羌族と云うのは一筋縄ではいかない。
元より羌族とは多数の部族からなる遊牧民になるが、明確に王と呼ばれる存在はいなかった。その為に複数の部族をまとめる有力者と盟約を結んだところで、他の部族から反発が起きたり、時には叛乱を起こすという事態も度々起きてしまう。それでいて部族間における仲間意識が強いものだから懐柔することが本当に難しい。例えるならば集落単位の小さな国が羌族という母体に寄り添うことで国家連合の体を成しているといえば分かりやすいかも知れない。
ただ一人、皇帝の下に国家が形成される漢王朝で生まれ育った漢人には羌族の在り方を理解することは難しく、農耕民族の漢人と遊牧民の羌族では文化的にも相容れない。普段、口にしているものからして違うのだから恭順を誓わせるなんて夢のまた夢の話。そういう事情が重なって、漢王朝における羌族との歴史は懐柔と叛乱を繰り返すことで成り立っている。
そして私個人が親しくしている羌族とは、別の羌族が私が居なくなった涼州と并州を脅かし続けていた。
お得意様の行商人から文を受け取った。
差出人の名前は牛輔、私の姪になる。今は私の地元である涼州隴西郡で荘園の運営を任せている。
親戚からの文に嬉しくなる反面、書かれている内容に目を通して溜息を零した。涼州では月に一度か二度、小競り合いを含めると五回以上もの異民族による襲撃があるのだとか。今は
河東郡はまだ襲撃が少ないけども并州の方では頻繁に羌族が襲撃してくるみたい。内務に専念できない并州の代わりに兵糧を肩代わりしたりと支援しているが、何時、河東郡まで攻め込まれるのか分かったものではない。大事なことだとは理解しているけども、堅牢な城壁が日に日に増えていく光景は、あんまり見ていて楽しいものではなかった。
あまい考えだとは分かっている。あまいからこそ私はさっさと官職を捨てたかった。
農作物を売り払った帰り道、調味料をいくつか仕入れて少し上等な肉も仕入れる。
今日は并州軍に兵糧を渡しに行っていた親友が帰ってくる予定の日だから夕食は御馳走にするつもりだ。
料理には少し自信がある。時間がある時はいつも自炊している程度には腕は悪くないはずだ。
「
鼻歌交じりに牛を引いて、のんびりと屋敷まで歩を進める。
†
「おかえりなさいませ、月姉様」
屋敷に戻ると玄関で
ゆったりと頭を下げる動作は良いところの御家に生まれた御嬢様のような気品を彷彿とさせる。彼女は私の持っていた荷物を半分受け取り、二人で共に台所まで向かった。恋歌は基本的に明るくて元気な子だ、よく話すし、私にも積極的に質問を投げかけてくる。また古典的ながらも礼儀作法を弁えているようで、仕草一つを取ってもほとんど無駄を感じられなかった。それこそ洛陽の宮廷にいる女官達と並べても引けを取らない程にだ。身振り手振りで話しながらでも気品を失わないのだから、骨の髄まで染み込んだ動作なのだろうと思った。
本当に彼女は何処から来たのだろうか。
私が知るあの人は自分勝手で粗暴な人物だと聞いていたから、いまいち人物像が一致しなくて戸惑うことがある。彼女は本当にあの人なのだろうか。しかし彼女に記憶がない今、確かめる手段はない。それに藪蛇を突くような真似もしたくない。下手に記憶を取り戻させて覇王が復活しては目も当てられない。
今で充分に幸せそうだから、今のままで良いと思うようにしている。
恋歌と二人で肩を並べながら下拵えを済ませてしまって、親友の帰りを待ち続けることにした。
ひと通りの家事を終えた後、私にしては贅沢した高価な椅子に腰を下ろす。
座と背もたれの部分に羽毛の布袋が縫い付けられており、体重をかけると私の体を優しく受け止めてくれる。沈み込む体に心地良さを感じていると、ぴょこんと私の膝上に恋歌が乗ってきた。まだ見た目の幼い少女、重たいとは感じない。あらあら、と私は彼女の体を後ろから抱き締める。すると恋歌が身を委ねるように重心を私に傾けてきた。そのまま背もたれに身を埋める。恋歌の体は少し温かくて気持ちがいい。なんとなしに彼女のお腹を撫でていると恋歌は心地好さそうに目を細めて、そのまま寝息を立ててしまった。そのあどけない顔が可愛いなあ、と思いながら私も眠たくなってきたので、ひと眠りしようとゆっくりと瞼を閉ざした。
畑で拾ったその日から恋歌とは同居している。この土地で真名だけで生きるのは不便だと思ったから仮の名前を与えた。その名は、董白。姓は私の御家のものを取り、白は彼女が変わらないまま過ごして欲しい。という気持ちを込めた。また私の家に置いておく為の設定はとしては、早逝してしまった妹の娘が叔母の私を頼りに屋敷まで来た。ということで通している。養子の手続き中だ。
今ある日常が私は好きだから、壊したくなかった。
「……月! 起きてよ、月!」
耳打ちする密やかな声に呼び起こされる。
目を覚ますと懐かしい顔があった。少しキツい目に緑色の髪、三つ編みに束ねた二本のおさげが揺れている。
待ち人来たり、と状況を察した私は「寝過ごしちゃった」と笑って誤魔化した。
「寝ていたことは良いのよ。どうせ月のことだから張り切って買い出しとかしてたんでしょ?」
買い出しも料理も使用人でも雇えば良いのよ、と指先を突きつけてくる彼女に、えーっ? と不満たっぷりに告げる
「詠ちゃん、いつも嬉しそうに食べてくれるから頑張りたくなるんだよ?」
「うぐっ。まあ確かに嬉しいのだけど、それでも買い出しくらいは……」
「仕事のついでだったし、それにどうせなら食材選びからしてあげたいから」
楽しいし、と微笑むと詠は唸るように口を閉ざした。
彼女の名前は賈駆、字は文和。真名は詠。 涼州に居た時から力を貸してくれている少女であり、并州に飛ばされた時も河東郡の太守を務める時も彼女は文句ひとつ云わずに、いや、朝廷に対しては数え切れないほどに不満を口にしていたけど、私に対しては嫌味の一つ、不満や文句を口に出したりしなかった。ごめんね、と謝ると怒っちゃうから私は彼女に対して謝ることはしないようにしている。でも、それって意外と辛いことだから、もやもやっとした私の気持ちを発散する為にも、彼女にはこの程度の好意くらいは受け取ってもらわないと困る。
報いを受けるのです、と強い意志を込めた笑顔で見つめていると詠は気不味そうに目を逸らし「そ、そうよ!」と思い出したように口を開いた。
「その膝上に乗ってる子は誰なの!?」
「誰なのって、恋歌ですが。あっ、これは真名なので口にしたら、めっですよ」
「……だったらなんて呼べば良いの?」
「董白です」
「とうはく? とうってまさか……!」
詠が、わなわなと身を震わせる。
「あ、でも月の子供って決まった訳じゃ……」
「いえ、私の可愛い娘ですよ。これからはずっと同じ家で一緒に暮らします」
「えっ、あれ? あ、でも……そんな気配なんて、いや、ボク最近、帰ってきてないから……」
「詠ちゃん、どうしたの?」
狼狽する詠の姿に私は首を傾げる。
私の腕には寝息を立て続ける恋歌が収まっている。これだけ大きな声を立てても身動ぎひとつ起こさないのだから、将来は大物になるのかも知れない。いや実際、大物になり過ぎて困っちゃいそうだけど。
恋歌が膝上に座っているから体を動かすことができず、愕然とした顔の親友に声を掛けようとした
「あ、あの、詠ちゃん?」
「そ、そうだ! 相手は何処なの!? もしかして隠し子!?」
「相手は居ませんが……隠し子に近いかも知れませんね」
落ち着かせることは叶わず、切羽詰まった気迫に押されるように思わず答えてしまった。
「もう居ない!? ボ、ボクにも言えないような……!? そ、そんな……っ!」
「えーっと、詠ちゃん?」
「せめて相談くらいして欲しかった……っ!」
詠はポロポロと流し始めると、そのまま、腰が抜けたようにふにゃりと座り込んでしまった。
「……寂しかったならボクが一緒に居たのに、でも、ボクは女だから……だからってやるだけやって逃げ出すような相手に、月を!」
どうやら私の優秀な軍師は今、盛大な勘違いをしてしまっているらしい。
「……詠ちゃん、話を聞いてくれませんか?」
溜息ひとつ、誤解を解かなきゃいけない。
「どうしたの? 月姉様」
漸く目を覚ましたらしい恋歌が眠たそうな目で私を見上げる。
「姉様?」と何かに気付いた詠を無視して、「なんでもありませんよ」と恋歌に告げる。それから親友への弁明よりも先に夕食の準備から済ませてしまおうと思った。
私も手伝う、と恋歌が服の裾を摘んだので一緒に行くことにする。
「待って、月! その子って、何者なの!?」
「その子でも、何者でも、ないですよ。私の大事な大事な娘です、まだ予定ですけど」
「お母様? 姉様じゃなかったっけ?」
「どちらでも、ただ貴方を守る為に私の娘になって貰うことに決めました。そのことだけは覚えておいてください」
嫌でした? と少し不安交じりに問いかけると、ん〜ん、と恋歌は首を横に振る。
「お母様」
これで良い? と微笑む恋歌に、私の心はじわりと温かくて疼くような想いに満たされた。
ほとんど何も考えずにぎゅうっと抱擁すると、恋歌もぎゅーっと抱きしめ返してくれた。しばらく恋歌の温もりを堪能した後で、真っ暗になってしまわない内に夕食を作ろうと腕を解く。再び服の裾を摘まれる。振り返ると恋歌が、気の毒そうに詠のことを指で差していた。
知ってる、恋歌がお母様って呼んでくれた時にあんぐりとした顔をしていたことも知ってる。
「放っておいても良いの?」
「はい、しばらく頭を冷やして貰いましょう」
にっこりと微笑んで親友に背を向ける。
誤解が重なったとはいえ、あんな勘違いのされ方は不本意だったので放置することに決めた。話は夕食を食べている時にでもすれば良い。そんな軽い気持ちのお仕置きで、とはいえ実際は打ち拉がれる親友の姿は珍しいからもう少し見てみたかった気持ちもある。いつも自信たっぷりに胸を張る親友の姿を見るのは気分が良くて、そんな彼女のことを可愛いと感じてしまったのは初めてで、だから少し虐めてみたくなってしまっただけの話。
「意地悪」と楽しそうに告げる恋歌に「そうですね」とにこやかに笑い返した。
本作はとりあえず并州の話が終わるまで書き切るつもりです。