ぺたぺたと、廊下の湿り気は足の裏に張り付く。空から降る水の独特な音は、そろそろ一月ほどの長い付き合いになるだろうと感じさせる物だった。
風流を感じながらも歌仙はある部屋の前に立つと、勢いよく障子を開け放った。
「……やっぱりここにいたか、長谷部」
深くため息をつき、部屋の隅に縮こまっている存在――へし切長谷部に近寄り、こちらを見る淀んだ目と視線を合わせる。
長谷部がこの本丸に来て半月程。その間、様々な刀達から彼の異常性は聞かされていた。
曰く、戦場に出れば吐く程の戦い嫌い。
曰く、何かあればすぐ謝罪する謝り人形。
曰く、影が薄過ぎてすぐ見失う。
はじめは演練で見かけたへし切長谷部とはかけ離れた刃物像に皆戸惑った。だが薬研と鯰尾の両名からなされた「気にかけた方がいい」という進言で審神者は長谷部を戦場に出さずに、人手が少ない内番を任せる事に決めた。そして審神者の命によって「長谷部お世話係その一」となった歌仙は、すっかりその特性に慣れ切っていた。
そしてもう一つ。前の本丸の加州に言われた通り、長谷部はよく手入れ部屋にいた。人気が少ない所の方が安心するという。確かに慎重な進軍をする本丸の方針のおかげで、手入れ部屋を使う機会はほとんど無いが――万が一という事もある。それに、彼には他の刀と接して馴染んで欲しいという思いがあるのも事実だ。現状はこの通り、影の薄さを利用して一振りでいる方が多いのだが。
長谷部は歌仙の呆れた目つきに体を震わせて、くぐもった声を出した。
「……何かあったのか? ……ごめんなさ――」
「だからすぐ謝らない。軽く見られるよ。……主が呼んでいる、執務室へ行こう」
「分かった」
立ち上がって自身の服の裾を掴み、歌仙の後ろを気配も薄くついて行く姿は、どこかふっと存在が消えそうな不安を掻き立てられる。これもまた、この長谷部の特性なのだろう。
大広間では短刀達が遊んでいる。歌仙にどこへ行くのか問いかけ、背後にいる長谷部を指差すとその存在に驚きながら納得される。短刀達でも長谷部の存在に気付きにくいのだ、打刀となると意識を集中させなければ認識出来ない。どこにいても、背景の一部にされてしまうのだ。これも何とか出来ないだろうか、と歌仙は嘆じずにはいられない。
執務室の前に到着すると、障子が開いていた。中で書き物をしている小さな審神者に長谷部を連れて来た事を告げると、彼女は筆を止めて振り返った。
「ありがとうございます、歌仙さん」
「開けているなんて珍しいね。こうもじめじめしていると、流石に閉め切る訳にはいかないか」
「そうですね。それと、雨の音が好きなのでよく聞こえる様に」
「なるほど、風流だね。……それはそうと主、僕達に用事って?」
歌仙が尋ねると、審神者がそうそう、と手を合わせる。
「歌仙さん、茶器を直して貰っていたそうですね。先程工房から連絡がありまして、修復が終わったので引き取りに来て欲しいと」
「ああ、待っていたんだよ! すぐに出向かないと!」
「……俺は、何で呼ばれたのでしょう」
興奮を隠さない歌仙の横で、所在無さげに体を縮める長谷部。審神者は長谷部に財布を差し出し、柔らかな口調で言った。
「長谷部さんも、たまには買物をしたらどうかな、と思ったんです。……長谷部さん、あまり物を持っていないでしょう? だから、娯楽の物でも身につけられる物でも、何か好きな物を買ってみて欲しかったんです。お金は、私が出しますので」
長谷部は何を言われたか分からないと言う様に呆然とする。審神者に強引に財布を手渡されて、されるがままに受け取った。歌仙はその光景に、目を輝かせる。
「主……! それは、僕も新しい骨董品を買っていいと言う事だね!?」
「えっ、いや、それはちが――」
「ありがとう主、僕は嬉しい! 長谷部、僕は主に喜びを示す歌を考えるから、先に出かける準備をしていてくれ!」
「えっ……ああ、分かった……」
長谷部は何が何だか分からないまま、歌仙の勢いに押されて執務室を出て行った。
長谷部の足音が遠ざかるのを確かめてから、歌仙は審神者に向き直る。その表情は、子供を慈しむ「大人」の物だった。
「主、長谷部に何か楽しい事をして欲しかったんだろう」
「……お見通しですか」
「そりゃあ、君の一番初めの刀だからね。……君なりに色々考えたんだろう、どうしたら長谷部が楽しく過ごせるのか。幸せになれるのか。その一環として、今日僕と一緒に城下町に行かせようと思ったんだね」
「……ご名答です。流石ですね」
審神者は紙の面に覆われていない口元を綻ばせる。穏やかな顔をしていた歌仙は、しかしすぐにその表情を懸念する物に変えた。
「君も、楽しい事をしていいと思うんだけどね。君は僕達に尽くし過ぎている。まるで、僕達が君の主の様だ。……君の望みは今も変わっていないのかい?」
審神者は、口を笑みの形にしたまま動かした。紙の面に覆われて、表情の全貌は分からない。
「はい。……こんな私を主と呼んで下さる皆様の刃生を、満足出来る幸せな物にしたい。それが、私の望みです」
だが心からそう願っている事は、その口調で分かった。
*
城下町は雨のせいでいつもより人通りが少ない。まばらに傘を差して歩いていたり、店内に消えて行く人の顔も雨のせいか然程明るくは無い。そんな中洒落た傘の下でホクホクとした顔をしながら歩く歌仙の後ろを、長谷部はシンプルな傘を軽く傾け、目線を下に向けたままついて行っていた。
「いやあ、流石の腕前だね! 長谷部も見ただろう、あの趣深い景色を!」
「……そうだな。機嫌いいな、歌仙」
「そりゃあ、あの様に見事なものを見せられたらね! 長谷部も、もし茶器とかが割れたらあそこに頼むといいよ!」
「……考えておく」
返す声には覇気が無い。歌仙が振り返って長谷部の様子を見ると、彼は人にぶつかられてよろめいている所だった。ぶつかった人と謝罪し合い、長谷部は再びとぼとぼと歩き出した。やはりそこには、勝気という印象は見当たらない。そうそうぶつかる事はもう無い広い道なのに肩身が狭そうにする彼は、歌仙がこちらを見ているのに気が付くと、慌てて顔を上げる。
「……どうした?」
「いや、何でも。……ああ、あそこに雑貨屋があるね。少し覗いて行こうか」
「分かった」
歌仙が歩く方向を雑貨屋のある方へ変えると、長谷部も黙ってそれに倣う。軒下で傘を閉じ店のドアを開けると、純和風な外装に反して内装は現代風の物だった。女性客が五、六人品物を見たり手に取ったりして物色している。品物を見ると、可愛いポーチやバッグ、小瓶や食器などが置いてある。小物も並んでいる様で、女性客の一人がキーホルダーを両手に取って見比べていた。
うーん、と歌仙は思案する。自分は海外のセンスがよく分からない。この店が和風の雑貨を取り扱っていれば良かったのだが、残念な事に海外風の物ばかりだ。加州や乱などが来たのなら、喜んで店内を見て回るのだろうが。
はっ、と気が付くと隣にいた筈の長谷部がいない。慌てて見渡すと、やはりと言うべきか店の隅にある一角に立っていた。商品棚の間を縫って長谷部の下へ行くと、彼は並んでいた商品を手に乗せじっと見つめている。
「四葉の根付……欲しいのかい?」
「……! いや、これは違……!」
歌仙が後ろから話しかけると、長谷部は肩を跳ね上げて振り返る。青ざめて唇を震わせるその様は、欲しい物を前にした表情とは言い難い。クローバーを模した飾りが付いたストラップを、長谷部は慌てて商品棚に戻す。
「違う、大丈夫、いらない、欲しくない、手に取っただけ、大丈夫、大丈夫、だから――」
かたかたと体と声を震わせ、歌仙の顔色を窺う。周囲の目が痛く感じる。これではこちらが虐めている様ではないか。
欲しい物一つでそこまで怯えられては困るのだと、歌仙は思わず苛立った声を出しそうになった自分に気が付き、息を吸う。
――あのひと、放って置いちゃいけないと思うんです。何か、主に似ている気がして……。
――ありゃ、大将と同じ様な目に遭ってるな。
鯰尾と薬研の言葉は、歌仙を冷静にさせるには充分な物だった。二振りがこの長谷部にあの審神者との共通点を見出しているのだ、ここで負の感情をぶつけてしまったら心を閉ざしかねない。「仲間外れ」が出てしまえば審神者の心も刀達の心も休まらないだろう。
相手が顕現してどのくらいかは分からないがこちらも顕現からしばらく経つのだ、自分が大人になって対応しなければ。
歌仙は長谷部が戻した商品を手に取り、レジへと向かう。長谷部が疑問符を浮かべていたのは感じ取れたが気にしない事にして会計をする。ラッピングを頼むと店員は愛想良く微笑んでから奥へ引っ込み、しばらくしてから包装された商品を歌仙に手渡した。
ありがとうございましたー、という愛想のいい声を聞きながら店の外へと出る。傘を差しながら長谷部は尚も訳が分かっていない様子で歌仙に尋ねた。
「……主への贈り物か?」
「それは別に用意するに決まっているだろう。これは君のだよ」
は、と目を丸くする長谷部の手に歌仙はラッピングされた袋を握らせる。長谷部は手にした袋と歌仙へ交互に目をやり、呆然とした口調で呟く。
「……これを、俺に?」
「そうだよ。主から好きな物を買う様言われていたじゃないか」
「……これから借金のカタにされて、売られたり……」
「君が僕をどう思っているのか問い質す必要がある様だね? 後それ、絶対お小夜の前で言うんじゃないよ」
「……売られた先で、体をあちこちいじられたりするんだ……! でも大丈夫、クローバーは幸せを運んでくれる、だから実験に使われても平気――」
「妄想を加速させるんじゃない! 僕はそこまで情が無いと思われていたのか!?」
周囲の人間が大声で長谷部に突っ込んだ歌仙を不審な目付きで見ながら通り過ぎて行く。我に返って咳払いをした後、まだぶつぶつと何か呟く長谷部の肩を叩き、視線を向けさせる。
「まあそんな事は無くて、純粋に君への贈り物だと思ってくれ。何か見返りを期待している訳じゃない。強いて言うならそうだね、君に本丸で出来る事をやって貰えたら僕は嬉しいかな」
「……見返り無く? 叩いたり、しないのか?」
「する訳が無いだろう、全く君は僕を何だと思っているんだか……」
頭を抑える歌仙と手元の袋を見比べて、今度こそ自分へ不純の無い贈り物をされたのだと理解した長谷部は、暗い雰囲気を払拭させ、歌仙へはにかんで見せた。
「……ありがとう」
その顔から暗さは抜けていないが、それでも妄想を加速させていた時の悲壮感は無い。歌仙はぽん、と長谷部の頭に手を乗せて丁寧に撫でた。
「そんな表情も出来るんじゃないか。もう少し雅に笑えたら良かったけれど、今はそれでよしとしよう」
「……そんなの、どうやって」
「何、楽しいや嬉しい事があったら笑うといい。しばらく短刀達と混じって遊んだらどうだい? 君は少し、素直になる必要があるみたいだから」
歌仙はそう言うと、ゆっくりと手を下ろし前を向く。雨はパラパラと落ちて、足下の水溜りに跳ねていた。
水溜りを避けて歩こうとした歌仙は、長谷部の言葉を拾って彼の方を向き――
「……短刀達は、俺と遊んでくれるかな」
――見えた姿に絶句した。
煤色の髪では無く長いぼさぼさの黒髪、目の色は淡い青紫から茶色に、幼さが残るぐらいの筈である顔立ちは、すっかり大人らしさが抜けている。今自分は長谷部と話していて、こんな見知らぬ幼子の相手はしていなかった筈だ。
幻覚を見ているのか、と考えて頭を振ってから目を擦ると、そこにはいつもの長谷部の姿があった。いきなり不審な行動をした歌仙に、心配そうな視線を向けている。
「……歌仙? 目が痛いのか?」
「……いや、何でもない。よし、主へのお土産を買いに行こう。君にも考えて貰うからね」
「えっ」
俺はセンス無いし、変な物選んだら、とぐちぐち言う彼の手を強引に引っ張り、歌仙は城下町を進む。水溜りを踏んでいる事など、気にもしなかった。
長谷部の手はきちんと質のいい手袋の感触で、それに安堵している自分がいた。