体の上を、冷たい風が通り過ぎていく。蒼穹の一期は瞼を持ち上げつつ、震える体を起こして周囲を見渡した。
目の前には二つの階段。平らな所で寝ていた事から、踊り場に転移されたと分かる。頭上にある窓は、水滴を落とす音と共に薄暗い空を映し出していた。
早く、誰かと合流しなければ。そう思って目眩を起こさないように立ち上がり、裾の埃を払った時だった。
鉄錆びた臭いが、上へ向かう階段から漂ってきた。普段なら高揚するはずのそれは、一期の体を強張らせ冷や汗を流させた。
ここは、血の臭いを落としてから来る場所のはずだ。戦場に向かう事のない人々が、仕事をする場所のはずだ。それなのに、強く漂うのは殺戮の気配。
強く臭う嫌な予感に、しかし一期は逃げずに臭いの源へと歩き出す。一段一段、音を立てないように階段を上る。刀を握る手は痛む位の強さで、息を吐きながら力を抜こうとしても強張ったままだ。
上り切った先で、また一段と強く血が臭う。廊下の左右を見ると、左側の通路に転々と赤い跡がついている。唾を飲み下し、痕跡を辿る。血の跡は複数の部屋へと伸びていて、ドアの外から気配を探る。誰もいないと分かりつつ、一期はある部屋のドアを開ける。
赤い壁に、白いまだらが付いている。そう思いかけ、違う、と愕然とした。
——白い壁が赤く染まる程の、夥しい血の跡。そして床には、二人の切り刻まれた人間が事切れていた。
腹を開かれ、顔を刻まれ、四肢が原型を留めていない。どれだけの悪意でもって、こんな事をしたのだろう。綺麗なまま死なせないという憎悪が見えて気分が悪い。
静かに手を合わせて、部屋を出る。次の部屋に向かうと、そこでも悍ましい部屋と惨殺された人間が待っていた。
次の部屋も、次の部屋も、血に塗れた惨状があった。黙祷しつつ、一期はふと思い至る。
——こんなに酷い状態なのに、悲鳴の一つすら聞こえないのはどういう事だ。
もしかしたら、と合わせた手がカタカタと震える。勢いよく立ち上がり、大きな足取りで一番奥の大きい部屋に向かう。
ドアの前で耳を澄ませる。しばらくしてドアを開けようとドアノブに手を伸ばすと、中から音が聞こえた。
肉を断つ音。命を断つ為に、刀を振るう音だ。
迷わずドアを開け、中に踏み入った。そして一層強くなった鉄臭い臭いに、息を呑む。
部屋の中央に、それはいた。
元から赤い色だったのではと思わせる程に、返り血に染まり切った白い戦装束。顔が潰れて誰かも最早分からない人間の腹に、躊躇いなく突き立てられる刃。そして、こちらの背筋を凍らせる悪意に歪んだ笑み。
間違いない。蒼穹隊を裏切った鶴丸国永だ。
歯の奥が鳴る。手が汗ばむ。これから鶴丸を相手取るのに、恐れがないと言えば嘘になる。それでも、怖気付いて逃げる訳にはいかなかった。
——これまでの自分に嘘をつくのは、自分を許せなくなるのは絶対に嫌なのだ。
一歩踏み締め、刀を抜き放つ。それに反応し、鶴丸がこちらを向いた。
「——ああ、遅かったじゃないか」
また醜悪に歪む笑顔を見て、爪先に力が入る。一期は内心で自らの足に叱咤し、照明に照らされる刃を鶴丸に向けた。
「こんにちは、鶴丸殿。この状況でそうも笑えるとは、本当に魂まで堕ち切っているようですな」
「何、君は薄々分かっていただろう? 俺は誰かの不幸を嗤える奴だって」
「これで思い至らない方が愚かでしょう。そうして願った不幸の味は、貴方にとってさぞ美味しい物なのでしょうな」
「ああ、美味いさ。美味くて美味くて——大声で笑い出してしまいそうだ!」
目を大きく開き、口元を大きく歪ませ、鶴丸も抜刀する。憎悪に満ちたその表情にまた体を強張らせながらも、一期は鋭く反逆者を睨み付けた。
「これまで俺達を散々踏み躙ってくれた奴等だ。そいつらが不幸になればなる程、地獄へ深く堕ちれば堕ちる程、美味い蜜を出してくれる! 今まで屈辱に耐えてきたのは、この蜜の味を味わう為だと言われても納得出来る! ああ、何て快さだろうな! 憎い奴等が出す蜜以上に、快く胸を震わせる物はない!」
「その憎悪に、他の方を巻き込む必要はあったのですか。貴方とは何の関係もない人々を、不幸に叩き落とす必要はあったのですか」
向ける鋒に、震えはない。真っ直ぐ突き付けられる刃に動揺一つ見せない鶴丸は、相変わらず歪な笑顔を浮かべて腕を大きく広げた。
「ああ、あったさ。あいつらの地位を大きく落とせたんだからな。いい奴だったなんて言わせないさ、あいつらは無能のまま死んで貰う。巻き込まれた人間達は、まあ、ご愁傷様って奴だ。あいつらに関わったのが運の尽きって奴だな」
「……やはり、貴方とは分かり合えそうにありませんね」
鋒に怒りが乗る。鋭く目を細め、一期は首を傾げる鶴丸に吐き捨てた。
「私は、私の大切なひと達を巻き込んだ貴方を許せそうにない。あの子達が、彼が、何をしたと言うのです。貴方の恨みをよく知らないまま、間違いだと言う気はありません。ですが、貴方が身勝手に私の大切なひと達を巻き込むのなら、私も身勝手に貴方を排除しようと思います。貴方がいる限り、大切なひと達は安全に過ごせないようなので」
「ふうん。——君にそれが出来るとでも? 練度も高いとは言えない君が?」
ニタリと醜悪に影を落とす顔を睨み付け、一期は大きく足を踏み出す。ぶつかり合う鋼が火花を放つ。鍔迫り合いに持ち込んで、一期は手を握り締めて答える。
「不可能と言われても、やって見せます。そうでなければ、自分を認められませんから」
「——ははっ! やっぱり君に目をつけたのは正解だった!」
一期の刀身を受け流し、背後に大きく下がってから鶴丸は刀装を展開する。兵は盾兵二つに、もう一つは——
「……銃兵……あの小狐丸殿が操れるのなら、持ち込みますよね……!」
こちらも兵を展開し、銃弾を防ぐ為に前へと出す。弾けて消える前に、鶴丸はこちらへと詰め寄り始めていた。大きく刀を振るわれ、刀身で受け止めた直後には次の斬撃が向かっている。
——速い。余りにも速く、防御するので精一杯だ。
練度差というのをまざまざと実感する。毎日頑張っていたつもりだったが、まだここまで差があるとは。やはりもう少し鍛練を積むべきだっただろうか。
弱音が浮かび上がり、精神を弱らせているのが分かる。いや、と心の内で首を振り、気合を入れ直す。
ここで鶴丸を逃がせば、惨劇が広がるばかりだ。それに、弱気な自分も許せなくなる。
今の自分に出来る最善を。一期は襲い来る攻撃を防ぎながら、鶴丸へ一撃を与えられるチャンスを真剣に窺い始めた。