泣き止んだ後、目を腫らしたツクシは「顔を洗ってくるね」と言い残し微笑んで去って行った。その足取りは重くはなく、自分は少しでも力になれたのかもしれないと思えた。
少々肩が冷えているのと、憤りをぶつけられた胸の辺りが微かに痛い。だが、これくらいで子供の苦痛を少しでも楽にさせられるなら大した事ではない。
これで全てが解決した訳ではないが。未来へ繋がる子供達の力になる事に、躊躇いなどない。これからも空いた時間に顔を出そうと、鶴丸は改めて決意した。
「……鶴丸。ありがとうございました」
「江雪」
振り返ると、江雪が憂いを秘めた顔で立っていた。世を儚んでいる表情はいつも通りだが、目の下に薄く隈が出来ている。
彼も子供達の為に心を砕いたのだろう。それこそ、夜通し彼等の様子を見て回っていてもおかしくはない。だが子供達は江雪を恐れているという。なかなか好転しない現状に心をすり減らしていたのかもしれない。
その為だろうか、声音からは確かに鶴丸への感謝が窺えた。子供達の支えとなっているツクシの中にあった絶望を、僅かでも吐き出させられたのだ。滑莧園の一員と言っても過言ではない江雪にとっては、相当に難しかった事を鶴丸はやり遂げたのだ。
これは滑莧園に顔を出した回数が、江雪よりも少なかったから出来た事かもしれない。距離が近過ぎなかったから、言うなれば「少し仲のいい知人」だったからこそだ。「江雪を傷付けたくない」と言っていたツクシの言葉からもそうなのだと分かる。
距離が少し大きいから出来た事。きっとこれは、自分じゃなくても良かったのだろう。蒼穹の一期にだって、きっと務まるはずだった。
「貴方のお陰で、ツクシさんの心痛は少し取れたように見えます。……私は、本当に無力ですね」
——だから、そんな悲しそうな声で、自分を責める謂れなどないのだ。鶴丸と江雪では役割が違った、それだけの話なのだから。
「おいおい、俺はただ話を聞いただけだぜ? 子供達を一番支えているのは君だろう。そんな疲れた表情をして、子供達の為に駆け回らなかったとは言わせないぞ。子供達が怯えているのは仕方ないとはいえ、一番身近な大人である君がいるのといないのとでは大違いだ。……子供の力は大きくはない。出来る事に限りがあるから、間違いなく君の力が必要だったんだ」
「ですが、ツクシさんは少しも心の傷を表に出しませんでした。子供達の前ではもちろん、私にだって……。ずっと心を張り詰めさせていたのに、私はただそれが強さだと思い込んで……」
「それは君に心配をかけたくなかったからだろう。様々な事を気に病みやすい君の事だ、ツクシの辛さを知ったら同じように心を痛めるのは目に見えている。俺は泣かれたりするのには慣れているからな。ちょうどいい所に泣いてもいい場所が現れた、ツクシの涙はただそれだけの事さ。……俺は君に、少しでも元気であって欲しいと思っている。ツクシも多分同じ思いだったんじゃないか? きっとずっと笑っていたんだろう、誰も傷付けないように。ツクシが強いのは正解だと思うぜ」
泣いて解決しない事をずっと嘆くか、それとも少しでも前を向いて笑うか。ツクシは後者であろうとしていた。その身に降り注いだ出来事で、明るさを失っても決しておかしくはなかった。だが、彼女は皆の為に笑っている事を選んだ。不条理に膝をつかずに、少しでも己を奮い立たせようと笑っていた。
だが、傷から目を背け続けると心に痕が残る。我慢し続けるのは心にも体にも良くないのだ。だから鶴丸は、ツクシに肩を貸したのだ。
笑う強さは彼女の長所。それが損なわれる前にガス抜きをさせた、鶴丸がした事などそれだけだ。
「江雪。きっとツクシは、君に強い自分を見て欲しかったんだろう。背伸びをするのは子供の特権、かわいいもんだ。それに、するべき事をきちんとしようと真っ直ぐに立とうとしていた。ツクシは現実から逃げたくなかったんだろうな、きっと。だが子供達だけだったなら、すぐに限界を迎えていたかもしれない。いい所を見て欲しい相手がいるから、ツクシは立っていられるんだ。……君は間違いなく、ツクシの支えになっている。そこだけは、取り違えちゃいけないぜ」
強く言い切った鶴丸の言葉を咀嚼するように、江雪は目を伏せる。彼にも思う所があるのだろう、一番傍で子供達を見てきたのだから。鶴丸の話した言葉全てが合っているとは言えない。けれど、間違いなくツクシは江雪を頼りにしているのだ。少なくともあまり園に行けなかった自分よりは、ずっと。
江雪は俯いたままゆっくりと口を開き、言葉を紡ぐ。
「……ツクシさんは、きっとまだ傷付いたままです。ですが……私がいる事で立っていられるなら、私は彼女の支えにならねばなりませんね」
「おう、その意気だ。今いる中じゃ君がきっと、一番頼りになる大人だからな」
「そうですね。頼りになるかは疑問ですが、子供達の信頼を裏切るような真似は絶対にしたくありません」
江雪の目が鶴丸を見る。その瞳には、先程まではなかった強い光が宿っていた。
「改めて、ありがとうございます。相談に乗るつもりが、発破をかけられてしまいましたね」
「……え、相談って」
「違いましたか? ツクシさんが貴方の来訪を告げた時に、いつもの声の軽さがなかったと言っていましたが」
思わずぽかんと口が開いてしまった。普段と同じ調子を装っていたが、ツクシにあっさりと複雑な内心を看破されていた事に動揺してしまう。
そして、その事に一言も触れなかった。それは江雪の担当だと分かっていたのだろう。深入りしないようにして、江雪の下に案内する予定だったのかもしれない。鶴丸が少し事情をつついたせいで、彼女は泣き崩れる事になった。けれどそれを責めずに、彼女は笑って去っていった。
頭を掻きながら、しみじみと零す。
「……優しい子だなあ、本当」
「そうですね。……私の部屋で話を聞きましょう、案内します」
江雪が小さく笑んで身を翻す。切り揃えられた長い髪が少し靡いているのを見つめながら、鶴丸はその後に続いた。
*
部屋の行燈がゆらゆらと頼りなく揺れている。障子の隙間から激しい雨音が響き、部屋の中にいる二振りに晴天の遠さを教えていた。
「……まさか貴方も、そんな事に巻き込まれていたとは」
「本当になあ。聴取で聞いた話だと、下手人は同じ隊の奴等じゃないかと言っていたが。何にせよ嘆かわしい事だ」
江雪から出された緑茶を一口含み、鶴丸は憤りを隠さずにそう返した。江雪も痛ましそうに目を閉じ、湯呑を置く。
鶴丸は粗方の事情を江雪に話した。本丸を抜け出して研究所に潜り込んだと話した時点で、江雪は咎めるように眼を鋭くさせていた。が、その後己を「ケイ」と名乗る蛍丸と出くわし鶴丸を激怒させたと聞くと、微かに目を見開いて持ち上げていた湯呑から口を離した。
やはり、自分らしくなかった。改めてそう思うと、自分が情けなくて仕方なかった。小夜に落ち着けとまで言われる程に感情を荒げて、みっともない以外の言葉がどうして出てこようか。
けれどというべきかやはりというべきか、友は鶴丸を笑わなかった。驚きはしたものの、すぐに冷静さを取り戻す。そして鶴丸に問いかけた。
「……そもそも、どうして研究所に潜入しようと?」
「あー、そこ話してなかったかそういや……いや、ある任務で少し気になる事があったんだよ」
「気になる事?」
「ああ。……どこまで話していいやら……」
「話せないのなら、無理をせずに。貴方の主から箝口令を布かれている、といった所でしょう?」
察しの良さは流石だ。江雪はこうして、鶴丸の公然とした秘密を秘密のままにしてくれる。それが後ろめたくもありがたい。いい友を持てた事を改めて実感しながら、鶴丸は話を続ける。
「まあそんな所だ。気になる事は結局、滑莧園の正体と繋がる話だったんだが。……そこであの蛍丸が出てくる」
「……己を刀の名で呼ぶなという、蛍丸ですか」
「ああ。あいつは、俺達をただの人斬り包丁だと嘲笑った。その時点で、あいつは蛍丸の魂を持っていないと分かったよ。人々の積み重ねた物語を食い殺し、復讐の為に刀を振るう。後者だけなら良かった、復讐を否定するつもりもないしな。……だが」
「その蛍丸は私達の根幹たる物語を、なかった事にしたと……なるほど、確かに怒り狂うのも分かる気がします」
刀の物語は、辿って来た経緯の上に人間の祈りや想いが乗せられて形作られる。刀剣男士は決して、単独で在れる物ではないのだ。数多の人間の願いや誇りから成り立つ他、ある刀が非実在ながら在れるのは、元持ち主とされる人物へ向ける人々の憧憬があまりにも強かったからというのもある。
あの蛍丸は、その人々の想いを否定したのだ。取るに足らない、いらないものだと。人々が繋げた祈りが現出した魂を、弱いものだと断じて。それだけでもう、刀剣男士が怒り狂うのに充分な理由だ。
だが——
「ですが鶴丸、貴方はまだ納得していないみたいですね」
「……ああ」
そう、鶴丸はまだ蛍丸に憎悪を抱いた本当の理由を、見出せていないのだ。何となく、それだけだと言うには据わりが悪い。
存在を否定されるのなんて、任務をこなしているとざらにある事だ。いちいちそれを気にしていたら、審神者に使えないと判断されてしまうだろう。
鶴丸は早々に感情を揺らがせない事を買われて、調査部隊に配属されたのだ。自分だって、そんなに心を揺さぶられるなど考えもしなかった。
何故、あの蛍丸だけ。被験者である事が関わっていると、ぼんやり理解したまではいい。じゃあ何が関わっているというのか。そこから思考が停止してしまうのだ。
鶴丸がぽつぽつと語れない部分を除いて話すと、江雪がふむ、と顎に手を当て息を吐く。しばらく黙って考え込んでから、江雪は鶴丸に問いかけた。
「鶴丸。もしかしたら貴方は、研究所に潜入する前からその蛍丸の事を知っていたんじゃありませんか?」
鶴丸はきょとんと目を丸くする。何故そんな事を聞かれるのか見当もつかないまま、こくりと頷いた。そうですか、と呟いて江雪は問いを続ける。
「彼を知った時、貴方は彼にどんな印象を抱いていましたか?」
「どう、って……」
「経緯だけ聞く限り、彼に同情心を抱いてもおかしくはないと思います。私が貴方の立場だったら、救ってあげたいとも考えるでしょうね。……大切な存在を殺されて、自身は生き残ってしまった。そこまでなら憐れむのも当然でしょう」
心臓が、嫌な音を立てて鳴っている。相手は友である江雪で、実際彼はただ話しているだけなのに——心臓に刃を突き付けられているような心地になる。
しっかりと、江雪の言葉を聞かなくてはならない。その一方で、これ以上聞きたくないと耳を塞ぎたくて仕方がない。
「……実際には、彼は貴方の救済を必要とするどころか、貴方を見下していた。こちらが差し伸べて
かたかたと、湯呑を持つ手が震える。江雪が気まずそうに目を逸らしていたのを呆然と見ながら、鶴丸は頼りない声で吐き出す。
「……つまり俺は。助けて
そんなまさかと笑って言うのは簡単だ。ふざけた事をぬかすなと怒鳴り散らすのも。けれど鶴丸はそのどちらも選ばず——
「そんなの——無様の極みだろう……っ!!」
頭を抱えて追い詰められたかのような声で吐き捨てた。江雪がどんな表情をしていたのかは、見られなかった。
否定しなかった——否定出来なかった。江雪が立てた推測は、心臓が立てる嫌な音と共にすとんと腑に落ちたのだから。
救済しなければと思っていた。悲しみに沈んでいるだろう19478番を、慰めてあげなければと思っていたのだ。しかし実際に会った19478番——蛍丸は、刀剣男士を嘲笑してその魂を踏み躙る、鶴丸が考えていた「可哀想な存在」ではなかった。
「可哀想」じゃなかったから、見下されていたから。——自分の想像通りの存在じゃなかったから。都合のいい性格を思い描き、それに反していたのを、許容出来なかった。
何と情けない。何て醜悪さ。何て——何て、格好悪い事か。尊厳を無視していたのは、自分も同じじゃないか。