私の物語を始める前に、私のことについて少し話しておこうと思います。
私は武芸よりも歌や舞を好み、鍛錬よりも勉学に励むことが多かった。
また実家は牧畜を生業としており、幼い頃から親に連れられて涼州各地を転々としながら家畜を売り捌くことが日課で、その関係で羌族ら異民族の集落に足を運ぶことも多かった。おかげで涼州近辺にある村や都市の顔役とは大体が顔馴染みとなっている。少なくとも顔を合わせる度に息子と引き合わせて、嫁に来ないかと誘われる程度には仲が良い。
成人した後は実家の畜産業を親戚に任せて、郷里で農牧に従事するようになる。
私は血が駄目だった。親の指示で家畜を屠殺した時に、その時に目が合った瞳が今でも時折、夢に見る。ただ家畜の扱いには慣れていたから農耕には牛を使っている。
羌族は基本的に遊牧民族であり、一箇所に留まり続けることはない。そんな彼らには野菜や果物、調味料といった農作物が物珍しく映るのか、潰した家畜の肉と一緒に出すと、とても好んで食べてくれた。これらは家畜を農耕に活用した結果だと伝えて、沢山の農作物を土産に持たせて送り出したら、その半年後には百頭近くもの畜獣が贈られてきた。
彼らに云わせれば、連れ歩くことはできず、肉にするしかない畜獣を送っただけのことだ。是非とも農耕地の開拓に役立てて欲しい、お礼は優先的に取引をしてくれれば充分。と茶目っ気の多い笑顔で言われたが――しかし、私の家には百頭近くもの家畜を養えるだけの経済力はなかった。かといって潰して肉にすることも羌族との関係を考えると難しい。
私はなけなしの伝手を使って、洛陽の商人から多額の借金をし、死に物狂いで事業の拡大を図った。
その間にも次々と送り込まれてくる家畜に頭を悩ませながら奔走して、その数が千頭になる頃には目が眩むほどの借金を返し終え、涼州では右に並ぶものがいない豪農となっていた。この時に洛陽で屠殺業を生業とする何家と繋がりを持ち、馬騰といった名士とも盛んに交流を持つようになっていた。
羌族と強い繋がりを持ち、涼州の食糧事情を支えるほどの多大な財力を持つようになった私は涼州刺史も無視できない程の存在になっていたようで、気付いた時には従事として取り立てられてしまっていた。自分の家のことだけを考えれば良いだけの立場から涼州全体の運営を考える立場となり、その赴任中、匈奴族が涼州に攻め込んできたからてんやわんやだ。それで涼州で最も民心を得ており、羌族と友好関係を築いているという理由で、軍事のぐの字も知らないような私が将軍として取り立てられるまでになる。今ならわかるけど、ただの御輿のつもりだったのだろう。
その時は徴兵に応じてくれた馬騰と賈駆に軍事を丸投げすることで事なきを得たが、匈奴族相手に大勝してしまったことが評価されてしまって、分不相応にも西域戊己校尉という官位を授かることになってしまった。皇帝様からは率いた騎馬隊で勇猛果敢に突撃して敵陣を薙ぎ払ったと褒められたけども、それはきっと馬騰のことで――的確な戦力分析に幾度となく敵を貶めた策略とも言われたが、それは間違いなく賈駆のことだ。
二人が正当な評価を得られるように口添えしようとも思ったが、二人とも面倒だからと辞退してしまった。それで結局、面倒ごとは全て私に押し付けられることになる。
嫌と言えない性格が憎い。
断れないついでに数年後には司馬として、并州征伐軍に組み込まれた私は涼州から離れる羽目になった。この時はもう私だけでは無理だと思って、賈駆に泣き付いたのを覚えている。それで賈駆には并州まで一緒に付いてきて貰うことになり、涼州の農耕地は親戚筋の牛輔に委ねて、馬騰には涼州を胡族から守って欲しいとお願いしている。
羌族の中で漢王朝に反感を持つ者達を討ち倒した私は、様々な役職を経つことで并州刺史となり、最終的には河東太守に落ち着いた。難しいことは賈駆に任せた私は兵糧確保という名目で食料問題を改善する為に農地を耕したりしている。
私は董卓、字は仲穎。真名は
それでは後に魔王と呼び恐れられた悪逆非道、董仲穎その人の物語を始めましょう。
七天の御使い系列。