既に魔術的生物へと自己改造、虫のような生物の集合体と化しています』

「虫、ね……。よくもまぁ虫を選んだもんだ。

 ヌル、ありがとう。後はバゼットとライダーの合図待ちか」

 

 コックピット内、腰掛けたパイロットシートの背凭れに寄りかかる。

 

 本機は現在間桐邸から300Mの地点にある小さな空き地に隠れている。

 徒歩でここまで移動してから機体を出した。

 とは言えここは町の中、外れの方だが民家は幾らでもある。とても20Mもあるトリコロールカラーの巨体を隠し通せる訳もない。

 

 そこで出番なのがとあるガンダムシリーズのステルス技術、ミラージュコロイドだ。

 コロイドとは霧などのように、空気中に含まれる水分が、更にその中で塊を形成している状態を示す。ミラージュコロイドとは、可視光線や赤外線等の電磁波をシャットアウトするコロイド状の特殊な微粒子を指し、また、このコロイドを強力な磁場で機体表面に定着させる事で光学的・電磁的に完璧なステルスを施す技術である。

 実用初期の段階ではスラスター等の噴射移動をするとステルスが破れたり、黒色以外の装甲には上手く機能しないといった問題があったが、それもじきに解決している。

 

 この機体の装甲は100%ナノマシンで構成されているから、その設定を少し弄り、有り余るジェネレーターパワーで装甲表面を帯電させてやれば準備完了。後は生成したコロイド粒子発生装置を背中に背負えば完璧だ。

 だが流石にエンジン音は聞こえてしまうため、防音対策として機体を包み込むように真空の層を幾つか魔術的に作り出して空間に固定しておく。

 

 これで直接接近する以外に一般人は発見不可能となった。

 まぁ魔術師なら真空を固定する魔術を目印に探せるだろうけど。

 

 

『マスター、問題が』

 

 緊迫した声に跳ね起きる。

 

「どうした?」

『今しがたメデューサ様が屋敷より脱出なされたのですが、魔蟲の反応が一つ、共に移動しています。おそらく救助対象の体内に寄生しているものと考えられます』

 

 あまりに予想外の言葉に言葉を失う。

 

(オイオイ、家の後継者つっても子供だろうに、その体内に蟲を埋め込んで寄生したのか!?)

 

 確かに合理的だ。

 老人の積極的な協力者ではなく、どちらかと言えば兄も含めて”間桐”という家系に苦しめられている人間で、敵対者に自分が殺されたとしても彼女が生き残る確率は高いだろう。しかも聞いた限りでは大人しく従順な性格らしく、数百年を生きた魔術師としてはこれ程扱い易い駒も珍しい、といったところか。

 もし反逆されたとしても、これでは体内に爆弾を抱えているのと同じだ。たとえ力強い味方が居ても内臓を人質に取られてはなす術がなく、それ以前にこれでは体内に寄生されている事を周りに知らせる術がない。何しろ自分の体内から監視されているのだから。

 

 だがそれは外道の所業。

 あまりにも非人道的な仕打ちだ。

 

「くそったれが」

 

 悪態が口を()く。

 

「ヌル、バゼットに通信」

『接続』

 

 ヌルにより、事前に連絡用にとバゼットに渡しておいた脳波マイクとチャンネルが繋がる。首筋に貼り付ける電極付きパッチの様な外見で、利点は声に出さずに連絡が取れるため、標的を前にしても通信内容を悟られない点だ。

 

《トウリですか!? こちらは少し拙い状況です》

「此方でも把握した、蟲か」

《ええ、まさかここまで人間を逸脱しているとは私も予想外でした。私が普段相手にするのは封印指定された相手ですので、大抵は一芸特化のタイプが単体なんです。このように小さな群れを相手にするには厳しい。今はルーンで結界を張って堪えていますが、閉所で殺し尽くせる魔術は保有していません。私の切り札でも状況を覆す事は困難です》

「今からこっちで一掃する。一匹だけ残すから自滅させないよう確実に捕獲してくれ」

《分りました》

「通信終わる」

 

 接続を切る。

 

「さて、やるぞヌル」

『イエス、マスター』

「縮退炉、出力30%へ。

 ナノマシン攻撃目標・間桐家、敷地内における蟲型魔的生物」

『全目標捕捉』

 

 主機が指示に従い出力を上げる。

 アイス・セカンドという常温で縮退を起こす物質を利用した炉。それは理論上、投入した物質を100%エネルギーに変換できる機関だ。

 発生した莫大な電力が装甲を這い回り、空気中に飛散しているナノマシン群へと供給されてゆく。空気中のナノマシン間をエネルギーがリレーされ、遮断されて孤立した地点へはヌルの制御の元、亜空間を通して送られる。

 間桐も襲撃は警戒しているだろう。あそこまで生きる事に貪欲なのは数百年を生きたある種の怪物。魔術師の暗殺に対する備えは勿論、聖杯戦争の主役たる英霊・サーヴァントの襲撃の可能性すら考えているかもしれない。事実、養子とは言え娘を自分の一部たる蟲の寄生先にしているのだ。

 だが、まさか襲撃がこういった科学サイドから成されるとは夢にも思うまい。

 此方の手は変質的なまでに張り巡らされた魔術防壁の一切をすり抜け、既に屋敷全域を勢力圏へと塗り替えている。

 バゼットが地下で堪えている隙に、妙な事をされないよう一気に殲滅する。

 

「攻撃、開始」

『攻撃開始します』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(なんじゃ!? いったい何が起こっておる!?)

 

 生を受けて五百と余年、間桐臓硯は生涯最大の混乱の只中に居た。

 

 初代のマキリとしてユスティーツァ、永人とその娘と共に、この日本の地にて聖杯降臨の儀式を行ってより二百年。彼は四度に亘る聖杯戦争を経て、未だ己の生み出した聖杯を手にする事が出来ずにいた。

 

 そして前回の第四次聖杯戦争より早10年。

 消費される事無く終わった聖杯の中身によって極短いスパンで再び巡ってきた第五次聖杯戦争。後継者として出来損ないの孫、間桐慎二と遠坂より貰い受けた桜を隠れ蓑として聖杯戦争の裏で蠢動し、最終的に聖杯を手に入れようと画策する。

 その只中、真夜中に聖杯戦争を立ち上げた御三家の一角たる間桐の領域に忍び込んできた愚か者を、自らの身体でもある蟲共の餌にしようとしていた。

 

 侵入者は鍛え上げられた肉体にルーン魔術の強化を施し、その圧倒的な身体能力でもって攻撃してきたが、とうの昔に人間としての肉体は捨てている自分には何の脅威にもならない。

 人肉を喰わせた蟲によって形成した身体が蟲に戻り、雪崩れ込む潜んでいた蟲で退路も断った。地下の閉鎖空間ではこの数の蟲を殺しつくせる程の大魔術は使えず、例え暗殺者が己諸共に地下ごと潰したとしても、此処にいるのはあくまで操っている蟲ばかり。自身の魂は本体たる蟲に宿ったまま孫の心臓に寄生しているため、死ぬ心配はまず無かった。

 事実、暗殺者はなす術無く追い詰められ、急造の結界に篭る事で最後の抵抗をしている。その結界とていつまでももつ物ではない。いずれは魔力が尽き、辺りにひしめく蟲達に飲まれるだろう。後はゆっくりと蟲で全てを犯してやり、暗殺を指示した者の正体から魔術まで知る限りを聞き出した上で、従順な駒として使うか蟲達に喰わせるか選ぶつもりだった。

 

 この世界の常識ならば、暗殺者はその運命を辿っただろう。

 敵に常識外の事をやらかす人外が居なければ、彼の予想が外れることは無かっただろう。

 

 だが現実には臓硯の目の前で、厳密には己の身体として操る蟲の内、一匹を除いた全てが瞬く間に死に絶えた。結界に噛り付いていた蟲、飛び掛って空中で弾かれた蟲、折り重なり床で蠢く蟲、その全てが(くう)に溶けるがごとく消え去った。

 絶対の勝利が覆ったのも勿論だが、それ以上に何をされたのかまったく分らなかった事が、臓硯に強い混乱をもたらしていた。

 

 魔術ではない。

 なぜなら暗殺者からはそれだけの魔力を感じなかったから。

 

 隠蔽されていたのでは?

 あの状況で結界を維持しながら、更に儂を騙し通せる隠蔽魔術を練り上げるのは不可能に近い。

 

 他に手勢が潜んでいた?

 邸内に侵入者は一人。遠隔で間桐の魔術的防御をかわして攻撃、尚且つ蟲だけを正確に攻撃するなどやはり不可能に近い。

 

 

 長く生きた経験だろう、魔術師としての自らの知識を否定される混乱からは短い時間で立ち直った。

 しかしその短い時間は、空気中に飛散するナノマシン群が鼠算式に数を増やしながら全てを食い荒らすには長すぎた。どのような方法で成されたかも分らぬまま、五つ数える間に蟲達は一匹を残して姿を消した。

 その一匹も恐ろしい速度で詰め寄った暗殺者に囚われてしまう。パスは破棄したが蟲自体の自滅は為らず。

 

 

 臓硯はここに至り、聖杯戦争の勝敗よりも己が生命の危機を強く感じた。

 

 

 

 

 

 


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