恋歌の剣の稽古には、徐栄を付けている。
彼女は幽州から流れてきた在野の一人であり、地元では百の兵を率いた経験がある、という触れ込みで河東軍に仕官してきた。それで実際に使ってみれば、意外と能力が高く、軍人然とした性格から扱いやすかった。月個人としても彼女のことを信頼しており、今となっては河東軍の中核を担う存在だ。
普段は領内の賊退治に勤しむ身であり、兵の数は二百から五百名程度。多い時でも千を超えることはない数を率いている。それでも今の河東には千近くの兵を率いた経験を持つ将は、彼女の他にボクの二人だけしかいないので貴重な存在だ。
彼女に恋歌を任せたのは性格もそうだが、基本的に武将専任の彼女は賊退治と調練の時以外は暇を持て余している。だから恋歌の面倒を見させるには丁度良かったことが理由の一つに上げられる。
あとボクは参謀だし、普段は輸送隊の指揮を執っているから時間を取れない。
それに、ボクは嗜み以上に剣を扱えなかった。
今回もまた異民族と戦う并州軍を支援する為に物資を輸送した帰り道、屋敷に帰る前に徐栄と話をする為に練兵場へと足を運んだ。
もう本日の調練は終わったのか、練兵場に残る兵の数は少ない。その片隅の方で二人の女性が木剣を打ち鳴らしている。舞うような身のこなしで淀みなく剣撃を繰り出す幼子、その猛撃を洗練された無駄のない動作で捌いている巨躯の女性が徐栄であった。徐栄は私の姿を確認すると恋歌の連撃に割り込むように一歩踏み込み、木剣同士を絡めて勢いよく掬い上げる。まだ幼い体躯の恋歌では柄を握り続けること叶わず、手から弾かれた木剣が宙を待った。
悔しそうに徐栄のことを睨みつける恋歌、それを尻目に徐栄はボクの方を振り向いて両手を合わせて敬礼を取る。
「賈駆殿、如何なされた?」
相変わらず、堅苦しくて真面目な徐栄に苦笑する。
「董白の様子を見にきただけだよ」
あまり人前では真名は使わないようにしている。
そうしなくてはいけない規則はないけども、軽々しく月の真名を他の者の耳に入れたくなかった。
その名残で恋歌の真名も、人前ではあまり使わないようにしている。
「調子はどうなの?」
徐栄に話しかけながら恋歌の頭を撫でる、全身を汗だくにさせながらもにっこりと笑顔を返してくれた。
「筋が良いです、成人する頃には猛将の一人に数えられる腕前になるでしょう」
「……ふぅん、その程度なんだ」
思わず口から零れた言葉に、はあ、と徐栄が気のない返事をする。なんでもない、と素っ気なく伝えておいた。
期待以上だけど期待外れ。彼女が私の知る人物であれば、その武勇は一端の猛将では留まらない才覚を持っていなくてはならない。それこそ并州で活躍する呂布と同等か、それ以上の才能を見せてくれなくれば計算が合わない。いや、でも、彼の覇王も幼少期は剣術が得意ではなかったか。字を読むことも叶わず、兵法は概略を理解する程度に終える。
でも――と、恋歌を見つめると彼女は不思議そうに首を傾げてみせた。
恋歌は月と同じく舞や詩をよく好んでいる。その為、字が読めないということはない。花を愛でるのが好きで、食べられる野草なんかを拾ってくることもある程だ。簡単な計算も理解できている。彼の覇王は性格に難があるとされるだけで、その経歴に大きな問題があった訳ではない。
もしかすると字が読めない云々は過去の創作だったのかも知れないな、とひとり頷いた。
「そういえば、賈駆姉様。聞きたいことがあるのだけど」
ふと恋歌が話しかけてきたので「なに?」と適当に聞き返した。
「河東で弓が最も上手い人って誰なのか知ってる?」
別のことに気を取られていた私は、ああそれは――と軽率に答えてしまったのだ。
†
私、月にはちょっとした自慢がある。
キリキリと限界近くまで引き絞った弦、胸を張り、半身の姿勢を保ちながら
微動だにせず、瞬きすら許さず、呼吸は細く長くを心掛けて、心と体が合致する瞬間を静かに待った。私は集中力には少しだけ自信がある。音が少しずつ遠のいていくような錯覚を感じ取りながら、ただ一点、的だけを見つめ続ける。矢の放った軌跡を緩やかな弧を画くのを脳裏に思い描き、今、見ている光景に投影する。
心技体の全てが一致した瞬間、指の力を弛める――解き放たれた矢はヒュッと風を切り、ストンと的の中心に収まる。
「お母様、凄い!」
とすぐ隣で見ていた恋歌がぱちぱちと手を叩いた。
私は争いごとは苦手だけど、羌族の集落を渡り歩いていた時期に武芸の基礎はひと通り修めていたりする。
剣術は演舞用の枠を超えない程度だけど、弓術の腕前には人並み以上の自信があった。弓を扱うには腕力も必要になるけども、それ以上に大事なのは姿勢を正しく保つことだ。弦を引く時も正しい手順と動作を踏めば、非力な私でも必要最低限程度には引き絞ることができる。姿勢とか手順とか動作とか礼儀作法に通ずるものは得意だ。決まり事、もしくは決まった型を一つ一つ丁寧に熟すだけで結果が出てくれる弓術は私と相性が良かった。
ただ速射はできないので実戦向きではなく、やはり見世物以上の代物ではない。
「私よりももっと凄い人が世の中にはたくさんいますよ」
并州軍に所属している呂布は弓矢で私の三倍以上の距離もある的を射抜くことができるという話を聞いたことがある。非力な私ではどう頑張っても
「でも詠姉様が河東一の弓使いはお母様だって言ってたよ?」
「ええ、詠ちゃんがそんなことを!?」
へうっと気恥ずかしさから変な声が漏れる。
当てるだけなら得意だけど、私は生き物を狙うことができなかった。
矢から指を離す瞬間に、どうしても手元が乱れてしまう。
「これでも馬の上からでも的を当てることもできるんだよ」
不安は顔に出さず、笑顔で塗り潰した。
凄い凄い、と無邪気に褒めてくれる恋歌に肩を竦める。
そんなに凄いものでもないんだよ、と答えたくなる思いをぐっと堪えた。
「私にも教えてください」
思考が自虐的な方向へと傾こうとした瞬間、恋歌が告げる。
振り返ると少女は幼い見た目とは裏腹に強い決意を込めた瞳で訴える。
「人が人として殉じる為には少なからず力は必要です。誰かを守る為に、と大それたことを言うつもりはありません。でもせめて、私は自分の身を守れる程度には力を付けておきたのです」
「……誰も彼もが戦わなくても良い。私は貴方には武器を持って欲しくない」
「お母様、無力であれ、と私に言わないでください。それは、とてもとても残酷なことなんですよ」
好き好んで戦場に立つ訳ではないよ、と恋歌ははにかんでみせる。
「力を持たなければ、いざという時に置いていかれる」
私はね、見送るのが嫌なの。と少女は悪戯っぽく笑って誤魔化した。
彼女が覇王であれば、武芸を学ばせることで記憶が蘇るかも知れない。こんなにも優しい娘に人を殺める武器を持たせたくなかった。こんなのは私の身勝手なわがままだと分かっている。でも、そのせいで今、目の前にいる彼女がいなくなるかもしれないと思うと教えたくなかった。
私には彼女に戦う術を教えることはできない、したくない。
「もうちょっと力を付けてからじゃないと難しいかな?」
尤もらしいことを告げて背を向ける、背中越しに感じる恋歌の視線は無視した。
この時の恋歌の瞳がどんな色をしていたのか分かるから見たくない、知りたくない。
近頃、練兵場に足を運んでいるらしいことは見て見ぬふりを続けている。
†
とある日、詠が輸送隊から戻ってきた時のことだ。
異民族が并州の境界線付近に拠点の建築しているという情報を得た丁原が、攻撃を仕掛ける為に河東郡に援軍を求めてきた。いつもであれば詠を送り込むだけで済む話だが、此度に限っては私個人に対する参戦要請が明示されている。
私は再び、戦場に身を置く決断を迫られることになった。