"外世界"
そう名付けた場所に時間はない。
正確には時間という事象を定義する概念が存在しない。
"流れる"でも"流れない"でもなく、その定義自体がない。
しかしここにいる自身の意識は、時間をいうものを明確に感じている。
必要にもしている。
人間を止めてこの生活を始めて、もうだいぶ時間がたった。
手慰みに作ったゼロから加算していくタイプの時計は、年の部分が1492なんて数字をしている。時が経つのは早いというが、まさか自分が歴史の単位に匹敵する時間に対して使うとは思いもよらなんだ。
これだけの、人の人生の十倍以上の時間で俺は何か変わっただろうか?
それとも俺が時間が過ぎたと感じている事自体誤りで、"黒川冬理"はずっと変わっていないのだろうか?
――――ひとつ確かなのは、今までの俺が大馬鹿者だということだ。
「そうですか。まだ篭ってますか……」
ようやく慣れてきた体を忙しく動かし朝餉の支度をしながら、メドゥーサははぁと溜息を吐いた。原因は隣でフライパンで卵に浸したトーストを焼く女性から聞いた言葉だった。ここ三日ばかり引き篭もっているトーリの所有物を自称する電子的な生命体『ヌル』。しかしこなれた動きでフライパンを煽っているのは給仕服を着込み、清潔な布巾で藍の強い黒髪を包んだ美女だ。とても本体が空で光る稲妻と同じとはとても思えなかった。
メドゥーサも今までは聖杯戦争で刷り込まれた知識にあるAIと同じ存在だと聞いていたから、ちゃんとした身体を備えて現れたときには大いに驚かされた。掃除こそそれ用の機械がしているものの、料理洗濯は人間と同じ、いや、それ以上に上手にこなしている。
さりげなく向けられる視線を感じたのか、ヌルがさらりと僅かにこぼれた髪を揺らし、機械らしい溶けた鉄の緋色の瞳が、凍えた感情をのせたままメドゥーサを見た。
「この身体が気になりますか?」
「ええ、さすがに」
「このユニットはザインフラウ(在るべき婦人)と呼ばれる自動人形をモデルとして私が設計し、"素"の段階から製造した筐体です。全体として人体を模すという概念を宿すことによって人と変わらない『生態』を獲得、さらに各部に賢石と呼ばれる概念を封入した物質を埋め込む事で、様々な特殊状況に対応できます」
「概念……魔術も使われているのですか」
「ええ、と言いたいところですが、概念は魔術という分類は貴方の世界でのことです。世界から出たのなら、それは忘れないように」
「はい」
メドゥーサは喋りながらも手は休めない。洗面所へ二人の姉が向かったのは見たから、ここで待たせるようなことがあればまた虐められるに違いない。出来上がった料理から盛り付けてテーブルへ並べてゆく。フレンチトーストに数種類の野菜の付け合せ、サラダにチーズとハム。彩が良く、美味しくて手間と時間が掛からないメニュー。
エウリュアレとステンノーはあれで食べられない物が少ないけど、それでも好む物とそうでない物はある。メドゥーサは自分の安全のためにも、昔の記憶を思い返しながらせっせと甲斐甲斐しく用意してゆく。そのしいたげる相手に当たり前のように尽くす姿は、まるっきり調教に成功したペットのようであった。背後に姉妹の邪悪な笑みが透けて見えるようである。
「……先程の話しに戻りますが、仕方がない部分もあるかと。たしかにマスターにしてはあまりと言えばあまりの失敗でした。私もその点はとうに考えがあるものとばかり思っていましたから、あえて問いませんでしたし」
「私も意外でした。大神でも出来ないような事を簡単にこなすような存在が、まさかあんなミスをしてたとは思ってもみませんでしたから」
抑揚の少ない感情の読めない言葉に、メドゥーサは小さく思い出し笑いしてしまった。彼女のイメージからすれば意外と言えば意外であり、逆にひとつ抜けた所があるなら親しみやすいという安堵もあった。
そして何より化け物と自身を卑下する彼女にとって、どう足掻いた所で勝てない自分が霞むほど強大な存在の傍というのは随分と居心地がよかった。自分の化け物らしい根本的な部分は何も変わっていないが、それでも"もし"自分が化け物に成り果てたとしても彼ならどうにかしてくれるという安心があるのは、どうしようもなく気を楽にしてくれた。
「この場所を理解しようという試みその物がナンセンスである、という言い訳はたちますが、やはり焦りはあったかと。貴方たち姉妹という他者が現れた事で、他の視点で物事を見るという基本的なアプローチを思い出したのでしょう」
「"思い出した"、ですか?」
「そうです。私が自我を得てより403年が経過していますが、それでもマスターは主観千年以上、ここでは一人でした。かつてとはいえ、人類の時間感覚では幾らかの精神的不備が出るのは仕方のないことと思います」
「座ではあらゆる時間に繋がっていましたから……それほどの時間を経験した事は私もありません」
「システムとしては当然の選択でしょう。己の手が痛むような
「――――ねぇ、これはもう食べてもいいの?」
と、そこで鈴を鳴らしたような可憐な声が割ってはいる。ダイニングを見ればすっかり身嗜みを整えた二人の姉が、様になる仕草で椅子に腰掛けるところだった。
「はい、姉さん。飲み物は何にします?」
「何でもいいわ。でもそうね、あの男が日本のお茶もあるとか言ってたから、それをもらおうかしら」
「わかりました」
メドゥーサは棚から急須という、初めて見る形の焼き物で出来た東洋のティーポットを取り出す。こういうちょっとした時、背伸びをしないと届かないとう経験は彼女にとって何とも言えない感慨をもたらす。ほんの数日前まで、二人の姉と違って彼女ばかり背が素晴らしく大きかった。もう男性でもちょっと珍らしいくらいに。なまじ姉たちが小柄で誰から見ても(本性は別として)可愛らしいだけに、その長身を女性らしくないと身体的なコンプレックスとして抱えていた。でも、今は違う。念願かなって背が低くなったのだ! とまぁ、さりげなくメドゥーサは浮かれていた。
綺麗な小声で歌をうたいながら降ろした急須をサッと洗って水気を切り、茶葉を入れて湯を注ぐ。使用する水もその温度も紅茶とは違うが、ヌルが作成したと聞く機械から注がれるのは適切なそれ。
もっともメドゥーサとて、初めは機械がいじった物を口にするのには大いに抵抗があった。生前は野菜は畑で肉は猟師から、水は小川から綺麗な水をくんで使っていのだから。けれども実際に出て来た様々な食材や水、飲み物はどれも生前死後通してお目にかかった事のない一級と言って恥じない物ばかり。それらを前にしては、何となくイヤだなんて抵抗は儚いものであった。
「で、トーリはまだ引き篭もってるの?」
お茶を注がれた和風の『湯呑み』というカップを物珍しげに観察しながら、ついさっきキッチン組みが話していたのと同じ話題を出してきた。そして困った事にメドゥーサは姉に好ましい返事を返せない。メドゥーサは焦った。私が悪いわけではないのに。でもきっと鬼のような姉は
薄暗い様相をみせだした近未来に、とたんにメドゥーサの挙動が怪しくなる。
「ええと、その……まだ、の、ようです……でもきっとす」
「ふぅ~~~ん」
「ひいっ」
(舌なめずりしてる!?)
だったらいいな~、というか、そうなって! という希望的予測をバッサリ断ち切った『ふぅ~~~ん』にメドゥーサが後ずさる。
ところが彼女にとって全く意外なことに、エウリュアレとステンノーはあっさりとサディスティックな笑みを引っ込めた。
「えっ……?」
「メドゥで遊ぼうかと思ったけど、今は止めておくわ」
(今は!? そして"私で"!?)
返す返すも鬼畜な双子である。
「そうして頂けると助かります。朝食の席ですので」
と、自分の分のお皿を器用にまとめて持ったヌルが席につく。彼女も給仕服を着てはいるが、別に本当の使用人というわけではないので同じ席に着く事を誰も気にしない。姉妹が食前の祈り、彼女たちの時代の大地の恵みに対する祈りが終わり、朝食が始まった。
「ん、今日もおいしいわね。特にサラダ。気に入ったから明日も用意してくれる?」
「姉さん、お肉も食べないと身体に良くないんじゃ」
「わたしきらいなのよ」「野菜とフルーツがあれば十分」
「栄養の偏りは成長を阻害します」
「あ~~あ~~。聞こえないわね」「栄養とったからメドゥは伸びるのよ」
「うぅっ!」
「――いい出来です」
「「我関せずだけど、あなた食べられるんだ」」
「はい。人を模すのがこのボディの基礎概念ですので、食物と酸素からの熱量生産が基本となります」
「概念と機械の融合など、あの世界の魔術師が聞いたら怒り狂いそうな話しですね」
内容の大半はどこの家庭でもあるようなものだが、メンバー四人全員がいずれ劣らぬ神がかった美女美少女。それぞれの美貌補正が生半可ではない。ここに画家でもいたなら、この光景を見て思わず陶然となり、我を忘れて絵筆をとるだろう。それだけ絵になる光景だった。
「それにしてもトーリったらホント部屋から出てこないわね」
「私も初めてです」
「ヌルが初めてなら……四百年で初めてでしょうか?」
「あら、あなた四百歳なの?」
「はい、正確には自我形成から403年が経過しています」
「ふぅん。随分と……いえ、あの男といっしょなら驚くほどでもないのかしら」
すこし悪戯気に笑んでステンノーがヌルと、そして何故かメドゥーサを見る。
「私は聖杯戦争で会ったばかりですので……人となりは少しはわかったような気もしますが」
「マスターは一見気まぐれでいい加減ですが、あれで根底は一本です。もっとも今回はその根底に根ざした問題でしたのでああなってますが」
「ま、あれはわたしもありえないと思ったし」
やれやれと双子はそっくりな動作で首をすくめた。
つられてメドゥーサと、珍しくヌルの氷面にも苦笑が浮かぶ。
「たしかに」
「ええ」
それぞれが緑のお茶に口をつけながら、この外世界へ出た日の事を思い出していた。
目を開く。
外世界への移行と共に精神は本来の体へと戻っていた。
「ようこそ、世界の外側へ。
イチでもゼロでもない未分化の場所《アイン・ソフ・オウル》は君たちを歓迎しよう」
黒川は背後で人数分のゲート通過反応を確認し、ゆっくり十数えてから歓迎の言葉とともに振り返る。大樹の丘の上で、背後に広がるどこぞの楽園じみた緑の世界を誇るように両手を広げて。
「あれ?」
ところが誰もいない。さらさらと瑞々しい下草が風になびいているだけだ。
ゲートは最後の通過反応から一拍おいて閉じている。もしやと思いゲート
「マスター、皆様方は消滅なされましたが」
「――――――――――なんと」
くるくると回転した頭から弾き出されたの答えは、ヌルの"消滅"という物騒な言葉が比喩でもなんでもないというものだった。
考えてみればこの場所は人間だった過去の感覚を再現している。
そう、
仮初ながら物理法則などもいきているが、つまるところ常駐的に俺の本体が人間並みになるほどの負荷をかけている。彼女たちにしたらブラックホールの中心に出るようなものだ。ひとたまりもなかっただろう。いちいち自分で抑えるのが面倒と横着こいた挙句、自分でも負荷がそれとわからないようにしたお陰で今回の悲劇が起きてしまったのだ。
と、即座に再構築し、訳も分からず目を瞬かせる彼女たちに懇切丁寧に弁明した。
…………巨大な借りを作ったとだけ残しておこう。ちなみに世界側を彼女たちに合わせました。
なんやかんやと喧々諤々のやり取りの後、どうにかこうにか一行をここ唯一の建築物に案内した。いや、外もいい天気で過ごしやすいんだが、かといって野原に座り込んで話し込むのもなんだな~と思った次第である。
適当な部屋で紅茶とか啜りつつこの『外世界』と、そこでの今後について話し合いが始まった。
外世界については"素"と呼称している世界そのものの構成材であり栄養である物についてや、今のところで自分が知っている、又は推察した情報について(ここらでメドゥーサがここは根源なのかとか驚愕していたが)。 今後についての話し合いの方は……といっても重要なのは住む場所くらいだが。なんのかんのいって、あれで年頃の娘さん方である。間違っても気軽に一緒に暮らせばいいじゃんとか男側から言えんのである。
と、思っていたのだが。
意外なことにそういうのは別に構わないそうな。というか、このこじんまりしたログハウスは外見こそこんななものの中は非常識に広く、外見には明らかに無いであろう上階や地下まで備えているのだ。中には図書館のようにした部屋もあれば、ちょっとした体育館ほどのスペースを確保した部屋もある。ここまで揃った家なら別の場所に住んだら逆に不便な思いをするので、それくらいならこっちと反対側の離れた部屋に泊まる事にする、とか。
まぁ男女がどうのといったつもりは両者共に無いし(少なくとも今は全く)、外聞を気にせざるを得ない場所でもない。ここでいいというならあえて反対しようとも思わなかった。
話し合いはその後、途中でヌルが自動人形のボディで登場したりとちょっとした騒動があったが、紅茶も好評でおおむね問題も無いまま終わった。
あとはそのまま雑談タイム。
久方ぶりのような気がするしょうもない、でも少し笑ってしまうやりとりに和む。
そんなこんなで少し経ったころ。ちょうど外世界について綺麗だとかのんびりだとか、でも暇そうだとか言っていた時だった。メドゥーサがふと尋ねてきた。
「そういえば別の世界へ行く時は別の体でと言っていましたが、元の、今の体はそのまま樹の所に立ちっぱなしなのですか?」
「いや違う。主としての意識が別に移るから確とした形を無くして、その後は帰還までの間ずっと"素"を取り込み続けているのが常だ。さすがに雨やらが降ればひどい事になるからな。戻ってみれば自然に取り込まれていたとか笑い事になってしまう」
「――笑い事で済むんだ(ぼそり)」
思わずと洩れたらしいつっこみは聞かなかったことにする。
「あの時メルクリウスと最初に会えたのは随分な幸運だった。でなければ自覚なく触れて幾つか世界を弾けさせていただろうから」
「世界に住む者としては恐しい話です」
メドゥーサは苦笑にしては苦味の強い表情を浮かべて言った。紅茶を啜り、そしてふと思いついたように首を捻る。
「貴方はそんな自分が暮らせる世界が生まれるよう行動しているのですよね?」
「ああ、そうだが?」
「なら――」
「あ、ちょっと待て」
瞬間的に走った凄まじく嫌な予感に、それが何かも分からないまま反射的に待ったをかけていた。何か……とても致命的な何かだと感がうるさいくらい告げている。
『"素"を取り込み続ける己』『世界の大きさ』『俺の大きさ』『自分を許容する世界を目指す』
様々な断片が何度もリフレインする。
わからない。わからないまま、思考は混乱していた。
いや……それは逃避だ。
なにせ今の俺には、自ら望まなければ混乱などありえないのだから。
どのような表情が面に出ていたのか。卓を囲む皆が此方を見たまま驚いて、心配していた。まずい。客人を前にこれは失礼が過ぎる。そして何より、彼女たちにとってはこの地でたった一人の頼れる相手、水先案内人である存在がこのざまでは全てに不安を覚える事になり兼ねない。それだけは招いた者の責任として、なけなしの矜持が許さない。そのためにも俺には説明して不安を取り除く義務がある。
「――――いや、自分のあまりにでかい失敗に気がついて呆然としていただけだ。問題無い」
「そんなひどい顔するくらいって、何を失敗したのよ?」
が、まぁ、事情を話せばどちらにしろ不安を感じさせるかもだが……
そんなこんなで、
俺が『入れる世界』を探す途中で自分の規模を際限なく拡張し続けていたという、ちょっと信じられないほど馬鹿らしい大失敗が暴露されたのだった。