清澄隊は現在、刀剣男士として肉体を持っているのは近侍である江雪のみだ。一振り分しか用意しなくて良かった為、台所は少々広過ぎた感があった。
しかし、今は事情が違う。台所は大きさ相応の役割を果たしていた。
流し台の前にいる江雪の隣。そこにある踏み台の上に、一人の少女が立っている。名前は
昨日の夜に滑莧園がどこかの小狐丸に襲撃され、職員を含めた多数の死者が出た。生き残った子供達は清澄隊に身を寄せ、惨劇の傷に苦しみながら過ごしていた。
ある子供は泣きじゃくり、ある子供は引きこもり。そんな中でツクシは、気丈に振る舞っている数少ない子供だった。こうして他の子供達の分まで昼食の片付けも行っているし、江雪に対しても普通に接している。
それが、江雪にはありがたかった。他の子供達は、江雪に対して複雑な感情を抱いているのを剥き出しにしていたのだから。
「……ツクシさん、後は私がやりますよ」
「ううん、やらせて。こうしていると気が紛れるの」
「……そう、ですか」
「うん」
そう言ってツクシは皿洗いに意識を戻す。蛇口から出る水は彼女の手に注がれ撥ねて、江雪の手にかかる。それを江雪はぼんやりと認識していた。
ツクシだって、昨日の惨劇に、刀剣男士たる自分に対して思う所があるはずだ。けれどそれをぶつけないで、普通の態度でいてくれる。
それに安心する一方で、江雪はツクシが態度を一変させる事を恐れていた。いきなり罵倒や号泣で拒絶などされたら、江雪の心にも小さくないダメージが入るだろう。
——それでも、私は最後までこの子達の面倒を見ると決めた。弱気な事は言っていられない。
決意は堅いつもりだが、子供達に拒絶されたらきっと揺らいでしまうだろう。そんな己の弱さが情けなくて仕方ない。
「江雪さん、袖まで濡れてるよ!」
ツクシから指摘され、慌てて思考の渦から現実へと戻る。確かに内番着はぐっしょりと濡れてしまっており、着替えないと風邪をひいてしまうだろうと分かる。水を止め、はあと息を吐く。
ツクシは気遣わしそうに江雪を見て、何の事はないように尋ねる。
「大丈夫、江雪さん? 昨日の今日で、江雪さんも疲れてるんじゃないの?」
当たり前のように心配して、疲れてるんなら休んだら、と勧めてくれる。そんな少女の気遣いに、江雪の口からぽろりと疑問が溢れた。
「……どうして貴女は、そんなに強いのですか?」
「え?」
きょとんとツクシが目を丸くする。しまったと思っても、一度口にした言葉は元に戻らない。それどころか、つらつらと疑問を並べ立てる始末だった。
「どうして貴女は、私を恨まない——いや、その素振りを見せないのですか? 貴女は昨日から、ずっと
最後の方は、声が震えてしまっていた。うなだれて弱音を吐いている自分が、本当に情けなくて仕方ない。
大切な存在が江雪と同じ刀剣男士に殺され、傷付けられたのだ。仲良くしていた江雪も同じように変貌してしまうのではないか。そうでなくても、似た存在に対して良い感情を抱けるかは疑問だ。
蛇口から水滴が一つ落ちるのを、江雪は流し台の縁に手を置いて見つめていた。落ちた雫は水に満ちた茶碗に波紋を作る。波紋は静かに広がってから跡形もなくなり、小さな水面は凪いだ。
ツクシは困ったように力なく笑い、流し台横のタオルで手を拭いて江雪の顔を覗き込む。
「江雪さんにはまだ話してなかったかな。私とタイガが、滑莧園に来た経緯」
江雪はツクシと恐る恐る目を合わせて、話を聞く姿勢に入る。ツクシは微かに目を細めて語り始めた。
「私とタイガはね、ある小さい町で生まれ育ったの。家が隣同士で、私が少し誕生日が早いだけの同い歳。だからよく、タイガと一緒に遊んでた。秘密基地を作ったり、近くの森に探検しに行ったり、結構色々したなあ。他の友達とも遊んだけど、一番気が合ったのはタイガだった。一言多くて喧嘩になった時もあったけど、次の日にはうやむやになってた」
そこまで言ってツクシは顔を上げて、遠くを見つめる。その目は、もう届かない何かを思い出している様子だった。
「タイガがお母さんと喧嘩した時は、私がお姉ちゃんになってあげるって言って、家に連れて帰った。逆に私が家出した時に頼ったのは、タイガのお家だった。姉弟ごっこをしたりして、何でか私とタイガのお母さんが将来は安心ねって言ってた。お父さんは時々タイガに凄んでたりして、タイガはちょっと怖がってた。なんだかんだで、そんな日がずっと続くと思ってた。けど、タイガと秘密基地で遊んでた時。忘れもしない——町の景色が突然揺らいだの」
語調が強くなる。ツクシは再び江雪の方を向き、言葉を紡ぎ続けた。
「秘密基地のあった場所は高台にあって、そこから町が揺らいでいるのが見えた。タイガはどうしたんだって叫んで、私はずっと町の揺らぎを見てた。でもしばらくしたら、体が宙に浮かぶ感覚がして——気付いたら、この町の森の中にいた。タイガは呆然としてて、私もどうしたら良いか分からなくて……でもとにかく森の外へ行こうって、日が沈むまで歩いて森の外へ出た。町の中心まで歩いて、お店の人にここはどこなんですかって尋ねたら、すぐに大人達が来て私達は大きな建物へ連れて行かれた」
連れて行かれたのは、恐らく政府中枢だろう。そこで、ツクシとタイガは飲み込むのを拒絶したくなるような事実を聞かされる事となる。
「……私達の住んでいた町は、もう存在していないはずの町だったんだって。ずっと昔に、隣の町と合併して別の町になってるはずで……私達の生まれ育った町の人達は全員、正しい歴史の中にはいないんだって。歴史修正主義者が歴史を歪めたから、私達が生まれたんだって」
——歴史改変の影響で、新たな歴史が生まれる事もある。彼女の町は、その一つだったのだろう。
歴史に大きく影響しない、小さな改変。その余波で、彼女達が生まれた。生まれてしまった。
本来なら時間遡行軍の消滅に伴い消えるはずだった彼女達は、今なお消えずにここにいる。それは一体何故なのかは、すぐに説明された。
「私達は、時空への抵抗力が強い珍しい体質だって、お医者さんに驚かれた。だから歴史が正されても消えずに、存在していられたんだって。私達はしばらく、大きな建物から出られなかった。細かい事、それこそ忘れかけてる事まで色々聞かれる事になったから。色々聞かれた時に、薄々分かってたけど聞いたよ。……お父さんとお母さんに、もう一度会えますかって」
そう、彼女も分かってはいたのだ。珍しい体質。驚かれる。そして一向に現れない両親。
分かってはいたのだ。子供は大人達が思う程愚かではない。けれど——
「……残念だけど諦めてって、言われた。歴史が正しくなって、間違った歴史の人間だったお父さんとお母さんは消えた。これからどんなに似た人が現れても、その人は、違う歴史を歩んだ人だから、って。……流石に、あの時はみっともなく泣いちゃったなあ」
傷になっているだろうに、彼女は前髪を握るだけで涙を流さない。強さ故か、悲しみに蓋をしている為かは江雪には分からなかった。
歴史が正された時点で消滅した両親。そして歴史が小さな事でも揺らぐ以上、同じ両親は二度と現れない。
生まれ故郷と親、そしてそれまでの生活を失い、ツクシは一時期塞いでいたという。今までの時間を失い否定されたも同然なのだ、そうなるのは当たり前である。
しかしある日、彼女は政府の人間の噂話を聞いて、籠もっていた部屋を飛び出した。
「タイガがずっと、手をつけられない程暴れてるんだって話してて、じっとしてられなかった。すぐにタイガの部屋に行ったよ。……部屋の中は、確かにぐちゃぐちゃだった。タイガが言葉になってない叫び声を上げながら、物を投げたり壁を叩いたりしてたから。タイガはあちこち傷が出来てて、これ以上傷が出来ないように止めようとしたんだけど……突き飛ばされて、悲鳴上げちゃった」
ツクシの悲鳴で我に返ったタイガ。大切な存在を傷付けてしまった彼は、その場に崩れ落ちて呟いたという。
「……俺達は生まれた事すら間違ってたのかって、泣きながら言ってた。『楽しかった事も苦しかった事も、何もかもが消えてなくなった。母さんも父さんも、友達も学校も、思い出も……全部、間違ってた歴史として消えちゃったんだ。あいつらが奪ったんだ、どうして』って、ずっと繰り返し呟いてた。私、タイガを抱き締めて言ったよ。『私の思い出には、タイガがちゃんといるよ』って」
母の笑顔も、父に抱え上げられた感覚も、友達と過ごした時間も、故郷すらなかった事にされてしまったけれど。
けれど、ツクシの中にはタイガと過ごした歴史がある。間違っていたとしても、確かに共に過ごした記憶が。
——大丈夫。私がいる限り、タイガの思い出はなくならない。
「タイガが泣き止んでから私達、約束したの。私達は、私達の歴史を積み上げよう。世界は簡単にひっくり返るけど、私達の世界は頑丈にしていようって。どんな事があっても、私達は私達でいようねって。指切りして、私が笑って見せて……そこでようやく、タイガが笑ったんだ」
絶望の闇からタイガを救い出せたのは、間違いなくツクシの強さだ。自分も傷付いたのに、それよりも傷付けられながら幼馴染の心に寄り添った。
そこまでしたのは——きっとツクシにとっても、タイガがただ一つの救いだったからに違いない。
「私は、大きな建物の中で過ごして気付いた。小さな出来事なんて、大きな歴史の中じゃちっぽけだ。そしてその歴史は、人間の力で変えられてしまう。だから、私は世界に期待する事を止めて、自分の手で自分の世界を守る事にしたの。大きな建物から滑莧園に移ってからも、私はずっと思い出を取りこぼさないようにしてるよ。……まあ、流石に全部は覚えられないけど」
ツクシは肩をすくめていたずらっぽく笑う。直後表情を引き締め、江雪をじっと見据えた。
「でね。江雪さんが来るようになってから、刀剣男士ってどんな感じのひとなのかなって思ってた。言っちゃえば私達の歴史を奪ったひと達な訳だし。……一緒に過ごしている内に、刀剣男士も私達と同じように自分の世界を懸命に守ってるんだって分かった。そしたら恨めなくなったよ。本の中にあった『正義の反対は悪ではなく、また別の正義である』って言葉を、実感した形になるかな」
彼女は江雪が滑莧園で表に出さないようにしていた事を、とっくに知っていたようだ。血の匂いを悟らせて警戒させた事を悔やみ、そしてその聡明さに舌を巻いた。
「私は江雪さんの事を信頼してる。だって私達と遊んでいる時の江雪さんは、心から楽しそうだったから。だから江雪さんがサクヤとコタローの事を知らなかったのも疑ってないし、あの白い長髪の刀剣男士みたいに豹変しないって信じてる。皆はまだ江雪さんを怖がってるみたいだけど、江雪さんがまた仲良くしたいって態度で示せば、次第に分かってくれる子も増えてくると思うよ」
ふう、と息を吐きツクシは皿を掴み、踏み台から飛び降りる。そして食器棚まで踏み台を引っ張り、皿をしまおうと戸棚を開ける。
ツクシの背中を見ながら思う。——過酷な道を歩んだ子供は、ここまで強かさを身に付けるものなのかと。
自分の世界を壊され、知らない世界にたった二人で放り出された。彼女達の不安と傷はいかほどの物だったのか、想像する事しか出来ない。
小夜や宗三がいるこの世界が歴史改変によって出来た物であるなど、想像しただけで目の前が暗くなる。彼女達は、それどころではない苦痛を受ける事になったのだろう。
自分に出来る事は何か。——彼女達の歴史を忘れないように励み、彼女達の安息を祈るしかない。
「……そういえばツクシさん、小狐丸への恨みを表に出さない理由を聞いていませんが」
「ああ、それは——」
ツクシは踏み台の上から振り返り、にっこりと笑いながら答える。
「私だってあの刀剣男士は一発ぶん殴りたいと思ってるけど……それを四六時中、表に出すのは楽しくないでしょ? 結局の所は、笑顔が一番だよ」
——本当に、この子は強い。その悲しい強さを身に付けさせた世界とは、何て苛酷な物なのだろう。
江雪は少しの哀愁を滲ませて、ツクシに笑い返した。
「……何だか、似たような言葉を仲間から聞いた事がありますね」
「えっ、そうなの? 私、そのひとと仲良くなれるかなあ」
「……少し冗談が多い方ですが……ツクシさんが大きくなったら、紹介しますよ」
「?」
刺激の強い冗談を言う仲間を思い浮かべ歯切れの悪くなる江雪に、何も知らないツクシは首を傾げた。