私は牛が好きだった。
私自身がのんびりとした気性の持ち主だからだろうか、のっそりとした牛の動きが――妙に波長が合うと言いますか、なんと言いますか。新鮮な野菜をたっぷりと載せた荷車を引かせながら、ゆったりと散歩をするように歩くのが好きだった。こんな話を親友の
そよ風が肌を撫でる感触、降り注ぐ日差しに手を翳して、田畑の脇を流れる小川の涼しげな音を堪能しながら長閑に荷物を運んだ。ゆるりゆらりと、こんな毎日が延々と続けば良いなって、いつも思っている。
しかし、それが難しいことも私は知っていた。
今、漢王朝は滅亡の瀬戸際にある。
度重なる天災に朝廷は有効な手段を何一つ取ることができず、民衆は飢饉の最中にあった。食い逸れた民草は生きる為に賊へと身を堕とし、近辺の集落を襲ってはなけなしの食料を根こそぎ奪い取る。そして田畑を耕すだけでは生きていけなくなった民草がまた賊へと身を堕とした。そんな悪循環の最中にあっては民草は世の中に希望を持つことができず、必然的に漢王朝に対する不信感が募り、それは何時しか怒りに成り変わる。国情が揺らぐ今、異民族の動きは活性化しており、不穏な空気が大陸全土を覆い尽くそうとしていた。
後漢だけでも二百年、前漢も合わせると四百年も続いた漢王朝、その威光は翳り見せ始める。
現在、私が并州刺史*1から河東太守*2に格下げされているのも異民族に対する備えの為だ。
異民族討伐の実績だけは充分にあった私は異民族から洛陽を守る盾としての活躍を期待されている。
事実、それは役に立っているようで今のところは平穏な毎日を送っている。もしかすると
私の後を継いだ并州刺史の丁原とは上手く連携できているようで、今のところは盤石だと詠が言っていた。
私は戦が苦手で、外交もあまり得意ではなかった。
幸いにも後方支援は得意だったので、全体指揮を執る詠の補佐をするのが私の役割になる。
どうやって賊を討伐しようか、という話よりも、ここをどんな場所にしようか、という話をする方が好きだ。辺り一面の平原を見つけると兵の演習場にするよりも畑として耕したくなる。剣よりも鍬を持っている方が性に合っている、血よりも土に塗れている方が好きだった。馬に乗って遠駆けするよりも、牛の隣で近場を歩き回る方が好きだし、剣戟や怒声を耳にするよりも虫や川のせせらぎに耳を傾ける方が高揚する。耳を澄ませていると、ころりと眠ってしまいそうな、そんな穏やかな毎日に憧れている。手間暇かけて育てた作物が田畑を埋め尽くす光景に目を輝かせて、自然の恵みに感謝しながら一つ一つを丁寧に採取することに喜びを噛みしめる。
人様の食卓に自分の作物が使われているところを想像するだけで、私は幸せな気持ちになれる。
もうずっと土弄りだけをしていることはできないだろうか、政治なんて面倒だ。
そう考えているからこそ何度も官職を辞しているというのに、免官される度に官位を上げて改めて任官されるということを繰り返している。詠と翡は私に出世して欲しいみたいだけど、どうして私なんかを立てようとするのか。それに戦をさせたいのであれば、私のような卑怯者ではなくて、血気盛んな戦好きに任せればいいのに。
ふと空を見上げる。今や大陸全土、何処も彼処も民草による反乱が増え続けている。
これから先、漢王朝はどうなってしまうのだろう。
私の考えることではないけども、どうしても不安を感じてしまうのだ。
せめて、私が守る河東郡の民衆は、不自由な想いをさせたくなかった。
そんなことを考えていると、
ふと、まだ真昼間であるにも関わらず、青空を一筋の光が駆け抜けるのを見つけた。
珍しいな、とか思いながらぼんやりと眺めていると――それはぐんぐんと私の方へと向かってきており、これってもしかして? と思った時には眩い光が収穫を終えた畑に突き刺さった。弾けるように土塊が舞い上がり、ぼたぼたと雨のように辺り一面に降り注いだ。折角、みんなで汗水流して耕した畑が掘り起こされたことに、へうっ、と呆然としている他になかった。
正気を取り戻すまで、幾分か。大きく掘り返された穴に、まだ眩い光が燻っていることに気付いた。
この非現実的な光景を前に、
私は逃げ出したくなる気持ちを抑え込みながら、太守としての責任感となけなしの勇気を振り絞って恐る恐る歩み寄る。
びくびくしながら穴の縁から中を覗き込むと、丁度、淡く天に昇るように光が消え去った。そして光ある穴の中心、即ち私の畑を滅茶苦茶にした元凶が剣を抱きしめながら眠っていた。それは少女、いや幼子だった。幼い外見は成人と見るに程遠い。彼女の体は土に汚れている。しかし、その表情は穏やかで規則正しい寝息を立てていた。腕に抱えた剣には華美な装飾が施されており、一目見るだけで宝剣の類であることが分かる。
牛に引かせていた荷車から
牛車に子供を乗せて、ドナドナ、と。取って食べるつもりはないけど。
屋敷に戻った後、彼女の体を軽く拭いてから寝台に寝かせる。
彼女は何処から来たのだろうか。そういえば占い師が天の御使いの話をしていたことを思い出して、彼女は天の国から来たのかも知れない。と荒唐無稽なことを思い浮かべる。彼女が目覚めるまで待つ間、ずっと気になっていた彼女の宝剣に手を伸ばした。素人目から見ても高価だとわかる宝剣、壊さないように慎重に手に取った。そのまま鞘から剣を抜こうとしたが、うんともすんともいわずに抜ける気配がなかった。これは本当に剣なのだろうか、形状は剣と鞘そのものである。少しは素性のわかる情報はないかと思って、柄糸を解いてみる。
すると、そこには達筆な文字で、四つの漢字が刻み込まれていた。
『西楚覇王』
ぶるりと身震いし、宝剣を持つ手が震え出した。
†
西楚覇王。
そう名乗った人物は歴史上、一人しかいない。
項籍、字は羽。漢王朝の始まり、歴代皇帝の祖先、前漢を興した高祖劉邦。その最大の敵として知られる人物だった。
その経歴は覇王と呼ぶに相応しく、その武勇は四百年が過ぎた今でも色褪せることはない。この大陸史で最も偉大な将軍は韓信、もしくは白起の名が上げられるだろうが、しかし、こと武勇だけを語れば、項籍と肩を並べられる者は一人もいない。正に戦の申し子、戦をする為に生まれてきたと云える人物だ。
それが今、目の前で眠り続ける幼子。なのかも知れない、違うかも知れない。
史書における項籍は自己顕示欲の強い覇王として語られることが多い。しかし今、寝台で眠る幼子のあどけない顔付きを見てると、とてもじゃないけども項籍と同一人物には思えなかった。どうしたものだろうか、起きた瞬間に襲い掛かられるかも知れない。手足を縛って様子を見るべきか。
しかし、拘束するには、幼子はあまりにも穏やか過ぎた。
†
幾刻かが過ぎた後、もぞもぞと幼子が身を捩った。
途端に強張る体。大きく息を吐いて、気持ちを落ち着ける。
幼子はむくりと体を起こすと、きょろきょろと辺りを見渡した後、私のことを見つめて口を開いた。
「ここはどこ?」
少し眠たそうな目を擦り、舌足らずな声で問いかける。
とりあえず私は用意していた白湯を杯に注ぎ、それを手渡しながら笑顔で答える。
「私の屋敷ですよ」
「屋敷の使用人じゃなくって?」
こてん、と首を傾げる幼子の愛くるしい姿にグサリと心が傷付いた。
こう見えても河東太守、嘗ては并州刺史だ。威厳の足りなさは自覚している。正直なところ刺史や太守は私には行き過ぎた身分であり、荘園で民草と一緒に田畑を耕している方がずっと私らしいと思っている。それでも、こうも真正面から無垢な瞳を向けられると流石に傷つく。
まあ私のことは構わない。彼女が起きた時、いの一番に聞かないといけないって思っていたことがある。
「私は河東太守の董卓、字は仲穎と申します。貴方の名前を伺ってもよろしいですか?」
「名前? ……私の名前は、んっと……んん?」
幼子は眉間に皺を寄せると黙り込んでしまった。
名前を覚えていないのだろうか。いや、忘れているのなら好都合かも知れない。もし仮に私の予想が正しければ、誰も知らないまま、忘却されてしまう方が良い。
大丈夫、と私が彼女の頭を優しく撫でると幼子は擽ったように身を捩った。
「あ、でも、真名は覚えるよ。
唐突に真名を名乗られたことに驚いた。
真名というのは当人だけが持つ絶対不可侵の聖域、その名を晒すのは特別に親しい相手のみに限られる。真名の取り扱いについては地域差はあるが、それを他人が軽々と口にしても良いものではないことだけは共通している。そもそも漢人と異民族が相容れない理由の一つが真名の存在であった。異民族にも真名はあるが漢人ほどに重要な扱われ方はしておらず、ただ単に親愛の印として気さくに真名を呼び合うといった程度の軽い扱いだ。私と翡は慣れているけども、詠は本気で怒ってしまうので異民族との会談には連れていけない。異民族と付き合いが持てる者は、先ず真名を呼ばれても激昂しない者に限定されてしまうのだ。
その真名をこんな軽い気持ちで名乗られても戸惑ってしまう。
「真名は軽々しく初対面の相手に名乗るものではありませんよ」
出方を窺う意味でも、軽い調子で受け流してみる。しかし幼子は首を横に振る。
「私を助けてくれたのはわかる。悪い人じゃないこともわかる。だから、せめて名乗らないとって、でも名前は忘れちゃったから他に名乗れる名前がない」
それに、と幼子ははにかんだ笑顔で告げる。
「お姉さんなら構わないかなって」
幼子の純粋な瞳を見つめられて息を飲み込んだ。少し逡巡した後に意を決して、できだけ穏やかな笑顔を心掛ける。
「改めて自己紹介を、私の名は董卓、字は仲穎。真名は
そう告げた時、恋歌は最初、キョトンとした顔を浮かべていた。そして、にこりとはにかんでみせる。
「月姉様」
「……なんだか少し気恥ずかしいですね」
へうっ、と照れからか変な声が出た。
頰を両手で抑えながらふるふると身を捩ると、あははと恋歌が笑い声をあげる。
西楚覇王と刻まれた宝剣は今、倉庫の奥へと厳重に封印してある。
彼女の正体は未だにわからない。でも、あえて知りたいとは考えなかった。
恋歌が思い出せない内は、私も忘れていようと思う。