空隙の町の物語   作:越季

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17-6「怨恨と未練」

 水で満ちたタライに沈んでいる皿を一枚手に取る。泡の付いているスポンジで皿の表面を撫でれば、するりと食事の跡が消えていく。裏返して底も洗い、水切り籠の中に入れる。次に掴んだのは茶碗。一見綺麗だが僅かに米の粘度が残っているそれも、洗剤の力で拭い落とせた。

 

「秋田、さっきより大分皿洗いが上手くなってるね」

「……そうですかね」

「うん。ちょっとやっただけでもこんなに上達出来るんだ、秋田は飲み込みが早いや」

「……たかだか皿洗い、って気持ちが抜けませんが」

 

 秋田はただただ機械的に食器を掴み、洗って水切り籠に放り込んでいく。手を動かしている間は、自分の小ささや内側で渦巻く苦しみを脇に追いやれる。水と共にそういう辛さも流す気分で、ひたすらに皿を洗う。

 隣に立つパーカー姿の鯰尾は軽く目を細め、秋田の前から水切り籠に洗った食器を放り込んだ。

 

「たかが皿洗い、されど皿洗いだよ。中途半端な洗い方だと汚れが残っちゃうし、あんまり洗い過ぎても食器を傷める。今の秋田はいい塩梅に洗えてるんじゃないかな」

「……」

「少しでも出来たら、自分を褒めてやらなきゃ。俺達も充分助かってるんだし、何も卑下する事はないんだよ」

 

 ね、と笑う鯰尾に、どのような表情を向ければいいのか秋田は悩む。笑顔の作り方は、長きに渡る苦痛のおかげですっかり忘れてしまった。そんな自分が、気味の悪い顔を見せていいのだろうか。

 結局秋田は頭を軽く下げ、目を伏せるのに留めた。鯰尾がどんな顔をしていたのかは見れなかった。心配をかけているだろうと思っても、それしか出来ない自分が嫌になる。

 どろどろとした自己嫌悪は、棚上げした側から溢れていく。きっとこれは「秋田藤四郎」らしくないのだろうと分かってはいるのだが、どうにも止める事が難しい。寂しさ、恨めしさ、悲しさ、不安、焦り、妬ましさ、情けなさ。渦巻く負の感情は、確かに秋田を苛んでいる。

 先程物吉達に少し昏い気持ちを吐き出せた事は、きっとよかったのだろう。どこの本丸でも——いや、それ以前から誰も()()の言葉を聞いてくれなかったのだから。

 最後の皿を水切り籠に入れるのと同時に、台所の入口からひょこりと物吉が顔を出す。

 

「何か手伝う事はありますか?」

「物吉。こっちは大丈夫、ゆっくり休んでて」

 

 手を拭きながら鯰尾が手助けを辞退すると、分かりました、と言って物吉は引っ込んだ。

 抱える悩みを表に出していないその微笑みに、秋田は少し憧れている。話をせずに拗ねて飛び出した自分とは対照的に、物吉は誰かを傷付けない為にここへ来たという。勿論苦しいからという理由でもあるのだろうが、他者への気を回せているだけ自分よりまともに見えた。

 羨望と自己嫌悪を湧き立たせている秋田の肩を、隣の鯰尾がぽんと叩く。

 

「さ、やる事やったし居間に行こうか」

「はい」

 

 鯰尾に促され、秋田は踏み台から降りる。灯りを切って鯰尾と共に台所から出ると、ぽつりと小さな呟きが聞こえた。

 

「歌仙さんと薬研、小夜に追いつけたかなあ」

 

 その独り言に何も言えず、秋田は黙って俯いた。

 先程突如として、小夜がこの本丸を飛び出した。狼狽している歌仙を軽く落ち着かせてから、薬研は彼と共に小夜を追いかける為に本丸の外へと出て行った。それが、およそ一時間前の出来事である。

 小夜は頭痛がすると言っていたはずだ。体調不良を押してどこかへと向かった小夜さんが倒れてないといいのだけど、と石切丸は彼を案じていた。

 連絡は、未だ入っていない。二振りが追い付けたのか、それとも探している最中なのかも分からない。鯰尾が心配するのも当然だ。

 

「秋田、鯰尾、お疲れさん。丁度今面白い番組を見つけたんだけど、秋田は観るか?」

 

 ソファーから身を起こした獅子王がこちらに呼びかける。頷くと、石切丸がテレビに見入っていた五虎退と長谷部の肩を軽く叩いた。少し詰めて、と告げられ我に返った五虎退はあわあわと体を獅子王側に寄せる。鯰尾はその隙間に滑り込んで秋田に手招きする。だが、少しだけスペースが足りない。

 おろおろとしている秋田を尻目に、時計を見た長谷部はカップを持って立ち上がり、廊下へと向かって歩き出す。

 

「長谷部さん、番組観なくていいんですか?」

「観るならもう少し詰めるけど?」

 

 身を乗り出す鯰尾と石切丸に、長谷部は振り向いて首を振った。

 

「歌仙と薬研に連絡を入れてくる、少し心配だしな。いざとなったら、二振りの所へ行けるようにしておかないと」

「そういや、二振り共遅いな。俺もすぐ動けるようにした方がいいか?」

「獅子王は石切丸と待っていて欲しい、入れ違いになる可能性がある。念の為、鯰尾は準備をしておいてくれ」

「はーい」

 

 今度こそ廊下に消えていく煤色の髪を、秋田は鯰尾の隣に座って見送った。

 ふっと視線をテレビに向けると、お笑い芸人らしき男性が口の中に寿司を運んでいる最中だった。どうやらグルメを取り扱う番組のようで、他のタレントも口々に寿司の感想を述べている。タレント全員がべた褒めで、板前が微笑んで頭を下げていた。直後にぱっと画面が切り替わり、寿司屋の外観と住所が映し出される。

 

「お、美味しそうですね」

「こうも美味そうに食ってるの見ると俺達も食いたくなるよなー」

「ですねー。久々に明日にでもお寿司注文します?」

「歌仙さんがどう言うかだね。お金も無限にある訳じゃないし」

「皆さんの場合、資金繰りもありますからね……ボクも早く立ち直らないと」

 

 微かに焦燥を浮かべ拳を握る物吉の背を、石切丸がぽんぽんと軽く叩く。

 

「本当に焦らなくていいんだよ。心の整理も必要な時期だろうし、ゆっくりと休んでいけばいい。歌仙さんの許可が下りたら、皆でお寿司を食べるのもいいかもね」

「いや、それは流石に……!」

「も、申し訳ないです……!」

 

 ぶんぶんと首と手を振る物吉と五虎退。その様子を見て秋田は、何故二振りが寿司を頼むのを固辞しているのかが分からず、首を傾げる事しか出来なかった。

 常識が足りないと思うのは、こういう時だ。どう振る舞えばいいのか分からない場面が、ここ最近続けて起こっている。

 自分は「自分」の意識が強いのだと自覚しているが、返せば「秋田藤四郎」の意識がかなり薄いという事。「秋田」の知恵を借りる事も叶わない現状、自力で困難を切り拓いていかなければならないのに。

 また辛い思いをするくらいなら、このまま春光隊の世話になりたいと願ってしまう。けれどその一方で、それはいけない事だと自分なりに理解しているのだ。あくまでもこの本丸は止まり木。傷が癒えたら自分で進む道を決めなくてはならない。それを前提として、春光隊は自分達を迎え入れてくれているのだろうから。

 

「秋田、どうしたの? 何か辛い事を思い出しちゃったかな」

 

 心配そうに声を掛けられ、顔を上げる。テレビからは家族が鍋を囲む明るいコマーシャルが流れており、寿司屋の話題はすっかり消え去ってしまっていた。

 左右を見ると、皆自分へと顔を向けている。気遣う視線を一身に受けていると気付けば、どうしても体が縮こまる。

 

「……僕、どうしたらいいのかなって、考えてて」

 

 そこまで言って、詰まってしまう。唇を噛んで俯くと、喉と目が熱くなって苦しい。吐き出す息がやけに震えていた。

 叫びたくなった、言い募りたくなった、恨みをぶつけたくなった。見てもらえないというのは、想像していた以上に苦しかった。

 かつては、外に出れば愛情に包まれた幸せな生活が待っていると信じ込んでいた。その空想は、本丸を移る中であっけなく打ち砕かれた。

 特に、「弟」へ愛情を注ぐはずの一期一振から存在しないものとして扱われ、秋田は期待と信頼を踏みつけにされ粉々になっていく感覚を覚えていた。

 蒼穹隊でも、それは同じだった。秋田の存在は無視されて、誰からも程々の扱いを受けた。痛めつけられるわけではないが、愛されもしない。本当に、そこらの石ころと同じ扱いだった。

 

「新しい本丸で、僕を受け入れてくれるなら、そっちの方がいいかなって考えもしたんです。……でも、どうしても踏ん切りがつかなくて……どうしてなんでしょう。辛い思いはもうしたくないのに、足がまだ動かない」

 

 そう話しながら脳裏に浮かぶのは、空色の髪をした刀剣男士が弟達に囲まれて微笑んでいる姿。周囲にいる弟達も笑顔で、とても理想的な「兄弟」の図。

 

「どうして僕は、見切りをつけられないんだろう。辛い目にあったのに、どうしてまだあの本丸から抜ける事を選べないんだろう……どうして僕は、あの中に入れなかったのかな……」

 

 ……分かっている。この期に及んでも自分は、あの光景に焦がれている。どうしたらあの笑顔を向けてもらえるのか、みっともなく空想に縋っている。

 きっと、この本丸があまりにも温かかったからだ。当たり前に他者を心配し、存在を認めてくれたからだ。

 長谷部という、自分と同じ「異端」を受け入れてなお穏やかな、この家族の温もりにあてられたのだ。だからこそ、未だに夢を見てしまう。

 自分が受け入れられ愛情を貰える、そんな幸せな光景を。

 

「……恨み節と共に、未練も湧いてくるんです。両方に引っ張られて、ぐらぐら揺れて……こんなんじゃ新しい場所に行っても、きっと後悔し続ける。でも今の場所にい続けるのはきっと辛くて……本当に、どうしたらいいんでしょうかね……」

 

 ついにぽたりと一粒、膝の上に雫が落ちた。乱暴に目を拭うが、雫は次々に膝の上に降り注ぐ。濡れている感覚が不快で、膝も袖でがしがしと拭いた。

 散々泣いたのに、未来を考えると涙が溢れるのだから不思議だ。振り子のように大きく揺れる心は、秋田の足をその場に縫い止めて動かさない。

 新しい場所に行くには未練を断ち切らなければならず、今の場所に留まるには現状を変える力が必要だ。今の秋田はどちらかを選ぶ事が出来ず、呆然と立ち尽くしている状態。

 目の前に二つの道がある。どちらもリスクがあるから、秋田はこの止まり木から動けない。

 選ぶ事が怖いのかもしれない。選んでしまえば、引き返す事は出来ないのだから。

 

「……秋田、お前……」

 

 獅子王が立ち上がって、こちらに向かってくる。

 情けない事を言ってしまった。呆れられただろうか。刀剣男士にあるまじき弱さではないのだろうか。

 不安が募って、下を向いたまま顔を上げられない。しかし秋田の視界全面に、獅子王が映り込む。俯く秋田と視線を合わせるように、しゃがんで手を握る。

 ——獅子王の顔は、優しさで溢れていた。

 

「……強いなあ」

「……え?」

 

 想定していた物にどれもかすらない言葉を受け、秋田は思わず呆けた。驚きのあまり涙の栓も止まったらしく、目を見開いても雫は落ちない。

 獅子王は穏やかな笑みを浮かべたまま、秋田の手をしっかりと握る。

 

「秋田みたいに追い詰められた奴は、未来を考える力すら残ってない事が多い。多分傷を負った所を治す為に力を注ぎ切るからじゃないかと思ってるんだけど、本職じゃないから俺には分からない。でもさ、本職じゃなくても分かるよ。秋田は、未来を必死に考えてる」

「……」

「限界迎えて早々に出来る事じゃねえよ。しかも恨む感情と未練をちゃんと把握して、後悔のない選択をしようとしてる。深く考えずに新しい場所で再始動、って選択をしてもおかしくないのに。それにまず恨む力があるのが凄えよ。理不尽を受け入れるんじゃなくて、抵抗してさ。そしてその恨みが愛情と表裏一体なのも、分かってるんだろ?」

 

 他者を恨み続けるのにも、エネルギーがいる。それが理不尽を受けた直後なら尚更。

 醜悪を自覚している怨恨は、客観的にも主観的にも抱えるのは辛い。それでも秋田は恨んでいいのだと肯定された。理不尽に抵抗している、と告げられて。

 問われた事には、頷いて答える。みっともなく微かな光に縋り付いている事を、情けなく思いながら。

 

「それを分かってるから、お前は足踏みするんだろう。それを見つめて悩んでるのは、きっと後悔しない為なんだよな? ……やっぱり凄えよ。お前は、まだ未来を信じていられてる。何もかも信じられなくなってもおかしくないのに、だ。絶望に身を堕としても不思議じゃないのに、お前は生きて、足掻いて、悩んでる。信じる事にも力がいる。お前は、とてつもない力を秘めているんだ。泣き崩れても、すぐに未来を信じられるくらいには」

 

 そうなのだろうか。自分は、このひと達に情けない姿を晒していなかったのだろうか。

 獅子王の手を握り返す。小さな手が一回り以上大きな手に包まれ、柔らかな温度を伝えてくれる。心の中の塊が、少しずつ解けているような気がした。

 

「そうだね。獅子王さんの言う通り、信じる事には力がいる。盲目的になるのではなく、悪い所も見えているのなら尚更だね。正直、こんなにすぐ秋田さんの気力が戻って来るとは思わなかったよ。相当に辛い思いをしたのだから、もう少し時間がかかると見込んでいた。嬉しい見当違いだ」

「でもね、秋田。本当に蒼穹隊にいるのが辛いなら、別の部隊に移る事も選択肢の一つに入ってるんだからね。秋田は今いる所で頑張る事も考えてるみたいだけど、どうにもならない事はあるんだから。まあ今はここでのんびりして、ゆっくり傷を癒していこう。俺達の事は心配しなくていいからさ」

 

 温かい言葉達が、胸の中に染み入る。はい、と口にしてから、秋田は目を閉じた。

 春光隊の面々は、本当に優しい。秋田を否定せず、傷付けない言葉で秋田を宥めてくれた。

 鯰尾の言う通り、焦る事はないのだろう。今までかなり苦しく辛かったのは事実で、そんな傷を一朝一夕で癒せるとも思っていない。

 ——考えよう。これからの事を、そしてあのひとの事も。

 そう決意を固めて、目を開く。丸い目に小さく光が差し込み、涙の後もあって穏やかに輝いている。

 よし、と獅子王が手を離し、明るく笑い掛ける。今の秋田には、それに口角を上げて応える余裕が生まれていた。

 

「戻ったぞ。歌仙達は小夜と合流して、もう少しで帰るらしい。……あれ、何かあったか?」

 

 廊下から長谷部が現れ、雰囲気が少し変わっている事に首を傾げる。それに答えを示したのは、今までの話を黙って聞いていた物吉だった。

 

「秋田君がすっごく強いひとだって話をしていたんですよ!」

「え、本当に何があった」

「実は秋田君のメンタルが滅茶苦茶強かったのかもしれないって事です。短期間で未来を考える余裕が生まれているみたいで、獅子王さん達が感心していました」

「……そうか。少しでも前を向けているのなら、何よりだ」

 

 長谷部も表情を緩め、秋田に微笑んだ。秋田も小さく頭を下げ、長谷部もソファーに向かって、再びテレビ番組を視聴する雰囲気になりかけていた。

 物吉が唐突に立ち上がって、窓の外を睨み始めるまでは。

 

「物吉さん、どうかしたかい?」

「どうした、窓なんか見——」

 

 獅子王の言葉を遮るように、物吉は床を蹴って玄関へと向かう。そして鍵を開ける音と、ドアが開く音。バジャンと外から鳴った水溜りを踏む気配に、鯰尾が青ざめる。

 

「ちょっと、こんな時に人格交代……!?」

「鯰尾、追いかけるぞ!」

「はい! 獅子王さん、石切丸さん、留守は任せました!」

 

 戦装束に身を変えた鯰尾が、一足先に玄関に向かった長谷部の後を追う。ぽかんとした顔の石切丸と獅子王が、それを見送りながら呆然と口にする。

 

「……令嬢は、この町にいるはずだったよね?」

「一体、何が起こったんだ?」

 

 拳を固めた秋田も、二振りが油断した一瞬の隙を窺い一足飛びで玄関に向かった。そして足跡が消えぬ内にと、全速力で長谷部と鯰尾を追いかける。

 

「あっ、おい、秋田!?」

 

 背後から獅子王の慌てる声がしたが、振り切って森の外まで走る。

 見届けなければ、と思ったのだ。先輩たる物吉が、どのようにもう一つの魂と付き合っているのか。——どのような道を辿るのか。

 それが自分の道を決める手掛かりになると、何となしに思ったのだ。

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