慣れることのない深い闇の中で、蒼穹の一期は呆然と立っていた。何度も見ている夢だが、空恐ろしさは平気になれない。
今回は少し様子が違う。夢の中にいる少年は、こちらに話しかけて来ないのだ。闇の中で不自然に浮き出る少年は、背中を丸めて座っている。
「だれかこないかなあ」
少年はぽつりと、そう呟く。その誰かに呼びかける様な響きは、一期にも共鳴する。
――この子は、寂しいのか。
少年の肩を叩いて、ここにいることを伝えようとする。しかし、手はすり抜け、虚しく空を掻くだけだ。
「……ぼくは、なんなんだろう。なんで、ここにいなくちゃいけないんだろう。ぼくは、いったいどんなそんざいなの? ……だれか、だれかとはなせば、ぼくはどんなそんざいかわかるのに」
少年の声は、心細さを感じさせた。一期は彼の前に移動し、声を届けようと試みた。
「君は、確かにここにいる。生きている。君は、少し寂しがり屋で、だけど物を考えようとする、賢い子だ。……そんな君を、どうして周囲の人間は一人にするのだろうね」
一期の声に呼応するかの様に、細く光が差し込んでくる。少年はそれから目を守る様に手で翳した。そして、光の太さが大きくなって、少年と一期を包んでいく。
一期が最後に見たのは、その光から誰かが出てくる景色だった。
*
ずきり、と頭が痛む。ガタンゴトンと揺れる床が、更に頭痛を倍増させている様な気がした。手を動かそうとして、自分が後ろ手に縛られていることに気付く。どうやら、足も縛られている様だ。目の前はどんな地獄が広がっているのか。恐る恐る、目を開ける。
そこには、先程の髪を肩で切り揃えた穏やかな笑顔の少女と、ぎこちない作り笑いを貼り付けた氷雨の蜂須賀虎徹が、ボックスシートに向かい合って座り談笑している光景が広がっていた。一期はぽかんと口を開ける。
「それでね、兄さんと一緒に泥まみれになっちゃって、母さんに叱られちゃったの。こんなに服を汚して! って」
「そうなんだ。全然思い出せないけど」
「仕方ないわ。記憶操作をされているのなら、ちょっとやそっとじゃ記憶は戻らないもの。時間をかけていきましょう」
「そうだね。……あ、起きた」
蜂須賀がこちらを見る。ぎこちない表情が、安堵に緩むのが分かった。少女は先程までの穏やかな笑みを引っ込め、憎悪を滾らせた鋭い視線を一期に向けた。
「感謝しなさい。兄さんが足がついたら大変だと忠告してくれて、そして何より大切な友達だと言ったからまだ貴方を捨てていないの。少しでも妙な真似をしてみなさい、貴方の首と胴を切り離すわ。――貴方は兄さんの慈悲で生きているということを忘れないで頂戴」
ぐつぐつと煮え立つ憎悪を剥き出しにし、少女は一期を見下ろす。少女が靴を鳴らすと、周囲から時間遡行軍の短刀と脇差が現れた。一体どこに潜んでいたのか、短刀は体を強張らせる一期の周囲を監視する様に飛び回っている。
顔をしかめて、蜂須賀は少女に苦言を呈した。
「コノミさん、あまりそいつらを表に出すのは止めてくれないか。そいつらは俺の敵なんだ、あまり近くに寄られると気分が悪い」
「まあ兄さん、可哀想に。こいつらに酷いことをされていたのね。でも大丈夫よ、こいつらは私達を守ってくれるの。言わばボディガードね。だからそんなに不安にならなくていいのよ」
「……この数の兵を、どこから手に入れたのです」
蜂須賀に蕩ける様な笑みを見せていた少女――コノミは、一期の追求を冷たい声音で突っぱねた。
「貴方が知る必要のないことだわ。それとも、今すぐここから放り出されたいの?」
「コノミさん。本当に君が俺の妹だとして、そんな風に俺の友達を蔑ろにする妹は嫌いだよ。それに、彼も俺も緊張するから、そいつらは引っ込めておいてくれると嬉しい」
蜂須賀が不快感を露わにしたのを見て、コノミは一瞬顔を青ざめさせる。そしてはっとしたと思うと、うっとりした表情で蜂須賀を見つめた。
「本当に兄さんは優しいわ。昔から変わらない、そういうところが大好きよ。兄さんに嫌われるのは嫌だから、しばらくそいつはそこに置いておくわ。ボディガードも下がらせるけど、くれぐれも危険なことをしないでね?」
ほう、と無意識に息を吐いていた。それは蜂須賀も同様であったらしい。
ピピピ、とコノミの鞄から電子音が鳴り、一期は体を竦める。それには気付かずに、コノミが中から端末を取り出して画面を見ると、顔を歪めた。
「ごめんなさい兄さん、ちょっと席を外すわね。すぐに戻ってくるから」
「分かったよ」
コノミは席を立ち、通路を歩いてドアに向かう。コノミが時間遡行軍を引き連れてドアの向こうに消えたのを確認して、蜂須賀は立ち上がり一期に駆け寄った。
「一期! すまない、君を巻き込んでしまって……」
「蜂須賀殿のせいではありません、お気になさらず」
蜂須賀は刀を出現させ、一期の手足の縄を軽く切る。これで、一期が少し力を入れれば解け、かつコノミに怪しまれない程度の拘束になった。
「いざとなったら、力を入れて縄を切ってくれ。……今はこれが怪しまれない限界だ」
「ありがとうございます。……それから、彼女は何者です?」
蜂須賀は「分からない」と言い頭を抱える。
「本当に妹が存在するなら、浦島が大喜びしそうだけどね。俺には心当たりが無い。彼女は、俺を誰かと勘違いしている様だ。……それを利用して、一期を友達だと言って放り出されるのを阻止したんだけど……」
「重ね重ね、ありがとうございます。流石に情報もない場所に一振りではどうしようもありませんから」
そうだね、と蜂須賀は頷く。
「一応言っておくと、ここはどこかの路線の電車内だ。貸し切りだと言っていたから、車掌に救援を、という訳にはいかないみたいでね。どうしたら本丸と連絡が取れるか、途方に暮れているところだ」
「どこの路線かは分からないのですか?」
「端末が使えなくてね……電車も止まる気配が無いし、どこの地域かすらも分かっていないよ」
打つ手無し、ということか。しかし、どうにかして連絡を取らなければ、自分は捨てられ、蜂須賀は自称妹に閉じ込められそうだ。
「そういえば、主からこれを預かっていたんだけど……」
蜂須賀が懐からある物を取り出す。それは掌より少し大きい機械であった。一期はそれに既視感を覚えたが、答えが出てこない。
「修理に出しておけと主に言われていてね……でも、俺はこれの使い方が分からなくて。一期、心当たりは?」
「……見覚えのあるような……すみません、すぐに思い出せそうにありません」
「そうか。まあ、修理しなくちゃいけない位だし、あまり使えないか。でも、心当たりがあるなら一応持っておいてくれ」
そう言って、一期のジャージのポケットに機械を突っ込む。直後、ガラガラとドアが開かれた。蜂須賀はまた後で、と言って席に戻る。
「お待たせ、兄さん」
「……誰からだったんだ?」
「兄さんを助けるのに協力すると言って来た奴らよ。全く、事細かに報告しろだなんて。身内でしか話せないこともあるじゃないの、ねえ?」
「あー、そうだね……」
すっかり己の兄として接しているコノミに、蜂須賀は苦笑いだ。介入して怒りを買う訳にもいかず、一期は本丸と連絡を取る方法を模索することに決めた。
***
氷雨の蜂須賀と蒼穹の一期が拉致されたと一報を受けた雲霄隊はてんやわんやの状態だった。何せこの町の時空間座標を特定され、空間の壁に穴を開けられ、刀剣男士を連れ去られたのだ。主に時空管理を担当する雲霄隊は、原因究明に乗り出していた。
雲霄隊本丸の一室で、加州は機械に向かいながら喚いていた。
「あーもー、何でこんなことになっちゃったかなー!」
「頭掻き毟っちゃだめですよ、加州さん。ボクの方は空振りでした」
「俺の方も空振りだ。相手は徹底的に蜂須賀をモノにしたい様だな」
「鶯丸様、言い方!」
時空の穴の痕跡を辿ってみるも、今のところ当たりには至っていない。ブラフに思いっきり引っかかっている状況だ。
事が起こってから事態を知り、事前に拉致を防げなかった雲霄隊は、恐らくこの後思いっきりこき使われるだろう。本来なら政府から処罰が下ってもおかしくはないが、何せ謹慎などを命じたなら確実に時空間の警備が手薄になる。政府直属部隊の中では、ここの審神者と刀剣達程時空間の扱いに長けているものはいない。後釜を据えるにしても、時間がかかる。故に、彼らを休みなく働かせることで、処罰の代わりとするはずだ。後釜の教育もする様に命じられるに違いない。
加州が端末を取り出して、メモした氷雨隊の審神者の証言を確認する。
「えーと、連れ去ったのは蜂須賀を兄と呼んでる女の子。その子が万屋の前で氷雨の蜂須賀と蒼穹の一期を襲撃、拉致した、と。……ねえ平野、どう思う?」
「普通なら人違いで他人を襲い、拉致した狂人と見なされるでしょう。ですが、確か氷雨隊の蜂須賀さんは――」
不自然に区切られた平野の言葉に、鶯丸と加州は顔を見合わせる。加州の顔には、冷や汗が浮かんでいた。
「……いやいやいやいや。痕跡は丹念に消しているはずだし、普通に考えてそういう結論に至る?」
「至ったのだろうな、彼女は。……とんでもない執念だ」
「問題は、誰が彼女を確信させたか、ですね。そんなことを思い浮かんでも、普通は陰謀論だということで選択肢から外しますから」
鶯丸は、鶴丸からの個別トークルームでのメッセージを思い起こしていた。
『うちのはちそかと、そいきょつのいちごがつれさられた。なにかしらないか』
鶴丸は、恐らく蜂須賀の真実を知らない。聡い刀だ、いずれは真相に辿り着くだろうが、機密情報である以上今の鶯丸から言えることは何もない。鶯丸は『こちらでも懸命に調べている。心配なのは分かるが、とりあえずは落ち着けよ』と返信して、端末をスリープ状態にした。
だが、大人しくしている彼らではないだろう。氷雨隊でも、決死の捜索が行われているはずだ。
「鶯丸さん」
物吉が鶯丸へ声をかける。思案の海から浮上した鶯丸は、どうした、と物吉の方を向いた。
「氷雨隊、がむしゃらにならないといいですね」
「……そうだな。時空軸は数多にある。手当たり次第に出陣しては、疲労するだけだ」
世界は一つではない。数多の時空軸、それぞれに細かい歴史は違う。大きな流れはほぼ同じだが、例えば市井の人々に関する歴史は、ちょっとしたことでがらりと変わる。
この町へ接続できる時空軸だけでも百を超えるのだ。まずは少女が、どの時空軸に逃げたかを特定しなければならないのだが――
「……途方も無いなあ。目が回りそうだ」
「が、頑張りましょう! ね? ボクらがちゃんとしないと、氷雨隊が暴走しかねませんし……」
時空軸一つ一つの世界中を見て回る訳にはいかない。そのため、時空の壁を破壊した痕跡を元に探している。が――現時点で蜂須賀達は見つかっていない。
「あー、蜂須賀のいるところから敵が襲撃して来て、時空軸特定できないかなー」
「加州さんの目が死んでる……」
「頑張ろう、加州。今はやるしかないんだ」
「本当、そんな都合のいいことが起こるといいんですけどね……」
平野の言葉に一瞬部屋が静まり返り、四振りはため息をつく。そして、よしやるよ、という加州の一声で再び機械に向き合った。