裏切り者は敗北するさだめであり、ヒーローにはなれない。
アカデミアで外部から持ち込まれたやさしさを覚えちゃったら死ぬよね。そんな話。
pixivと個人サイトに投稿しています。

※パラサイト・フュージョナーがまだできあがっていない時間軸なので、看守から捕虜への脅迫など、いくらかの加害描写があります。

 この話における登場人物紹介
 影宮 季生(かげみや ときお)
  本作の主人公、発育不良の13歳。所属はオシリスレッドでもラーイエローでもオベリスクブルーでもなく、ただの「黒」。シャドール使い。
 黒咲 瑠璃(くろさき るり)
  メインキャラクター1。兄譲りの狂犬要素があるものの、根が優しく情に厚いので条件次第ではチョロい。理想主義者。
 リン
  メインキャラクター2。環境適応能力が高め、誰とでも仲良くなれる。難しい話は苦手。世話焼きの姉のような振る舞いをする。

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裏切り者は敗北するさだめであり、ヒーローにはなれない。
アカデミアで外部から持ち込まれたやさしさを覚えちゃったら死ぬよね。そんな話。

※パラサイト・フュージョナーがまだできあがっていない時間軸なので、看守から捕虜への脅迫など、いくらかの加害描写があります。

 この話における登場人物紹介
 影宮 季生(かげみや ときお)
  本作の主人公、発育不良の13歳。所属はオシリスレッドでもラーイエローでもオベリスクブルーでもなく、ただの「黒」。シャドール使い。
 黒咲 瑠璃(くろさき るり)
  メインキャラクター1。兄譲りの狂犬要素があるものの、根が優しく情に厚いので条件次第ではチョロい。理想主義者。
 リン
  メインキャラクター2。環境適応能力が高め、誰とでも仲良くなれる。難しい話は苦手。世話焼きの姉のような振る舞いをする。

個人サイト→加筆→印刷→ココ
作者のデュエルタクティクスには期待しないでください。本当に自信がない。強くなりたい。


それは本当にアイですか

 これは敗北者の物語だ。

 子供の顔に笑顔はなかった。楽しくもないのに笑えるわけがない。生活は息苦しいばかりで、戦禍は多くの嘆きを巻き込みながら拡大し続ける。

 ひとつの星に4枚のテクスチャが張りつけられていた。元はひとつだった世界が四等分にされ、いびつで奇妙な均衡を保っていた。交わることなく、星の寿命も、エネルギー資源も四分割されて、四倍速で世界は、人類は終わっていくはずだった。しかし今、均衡は崩れつつある。

 最高指導者は言った。星は四層に重なった人間の重みに耐えられず、さらに次元同士に反発作用があるため破滅の未来は加速している。今こそ4つの世界を生贄に捧げ/アドバンスし、混ぜ合わせ/融合し、同調させ/シンクロさせ、重ね合わせた/オーバーレイした上でエントロピーを凌駕/ランクアップしなければならない。

 人々は方舟を作り始めた。乗せられるのは、カード1枚に圧縮した魂だけ。方舟が新世界にたどり着いたとき、ランクアップした魂は1つに収束する。4つに分けられていた魂が1つになるのだ。欠けたパーツを生み出さないためには、自分以外の三人を揃えなければならない。

 指導者たちは世界の窮状を伝えるべく異次元へコンタクトを取ったが、文明の違いからか、宗教の違いからか、望ましい答えは返ってこなかった。こうして狂気の次元侵攻戦争は幕を開ける。かつて娯楽であったデュエルモンスターズが生死を分ける武器になって久しく、融合の使途たちは救いを拒む異教徒たちを粛々と制圧する日々である。

 ピグマリオンは今日もひとり、にこりともせず狂乱の渦をぽつんと見つめている。

 

 

 俺たちはみんなどこかおかしい。不揃いで、いびつで、狂っている。だから戦争なんてできる。頭がおかしいのだ。

 戦争によってみんなの頭はおかしくなったし、もともとおかしくなる素質があったから戦時下に対応できている。そうなのかもしれない。でも、本当は、間違いなく、そういう風に俺たちを仕立てあげる大人たちのせいだった。

 俺たちが壊すよう求められるのは、俺たちに与えられなかったものだ。たとえば、ゆりかごを揺らす母の手。たとえば、頭を撫でてくれる父の手。たとえば、抱きしめたきょうだいのやわらかさ。たとえば、てらいなく本音を交わせる友という存在。

 全部壊してきた。踏み潰した。それが正しいことだから。求められているから。壊す以外に知らないから。

 次元統一が崇高な理念だと言い聞かされている子供たちは喜んで戦う。それが素晴らしいことだと信じているのだ。当然だろう。太陽が東から昇って西に沈むのと同じこと。子供の頃からどっぷりこの世界に浸かっていれば、誰もそれを疑わない。自分たちが正義だと思い込んでいる。

 本当に、反吐が出る話だ。──俺一人「まとも」ぶるつもりはない。俺も含めてこの世はおぞましいのだ。

 その上で、思う。俺たちのしていることは、間違いなく悪だ。憎まれて当然のことだ。いずれ反抗の芽が育ち俺たちを潰しにくるだろう。そうしたら、うってかわって根絶やしにされるのは俺たちの方だ。

 だが、この状況で正しいとはどんなことなのだろうか。なにも行動を起こさない俺は、ときどき考えている。戦争を一時でも早く終わらせるために、より多くの敵を狩ることか? それとも、戦争を止めるために組織を裏切ることか? もしくはそのどちらでもない第三の道があるのか。

 ……無為なことを考えている。そのたびに自嘲するほかない。

 ここにおいて、おかしくて間違っているのはきっと俺だ。いつだって俺が正しかったことなどないのだから。頭を空っぽにして、言われたことだけを忠実にこなしていればいい。今、俺に求められているのは、人間であることではなく、命令をよく聞く人形であり続けることである。

 

 

「くっそ、あの馬鹿またか!」

 もぬけの殻になっている部屋で、季生は歯ぎしりをした。今にも頭をかきむしって目を血走らせんばかりの形相である。

 この離れの棟を居住区としてあてがわれているのは、たった一人の少女である。季生が世話役を任されている彼女の名はセレナ。気が強く、活発な彼女は閉じ込められるのが我慢できないらしく、ちょくちょく脱走する。そのたびに季生は卒倒するぐらい青ざめ、泡を食って彼女を探しに行くわけだ。青筋を立てて、ガンガン頭を痛ませながら。

 この区画に常駐しているのは季生だけだ。そも、セレナと関わるアカデミア職員は一握りしかいない。身の回りを世話する季生と、デュエル指導の教官を除けば、残りは区画管理セキュリティと、アカデミア最高責任者のプロフェッサーくらいである。アークエリアプロジェクトの中でも、セレナの存在は重要機密であり、彼女に関わる分野は極秘セクション扱いされているのだ。

 その重要性を、セレナだけがわかっていない。プロフェッサーが敢えて知らせていないのだから当然といえば当然だった。季生としてはいい加減にしてほしいので、さっさと本人の自覚を促してほしいところである。なんで閉じ込められているのか、一切説明を受けていないのだから、そりゃあ不満を感じて逃げ出すのも自然なことだろう。その自然なことが、困ったことに、上から彼女の監視と世話を言いつけられている季生の仕事を増やす。しがない中間管理職として対応の改善を上に求めるものの、返事は芳しくない。結局、季生がワンマンで頑張り続けるしかなかった。

 がりがりと、時尾は短い髪をぐしゃぐしゃにかきむしった。ついでに柄の悪い舌打ちをひとつ。ほぼ無人の区画に、それは大きく響いた。

(あいつ、俺が罰則を受けたら自分の生活クォリティが下がりかねないってことわかってんのか? ……わかってないからこんなことができるんでしたねえ!!)

 すべては、誰が自身の生命線を握っているか知らないからできる所業である。蝶よ花よと育てられたお姫様は、なにも知らないから問題ばかり起こす。無知は罪だ。もっとも、上層部としても重要なのはセレナだけで、世話役の季生が潰れようが関心がないのだろう。それは嫌というほどわかっていた。だから上司は見せしめのような罰則を季生に課すのである。

 罰則は面倒だ。時間を拘束されるし、仕事のスケジュールが狂うし、たまに命の危機まで感じる。罰自体はどうでもいいので気に止めないが、煩わしいものなのは確かで。季生は粛々と、新たに現れた職務をこなすしかないのである。

 眉間の皺をぐにぐに揉みほぐし、ため息をひとつ。彼は端末にセレナの脱走を打ち込んだ。すぐさまセキュリティへの区画封鎖請求が受理され、扉は閉まり、オートロックは次々鍵をかけていく。あとは監視カメラから彼女の居場所を割り出して速やかに捕まえるだけだ。どうせ未だに離れの中から脱出できていまい。入るは容易く逃げるは難い、ここはそんな風に設計されている。

 セレナもいい加減諦めればいいのだ。季生がデュエル戦士ではないから侮っているのだろうが、監視一人倒さずに逃げてどうなる? 上層部に通報されるだけだ。彼女がやるべきは、季生を急襲しカードに変えたのち、彼のデュエルディスクから引き出せるだけの情報を引き出すなどしてうまく立ち回ること。それを自力で考えつかない限り、この鬼ごっこは常にセレナの負けである。

 いやはや、想像力が足りないというか、単純というか。三年前、プロフェッサーの息子が島に侵入してきたときいいところまでいったせいで、妙な自信をつけてしまっているのだろう。それでアカデミア側に踊らされているのだからアホだ。制限された教育は、少女を猪突猛進の単細胞にしていた。

 

 

「離せ! 自由にしろ!」

 襟首をつかまれてずるずる引きずられているくせに、未だにセレナは反骨精神を強く維持したまま暴れている。季生は早足で荒々しく歩きながら、四肢をじたばた動かして季生の連行を邪魔するセレナにイライラしていた。次は絶対に手足を拘束して抱えて帰る! と強く誓う。あまりにもうるさいし鬱陶しい。だが、どうにか彼女を部屋に叩き込むため、足を止めるのはあり得ない。歯ぎしりをしながら彼は進む。

 セレナが馬鹿の一つ覚えのように「自由にしろ」とわめく。ぴくぴくと季生の眉尻が動き、眉間には深い渓谷ができあがっている。こめかみに青筋が浮き上がった。もう我慢の限界だ! 

 ブチッ。

「あの離れなら自由だろうがいい加減にしろ!!」

 叫びながら季生はセレナを一本背負いで投げた。ぶん投げられた少女は、豆鉄砲を食らった鳩のようにきょとんと目を丸くしていたが、猫のように空中で体勢を整えてシュタッと着地した。

 完璧な着地だ。間違いなく十点満点。少しも姿勢をぶれさせずに、今彼女は片膝をついて季生を睨みつけている。

 その態度にますます腹が立ったが、季生は努めて冷静になるよう自分に言い聞かせた。ここで言い合いになったところで得することはなにひとつないと理解しているからだ。

 セレナが口を開く。立ち上がった彼女は眉を釣り上げ、演説する政治家のように手を動かしていた。

「そういう意味じゃないっ、私はここから出て……」

「あー無理無理。まだ時じゃねえ」

 肩を竦めてぶんぶん首を振る。そのまま、再びセレナを拘束し今度は肩に担いだ。少女の身体は米俵のように担ぎ上げられ、足が地面から離れた。腹に骨ばった肩が食い込んで苦しいのだろう、「ぐっ」とセレナの息が詰まる。季生は当然のように無視した。

 ここから出て、それで? なにをすると言うのだ、なにをやりたいと言うのだ。

 セレナには、「外に出たあと」のビジョンがまるでない。季生はそれをよく理解していた。

「前線に出てエクシーズの人間たちを狩るのだ」と高らかに宣言しているのを目前で聞いたことがある。そのとき、季生は「こいつには無理だろうな」と思った。プロフェッサーの懐刀、ユーリのように破壊や殺戮を好む性質でもなく、プロフェッサーの思想を狂信的に信奉しているわけでもなく、加えて素直で人の話を信じやすい。これだけ揃った状態で、エクシーズ次元の住民に命乞いをされたり、融合次元の異常性を説かれたりすればあっさり寝返るだろう。それでは季生たちアカデミア陣営は非常に困る。

 セレナは、世界を救うために必要だ。

 いくら季生に与えられている情報が少ないといえども、それだけはプロフェッサー直々に教えられていた。だから季生はセレナの健康管理に勤しむし、彼女の脱走を阻む。セレナをこの鳥かごから出してやる気など微塵もない。

 その上で、季生はうそぶくのだ。

「いつかプロフェッサーが許可出してくれたら、エクシーズでもシンクロでもスタンダードでも行こうな?」

「いつかっていつだ!?」

「そんなの俺にはわかるわけねーだろ」

 至近距離で叫ばれて辟易とする。ぎゅうっと季生の眉間に皺が寄った。

 唾が飛んだ。汚い。うるさい。捨てて帰りたい。

 心の中で文句の嵐が巻き起こるが、互いの立場上、それを実行できるはずもないのだ。ぐっと季生はこらえた。

 こういうとき、自分の立場が恨めしい。もっと力ある地位であれば。かすかに俯いた先に自分が着ている制服があり、季生はちっと小さな舌打ちをこぼした。

 彼が纏っているのは、三幻色である赤・青・黄のどれでもない。暗く、濁った黒だ。

 デュエル戦士たちは皆、神のカードの名と色を冠して所属を振り分けられる。季生のように黒に属する人間は、彼以外どこにもいない。三色から離れた存在は研究者グループや教官たちなど複数いるが、それでも黒は季生だけだ。

 だから彼はデュエル戦士ではないと判断される。定義される。戦士以下の、戦争で役に立たない召使い。しかし、セレナだけのために育て上げられた、一級の「人形」だった。十年前は替えが効いた役職だ。けれど、季生が最も優良な出来だと認められてから、季生は一人になったし、みんないなくなった。みんな役立たずのがらくたになり、壊れて、たった独りでみんなを育てた先生も消えた。季生だけが今も息をしている。

 その最高傑作の季生にも、地位、名誉、権力はない。アカデミアのカースト最下位だ。この島ではデュエルの強さこそすべてだが、成り上がる術のデュエルは、肝心の闘う機会が与えられない。上にいきたいと強く野心を抱いているわけではないけれど、もしもっと自由に振るえる力があれば、こんな、少女一人に生殺与奪を握られることはなかったのだろう。

 もっとも、セレナに仕えることは生まれたときから決まっていたことだから、このもしもは自分の選択、身の振り方でどうにかなるものではない。本当は、今生きているだけで運がよかった。ちっぽけな季生は常に蹂躙される側だ。どこまでいってもこの牢獄では弱者なのだ。がんじがらめに縛られて閉じ込められている。その点ではこの少年少女たちは運命共同体だ。

 けれど、与えられた(カード)だけは、季生の人権を確か足らしめるのである。

(闘う日なんて来ないくせに。俺にも、こいつにも)

 ハアーッと深い息を吐く。嫌なことを考えてしまった。意識を切り替えるため、わざとらしいくらいにセレナへ話題を振る。

「今日の飯はなにがいい?」

「……、ハンバーグ」

 拗ねたように、セレナが呟く。

 こういうところは本当に素直だ。季生から聞かれればセレナは答えるし、わからないことがあればセレナはすぐ季生に聞く。今までずっとそうだったから。信頼というより習慣なのだろうが。この女が自分を信頼しているとは、とてもとても。口が裂けても言えないし、天地がひっくり返ってもありえない。

 だがそれでいい。自分たちの間にはビジネスライクがあれば御の字だ。互いに尊重したこともなければ信じられるはずもないだろう。必要なのは利用価値だけだ。

 やっといつも通りになった気がして、季生はフッと小さく笑った。

「わかった。タネの冷凍があったはずだし、すぐに熱々のを出してやるよ」

 

 物資に限りがある、戦争真っ只中のこの世界で、食事のリクエストができるというのがどれほど贅沢か、セレナは知らない。

 がりがりの痩せっぽっちで発育の遅い自分に対し、くすみのない肌、ぐんぐん伸びていく彼女の背丈。色の良い爪と頬、つやつや光る手入れの行き届いた髪。やはり彼女はお姫さまだ。この島の王から大事に大事にしまい込まれた、アカデミアの宝石だ。

 比べることは無意味だと、虚しくなるだけだとわかっているけれど。仕事に従事し、彼女の世話をするほど、端々に隔たりを感じて季生の心は冷えていく。セレナから遠ざかっていく。それでも心無いまま世話を続けられるのだから、自分を教育した先生の手腕には感服させられるものだ。感情を切り離して仕事に従事できるのは、間違いなく自分の強みだった。だからまだ季生は壊れていないし、ここにいることができる。

 彼女は根本的に無知なのだ。そして自分が無知だなんて、欠片も考えたことがない。選民思想にどっぷり浸かり、子供ならではの全能感を、幼児期から未だ変わらず抱き続けていることだろう。しかし知らなくていいのだ。彼女はそれを許される。どころか求められているだろう。無知のままであり続けることを。だってそうしたら、彼女を管理している上の人間にとってとても都合がいい。

 外は怖いところだと思っていればいい。閉じ込められた離れだけを世界だと思っていればいい。管理された幸福を享受し続けろ。そうやって大人しくしていてくれたら、季生は仕事が減って万々歳だ! 

 彼女の部屋に入ってすぐ。ふかふかに整えたベッドにぽんと彼女を放り、季生は外から厳重な鍵を閉めた。

 疲労を訴えてくる目頭を数秒押さえて、眉間に深い皺を寄せたまま歩き出す。

 さあ、次の仕事だ。まずはセレナを定位置に戻したことを報告して、ゲートの封鎖を解いて、唯一の出入り口に待機してもらっていた教官に任務に戻ってもらい、そうしたら……。

 

 こうやって、日々は過ぎていく。

 セレナのために食事を作り、セレナのために掃除をし、セレナのために洗濯をして、ときどき教官相手にごねる彼女を宥め、たまにデュエルをした。人形がモデルのモンスターたちを手駒とする季生のことを、セレナは「女々しい」と鼻で笑う。彼女の男女観がどうやって形成されたか、考えるだに無駄なことだ。季生はなにも言い返さない。彼女は苛立ちをあらわに爪を噛む。季生は行儀が悪いと叱る。

 いつも通りの日々というのは、停滞した日常だ。ぬるま湯でふやけていくだけで時間は溶ける。こんな日々が永遠と続いていって、いずれ骨まで腐るのだ。

 気づけばエクシーズ次元に派遣される戦士の数が減り、静かなアカデミアが懐かしいものになりつつある。そんな時期、彼には仕事が追加された。

「影宮季生だ。お前の世話をすることになった」

 季生が新しく世話をするよう命令を下されたのは、セレナそっくりの、色違いの少女だった。

 

 

 一日目

 晴れ

 緑の方がリン、紫の方が瑠璃というらしい。今はかろうじて色で区別をつけているからわかるが、服や髪型が変わったらまず誰が誰だかわからなくなるだろう。彼女たちはクローンのようにそっくりだ。

 セレナが混ざるとろくなことにならないのは確実、絶対に近づけないこと、厳重な情報統制を求める。

 デュエルディスクとデッキは没収済み。管理者はロックを定期的に変えるように。

 

 二日目

 晴れ

 リン 食事をとっている。質素なメニューだが、食べているときの様子から、シンクロ次元はここよりも困窮しているようだ。比較的穏やか。

 瑠璃 食事は手付かず。格子越しに激しく睨みつけられる。プレートを出してもいらないと言い張るので、残飯は適当に処理した。

 

 五日目

 くもり

 リン バイタル良好。いくらか肌の色、髪の艶がましになってきた。食事は全部食べきっている。マナーはともかく気持ちのいい食べっぷりだ。健康状態を保ったまま留置するのなら運動をさせた方がいいと思う。要検討。瑠璃のことを心配している。

 瑠璃 食事を拒否。ハンガーストライキのつもりだろうか。死んだら困るのはこっちなのでプロフェッサーの指示を仰ぐこと。明らかに顔色が悪くなっている。昨日の記録と比べて水差しが減った様子がない。水を飲んでいない? 抵抗が激しくなっている。どこまでひどくしていいか上に確認をとること。

 

 六日目

 雨

 リン バイタル良好。いささか目の隈が気になる。眠れないのかと尋ねれば、当たり前だろうと怒った。確かに。瑠璃のように食事を拒まれてはたまらないので、睡眠薬などは混ぜられない。夜は消化しやすいものを出した。

 瑠璃 いつも通り一晩水差しを置いておいたがたいして減っていない。返事がないので中に入るとぐったりしている。脱水症状を起こしていたため、部屋から出して医務室へ運んだ。意識はぎりぎりあったため生理食塩水を飲ませ、ドクターに点滴を打ってもらう。今夜は入院。

 

 七日目

 晴れ

 リン 瑠璃のことをひどく心配している。命に別状はないと伝えると安堵してそのまま寝てしまった。ベッドに運んでおく。食欲あり、本日は二食。

 瑠璃 医務室で目を覚ましたとたん暴れた。速やかに拘束し部屋に運ぶ。いくらか元気が出たようだ。この調子で固形物を食べてほしいが、拒否されたので長く話し合った。理解したようだ。

 

 

 

「食え、飲め、俺からはそれだけだ。なぜ拒む? そんなに死にたいのか?」

「あなたたちにいいようにされるぐらいなら死んだ方がマシよ──!!」

 ベッドに手足を拘束された少女は絶叫した。革製のベルトがガチャガチャ音を立てる。

 暴れまわる元気まで回復するとは、あの医者が開発したドーピング点滴はかなり出来がいいらしい。季生もお世話になりたいくらいだ。ひょっとすると寿命が縮まりそうな予感もあるが、季生はありもしない未来より仕事に追い立てられる今を優先する。その間にも少女は可憐な唇と声に似合わぬ罵詈雑言を季生に投げかけていたが、思考が明後日に飛んでいる彼の耳にはそよ風ほどにも響かなかった。

 そも、こんな小娘一人、凄んだところでなにも怖くない。今まで優しくしていたからつけあがっているのだろうか? それは困る。世界救済の鍵となる大事な巫女には肉体こそ健康であってほしいが、精神は傀儡であってくれた方が大幅に楽だ。つい最近まで激しく侵略していたエクシーズ次元から誘拐してきた時点で、従順になってくれるとは考え難いのだし。

(あの寄生虫が完成したらさっさと洗脳できて楽なんだがなあ。あと半年はかかりそうってナメてんのか? 現場はそれどころじゃねえんだよクソが)

 時間は有限だ。キャンキャン吠える磔の少女の怒号をBGMにするのもそろそろ飽きてきた。罵倒は貧困なボキャブラリーゆえかループし始めている。ずいぶんお育ちのいいようで、と嘲笑を浮かべつつ、季生はゆったり口を開く。舌の準備は整った。ことさら厭らしく笑ってみせると、喧騒が止んだ。

「ははは! 誰がやすやすと死なせるなんて言った? 俺たちにお前は必要だ、自殺未遂を何度繰り返そうと無理矢理生かしてやるから安心するんだな。神様にお祈りでもするか? 大好きな家族にお別れは? 自分が自分でなくなる瞬間まで日を数えてみる? 憎い仇の本拠地に捕まったんだ。尊厳を踏みにじられる覚悟なんて、反逆することを決めた日からできているはずだろう? なあ、どんな風に心を折られたい」

 ピエロのように残虐なルージュをくちびるに。弓なりにしなる目尻は三日月のように。つらつらと流れ出る言葉は神経を逆なですることを最優先にして。

 優位に立っているのは己だ。底辺同士のみっともなく醜い争いだったとしても、融合のアカデミアとエクシーズのレジスタンス。ホームがどこにあるかという前提だけで、圧倒的なアドバンテージが季生にある。

 べらべらまくしたてた季生に怯んだか、彼女は口を挟むことなく悔しそうに唇を噛んでいた。しかし、一呼吸空いただけでキッと季生を睨みつけて、吼える。

「……ッ、卑怯者ッ! それでも決闘者!? それとも戦うことすらできない臆病者なのかしら、あなたに使われるカードがかわいそうね!」

 虚を突かれてきょとりと瞬いた。その後、すぐに口が曲がる。季生は痛む額を抑え、肺が空になるほど深いため息を吐いた。両の瞳に浮かぶのは絶対零度、軽蔑の眼差しである。文字通りの豹変。にやにやと意地の悪い笑みが浮かんでいた幼い顔から、ストンと感情が抜ける。ガラリと空気が塗り替わる。

 昆虫のような目だ。少女は背筋に怖気が走るのを感じ、言葉を切り上げて息を呑む。彼女の喉から間抜けな音が響いた。

「反論できないとわかった途端に人格攻撃か。思ったより頭が悪いな。すっからかんな頭を振ったらいい音がしそうだ。ははは」

 まったく笑っていない目で、口許で、彼が近づいてくる。その手が伸びてくる。少女は目を逸らすことも、瞼を閉じることもできず、見開かれた大きな瞳は彼の一挙手一投足に釘付けになる。目を離した途端に、ひどいことをされる。それは確信だった。

 ぴたりと添えられた手のひらは枯れ枝のように細く、頼りなく、冷たい。がさがさに荒れた手は自分のそれより明らかに小さいのに、どうしてかとても恐ろしかった。歯の根が噛み合わなくなってがちがち音が鳴る。

 彼は優しい声音で言葉を続けた。出来の悪い子供をたしなめるように、耳から甘い毒を吹き込んだ。

「生憎だが、ここのやつらは大半がリアリストでなあ。一人襲撃するのにスリーマンセルは当たり前、ビートダウンより高速回転バーン、エクシーズメタは侵攻の実行以前に確立されていた。この意味がわかるか? あの戦いは誇りを賭けた決闘なんかじゃねえ。生きるか死ぬか、蹂躙するかされるか、勝つか負けるかの戦争だ。いや、まさかこんな初歩的なことをわかっていないとは。さすがの俺も驚いた。案外襲撃が甘かったのか?」

 いっそ甘やかとも言える手つきでするりと頬を撫でた手が、少女の華奢な首筋へ移動する。

 季生は彼女の脈が速くなっているのを感じながら、その目を至近距離で覗き込んだ。焦点が合うぎりぎりまで、近づく。指先に少し力を込めて。

「そう、俺はリアリストだ。リアリストだから、言うことを聞かない馬鹿な子供に仕置きをすることもある。デュエルなんかじゃなく、暴力で、だ。こんなナリだが力だけはあってな、お前の首を絞めて気絶させるくらい造作もねえんだよ。さて──殺されるかもしれないと思うくらいの苦しみを何度も味わうのと、ベッドに拘束されたまま成分が定かでない点滴チューブで栄養を取って異性に排泄の世話されるのと、味のする固形物が食えて監視カメラのない水洗トイレが使えるのと。一番賢いの、ど~れだ」

 仄暗い瞳で、口許だけ皮肉気に笑う少年が、恐ろしくて仕方がなかった。

 瑠璃の全身ががたがた震える。泣きたくなんてないのに涙が出てくる。喉に食い込んだ指が冷たい。「いや」みっともないほど震える、己の声。先ほど相手をなじったというのに、プライドがないのはどちらだ? 暴力と痛みの予感に縮こまって、ぶるぶる震えて。なんとか毅然とした態度を、残ったかすかな反抗心でかき集めようとして。先に彼が言う。

「俺は別にいいんだぜ、ちょっと面倒なだけだからな。一番ひどいのを選んだところで。生命活動の維持だけできてりゃあ上の連中も満足だろう。重要なのはお前の人格・精神・意志なんかじゃなくて、存在と生きていることだけだ。ああ、さっさと答えてもらえなきゃ機嫌が変わっちまいそうだなあ。ん? どうした? あれだけピィピィ喚いてたんだから人間の言葉を話せるんだろう? ──返事は」

 目の前が真っ暗になった。

「……わ、かった、わかった、ちゃんとたべるから……だから、たすけて……はなして……」

 はく、はく、と何度か唇が無意味に開閉して、声をひり出す。顔は涙でべしょべしょになっていて、べたべたして気持ち悪い。鼻水が鼻の奥に溜まっている。

「いやあ、保身に走ってくれて助かった。その選択に感謝する。これ以上仕事が増えるとなるとさすがに俺がストライキを辞さないところだったぜ。ったくあいつら、人遣いが荒いとかじゃねえんだよなあ。人権ってなんだろうなあ。ああ俺は人じゃなかったな。さあて大人しく寝てろ、お嬢さん。重湯でも作ってやるよ」

 何事もなかったかのように指が剥がれ、彼が遠ざかる。瑠璃は呆然としたまま、ぐったりと拘束ベッドに身を委ねた。

 少年の腰に巻かれた赤い布がひらひら揺れて、部屋の外へ。鍵が閉められる重い音。

 あの赤が、故郷の仲間たちならどれだけ安堵しただろうか。己の腰にも結ばれているはずの赤いスカーフを思う。レジスタンスである目印、仲間の証明。すっかり心が弱っていた。ここに入れられてから一度も感じていなかった寂しさと恐ろしさが、さらに視界を歪ませる。

「にいさん、ゆーと、みんな……ごめんなさい、わたし──ごめんなさい、ごめんなさい……」

 目を閉じて、瑠璃は惨めにすすり泣いた。できあがった食事が出される頃にはもう心が折れかかっていて、むさぼるようにどろどろの重湯をすすった。その味とカロリーで満足していく舌と腹。ますます彼女は己に失望した。

 

 八日目

 晴れ

 二人とも抵抗が減る。できればこのまま大人しくしていてほしい。

 

 うっすらとできた隈を煩わしそうになぞりながら、季生は報告日誌を閉じた。そのまま部屋の隅、硬いベッドの上、膝を抱える。

 空虚だった。疲れていた。痩せ細った身体は鉛のように重く、血が通っているとは思えないほど冷たい。いや、己は非人間だから血なんか通っちゃいない。

「戦争、早く終わらねえかな……疲れた……」

 いつまで自分は、この地獄で一人きり、罪とも思わぬ罪を重ねていくのだろう。

 再教育中の生徒たちのうめきが聞こえる。夜は更けていく。明日もきっと、ここは地獄のままで誰も救われやしない。終末と共に世界が再誕し、人類が救済されるまであと何日かかるだろう。それだけが、この人形の希望の光だ。

 

 

 

 

「どこから入った?」

 声変わり前の、ともすれば透明感さえ伴う、若い女のような声が彼の身体を氷漬けにした。

 カツン、カツンと石畳に靴音が響く。その音に、彼はわざとらしさすら感じた。硬質な音が耳に入るほどに男の身体には恐怖が駆け巡っていたからだ。薄暗がりの中にある光源は、男のデュエルディスクとひどく淡い間接照明だけ。ひいと情けない声が上がりそうになる。

 命からがら元同胞たちから逃れてきた男は、人気の少ないところを目指して走っていた。自分がしてきた行いが正しいと思えなくなってしまったのだ。そして逃げ出した。裏切り者がどうなるか、知らないわけではない。けれどもう耐えられなかった! こんなものはただの虐殺だ! 救いではない! 

 今まで正しいと信仰してきたものはすべてまやかしである。もっと、ずっとおぞましく、残虐で、裁かれるべきもの。不幸なことに彼の人間性は善良であったし、善悪の分別も一般的だった。自分たちがしでかした罪の重さを知ってしまった。

 だから、この次元から脱出して、滅私の覚悟で罪を償おうとしたのだ。逃げ込む先に「その建物」を選ばなければ、きっと彼の願いは叶っていただろう。

 声が響く。男は全身を硬直させ、ぴたりと歩みを止めた。荒れた呼吸だけが音を立てる。声は思案するようにして、少し黙り込んでから再び口を開いた。

「……その服、オベリスクフォースだな。仮面はどうした?」

「……」

 男は答えない。逃げ込んだ先に人間がいたことで驚いたのち、警戒が働いた。この島において裏切りはもっとも重い罪だ。自分が脱走者だとバレてはならない。いつ声の主が通報するとも知れないからだ。だから、男から言えることはなにもない。

 はあ、とため息が落ちた。そして一人の人間が暗闇から溶けるように現れる。

「ここは関係者以外立ち入り禁止の区域だ。場合によっては侵入者をカード化する権限も与えられている。早急に出ていけ」

 暗闇から現れたのは子供だった。男よりもよほど小さく、手足は枝のようで簡単に折れそうだ。病的なまでに白い肌は貧弱そのもので、強者のオーラというものをまったく感じられない。あるのは妙にぎらぎらと光る紫の目玉だけだ。

 そしてなによりも、纏う衣服は三幻神のどの色でもない黒。自分のように実力を認められたエリートではない。そう男は判断した。

「どうした? 出ていけない理由でもあるのか?」

 デュエルでダメージを与え、ついでに突き飛ばすなりなんなりすればすぐに突破できる。それに、ここを出て再び逃げ場を探す時間的余裕は残されていない。追手はもうかかっている。切羽詰まった男はデュエルディスクを構えた。

「……これも仕事のうち、か。粛清の腕が鈍ってなきゃいいが」

 子供がなにか呟く。そして、彼もデュエルディスクを展開した。

 魔術儀式が始まる。

 

「デュエル!」

「デュエル!」

 

 TOKIO vs OBELISK FORCE

 LP:4000

 

「先攻は俺か。……俺は手札からフィールド魔法、《影牢の呪縛》を発動。このカードがフィールドゾーンに存在する限り、【シャドール】モンスターが効果で墓地へ送られる度に、1体につき1つこのカードに魔石カウンターを置く」

(効果で墓地に送られるたびに、ということは墓地に行くことで効果を発揮するカードが多いのか。墓地を肥やされると厄介だ)

「《シャドール・リザード》を通常召喚。さらに手札から魔法カード《魂写しの同化(ネフェシャドール・フュージョン)》を発動、シャドール・リザードに装備する。このカードは装備したモンスターの属性を宣言したものに変更する。俺は風属性を選択。そして《魂写しの同化》の二つ目の効果を発動する。このカードは一ターンに一度、このカードの装備モンスターを含む【シャドール】融合モンスターによって決められた融合素材モンスターを自分の手札・フィールドから墓地へ送り、その融合モンスター1体をエクストラデッキから融合召喚する」

「チッ、専用融合カードか! そんなものをどこで手に入れた!? お前は“黒”だろう!」

「支給されただけだよ、お前らの優等生デッキと同じようにな。──俺はフィールドのシャドール・リザードと手札のシャドール・ビーストを融合!」

 祈りの手が組み合わされる。

「闇より来たれ、“あしきかぜ”よ。吹き荒ぶ嵐、じゃあくの眷属、俺のかなしいマリオネット。融合召喚! 現れろ、レベル6! 《エルシャドール・ウェンディゴ》!」

 影と闇の混沌から、黒雷を伴ってモンスターが現れる。

 それは少女の形をしていた。杖を持ち、紫を基調とした衣装を纏う彼女は華奢で──陶器製のビスクドールのように無機質。背後に控えさせた紫のイルカ型モンスターからも、彼女と似た、異質な気配を感じられる。関節の一つ一つが人形然としていて、硬質な光を放っているからだろう。そして、彼女らからは命の輝きを感じられない。糸によって吊り下げられた身体は少年の五指へ繋がり、はめ込まれた三対のドールアイはあかい。その眼差しが虎視眈々と男を見つめている。

 今か今かと襲い掛かるタイミングを計っているだろう彼らは、けれど守備表示で召喚されていた。イルカ型モンスターの尻尾がゆらりと揺れる。少年の展開は淡々と続く。

「シャドールモンスターが墓地に送られたことで《影牢の呪縛》の効果が発動。魔石カウンターを2つ置く。墓地に送られたシャドール・ビーストの効果発動。デッキから1枚ドロー。さらに墓地に送られたシャドール・リザードの効果を発動。デッキから《シャドール・リザード》以外の【シャドール】モンスターを墓地に送る。俺はデッキから《シャドール・ファルコン》を墓地へ送る」

 カウンターが一つ乗り、三へ変動する。

「これによりシャドール・ファルコンの効果が発動。このカードを墓地から裏側守備表示で特殊召喚する。カードを1枚伏せ、ターンエンド」

 男は揶揄するように口を釣り上げた。

「壁モンスターを並べるだけとは、プレイングが消極的だな」

「そりゃあ、乗り気じゃないからな。俺の勝利条件はお前を追い出すことだ。今すぐにでもここを出ていくならサレンダーしたって構わないぜ」

「フン、私の勝利条件は違う。そしてお前を倒せばなんの問題もない! 私のターン、ドロー!」

 男の手札が六枚になる。この手札ならば、と男は頷いた。

「この瞬間、影牢の呪縛のもう一つの効果を発動。相手ターン中、相手フィールドのモンスターの攻撃力はこのカードの魔石カウンターの数×100ダウンする。今乗っているカウンターは3! よってお前のターンの間、お前のモンスターの攻撃力は300ダウンする」

 ぞわりとした寒気が男を襲った。反射的に足元を見れば、子供、モンスター、男の影すべてが蠢いて、男の足にぐるぐると巻きついている。そこから発生するプレッシャーはエネルギーを吸い上げるようにどくどく脈打ち、その力が己のモンスターの力を吸い取っているのだと否が応にも察せられた。

 男はぎりりと歯噛みした。

「小癪なッ……私は手札から魔法《トレード・イン》発動! 手札のレベル8モンスター《古代の機械巨竜(アンティーク・ギアガジェルドラゴン)》を墓地に送りデッキから2枚ドロー! そして手札からフィールド魔法《歯車街(ギア・タウン)》を発動!」

 デュエルディスクがカードを読み取り、男の背後にビジョンが形成される。それは街だった。クラシックな石造りの街に、所狭しと歯車が設置されている。時計のような観覧車、埋め込まれたボルト、ご丁寧にサーチライトまで歯車の形。まさに「歯車でできた街」といったところだ。

 ぴくりと少年の片眉が動く。

(いつものコンボか)

「さらに魔法カード《古代の機械射出機(アンティーク・ギアカタパルト)》を発動! 自分フィールドにモンスターが存在しない場合、自分フィールドの表側表示のカード1枚を対象として発動できる。そのカードを破壊し、デッキから【アンティーク・ギア】モンスター1体を、召喚条件を無視して特殊召喚する! 私は《歯車街》を破壊し、デッキから《古代の機械巨人(アンティーク・ギアゴーレム)》を特殊召喚! このモンスターは本来特殊召喚できないが、射出機の効果でそのテキストを無視できる」

 カタパルトで射出された光弾が街を破壊しつくし、ばらばらになった歯車が巨人を組み上げていく。

「そして破壊された《歯車街》の効果を発動! デッキから《古代の機械飛竜(アンティーク・ギアワイバーン)》を特殊召喚!」

 モノ・アイの鉄でできたワイバーンが飛来する。吼える声はハウリングを起こし、びりびりと空間を揺らした。男はばっと腕を振りかざす。

「特殊召喚された飛竜のモンスター効果発動! このカードが召喚・特殊召喚に成功した場合に発動できる。デッキから《古代の機械飛竜》以外の【アンティーク・ギア】カード1枚を手札に加える。この効果の発動後、ターン終了時まで自分はカードをセットできない! 私は《古代の機械巨人―アルティメット・パウンド》を手札に加える」

 デッキからカードが1枚吐き出され、男の手に渡る。少年がカードを確認したことを見届け、それは男の手札へ加わった。

「さらに手札から《古代の機械猟犬(アンティーク・ギアハウンドドッグ)》を通常召喚! モンスター効果発動! このカードが召喚に成功したとき、相手に600のダメージを与える! 食らえ、ハウンドフレイム!」

 躍り出たドーベルマン型のアンドロイドが口をかぱりと開き、そこにエネルギー弾が装填される。キュドッと音を立てて放たれた火の玉を防ぐ術を、相手は持っていないに違いない。彼は顔を庇うようにして腕を交差させている。伏せたカードを発動させる気配はない。

 これなら、確実にライフを削ることができる! 男は確信を持って手札を握る指に力を込めた。予想通り、エネルギー弾は少年の腕に直撃した。シュウゥゥ……と音を立てて、彼の袖が燃えてはらはらと残骸が散る。暗闇に肉の焼ける臭いが充満する。

 ぐるる、と場の猟犬が興奮した唸り声をあげた。食欲が刺激されたようだ。機械の身体を持っているだけで、彼らはれっきとした生命体だ。ごく自然に肉や植物を食らう。もちろんオイルやジャンクパーツを好む個体も存在するが、男のハウンドドッグは肉が好きだった。ついでに言うと、自分の炎で焼いた肉をなにより好む。時間さえあれば勝利の暁には喜んで食わせてやるところだが、今は一分一秒が惜しい。彼の腹を満たしてやることはできないだろう。男が生き延びない限りは、その機会は永遠に失われるのだ。

「飛ばしていくぞ! 私は古代の機械猟犬の二つ目の効果を発動する、1ターンに1度、自分の手札・フィールドから【アンティーク・ギア】融合モンスターカードによって決められた融合素材モンスターを墓地へ送り、その融合モンスター1体をエクストラデッキから融合召喚する! 私は手札の《古代の機械巨人―アルティメット・パウンド》と、フィールドの《古代の機械巨人》、機械猟犬を墓地に送り、融合召喚!」

 男の手と手が組み合わさり、祈りが赤と青の渦の向こうへと捧げられる。

「いにしえの巨人よ、真なる力秘めし巨人よ、機械仕掛けの猟犬よ! 今ひとつとなりて絶大なる力を表せ! 融合召喚、いでよ、レベル9! 《古代の機械超巨人(アンティーク・ギア・メガトン・ゴーレム)》ッ!!」

 ズズン……と空間が振動した。ぱらぱらと砂埃が舞う。腕が四本、足が四本。その姿は機械でできたアラクネのようだった。

 巨人が降り立つと同時に、少年はぴくりと眉を跳ね上げてばっと腕を振りかざした。赤く腫れあがった腕を、痛みを感じさせない動作で振るう。伏せられていたカードが光った。

「まだバトルフェイズに移らせるわけにはいかねえな! リバースカードオープン、速攻魔法発動! 《神の写し身との接触(エルシャドール・フュージョン)》! このカードは1ターンに1度しか発動できない。自分の手札・フィールドから、【シャドール】融合モンスターカードによって決められた融合素材モンスターを墓地へ送り、その融合モンスター1体をエクストラデッキから融合召喚する。さらに影牢の呪縛のもう一つの効果を発動! このカードがフィールドに存在する限り、自分が【シャドール】融合モンスターを融合する際に魔石カウンターを3つ取り除くことで相手フィールドの表側表示モンスター1体を融合素材にできる。お前の自慢の巨人には俺のマリオネットの素材になってもらうぜ。俺はフィールドの超巨人と手札の《シャドール・ビースト》で融合!」

「なんだと!?」

 ざわりと影が揺れ、糸のようにしなる。その一筋一筋がゴーレムに巻きついていき、もがく巨人の力に構わず飲みこんでいく。男は召喚したばかりのモンスターが消えていくのを見ていることしかできない。

 少年の小さな手が祈りの形に組み合わされる。暗闇と影が混ざり、混沌のマーブル模様が生み出される。朗々と祝福は紡がれる。

「闇より来たれ、“えいこうのゆみ”よ。王座の女神、安らぎは永遠、俺のうつくしいマリオネット。融合召喚! 現れろ、レベル10! 《エルシャドール・シェキナーガ》!」

 機械に縛りつけられ、それを玉座とした人形が降り立った。支配しているのは人形か、機械か。どちらが囚われているのか、どちらを縛りつけているのか。得体の知れない不気味さを感じ、男は背筋が粟立つのを感じた。

「墓地に送られたビーストの効果で俺は1枚ドロー。シャドールモンスターが効果で墓地に送られたことで影牢の呪縛の効果を発動。魔石カウンターが1つ乗る。カウンターの合計は1、下がる攻撃力は100だ」

 しかし、相手ターンでの、さらに相手モンスターを使っての融合という業を見せられても男は止まるわけにはいかない。己を奮い立たせ、プレイを続ける。

「超巨人の効果発動! 融合召喚した表側表示のこのカードが相手の効果でフィールドから離れた場合に発動できる。エクストラデッキから《古代の機械究極巨人》1体を、召喚条件を無視して特殊召喚する! 降臨せよ、究極巨人!」

 ケンタウルスのように、人間を模した上半身と四足動物を模した下半身を持った巨人が現れる。攻撃力は4400、さらに古代の機械上級モンスターはおおよそ「守備表示モンスターを攻撃した場合、その守備力を攻撃力が超えた分だけ戦闘ダメージを与える」という永続の貫通効果を持っている。子供のフィールドには裏側守備表示で召喚された下級モンスターがいる。防御力は1400。おあつらえ向きの獲物だ。影牢の呪縛の効果で下がる攻撃力など微々たるもの、ためらう理由はない。

「《シャドール・ファルコン》の蘇生効果を使ったのは失敗だったな。格好の的だ! バトル、私は究極巨人でファルコンを攻撃! この攻撃は貫通効果を持つ! アルティメット・パウンド!!」

「俺は《エルシャドール・ウェンディゴ》の効果を発動。1ターンに1度、自分フィールドのモンスター1体を対象として発動できる。このターン、そのモンスターは特殊召喚された相手モンスターとの戦闘では破壊されない。俺は効果の対象に《シャドール・ファルコン》を選択。戦闘破壊耐性を得る。シェーダ・ガスタ・ベール!」

「だがダメージは受けてもらう!」

 攻撃力が4300まで下がるが、そんな下方修正はあってないようなものだ。巨人の拳は振り抜かれる。

 強者の攻撃とは余波だけでもダメージを与えるものだ。ウェンディゴの作り出した風の盾によってセットされたファルコンは守られるが、プレイヤーの少年はそうではない。衝撃波が軽い身体を襲い、彼は数歩たたらを踏んだ。ライフは500まで削られる。

 あとは、次に回ってくる自分のターンに猟犬のバーン効果ででも焼き払ってやればいい。それで自分の勝ちだ。見たところ、少年の操るシャドールモンスターは打点が低い。レベル10の《エルシャドール・シェキナーガ》の攻撃力は2600だ。さらに影牢の呪縛の攻撃力を下げる効果は少年のターンには発動されない。彼は攻撃力4400のモンスターを処理しなければならないのだ。詰みだ。男は勝利を確信してにやりと笑った。

「ファルコンのリバース効果を発動。墓地からファルコン以外のシャドールモンスターを裏側守備表示で特殊召喚する。俺は《シャドール・リザード》を特殊召喚」

 こんなものはまだ序の口だ。そう言わんばかりに、少年は涼しい顔をしている。その態度に男はぴくぴくと青筋を立て、苛立たしげに唇を噛む。

「……私はカードを1枚伏せ、ターンエンドだ!」

「俺のターン、ドロー」

 デッキトップからカードを引き、少年はそれを確認する。ふむ、と頷いてから、そのしなやかな指が躍る。

「さっき殺しきれなかったことを後悔させてやるよ。これでこのデュエルは終わりだ。お前は、ここで、死ぬ」

 クッとその喉が音を鳴らした。少年は、男を嘲笑っていた。

 頭が沸騰しかけて、すぐに冷水をぶっかけられたように縮みあがる。身体がぞっと震えた。ライフの彼我の差は無傷の4000と、吹けば消し飛ぶような500だ。それなのに、喉元にナイフを突きつけられているような恐ろしさがそこにはあった。

(──なにをするつもりだ……!?)

「俺は手札から《影依融合(シャドール・フュージョン)》を発動。【シャドール】融合モンスターカードの融合素材を墓地に送ることで融合召喚する。相手のフィールドにエクストラデッキから特殊召喚されたモンスターがいる場合、自分のデッキのモンスターを融合素材にすることができる」

「デッキ融合、だとっ……!」

「俺はフィールドのウェンディゴとデッキの《ジゴバイト》を墓地に送り、融合。闇より来たれ、“むじゅんのよる”。俺のやさしいマリオネット。竜を呑み、玉座を呑み、今天から堕ちて再誕せよ! 融合召喚! レベル9、《エルシャドール・アノマリリス》!」

 その人形は竜だった。その人形は百合だった。

 ぞる、と渦巻いた影の中から、シェキナーガとよく似たモンスターが現れる。シェキナーガとは異なり、糸の拘束からは解き放たれていた。手のひらと足からは光線のように輝く紫の糸が伸びている。禍々しい天使だった。

 しかし、攻撃力は2700。男の予想と同じく打点は低い。なにも問題はない、はずだ。

「【シャドール】モンスターが墓地に送られたことで魔石カウンターが1つ乗る。さらに墓地に送られたウェンディゴの効果で、俺は墓地から【シャドール】魔法、罠カードを手札に加えることができる。俺は《魂写しの同化》を手札に加える。さらに《シャドール・リザード》を反転召喚。リバース効果発動! フィールドのモンスター1体を対象として発動できる。そのモンスターを破壊する! 俺は究極巨人を対象に選択、破壊!」

「ちぃっ!」

 究極巨人は古代の機械テーマの共通効果に漏れず、バトル中の魔法・罠を封じることができるが、モンスター効果へのメタはない。なすすべもなく破壊されてしまう。

「だが、私は究極巨人のモンスター効果を発動する! このカードが破壊された場合、自分の墓地の《古代の機械巨人》1体を対象として発動できる。そのモンスターを、召喚条件を無視して特殊召喚する! 甦れ、《古代の機械巨人》!!」

 砕け散ったパーツが組み上がり、ゴーレムは再び立ち上がる。子供は嫌そうに顔をしかめ、ため息を吐いた。

「懲りもせずリクルートしやがって。いい加減飽きてきたよ」

 白々しい。男は舌打ちをした。柳に風、子供は揺らがない。

「俺は《魂写しの同化》を発動、リザードに装備。リザードの属性を光属性に変更する。さらに《魂写しの同化》の効果を発動。このカードの装備モンスターを含む、【シャドール】融合モンスターカードの融合素材モンスターを自分の手札・フィールドから墓地へ送り、その融合モンスター1体をエクストラデッキから融合召喚する。俺が墓地に送るのは光属性になったフィールドのリザードと、手札のヘッジホッグだ。二体のモンスターを融合!」

 ぞるぞると影と闇が混沌を生む。

「闇より来たれ、“おちてきたもの”。神と人、目に映らないもの、輝く巨人。俺のあいするマリオネット。融合召喚、現れろ、レベル8! 《エルシャドール・ネフィリム》!」

 糸が伸びる。影が拡散する。闇と同化し、広がり、すべてを飲みこむ。

 そこに光が現れたとき、男は凍りついた。人形は神のように男を見下ろし、子供を守るように空から手を伸ばしていた。出かかった悲鳴はヒュッと間抜けな音を立てる。

(──お、大きすぎる……! なんだあれは!? 混沌巨人(カオス・ジャイアント)より大きいじゃないか!)

 男の膝はガクガクと震え始める。表示されたステータスと威圧感が一致していない。絶対に、なにか恐ろしい効果を有している。それはデュエリストの直感だった。

 じわじわと伸びてきた糸が自分の首に巻きつき、その首を絞め落とす瞬間を今か今かと待ち構えている。拭いきれない恐怖が、心臓を激しく脈打たせる。こちらを見つめる紫の瞳が恐ろしくて仕方がなかった。

「リザードとヘッジホッグが墓地に送られたことでカウンターが2つ乗る。さらにリザードの効果発動、デッキから《シャドール・リザード》以外の【シャドール】カード1枚を墓地へ送る。俺は《影依の原核(シャドー・ルーツ)》を選択、墓地に送る。墓地に送られた《影依の原核》の効果発動。このカードが効果で墓地へ送られた場合、《影依の原核》以外の自分の墓地の【シャドール】魔法・罠カード1枚を対象として発動できる。そのカードを手札に加える。俺は墓地から《神の写し身との接触》を手札に加える。次にヘッジホッグの効果を処理、デッキから《シャドール・ビースト》を手札に加える。そしてネフィリムのモンスター効果発動、このカードが特殊召喚に成功した場合に発動できる。デッキから【シャドール】カード1枚を墓地へ送る。俺はデッキからファルコンを墓地に送り、効果発動。自身を裏側守備表示で特殊召喚する。カウンターが1乗る」

 すさまじいスピードで墓地が肥えていき、それなのに子供の手札は増えていく。融合素材に加えて3枚墓地に送られ、デッキと墓地から2枚手札に加わり、モンスターが1体召喚された。なにが起きているのだ。空恐ろしいものが男の身体を通り抜けていく。

「そして、手札から速攻魔法《神の写し身との接触》を発動。自分の手札・フィールドから、【シャドール】融合モンスターカードの融合素材モンスターを墓地へ送り、その融合モンスター1体をエクストラデッキから融合召喚する。俺はフィールドのファルコンと手札のビーストを墓地へ送り、融合」

「三回連続、融合召喚……? おまえ、おまえは、なぜそんなに強い。それだけの力がありながらなぜ──」

「知るかよ。プロフェッサーが決めたことだ。生まれたときから死ぬ瞬間まで、俺はずっと“黒”。それだけだろう」

 手が、指が組み合わさる。三度(みたび)祈りは聞き遂げられる。

「闇より来たれ、“さがしもとめるもの”よ。永劫の祈り、世界を繋ぐ糸、俺のかわいいマリオネット。融合召喚! 現れろ! レベル5、《エルシャドール・ミドラーシュ》!」

 溶け合った影の中から、四体目の融合モンスターが現れる。先に出てきたのは鳥類のような顔をしたドラゴン。そして、その上に乗って緑の髪の少女が出現した。いや、少女ではなく少女人形という方が正しいだろう。今までのシャドール融合モンスターと同じように、本来人体にはないはずの金のリングが、関節部にあった。青ざめた肌は先に召喚された《エルシャドール》モンスターと同じだ。しかし、なぜだかミドラーシュにだけは糸が繋がれていなかった。

 それがなにを意味するのか、男が理解する日はやってこない。

「ビーストの効果で1枚ドロー。墓地に送られたシャドールモンスターは2枚、カウンターが2つ乗る。バトルだ。俺はネフィリムで《古代の機械巨人》を攻撃」

「血迷ったか! 《古代の機械巨人》の攻撃力は3000、お前のモンスターの攻撃力は2800! それとも自爆することで発動する効果が──」

「その通り。お前が正規の手段でそいつを召喚していれば、こうはならなかったんだが……まあ、お前が招いた結果だ」

 子供は淡々と詰めの一手を示す。

「《エルシャドール・ネフィリム》のモンスター効果を発動。このカードが特殊召喚されたモンスターと戦闘を行うダメージステップ開始時に発動する。そのモンスターを破壊する。お前の《古代の機械巨人》は召喚条件を無視して特殊召喚されている。よってダメージ計算を行わずに破壊だ。──もうリクルートはできないだろ?」

「まだ、まだだ、私は罠カード《古代の機械蘇生(アンティーク・ギアリボーン)》を……」

「《エルシャドール・アノマリリス》の効果で、このカードがモンスターゾーンに存在する限り、お互いに魔法・罠カードの効果で手札・墓地からモンスターを特殊召喚できない。蘇生は無効だ。諦めろ」

「さあ、バトルの再開だ。アノマリリスで飛竜を攻撃。アルマロス・レーザー」

 放たれた光線がワイバーンに巻きつき、ばらばらのスクラップに変える。1000のダメージが男を襲う。

「続けてシェキナーガでダイレクトアタック。シェキナ・キリング」

 悲鳴。明滅。ライフが400まで削られる。

「これで終わりだ。ミドラーシュでダイレクトアタック。シーキング・ストリングス」

 0が刻まれる。デュエルは終わった。吹き飛ばされた男はなおも逃げようともがくが、その身体はずたずたに切り裂かれていて、身じろぎは痛みしか与えない。

「大丈夫だ、俺たちは救われる。新世界で会おうぜ」

 吹き飛ばされた男に子供がデュエルディスクをかざす。その顔が笑みを浮かべていたのなら、嫌悪と罵りをまき散らしていただろう。けれど男はずっと怯えていた。喜びも悲しみも感じさせない、どころかかすかな哀れみを伴う平坦な声と、人形のような無表情が怖くて仕方がない。

 自分と同じ人間だと思いたくなかった。

 ──そして彼の意識は断絶する。

 

 

 

「あー、リン、飯」

「はーい……ちょっと季生!? あんた、その腕と顔どうしたの!!」

「焼けた」

「焼けたじゃないでしょ! ひどい怪我じゃない、早く治療しないとっ……」

「物資が無駄だろ……」

「なに言ってんの!? それになにをしたらそんなことになるのよ!」

 季生は深くため息を吐き、触れていいのか迷う素振りの手を退けた。羽虫を払い落とすような仕草だった。

「いい。あとでやる。プレートはそのうち取りに来るから」

「こら! 待ちなさい!」

 聞き流して鍵を閉める。防音性の扉を完全に閉めたら、彼女の騒ぐ声はぷつりと途切れた。

 次に瑠璃の独房に向かい、ノック。やはり動かすと腕が痛む。反射で眉が寄り、仏頂面がさらにひどくなった。

「瑠璃、入るぞ」

 返事を聞くより早く、無遠慮に扉を開ける。

「……どうぞ」

 ベッドの上、横になって壁側を向いていた少女は、不満をあらわに声を発した。返事をしてから入れと言いたげだ。理解していながら、季生は無視をする。彼が支配する側であり、彼女が支配される立場である限り、そんなやりとりが成り立つ日は決して来ない。

 季生は音を立てずに、テーブルへプレートを置いた。

「今日はオムレツとサンドイッチだ」

「なあに、手抜き、……!? なに、その腕!! やけどしてるし、顔だって傷が」

 寝返りを打ってこちらを認めた瞬間、がばりと瑠璃が跳ね起きた。そのままベッドを飛び下りて、腕に手を伸ばしてくる。季生の顔に、さっと冷たいものが走った。

「っ、触るな!」

 叫んで、力いっぱい、細腕を叩き落とす。バシン、と乾いた音が響いた。

「きゃっ」

「ぐっ……」

 勢いよく伸ばした腕の皮膚が引き攣れて、熱と痛みが駆け抜ける。うめき声を押し殺す少年に触れようとして、瑠璃はぴたりと手を止めた。ついさっき拒絶されたばかりなのに同じことを繰り返すのは愚かである。代わりに、彼の名前を呼ぶ。

 叩かれた手の甲がひりひりと痛んだ。

「ねえ、どうしたの……なんでそんな怪我を。ここはあなたのホームでしょ……?」

 ホーム。その言葉を聞いて、季生のあどけない面差しに浮かんだのは、間違いなく嘲笑だった。それが誰に向けて浮かべられているのか、瑠璃にはわからない。

「……なんなんだろうな、お前ら二人は」

 絞り出すように、嗄れた声が、彼の喉から落ちた。

「え?」

「あれだけぎゃんぎゃん喚いて、特にお前は妙にガッツのある抵抗をしてたくせに、自分を閉じ込めてる側の、俺の怪我なんか気にしてる。変な女たち。意味がわからねえ。そこは喜んで、逃げる隙を突くもんじゃねえの?」

「へ、変って、あなたね! 私を人でなしみたいに言うんじゃないわよ! せっかく人が心配してるっていうのに!」

「心配? もっと変だ。とうとう頭がおかしくなったか?」

 喉の奥をくつりと鳴らす。ひどい言葉とは裏腹に、さっきとは笑みの種類が違った。彼の見た目にそぐわないのは、変わらなかったけれど。瑠璃はなにも言えなかった。

 そのあと、空になったプレートを片付けに再び彼女らの部屋を訪れると、二人して適当に巻かれただけの包帯に対して怒り狂った。季生はなぜ怒られるのかわからず混乱して、なにも言い返さずに叱られていた。

 

 

 

 ここは退屈だ。

 

 

 

 デュエルがしたい。思わず漏らしたとき、彼女のこめかみには冷や汗が浮かんだ。容赦なく突っぱねられれば御の字、ひどければ食事抜きとか、暴行。間違いなく罰が始まるだろう。季生の、看守の目の前で「武器がほしい」と言ったようなものだからだった。

 狭い部屋の中、唯一寝そべることができるベッドの上で身体をこわばらせ、リンは縮こまった。いつ衝撃が飛んできてもいいように、全身に力を入れる。彼から暴力を振るわれたことはなかったが、必要とあらば彼はためらわずにそうするだろう、と想像できる程度には、リンは賢い少女だった。

 だから、いつまでたっても警戒していた衝撃がこなかったことは、彼女を不審がらせた。そろりと頭を庇った腕を外し、立ったままのはずの少年を見上げる。彼はいつもより難しい顔をしていた。小さな口が、開く。

「……デッキやディスクは無理だが、シミュレーターくらいなら……上に掛け合ってはみる」

「え?」

「んだよ、いらねえんだったらいいけど。書類作るの面倒くせーし」

「やだ! デュエル!! デュエルしたい!」

「はいはい、期待せずに待ってろ」

 そして、部屋を出ていく。なにもないまま。どころか、リンに親切にするようにして。

 鍵のかかる音を聞くと、肩から力が抜け、ぼすんとベッドに倒れ込む。正直、拍子抜けだった。今日もスプリングはいい調子。

 今の環境に順応してきていることに対し、リンは、まずいかなあとうっすら思っていた。自分は拉致の被害者であり、ここは加害者から提供された環境なのだから。

 けれど、ここは自分のいた場所よりもずっと安全で、快適だ。空調が利いていて寒さに震えることがない。今まで食べたことがないぐらい、温かくておいしい食事が、毎食出てくる。病気の心配もしなくていい。いつも清潔な服を着ていられる。ベッドはふかふかしていて、連れてこられた当初、もっとリンがのんきだったら、飽きるまでベッドの上で弾んでいただろう。

 もっとも、気が抜けそうになるたび、幼馴染そっくりの顔が凶悪な笑みを浮かべて追いかけ来るさまを思い出した。そのたび、一人震えていた、というわけである。あの、ユーゴそっくりの少年のことを思い出すとすぐ、全身に怖気が走った。

 でも、でもだ。リンがうなされるたびに、「彼」はリンの様子を見に来た。それは瑠璃にだって同じはずだ。瑠璃のことを教えてくれたのも、二人が通信機越しに会話できるよう尽力したのも、他ならない季生だったのだから。

 朝から晩まで二人に関わることで働いている。なにより、ここに来てから彼以外の人間は一切近づいてこない。姿も見せないほどだ。瑠璃はもちろん、季生にも、リンが気を許し始めるのは時間の問題だった。

 本当は、彼も「敵」なのだから、そんな甘いことを考えられやしないはずなのだけれど、だけど、でも。状況を受け入れてしまえば、彼は丁重に少女たちを扱ってくれた。それを信じたいと思ってしまう。与えられるものに感謝の念を抱いてしまう。

 彼女の心理の変遷を異常だと指摘できるのは、少年少女たちを俯瞰的に眺めている人物だけだっただろう。

「ほら」

「なに、これ」

「デュエルシミュレーター。使い方は内蔵データにある。試しにやってみろ、瑠璃とは対戦できるぞ」

「本当!? ありがとう、すごく嬉しい!」

 リンは明るく笑った。

 

(人、それをストックホルム症候群と言う)

 カツカツ、カツカツ。見回り中に彼女の笑顔を思い出し、季生は内心嘆息した。リンは、季生のことを信用し始めている。

 けれどこの頭は冷酷な答えを下した。わかりきったことだ。自分たちは加害者、彼女らは被害者。いくら季生が甘い顔をしようが、やっていることは拘束、軟禁、あるいは監禁である。その事実はどうにもならない。そしてそれはこれからも同じだ。変わらない。

 

 

 

 何回も書いては却下された申請が、ようやく通った。頼れる相手はいない。一人で煮詰め続けて、やっと結果につながった。

 ほう、と息が漏れる。これで、やっとあの二人に、彼女らのデッキデータを渡すことができる。代償は「シンクロ次元とエクシーズ次元のデッキ運用データの収集」、「彼女らのプレイングを研究し、対策を立てること」。

 ひどい裏切りだと、季生は自嘲した。彼女らに対するこの行為を「裏切り」だと認識する時点で、もう、相当ほだされてしまっているのだ。心臓がキリキリと痛む。「先生」から教えを受け、底辺から這い上がって、セレナの面倒だけを見ていた頃は、こんな痛みは知らなかったのに。

「どうして?」

 これはいったいなんだというのだ。この数週間だけで多くの苦しみが季生を襲った。

 そして、おそらく幸福と呼ぶのだろうものも。

 足を止めて、胸を強くつかんだ。だめだ、このままじゃ、このままでは、“役立たず”どころか不用品になる。ガラクタになってしまう。そうしたら、どんなことになるかぐらい、季生は嫌になるほど知っている。

 ボールのように投げ捨てられる肉体、散らばるカード、ショートしたデュエルディスク。積み上げられた誰かたち。人でできた山。フラッシュバックが襲ってくる。

「不用品」たちが処分されていった事実は未来永劫、季生の記憶から消えない。自分が完成品である以上、それは背負わざるを得ない業である。

 よたよたと、鉛のように重い足を再び動かす。それでも、一度思い出した光景は、こびりついて離れない。それどころか、壊れたレコードのように繰り返し、繰り返しあの景色を頭に刻み込んでくるのだ。

 覚えている。覚えているとも。

(忘れられるはずがない)

 あの山を築いたのは、他でもない影宮季生だったのだから。

 優しさはいらない、慈悲などいらない。だってそれは苦しみと鏡合わせだ。知れば、触れれば、どんどん自分は人間になっていく。命令に忠実なアカデミアの人形でなくなってしまう。そうなれば、自分はもう用済みだ。それは自己の崩壊につながる道だ。

 お願いだ、やめてくれ。そんなの知りたくない! 

 たった二人の無力な少女が、自分を守るために作ったアイデンティティの城壁を破壊しに来る。恐ろしいに決まっていた。

 地獄への道は善意で舗装されていると言うが、まさにその通りだと舌打ちをするほかない。

 

「季生、あのね……」

「………………」

 夕食を持って行った。彼女は嬉しそうに瑠璃とのデュエルがどれだけ楽しかったか、カードの話でどれだけ盛り上がったかを話していた。季生の目の焦点は合っていない。ただ、機械的に相槌を打って、きりのいいところで部屋を出ていく。

 リンは彼の様子に気づかなかった。けれど。

「今日のあなた、ちょっとおかしい」

「……めろ」

「変よ。この前はもっとちゃんと、こっちを見張って」

「やめろ!」

 ガシャン! 

 力任せに叩きつけられた小さな窓がわんわんと音を響かせる。瑠璃は耳をふさいだ。唯一の出入り口が閉まって、すぐに鍵がかかる。

「俺を、哀れみの目で、見るな!!」

 ガン! と扉を殴る音。血を吐くような叫び。

(ああ、かわいそうな人)

 自分でも驚いたが、瑠璃は、その声を聞いた瞬間、季生を憐れんでいることに気づいた。

 

 

 

 ここは、暗い。

 

 

 

 最初は警戒、続いて怯え。この前は憐憫。じゃあ、今は? 

 閉じ込められた部屋、一人で物思いにふける。今はデュエルをするのも、リンと話すのも、その気分にはなれなかった。窓のない部屋だが、通気口を伝って外からしとしとと雨音が聞こえてくる。

 ベッドの上で丸くなり、考えるのはあの男の子のこと。瑠璃より、友人のユートよりも小さく、小枝みたいな手足をしたあの子のこと。

 二日前に会ったとき、いつも無表情か不機嫌そうな仏頂面の季生だが、やけに影が差して見えたのだ。瑠璃を見る目は茫洋としていて、焦点は合っていない。聞く態度は上の空。明らかにおかしいとすぐに気づくくらい、変だった。

 疲れているのかな、と思って、でも心配するのはものすごく嫌だったから、代わりに変だと言ったのだ。途端、彼はみるみる表情を変えた。乱暴に小窓を叩きつけ、悲鳴のような絶叫が響く。「俺を見るな」と、泣き喚くようにヒステリックで悲愴なボーイソプラノ。

 かわいそうだと思った。なにかに怯えているのだ。そしてそれは、瑠璃やリンがもたらすものなのだろう。

 あの声を思い返すほど、季生の幼さが骨身に染みる。女の子みたいに高い声は、声変わりがまだだということ、第二次性徴が始まっていないことを伝えてきて、きっと、季生は瑠璃よりも年下のはずなのだ。仮に多く見積もっても、中学一年生だろうか? それでも瑠璃より幼い。

 加えて、彼はしっかりあちらの責務を果たしているのに、捕虜の瑠璃からすら冷遇されているのだろうかと疑問を持たれるくらい、栄養状態が悪いように見える。肌の色は色白を通り越して蒼褪めているし、あの年ごろの少年がすらっとしているといえども、身体の小ささと細さが異常だ。たまに目の下にくっきりと隈を作っているときもある。子供特有の柔らかさが欠片も見当たらない。あるのはアーミーナイフの切っ先のような鋭さだ。彼は、身体の頼りなさに不釣り合いな力を有している。瑠璃の周囲にいた子供たちのどのパターンとも違う。

 瑠璃にとって同い年以下の男の子という生き物は、自分たちよりちょっと幼稚な存在だった。兄の友人であり、自分の友人でもあるユートだって落ち着いているが、ときどきすごく子供っぽい。女の子の方が精神の成熟が早いとはよく言うし、それが当たり前だった。

「融合次元じゃ、最初から子供でいられないのかな……」

 ここはハートランドと全然違うらしい。あの、ユートと同じ顔で、まったく異なる邪悪な笑顔を浮かべる少年のように。そして、季生はちっとも子供らしくない。釣り気味の目は大きいけれど、纏う空気と、彼を形作るパーツには大きな断絶がある。最初の頃こちらを見つめる瞳はとても冷ややかで、底が知れなかった。冷徹な視線はカメラレンズのように無機質で、すぐに敵だと判断できる顔つきだった。

 ごろりと寝返りを打つ。しとしと、しとしと。雨はまだやまない。

 氷のように頑なだった季生が、揺らぎ始めている、と思う。

 食事メニューをリクエストしたら、応えてくれるようになった。データだけだが、カードに触れられるようになった。無口のくせに、短い会話を交わすようになった。身体を動かしたいと言えば、運動場らしき場所に連れていってくれる。

 そういう行動に、リンが笑顔で、瑠璃がそっけなく「ありがとう」と言うたび、あの紫の目は揺れるのだ。近頃の彼は弱々しくさえ見える。

 最初の頃、彼が冷たく言い放った言葉を思い出す。あのときはカッとなって、「上等だ! たぶらかしてでも、懐柔してでも、絶対ここから逃げ出してやる」と内心息巻いたものの、その直後に鼻っ柱を折られたのだ。あのあと、怯えきって一人震えていた瑠璃が、どうしてこうなると思えただろう。

 雨脚が強くなった。今は何時だろう。この部屋に時計はない。今が朝か、夜かもわからない。徹底された監禁場所だ。

 肺が空っぽになるほど、深いため息を吐く。

 どうしていいのか、わからない。

 逃げなければ、帰らなければと思う。デュエリストの魂であるデッキを取り返し、故郷に帰って、侵略を続けている融合次元の戦士と戦わなければ。彼女たちの、平和で笑顔があふれていたハートランドを取り戻すために。戦意は変わらずこの胸に息づいている。それなのに、自分の世話をしてくれた彼と戦うことにためらう瑠璃もいた。世話をしているって言ったって、閉じ込めているのは彼と彼に世話を命令した誰かなのだから、本当ならば瑠璃は季生に敵愾心を抱き続けていなければならなかったのだ。それなのに、瑠璃は迷いを抱えてしまっている。

 季生のような存在と触れ合ってしまったことが、確かに瑠璃の足を引っ張っているのだ。知ってしまえば、知らなかった状態には二度と戻れない。一度深いところに触れてしまったら、「あの子も可哀想な子供なのでは」と、勝手に想像してしまう。

 衣食の余裕にぬくぬく甘えている現状は、食うにも困っていた仲間たちへの後ろめたさと、どうして融合次元は瑠璃やリンをさらったのか? ハートランドを襲ったのか? という疑問を呼び起こす。避難所で暮らしていた、その日を必死に生きていた頃には、考えることすらできなかった。

 リンは、ここに来るまでその日の食事にありつけるかどうかというような、過酷な生活を送っていたそうだ。だから、ここでの暮らしはそう悪いものではないと。季生に心を開きつつある彼女に、彼女の故郷も侵略されるかもしれないと言うことができなかった。

 どうしたらいいのだろう? そればかりがループする。痩せっぽっちな身体と、ぶっきらぼうで憎まれ口を叩くくせして、手探りのコミュニケーションを思い出してしまう。考えてもどうしようもないことだと、彼ら二人を切り捨てるには、自分は優しすぎたらしい。なんて愚かなのだろう。誰も傷つかない道があったなら、と夢想してしまうようになるなんて。

 ため息が次から次へとあふれてくる。ほだされているのは、瑠璃も同じだった。

 

 

 悪夢を見た。

「あいつら」が俺の手足を引っ張って、身体をばらばらに引き裂いていくのだ。俺が痛いと叫んだら、あいつらは「痛いなんて人間みたいだ」「うそつき」「俺たちだって痛かった」「私たちもつらかった」と、口々に嘆く。

 お前も俺たちのように廃棄処分されるんだ。

 耳障りなノイズが直接脳みそをかき混ぜた。

「違う! 俺はまだ戦える、働ける! ちゃんと、プロフェッサーにとって有用な存在だッ……中途半端だったお前らとは違うんだよ! そうでなきゃ、あの中から俺が生き残れるわけがないだろう!!」

「『俺』ってだあれ」

「お前はだあれ」

「人形に人格(エゴ)なんていらないよ。腕が三本あるみたい。余分なパーツは減らさないと」

「だってお前は『完璧』なお人形だものねえ!」

 無数の手が流れ込んでくる。俺の腹を開いて、刺して、貫いて、破壊していく。その中にはあの二人もいた。俺が唯一生まれたときから持っているものさえ、容赦なく奪っていく。

 嫌だ! 嫌だ! 俺が俺でなくなってしまう! おかしくなる!! 

 それはとても恐ろしいことだった。削ってきた思考も、操作してきた感情も、なにもかも失ってしまうと思った。必死にもがいて、とられたそれを奪い返そうとする。

「お前は誰だ?」

「俺は──!」

 なんと答えたのだったか。仕事を始めるうちに忘れてしまった。

 

 

「泣いてるの?」

「はあ?」

 時間通りに朝食を持っていったら、彼女は意外そうに目を丸くした。

 泣く? 俺が? そんな馬鹿な。動揺を誘うにしたってもっとまともな嘘があるだろう。

 そう、鼻で笑った。それなのに、瑠璃の顔がにじんで見えて、さらには頬を液体が濡らすではないか。ぎょっとして、季生はすぐさま小窓を閉めた。そのまま鍵も掛ける。

 彼女はコンコンと扉を叩いた。

「ねえ、開けてよ」

「そうやって、隙をついて逃げる気だろう」

「逃げないわ」

「嘘だ」

「この距離じゃ、あなたの涙だってぬぐえないでしょう」

「……いやだ。さわらないでくれ」

「どうしても? デッキに誓ったっていい」

 彼女の声音は本気だった。どうしてそんなことを言う? なぜ己の魂にも等しいデッキに誓いまで立てて、季生の涙を気にする? わけがわからないまま、季生は力なく首を横に振る。

「なんで俺みたいな替えの利く存在をそんなに気にする? なんでお前たちは今まで組み立ててきた俺を壊そうとする? 全部お前ら二人のせいだ、今わけがわからない涙が出ているのだってどうせストレスで脳がバグっているだけで俺は悲しくもなんともないんだよ。二人増えたせいで仕事が三倍だ。あークソ、忌々しい……!」

「──泣いているのはつらいから?」

「つらい? そうだな、つらくなった。生まれたときから、ずっと、ボロ雑巾みたいにこき使われて、それを当たり前みたいに思っていたっていうのに、瑠璃もリンも俺を気遣うような真似をする。打算なしで俺に優しくする人間なんていなかった。なんだよ、本当に。一番意味がわからないのは、お前ら二人に踊らされてる俺自身だ!」

「お前たちには四つの世界を救ってもらわなきゃいけない、だから世話をしなきゃいけない、俺が世話をするのは上から命令されたからで、間違ってもお前たちが──」

 すき、だなんて。いいやつだとか、馬鹿なやつだとか、そんな親しみを抱いているだなんて。ありえない。ありえない、ありえない! 

 そんな感情は知らない。いらない。誰かを好ましいと思っていた頃なんて、もう思い出せない。すきだったものは季生が「完成」するために全部壊したのだ。

「ずっと、ここにいればいいんだ。快適な空間は用意したし、娯楽だって提供してやる。家に帰せはしないが、それも世界を救い終わったらきっとできる。だからそれまで、閉じ込められていてくれ」

 ナイチンゲールは鳥籠に。薫風はガラスケースに閉じ込めて。たとえ二人が大空を自由に飛べなくたって、そのうつくしい声と音がこの世界に必要だ。ここにいてくれさえすれば、自分が守ってやれる。だから、大人しく籠の中にいてほしい。それなのに、

「ねえ、じゃあ、一緒に逃げたらいいわ。あなた、今のままじゃ死んでしまいそう」

 どうしてそんなことを言うの? 

「……お前、本当に、ばかだな?」

 季生はぐしゃぐしゃの顔で、ピエロのように笑った。

 

 斯くて賽は投げられる。出目はさてはて、狂気の沙汰。

(俺は狂信者になれなかった)

 

 

 

 彼が私の部屋に常にいるのをやめて、どれくらい経っただろうか。そもそも最後に会ったのはいつだっただろう? いつの間にか、あいつは私の世界からいなくなっていた。

 口うるさいやつが消えて清々したとすら思っておらず、そもそも彼がいないということに気づいていなかった。いるのが当たり前というのは、存在を空気のように思っているのと同じことだ。だから、少年がいてもいなくても同じだった。私はいつも閉じ込められている現状にイライラしていたし、隙あらば逃げ出すつもりでいたのだ。障害となるのは教官を担当していた男だけであり、彼を説き伏せた以上、怖いものはなにもなかった。

 スタンダード次元に着いたときに、「帰ったら季生からも説教ですよ」と渋面苦み走ったバレットに言われてようやく思い出したほどである。その言葉によって彼の説教話は長い、という情報も脳が引っ張り出してきたので、私はげんなりしていた。

 しかし、異なる次元で武勲を立てたならばプロフェッサーも己を見直さざるを得まい。そうに決まっている。それは季生も同じことだ。となれば、私がやるべきことはエクシーズ次元の残党を一人でも多くカードに変え、意気揚々と凱旋することである。

 帰ったら、またあいつにハンバーグを作らせるのだ。

 少女は自信と希望にその貌を輝かせて、舞網市へ降り立った。

 

 

 

 一緒に逃げたらいい、連れていって。そう言って、彼女は季生に手を差し伸べる。

 それを拒むには、季生は弱くなり過ぎた。彼女たちとの交流によって、育ての親から厳重に受けたチューニングはすっかり乱されている。蝶が羽をもがれるように、魚が鱗を剥がれるように。完成された有能なお人形から、不完全で矛盾を孕む、できそこないの人間へ。

 押し込めていた性質が元に戻り、職務を果たすために必要だった機能が奪われた。思考は蘇り、自我は発達し、代償として失われる、アカデミアへの忠誠。組織よりも個人をとるという、唾棄すべき行為に手を染めようとしている。

 彼女らはなんて恐ろしいのだろう? 十数年作り上げてきた「影宮季生」の思考アルゴリズムを、軽やかに跡形もなく粉砕していく。意識して行われたのならばまだましだった。怖いのは、二人が無自覚に季生を壊していったことだ。

 それでもいいか、と思う自分には嘲笑を禁じ得ない。

 少女たちに打算はなかった。看守を誘惑して利用しようという毒気は存在せず、馬鹿みたいに誠実で、善良で、敵対者相手に優しさと甘さを見せる愚かさだけがあった。それに感化されているのだから、季生がデュエル戦士になれなかった理由が察せられるものだ。プロフェッサーも、先生も、己がいつか情に流されると見抜いていたのではないか? だから季生の感情と情緒を徹底的に封じたのではないか? 想像してみて、すぐに考えを打ち消した。彼らにとって自分はアリやネズミだ。少し身じろぎするだけでぷちりと踏みつぶせる虫けらだ。あってもないようなものだ。これからのこともきっと、抵抗らしい抵抗にもなるまい。それでも、結局、諦められなかった。

 プロフェッサーが直々に指揮を執る最重要計画。それも、世界を救うために必要な少女たち。その二人を逃がそうというのだから、たとえ逃亡がうまくいったところで自分はただでは済まないだろう。それはひしひしと理解している。だが、これ以上、次元侵攻に加担するのは無理だった。間接的に瑠璃の故郷を蹂躙し、そしてこれからリンの故郷をも蹂躙するのだと気づいてしまったから。それは嫌だな、と、思ってしまった。

 すべての魂を方舟に乗せるためにカード化は避けて通れない、必要不可欠なものだと頭では理解している。けれど、そのために流される涙と、響くだろう阿鼻叫喚に心が耐えられない。あの裏切り者を笑えはしないのだ。これから季生もこの次元を裏切る。きっと末路はあの男と同じだろう。

 それでも、二人が大切なひとのところに帰れるならそれでいいのだ。そこに自分がいるかどうかは関係ない。つぐないをしなくてはならない。

 ──触れ合うのは失敗だったと強く感じる。世話なんて機械に任せればよかったのだ。下手にいきているものを使うから、季生のように丸め込まれる。

 セキュリティのジャミングはした。次元転移ゲートまでの人が通らない道の下見もしてある。デッキトップから引いたモンスターを実体化させ、二人のところに行った。

 

「いいの?」

「よくねえに決まってんだろ。わざわざ聞くな」

 ぷいとそっぽを向いた季生に、瑠璃とリンは顔を見合わせてくすくす笑った。反面、季生の仏頂面は深刻になる。

 ロックを解除し、センサーやカメラが季生の思う通りに動いていることを慎重に確認してから、二人を部屋……いや、牢から出す。おそるおそる出てきた少女たちは、季生の足元にいるモンスターたちに首をかしげた。お行儀よくちょこんと立っているものは、鳥やトカゲの人形、あるいはぬいぐるみに似ている。マリオネットのように操り糸に繋がれた彼らを、季生はぴっぴっと手早く指さした。

「ファルコンとリザードに案内させるから、お前らはそのあとについていけ。俺は最後尾。なんかあったらすぐに前に出る」

「この子、ファルコンっていうのね」

「ああ。それがどうかしたか?」

「……なんでもない」

 ふるりと首を振った瑠璃を怪訝そうに見ながらも、彼は話を進める。

「デッキやデュエルディスクまでは手出しできなかった。……悪い」

 二人はぐっと歯噛みをしたが、すぐに気にしないでくれと首を横に振った。今は、とにかくこの次元から脱出しなければならないのだ。

 季生が言うには、二人のデッキはプロフェッサーこと赤馬零王が自ら管理しているらしい。彼女たちはその言葉を信じ、断腸の思いで魂の分身であるデッキを手放すしかなかった。もし嘘だったとしても、二人は垂らされた蜘蛛の糸に縋っただろう。それだけ、仲間や家族のところに帰りたかった。仲間想いの彼女らなら、恐らく罠だと知っていてもそうせざるをえなかった。

 暗くてほこりっぽい、人気のない道を、シャドールモンスターたちの先導で三人は進む。できるだけ音は立てないよう、息を殺して、慎重に。途中、何度か季生の指示でシャドールたちは道を変えた。どんどん入り組んだところに入っていく。こんな迷路のようでは、部屋を飛び出したとしても迷ってしまいそうだった。案内なしでは無理である。季生がいて助かったと、前を歩く二人には見えない。彼の表情が少しずつ険しくなっていることに。

(こんなに迂回しなきゃならねえのは絶対におかしい。いつもは人も通らないような道だぞ……なんだ? なにが起きた?)

 ぐるぐると頭の中を駆け巡るのは、瑠璃とリンが一時的にカードにされるという最悪の事態。自分が罰を受けるのはいい、でも彼女たちが傷つくのだけは駄目だ。

 デュエルディスクが急に重く感じた。唇を強く噛む。

(もう──加担するわけには──今までの離反者もこうやって──)

 

 

 何度も肝が冷え、やっとの思いで辿り着いたゲートの前には、この次元のトップが立っていた。

「来たか」

 振り向いた彼を前に、絶句する。なんで。どうして。いるとしても門番のオベリスクフォースのはずだ。入念に行った下調べでは、そうだった。咄嗟に飛び出し、二人を背に庇ったものの、季生の釣り目は大きく見開かれ、動揺も露わだ。しかし、プロフェッサー・赤馬零王は、デュエルディスクを構えた季生を一瞥するだけ。

「なぜ? という顔をしているな。……その二人を逃がすつもりだった、か。なるほど、君の計画は完璧だった。今頃セキュリティ部は泡を食っているだろう。私は、脱走者という偶然に感謝せねばなるまい」

(偶然? 偶然だけで、こんな)

「失敗」が季生の頭を埋め尽くしていく。脱走者と聞いて、彼はその誰かを深く恨んだ。真っ黒い感情が心を染め上げた。

 季生、とどちらかが震える声で彼を呼んでいる。はっとした。今はそんなことを考えている場合ではない。

「今なら弁解も受け付けるが」

「そんなものはない」

 頭が一気に冷える。まだ諦めてはいけない。連れていくと言ったのだ。

 どうにかしてこの場を切り抜ければ、もしかしたら希望をつかめるかもしれない。そのどうにかが問題なのだが、衝動の中から理性をかき集めて季生は立ち続ける。浮かべられた表情は、もはや人形のする顔ではなかった。

 プロフェッサーは嘆息する。

「そうか」

 すっと、彼が片手を挙げた。瞬間、ばたばたと足音。

「きゃっ!?」

「なに!? 離して!!」

 ばっと振り返る。どこに潜んでいたのか、すぐ後ろにいたはずの二人をオベリスクフォースが拘束していた。季生は、悲鳴と同時に身体を反転させ、彼女たちに手を伸ばしていた。

 その場で最もやってはならない愚策だった。

 落胆の声が落ちる。

「君には失望したよ」

(────おかしいな……)

 この人にだけは捨てられたくなかったはずなのに。

 直接自分を否定されても、なぜだか季生の心は凪いでいた。取り乱すわけでもなく、呆然とするわけでもなく、少女たちに手を伸ばし。彼女たちだけを瞳に映し。ただ、その紫光を全身に浴びる。

「季生!!」

 絶叫が情報として脳に伝達される前に、彼は一枚の紙切れになった。

 主人を失ったデュエルディスクが落下する。がしゃん、と、音が虚しく響いた。それを見届けると同時に、瑠璃とリンはすぐさま解放される。彼女らが尊い身だということもあるが、そもそも抵抗する手段がないからだ。

 リンはすぐさま季生がいた場所に、まろぶように走った。カードを拾い上げようとするが、手が震えてつるつる滑ってしまう。苦心しながらようやくそれをしっかり手に納めたとき、愕然とした。カードイラストになった彼が、手を伸ばし、こちらを見つめている。

 ぞっとした。ここもいいかもなんて思っていた自分を張り飛ばしたかった。リンはやっと、アカデミアの脅威を実感したのだ。

 一方で瑠璃は、オベリスクフォースが手を伸ばした季生のデュエルディスクをひったくっていた。彼女の紫色の瞳は怒りで燃えている。素早くディスクからデッキを引き抜き、敵から距離をとった。デッキは、カードは、デュエリストの魂だ。みすみす彼の分身を奪われるわけにはいかない。デッキを強く握りしめたまま、爛々と光る目で見つめてくる彼女に、赤馬零王は肩をすくめる。

「どうも君たちは反骨精神が強い……その意志の強さは好ましいが、今は困りますな」

 見せつけるように、彼は深くため息を吐いた。二人の身体が強張る。

「ドクトルの元へ連れていけ。パラサイト・フュージョナーを使う」

「はっ」

 

 

 

 ピグマリオンに心が芽生えた瞬間、彼は粉々に砕かれ、ただの大理石になった。

 始めに断った通り、これは敗北者の物語。少年はヒーローになれなかった。

 カードに圧縮された魂は方舟に乗せられ、運命の日を待っている。

 これから先はみんなの知る通り。彼の物語は、ここまで。




ここまで読んでくださりありがとうございました。
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おまけとしてオリ主の顔だったり、あとがきだったり、捏造した世界観設定が載っています。


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