《ふぅ、行けども行けども何もなし。いい加減に気が滅入ってきたな》
別れから約八時間。
ひたすら真っ直ぐに進んでいたのだが、左右上下の変わらぬ光景にはかなりうんざりしてきていた。
マップ上ではここから先が厳密に聖地と呼ばれる地である。
まぁ、見たところ何が変わってるって訳でもない様だが。
《……ここから先が本格的な探索範囲か。休憩を取ってから進もう》
三十分ほどその場に留まって飲料補給に薬の投与などを行う。
体調の方はまだ大丈夫だが、日の入りから日の出までの気温の低下にどの程度耐えられるかが問題だ。蜘蛛の低温下での保温・暖房機能は専用の施設で耐用試験を繰り返してあるが、正直な話、荒野での連続起動がどう影響してくるかが心配だ。
今更な話だが、もう少し時間があれば、という思いがあるな。
休息を終え、改めて探索を開始する。
ここまで歩いて来る途中とは比べ物にならない精度でセンサー類を働かせる。
格段に広がった探査範囲に伴って一気に増えた情報量に軽い眩暈を感じながら、細かい分析結果を判断してゆく。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
日が沈み、夜闇が世界を包んでも俺は探索を続けていた。
エネルギー効率を考えれば太陽光発電が出来る昼間だけ動くのが上策だろうけど、あいにく蜘蛛のエネルギーも乗っている人間も三日が限界だ。エネルギー効率を考えるより、俺が消耗してくる前に少しでも多くの範囲を探査したかった。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
夜が明ける。
夜間の活動は思った以上の体力を消耗した。
気温の上昇を確認し、一時間の仮眠を取ってから探索を続行する。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
二日目の日が沈みかけた頃、疲労と体調の悪化で霞が掛かり始めた意識の片隅で、微かな違和感を感じた。
センサー類の数値には相変わらず特別な変化はない。
けど確かに、何かの変化を感じ取った。
(何だったんだ、さっき感じた違和感は? 思い出せ、思い出せ)
当たり前に判断するなら、これだけのセンサーをして検出されていない事に人間が気付くとは考えにくい。しかし目的が目的だ。探す対象がオカルトに属する事を考えれば、センサーよりも人間の感覚の方が重要かもしれないのだ。
集中するあまり詰めていた息を吐き、心を落ち着けようとする。
ゆっくりと深呼吸する、とその時。
吹きさらしの荒野を駆けた風が、蜘蛛のエアスリットを抜け、ダクトを通り、僅かに暖められて鼻腔に届いた。
その刹那、思考が止まった。
”匂い”
違和感の原因。
この赤茶色の荒野と僅かに生える背の低い高山植物。それらの上を吹き抜ける風とはあまりに掛け離れた匂い。
故郷の春にも通じる瑞々しい緑と咲き誇る草花の匂い。
それが、この荒野の乾いた風の中に微かに、しかし確かに香っていた。
心の中から強烈な、今までの生涯で感じたことの無い程に鮮烈な喜びが沸き立ってくる。
(
可能性を検討するまでも無く、半径数十キロ内にこの匂いの元になるような数の揃った緑地は無く、この国では未だ高価な、外国産の匂いの強い植物をこんな場所で持って歩く奴はいない。
そう、これなんだ。ついに、
《
この匂いを辿ればたどり着ける。
そこで気付く。
この匂いはセンサーで捕らえられていない。
相変わらず分析上は何の異常も検出されていないのだ。
ならば頼りになるのは自分の嗅覚しかない。
蜘蛛の上部ハッチを開放して空気の通りを良くし、同時に衛星からの気象情報や蜘蛛のセンサーが集めた風向きのデータを集める。
これに匂いがした時のデータを合わせて解析すれば大雑把な方角が出る。
この通りに進んで行けば、近付くにつれて正確な情報が弾き出せるだろう。
もうすぐだ。もうすぐたどり着くことが出来る……
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
雲一つ無い夜空に磨き抜かれた銀盤の様な月が出ている。
月明かりで暗視装置も要らず、上部ハッチを空けたまま歩き続けている。
日が落ちてから急速に気温が落ち込み、体力がガリガリと削られていく。
ここにきて体調も急落。体の限界が近付いている。
逆に匂いは歩けば歩くほどに強くなってきている。それを支えにひたすらに進み続ける。
もう、匂いは途切れることも無く強く香っている。
もうすぐそこと言って良い所まで来ているはず。
その時、引き摺るように足を進めた瞬間、唐突に強烈な暴風が横合いから吹いた。
咄嗟に足を地面に打ち込み、胴体を地に貼り付けるように低くして吹き飛ばされるのを堪える。
一気に巻き上げられた砂埃に見る見る視界が遮られ、小石まで飛んで来るに至って慌てて開いていたハッチを閉じた。
(何なんだ!? こんな場所でこんな規模の竜巻がいきなり発生するわけがっ……!!)
とにかく露出していたセンサーの内、傷つき易い物をボディに収納する。
入ってくる情報はかなり減少したが、集音センサーからは凄まじい量の空気が渦巻き、まるで石臼のように大気自身を磨り潰している轟音がデータとして流れてくる。
ここまで強力な風だと俺込みで総重量四百キロオーバーの蜘蛛でさえも、胴体の下に風が吹き込む体勢をとってしまえば一発で転がされるだろう。
そうなってしまえばその勢いのまま、廃材になるまで石だらけの地面で
(落ち着くのが先決だ。今すぐ出来るのはやった)
バチバチガツガツと砂礫の当たった外装が鳴り、豪風に煽られて蜘蛛の踏ん張っている六足の関節の軋む音が、周囲が碌でもない状況なのを嫌でも悟らせてくれるが、それでも次の瞬間にも空を飛ぶ程ではない。
かと言っていきなり発生した事を考えると、楽観や油断が厳禁なのは確かだ。
いったん蜘蛛から入って来る情報を緊急性の高い物意外シャットアウトする。
ブツンッ、という感触を境に、慣れはしたが親しみはしなかった無力な闇の世界が戻ってる。
この世界で自分が出来る事は、昔から思考を巡らせる事だけだった。
そのせいか、この視覚と聴覚の無い世界に転がると自然と気持ちが静まる。
まるでパブロフの犬のようとは、確か夏樹の言葉だったか。
いきなり遭遇した異常事態に高ぶっていた神経も落ち着いてくる。
(竜巻について。
止むかは不明。
発生原因は特定不能。ただし推測は可能)
(状況に対する対処について。
竜巻は発生した時から一定の勢力を維持しいているため、現状での早急な危険性はイエロー。ただし長時間に亘って晒されるのは危険。
このまま耐えた場合、データから約3時間で脚部に疲労性の不具合が出るだろう。
最も容易な案だが、竜巻が止むかわからない現状では下策だ)
(後退した場合。
竜巻は横風だという事と砂礫が右やや前方から当たっていた事から考えるに、前方で発生し、その場から
この事から竜巻の勢力圏からの脱出としてはもっとも可能性が高いと考える)
(前進を強行した場合。
匂いの強さから考えて目標の目の前と言える距離まで近付いていたであろう事、竜巻の不自然さ、そして何より蜘蛛と俺の体の時間的限界を考えた場合、目的を優先する限り上策だと思われる。
この竜巻が通常でなくとも考えられない現象である事、目標である”東の園”と思しき場所への接近。この二点だけを安易に自分に都合良く考えると、いかにもこの竜巻が目的地を隠している防壁の役割を果たしているように感じる)
考えを巡らせるが、どれを選んでも結局は当初の目的を果たさない限り俺に未来はやって来ない。
(それなら体力の残っている間に少しでも進もう。
ポジティブに考えればただの義体で来ていたら、竜巻に巻き込まれた時点で未来どころか来世の心配しなきゃだったんだし)
方針が決まる。
再び蜘蛛からの情報収集を再開。この風の中での飛ばされない移動方法を模索する。
一番確実だろうと思われるのはやはり匍匐前進だろう。
胴体部を地面に着け、八足の内の最低三本を常時地面に打ち込み固定しながら進む。
かなり出力の要る作業の上に、接地した胴体とエンジンの入った腹部下の放熱口が半分以上塞がってしまうから機械的な負担が非常に大きい。
この際仕方ないと諦め、センサーの幾つかを傷付くのを覚悟で展開する。
蜘蛛の体で2・3の外装部分が、小さな範囲でくるりと裏返りセンサー類が露出する。
光学センサーのレンズ部分等は飛んでくる砂粒や小石で傷付いてゆくが、仕舞ったセンサー類の分の余った処理能力を使って出来る限り補正する。
ガキン……ガキン……。
脚の一本一本を丁寧に動かす。
赤く硬い地面の状態を確かめ、しっかりと足先を打ち込んでいく。
気を付けるべき事は打ち込む場所に石等の刺さらない物が無いかを確認する事。
打ち込みました、刺さらず弾かれました、衝撃で体が浮いて飛ばされました。
それじゃ精々が笑い話だ。
集中して唯ひたすらに一歩一歩、確実に進んで行く。
機械仕掛けの体は疲れを知らないが、こちらを威圧するかのような風の轟音と、その中で失敗出来ないという緊張状態での精密作業が弱った体力と精神力をヤスリで卸すように削っていく。
もう何十メートル進んだだろうか?
普通の竜巻だったら幾らなんでもいい加減に”目”に辿り着くなりして、少しはこの強烈な横風が緩くなるのに一向にその気配が無い。
こうなってくると
”この竜巻は同じ方向に同じ速度で動いているから出られないんじゃないか。”
”あの時後ろに引いて脱出してから迂回するのが正しかったんじゃないか”
などと今更な考えが頭をよぎって、さらに集中力が落ちてくる。
体調の悪化と併せて意識が朦朧としてきた。
(まだか、まだ抜けないのか?)
少しでも負担を軽減させようと、センサーの大部分は切ってある。
目の前の地面だけを確かめながら、機械的に唯ひたすら足を打ち込み、前に進む。
あれからまた時間がたつ。
一向に日が暮れない事が不思議ではあったが、それを気にする精神的余裕はもう無かった。
廃熱が万全に機能出来ない状態での高出力が要求される動作によって、義体内の温度はかなり上がっていた。すでに飲料水は尽き、電力節約と廃熱量を少しでも減らすために、義体内の温度調整機能も切っている。
それでもここまで何とか耐えていられるのは、曲がりなりにもここが高地であり、気温が低い事と、そもそもの元凶である竜巻の強風が、ある程度の熱を奪っているからだ。
蜘蛛も強風の中で脚の二本を失い、さらに負担の増した脚の内の二本も、間接部から異音を発してその動きを鈍らせていた。
(ぅ、ッ!)
ついに限界が訪れる。
次の一歩を打ち込み前進しようとした途端、その脚が金属の割れる音と共に間接部から折れたのだ。込めていた力は行き場を失い、蜘蛛は僅かに前進しただけで地に突っ伏して動きを止める。
(一歩・・・・・・次の、一歩を……)
熱に浮かされ、途切れ途切れの思考で必死に前進しようとするが、そんな状態の脳では情報の処理など出来るはずも無く、蜘蛛の残った脚は力無く地面を引っ掻くだけだった。
その時、飛ばされてきた握り拳大の石が、ゴッと音を立てて辛うじて生きていた聴覚センサーを叩き潰した。
衝撃と共に、情報を処理出来なくて視覚を失っていた身から最後のセンサーが失われた。
一筋の薄明かりすら射さず、完全な無音の暗闇に沈んでいく。
義体にぶつかる小石の振動のみが、僅かにその意識を繋いでいた。
(これで、終わりか)
(結局は死ぬのか)
(あれだけやっても、無駄だったのか)
そこまで虚ろに流れた思考が、微かに、そう、ほんの微かに波立った。
(無駄。無駄?)
そうだ。絶対に生きるんだと決めたあの日から、俺は全力で動いてきた。お金も技術も知識も、時間さえもまったく足りなかった。
そんな俺達には無駄にする物なんて何も無かった。
手探りの行動は失敗も沢山あって、それでも全てを何かに繋げて来た。
駄目だと思っても、その先には続きがあった。
だから……
(まだだ)
そう。
(まだ無駄じゃない)
そうだ。
(まだ意識がある。まだ生きてる)
後一歩、動けるかどうかだけど、それでもまだ終わってない。
(グゥゥゥ!)
唸り、歯を折れんばかりに食い締める。
光学センサーが復帰し、格納されていた全てのセンサーが展開する。
雪崩を打って押し寄せてくる情報を分析し、最適の
最後の一歩だ。この一歩で最後なのだ。だったら渾身の力でその一歩を刻む!
無事な脚を畳む様に引き戻し跳躍に備える。
エンジンが低い唸りを漏らし、センサー類は跳躍のタイミングを計る。
待つ。
少しでも距離を稼げる風を待つ。
口の中を噛み千切り血の味を舌で転がし、意識を覚醒させる。
待つ風の、先触れをこそ捕らえなければならないから。
風が、変わる。
(ガァッッッ!!!)
脚の制御に意識を振り絞る。
巻き上がる豪風を利用し、脚部の機構の損傷を無視して発揮された出力が、蜘蛛型義体の巨体を跳ね上げる。
全力で飛ぶ。
そして、跳ねた瞬間にぷつりと糸が切れ、何も分からない暗闇に転げ落ちた。