あったけえなあ……、皆の評価があったけぇ……
私、頑張る。
腕によりを掛けて作った夕食でお腹を満たした後、
うとうとし始めた恋歌の体を揺すり、何か言いたげな表情を浮かべる詠を一先ず待たせる。
予め、井戸から汲んでいた水で歯を磨き、顔を洗わせてから簡単に体を拭いてあげた。それから、ぽけっとした顔の恋歌を私の部屋にある寝台に寝かせ付けた。普段は客間、半ば詠の私室になっている部屋を使わせているが、今日は詠が泊まるだろうから私の部屋で寝て貰った。後で恋歌用の部屋をきちんと用意しないといけなさそうだ。
最後に詠が待つ居間に戻る前に、台所で湯を沸かし、茶を淹れた杯を二つ用意してから居間へと向かった。
居間で待つ親友の姿は何時もと比べて何処かよそよそしい。それはまるで悪いことをした後の子犬のようで可愛かったけども、そろそろ気を取り戻してもらおうと白い湯気の立つ茶を添えるように置いた。ハッと親友が顔を上げるのに合わせて、にっこりと優しく微笑みかけてあげると彼女に染み付いた翳りが晴れるのがわかった。
別に怒っている訳じゃないので、初めから気にする程のことではない。でも、こんなに素直な反応を見せてくれるのなら、またちょっと間を空けてから虐めるのも良いかもしれない。だって可愛いから。
茶を啜る。月が上がる深夜、普段であれば土産話の一つや二つを交えながら談笑しているところなのだが、今日はまだ言葉の一つもまともに交わしていなかった。横目に盗み見れば、詠の顔が強張っている。それは緊張と云うよりも、言い難さ、つまり問いかけ難さから来ているようだ。
彼女が苦悩に顔を歪ませる姿を堪能していると、詠はおずおずと勇気を振り絞りながら口にする。
「……ねえ月、董白*1って何者なの?」
私の娘になる子ですよ、と茶化すように告げると、そういうのはいいから、と親友は話を続ける。
「ここに来る時、畑がなにか大きな力で叩きつけられたかのように掘り返されていたのを見たよ」
「ええ、そうです。彼女が落ちて来た時の衝撃で空いた穴が、あれです」
「落ちてきた? えっ、何処から?」
私は人差し指の先を天井に向ける。
「空から」
「空からって……まさか天の国から来たって云うの?」
「ああ、もしかすると彼女が巷で噂の天の御使いかも知れません」
親友が小馬鹿にするような言葉遣いになるのを無視して話を続ける
私自身、信じられる話ではないことを知っている。しかし昼の空に閃いた星の輝きを見たのは私だけではなくて、畑には大穴が残り、そして蔵には西楚覇王と銘打たれた剣がある。旅の占い師の話では、天の御使いはこの先に訪れる乱を治める者とのことだが、しかし――いや、私は恋歌を信じると決めた。それが盲目的な信条であったとしても、私は彼女を受け容れることを選択した時に決めたことだ。
とはいえ、もしもの時は私一人では手に余る。
「詠ちゃん、私について来て」
そう言って、私は詠と共に倉庫へと足を運んだ。
†
ボクの名前は賈駆、字は文和。真名は詠と云う。
涼州天水郡にある学問所では、頭脳で誰にも負けず、数ヶ月で教師から学ぶべきこともなくなった。
大した努力もせずに孝廉に選ばれて、郎への推薦を受けるが、この時はまだひと所に収まりたくなかったボクは病気と偽り辞退した。それでまあ涼州各地を旅して回っていたが、その途中、異民族の襲撃に合って――まあ、この時は機転を利かせて逃げ延びることができたが、無一文となってしまった。そこで涼州軍による異民族討伐の為の徴兵が行われることを知り、同時に武将と補佐官の募集をされていることも知ったから異民族への意趣返しのつもりで一時的に仕官する。
それで出会ったのが当時、涼州軍の将軍に任じられていた董卓。つまり月であった。
月、詠、
涼州をより良い場所にする為に、月は仁義を掲げ、翡は武勇を振り翳し、そしてボクは智謀を巡らせる。誰かは言った、ボクの才は古の参謀である張良と陳平に比肩する、と。だからこそボクは表舞台に出るべきではないと自覚している。月は正しく夜空に浮かぶ月だった。ボクのような謀略を巡らせる――夜にしか生き場を持たない者にとって、彼女は象徴だった。救いでもあった。ボクの功績と名誉は全て月のものだ、月が褒め称えられることは私が褒め称えられるのと同じ、月の出世はボクの出世だ。同じ時を生きて、同じ場所を生きる。月がより一層に輝く姿を見つめることで満足感を得る。強い輝きは闇を強くする、ボクの居場所は陰鬱とした闇の中にあった。
ボクは月の為ならば、なんでもできる。それは自己暗示に近い、強い決意と覚悟を固める。何度でも、何度でも……
倉庫に足を運んだ時、奥の方から月が取り出したのは見窄らしい木箱だった。
幾重にも縄で厳重に封印されており、その見た目はおどろおどろしい。丁寧な手付きで紐を解かれる。それだけでは、まだ箱は開かないようで絡繰細工を解き、最後に鍵を差し込むことで漸く木箱の蓋が開かれた。箱の内側は、緩衝材代わりなのか厚手の布が敷き詰められており、その中心には一振りの宝剣が収められていた。
鬼が出ずとも邪は出るか。そんな予想とは反して、繊細な装飾が施された宝剣は一目見るだけで値打ちものであることがわかる。売れば今ある河東軍の維持費、数ヶ月分程度にはなりそうだ。
宝剣を持ち上げる時、月が唾を飲み込んだ。まるで初めて見る赤子を抱えるように、緊張した顔付き、僅かに震える手で慎重に柄紐を解いた。これが値打ちものであることは分かる。しかしボクも、董卓も、この程度の代物を目にしたことは何度かあった。確かに不思議な雰囲気を持っているが――この、万が一も起こしてはならない緊張感は何故だろうか。まるで命が掛かっているとでも言いたげな、そんな感じがする。
その疑問は柄に刻まれた四文字の言葉で氷解する。
「西楚覇王」
ポツリと呟いた言葉に月が神妙に頷き返した。
漢王朝の起源、高祖劉邦を死の間際まで追い詰めた怪物。謂わば、漢王朝にとっては最大の敵と言い変えても良い。
それが何故、此処に。いや、今、それを見せたのは何故か。
「恋歌が天から私の畑に落ちてきた時、この宝剣を抱いていました」
「……それって、まさか! いやでも、
高祖は女性だった。
今でこそ女性の価値が認められているが、当時はまだ男尊女卑の傾向が強かった。故に劉邦の飛躍を認められなかった者達が項羽を慕うようになり、女性の権利を主張する派閥と伝統的に女性の政界進出を認められない派閥での争いに発展する。今の御時勢で政界では女性の比率が大きくなっているのは、項羽に付き従った者達のほとんどが男性であり、劉邦が築いた王朝における官位の七割以上が女性で占めることになった名残と云われている。
だからこそ項羽が女性ということはあり得ない。しかし死んだ彼が今になって、生まれ変わること自体があり得ない。
「詠ちゃん、私はもう決めたよ」
月は臆病だ、いつも何かに怯えるようにびくびくしている。
でも同じくらいに頑固ということも知っている。彼女が決意を固めた時、その瞳には強い輝きが宿る。
ボク達は放っておけなかった。危なっかしくて放っておけない。
そうと決めた時、何処までも突き進んでしまう彼女を独りにはできない。
信念に殉じず、理想も語らず、そう決めたから、と前だけを見据えて歩き出す彼女をボク達は見捨てられなかった。
がりがりと頭を掻いた後、ボクは思考を切り替える。
「……どこまで記憶は残っているの?」
月は少しだけ目を見開いた後、とっても嬉しそうに頰を緩めた。
「真名以外はなにも……でも、これを見ると思い出すかも知れないから」
「うん。本人かどうかはわからないけど、万が一、彼女があの覇王なら記憶を取り戻させるのは危険だよ」
「できることなら思い出して欲しくない。恋歌には今の世を幸せに生きて欲しい」
とりあえずは現状維持、今のうちに友好関係を築いておけば、いざ記憶が戻った時も助けになってくれるかも知れない。そんな打算、月には決して言わない。ボクの考えなんて月はお見通しなんだろうけど。
「ありがとう、詠ちゃん」
今にも泣いてしまいそうな程の笑顔を浮かべる月に、当然だよ、としれっと返しておいた。
頰が熱くなるのは、意識しないように努めた。
†
董白、つまり恋歌は無垢な娘だった。
嬉しいときは嬉しそうにはにかんで、怒るときは怒鳴り散らして、楽しいときは楽しそうにはしゃいで、哀しいときは哀しさに涙を流した。感情豊かにころころと表情を変える彼女は何時見ても新鮮で見ていて飽きない。そんな彼女だから街に馴染むのも早く、たったの数週間で月と同じくらいの人気者になっていた。
日に数度、通り掛かる民草や店主に縁談や結婚を気軽に申し込まれる月とは少し違って、おつかいに行って帰ってくると両手いっぱいに頂き物を抱えてくる。出た時は整えていた髪がくしゃくしゃになっているので、たっぷりと可愛がられたのだと思う。本人も両手いっぱいの荷物を差し出しながら嬉しそうにどや顔をかますので満更でもなさそうだ。積極的に月の手伝いを申し出るし、家事全般は恙なく熟していた。粗暴どころか素直で良い子。
なんだかボクが知る覇王とは印象が違うな、と思いながら暫く様子見を続ける。
月に娘ができてから一月が過ぎた頃合、ボクは恋歌と一緒に街へと繰り出した。
やはり恋歌は人気者で街ですれ違った誰も彼もが彼女に挨拶を交わす。ボクの時は逆に距離を置く癖に今日はお構いなしだ。それが少し気に入らないなあって思っていると「詠姉様は仕事に真面目すぎるんだよ」と恋歌に何食わぬ顔で告げられる。ふん、と顔を背けてやれば、素直じゃないのは減点、と恋歌がにししと悪戯っぽく笑ってみせる。
今日、街に繰り出したのには理由はあるが、恋歌を連れてきたのはまた別の理由があった。
「最近、君はよく頑張っているからご褒美をあげようと思ってたんだけど?」
「えっ、嘘! なになに? 頂戴!」
「生意気な態度を取る子はちょっと躾けないといけないと思うんだけど?」
「私、良い子! すっごく良い子だよ! だから、ねっ? ねっ?」
急に媚び始める姿に、年相応の幼さが垣間見えて、くすりと含み笑いを零す。
ボクは恋歌と一緒に過ごしている内に、恋歌のことを信じたいと思うようになっていた。
彼女は覇王とは違う、仮に同じ存在であったとしても彼女は覇王とは違う生き方をしている。
だから試すのは今日で最初で最後、心のつっかえを取る為に質問する。
「なにか欲しい物はある?」
「剣」
何気なくしたつもりの問いかけに恋歌は即答する。
「なんだかね、心にぽっかりと大きな穴が空いている感じがするの。とても、とても大切なことを忘れている気がする」
「……それを埋めるのが剣だというの?」
「たぶん、そうだったと思う。私にとってはかけがえのないもので、決して失ってはならない存在だった気がする」
よく分かんないけど、と彼女は困ったようにはにかんでみせる。
ボクは思考する。どうするべきか、彼女に剣を与えても良いものか。
月は彼女に剣を持たせることを避けるはずだ、認めるような真似は決してしない。
その様子が手に取るようにわかった。
「……月は絶対に頷かない」
「わかってる、お母様は優しいから。私から危ないものを遠ざけようとしてる」
最初は包丁を持つことだって許してくれなかったんだよ、と苦笑した後、恋歌は目を逸らしたくなるくらいに真っ直ぐな瞳でボクのことを見つめてきた。
「だから詠姉様、貴方にお願いします。私は、剣が欲しい」
ボクが最後まで想うのは、目の前にいる恋歌ではなくて月のことだった。
このことがばれたら間違いなく月は怒る。
数日、あるいは数週間、口を利いてくれなくなるに違いない。
それはボクにとって、堪えがたい程に辛いことだ。
もしかすると生涯に渡って許してくれないかも知れない。
「月には内緒だよ」
それでも、ボクが大事に想うのは、月だった。
彼女が真に覇王ならば、大陸に名を轟かせた武勇で月から危険を払う剣となるはずだ。
もし仮に覇王ではないとしてもだ。月のことを慕ってくれる彼女なら、きっと月を守る為の剣となり、盾になる。それにボクなら恋歌に身を呈して月を守らせることを教え込むこともできる。ボクにとっては、月一人の命は彼女のソレよりも、ずっと重たくて大切なものだ。
やった、と両拳を握りしめる恋歌をボクは冷めた目で眺めてた。
――恋歌には今の世を幸せに生きて欲しい。
…………。
静かに息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出した。
かつてボクは、張良もしくは陳平のような智謀の持ち主、と呼ばれたことがある人間だ。