「寒いね。寒くて……お腹すいたね」
鯰尾は何度目か分からない、あの子供達の夢を見ていた。状況は夢を見る度に悪化の一途を辿っており、今回からは外に連れられていた女の子さえも男の子の隣で震えていた。
陽射しが入らない部屋の中は北風が隙間から吹いて来ており、二人とも唇を紫色に染めていた。二人は暖をとる様に身を寄せ合い、ちびちびと半分に割った煎餅を食べている。
「……トモエ、俺のお煎餅あげるよ」
「ううん、それはお兄ちゃんのだよ。私はこれで大丈夫」
力無く微笑む女の子の言葉が嘘だと看破されていても、女の子は譲らない。仕方無く男の子は煎餅を食べる作業に戻る。二人の姿は痩せ細ってあまりにも弱々しく、まるで打ち捨てられた子犬の様だ。
鯰尾は歯痒くて仕方が無い。あの女性にどうしてこの子達を可愛がれないのか問い詰めたかった。けれど相変わらず鯰尾の手は空を切るし、声も届かない。黙ってこの光景を見ているしか無いのが現状である。
女の子が煎餅を食べ終わると、立ち上がって部屋の隅に置いてあるポスト型の貯金箱を振る。そうして男の子の下へ戻り、貯金箱を開けた。
「お兄ちゃん。私、お小遣い貯まったから、お外にご飯買いに行くよ」
「駄目だよ! それはトモエの大事な――」
「いいの。お兄ちゃんのお腹がいっぱいにならなきゃ、私も辛いから」
そう言って、女の子はふらふらと覚束ない足で玄関へと向かう。男の子が後を追い、ぶかぶかのコートを着ている女の子の肩を掴んだ。
「一人じゃ駄目だ、俺も一緒に行くよ」
「お兄ちゃん……でも、お腹すいてるでしょ? 私一人でも大丈夫だよ」
「平気だ、トモエと一緒なら。それに、あの人の布団の中からこれが出て来たんだ」
男の子がポケットから茶封筒を取り出すと、女の子は目を丸くした。
「それ、お母さんの……?」
「正確には『俺達のお年玉を横取りしたあの人のお金』だな。だから、使っても大丈夫……だと思う。今日は遅くまで帰って来ないと思うから、これでチキンカレーを作ろう」
「チキンカレー! 私、お兄ちゃんのチキンカレー大好き!」
女の子の表情が輝いた。男の子はそれに穏やかな笑みを返してポケットに茶封筒を突っ込み、女性の物と思われるコートを着ると女の子の手を握る。
「一緒に鶏肉選ぼうな」
「うん!」
手を取り合い、玄関のドアを開ける。曇り空で、冬風の冷たさしか無い事に構わず明るい表情で二人は外へ出て行く。
階段を降りて道を行く二人を、鯰尾は暖かく見守っていた。
――絶望と諦観で淀んだ町の景色をなるべく目に入れない様、意識しながら。
*
「……それで金を取った事が女にばれて、少年はまた胸糞悪い虐待をされたのか」
「かれーを美味しそうに食べてた光景が微笑ましかった分、精神的な傷が深いよ……。子供に水攻めとか普通するか!? 庇った妹ちゃんも顔に火傷負っちゃったし……あーここにあの女がいたら馬糞投げつけてやりたい!」
「そうか……後、馬糞を握り潰すな兄弟。歌仙に叱られるぞ」
馬の手入れを中断し骨喰は怒りに燃える鯰尾を窘める。ぎゃーっと叫んだ後、鯰尾は手洗い場へ走り去って行った。骨喰はふう、と息を吐いて馬のブラッシングを再開する。今日は雨の季節にしては珍しく、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。
ある壊れた家族の夢を見てからというものの、鯰尾はしばしばその夢の続きを見る様になってしまった。流石に気にしない訳にも行かず、こうして骨喰に夢の話を零している。気分の悪さを共有する様で申し訳無いが、骨喰に話す様になったのは鯰尾が子供達の酷い境遇を見続けて、精神的に参ってしまう寸前だったのだ。少しは吐き出せ、と骨喰に泣かれ、鯰尾は骨喰には夢の内容を語る事にした。
手を洗いながら考える。今日もまた、悪夢を見てしまった。一体あの家族は何なのか、そもそも何故鯰尾が見る様になったのか、本当にあの家族が実在しているとして、鯰尾に何の関係があるのか――
「鯰尾」
「っふぉどわぁっ!?」
考え事をしていたら背後からいきなり声をかけられた。とんでもない叫びを上げながら後ろを向くと、長谷部もまた目を丸くし立ったまま固まっていた。
長谷部が来てから三週間。相変わらず、鯰尾は彼との距離感を測りかねていた。
どこか夢の中の男の子に似ている彼を放って置けないのはそうだが、おどおどとした彼は鯰尾に心を開き切っていない状態だ。あまり距離を詰め過ぎれば驚いて心の壁を作られかねない。じりじりとにじり寄る感覚で少しずつ心を開いて貰おうとしているのだが、そうなるのはいつの日か。
それと懸念事項が一つ。――彼の影が薄過ぎるのだ。実際、鯰尾は長谷部が手洗い場に来た事に声をかけられるまで気が付かなかった。偵察が得意な短刀や脇差がすぐに見失う程なのだ、彼の異常性は明白である。審神者も何とかしたいと話していたが、具体的な案が見つからないまま今に至る。
「は、長谷部さん。すみません、変な声出して……。どうしましたか?」
「あ、ああ。いや、少し裏山に行ってこようと思ったんだが、主も歌仙も見当たらなくて……。どこにいるか知らないか?」
長谷部は本丸の裏にある山に時折出かけていた。理由の分からないその行動も馴染めないでいる要因ではないかと鯰尾は思っている。だが一度本丸の都合で止めた時に長谷部はかなり落ち込んでしまい、その日の夕飯をあまり食べなかった。それ以降、出来る限り裏山へ行かせるのを止めないでいる。
「あー、主も歌仙さんも今研究所に行ってますねー。まだ帰って来ないと思いますけど、帰って来たら俺が主に伝えましょうか?」
「そうして貰えると助かる。じゃあ行って来る」
長谷部はそう告げると身を翻してその場を去って行く。ひらひらと手を振り見送っていた鯰尾だったが、彼の頭にある考えが芽を出す。
――長谷部さん、裏山でいつも何やってるんだろう?
萌芽したのは、謎の行動をする彼への好奇心と、何かに巻き込まれているのではという心配。それに気が付いたらもう駄目だった。振っていた手を握っては開きを繰り返してから、鯰尾は厩へ走って骨喰に叫んだ。
「骨喰! 俺今から裏山行って来る!」
「は!? いや当番はどうする気――」
「すぐ帰るつもりだけど、時間かかったらごめん! 後で埋め合わせするし、今日の夕餉のおかずは分けるから!」
そう言ったが早く鯰尾は弾丸の如く駆けて行ってしまう。訳も分からず置き去りにされた骨喰は、ぽかんと呆ける他無かった。
*
微かな気配を元に、木々の間を跳ねて進んで行く。木漏れ日がちらちらと目に入っているのを感じながら、細い蜘蛛の糸を探して手繰る様に、長谷部のいる方向を探る。
――拓けた所に進んでいるみたいだな。
枝を渡り、気配の下へ進む。木々の隙間が広くなり始め、鯰尾は大きくなり始めた木漏れ日に当たらない様、拓けた場所から少し離れた木の枝に潜んだ。目の上に手を当て、長谷部の姿を探すと。
――いた!
長谷部は拓けた場所にある横倒しになった丸太の上に座っていた。じっと座って俯き、時折ちらりと顔を上げて視線を周囲に向ける。こちらの方向に視線を向けられている時もあり、鯰尾は息を潜めた。
太陽が長谷部を照らしているのに、肩身が狭そうにしている。鯰尾はやはりそれに既視感を覚えた。まるで、夢の中に現れる男の子の様だ。何故かそう考えて、どこまでも普通の長谷部らしくないな、と思った。
「長谷部殿! お会い出来て嬉しいですよぅ!」
「体調は悪くない?」
突如聞こえた声に叫びそうになった。身を竦ませながら声のした方を見ると、面頬を付け肩に狐を乗せた男が丸太に向かって歩いている。粟田口派の打刀、鳴狐だ。
――うちの伯父さんじゃない。いや、それよりも……気配を全く感じ取れなかった。
あの気配の薄さだと、背後をあっさり取られるだろう。刀を突き付けられる空想が浮かび、鯰尾の背中に汗が伝う。穏やかでは無い想像をする鯰尾の事など知る由も無く、鳴狐は長谷部と少し距離を置いて丸太に座った。
「俺は元気だ。鳴狐も元気だった?」
「ええ、鳴狐は健康そのものですよぅ。……その様子ですと今度の本丸では悪く無い待遇を受けているご様子。何よりでございます!」
「……うん。今度の主は優しい。刀剣男士達も、良くしてくれてるし」
「良かった。……油揚げ、食べる?」
「いや、それは狐にあげてくれ」
談笑する二振りを見て、鯰尾は少なからず衝撃を受けた。本丸での長谷部はいつも俯いていて声も大きいとは言えず、陰気な印象が著しい。しかし鳴狐の前では、相変わらず声はか細く俯いてはいるものの、陰気な印象から少し照れ屋ぐらいのイメージの差がある。お供の狐の言葉にクスリと笑ったり、鳴狐の話を聞いてしみじみと頷く場面も見られ、本当に和やかな雰囲気を醸し出していた。
――いいなあ、どこぞの伯父さん。
二振りを眺めながら鯰尾は憧れる。自分もあの様に長谷部と会話してみたい。楽しい事で一緒に笑ったり、空の青さを眺めながらゆっくりと時を過ごしてみたい。
それはただ見た事の無い表情を見たいだけの好奇心から来る物なのか、本当に長谷部と仲良くなりたいが為の想いなのかはまだ分からないけれど。確かに、自分は長谷部の柔らかさを引き出した鳴狐を羨んだ。
「……それで、やっぱり優しくされても、いつか出て行くのに仲良くなっても虚しいだけじゃないかって思ってしまって……。明るい場所で遊んでいる短刀を見ると、胸が苦しくなるんだ。どうしても、あの中に完全に混ざれなくて。壁が、ある気がするんだ。自分は陰の中にいるべきなのにって、壁の向こうから責められている気がしてならない。……分かってる、捻くれ過ぎだよな。でも、疑う心しか持てない自分が、どうしても好きになれない」
はっと気が付くと、長谷部が沈んだ表情でそう語っていた。組んでいる手に目を落としながら、先程の穏やかさとは打って変わった泣きそうな声音で言葉を紡ぎ続ける。
それがまたあの夢の男の子を連想させて、鯰尾の胸が少し痛んだ。そんな事は無いと言いたかった。弟達も長谷部を気にして一緒に遊んだが、楽しく無かったなんて一言も言わなかった。責めるなんて事、審神者も自分達もする訳が無いのに――
すすり泣く声が聞こえる。それでも盗み聞きしている自分は、何も出来ない。長谷部の側に降り立ったお供の狐は、甲高さを残しながらも柔らかい口調で告げた。
「……大丈夫ですよぅ。いつか長谷部殿にも、暖かな陽差しを浴びられる日が来ます。どんなに冷たい氷も、陽射しの下に置けば溶けて馴染んでいきます。長谷部殿も、その心を日向に置けばいいのですよ。重たく固まり切った氷を動かすのは大変かもしれません。でも、日向に行こうと努力をするものを誰が笑いますか。少なくとも、我々は笑うものを許しません。そうして少しずつ動かして行けば、次第に暖かい光が傷付いた心を包むでしょう。その証拠にほら、あそこに長谷部殿を心配して来て下さった方もいる様ですし」
え、と鯰尾は凍り付く。長谷部も驚いて鳴狐が指差した方――即ち鯰尾がいる方向を見た。お供の狐は追い討ちをかける様に声を張り上げる。
「その気配は……鯰尾殿でしょうか? いやはやわたくしは嬉しいですよぅ。以前の本丸ではこうして長谷部殿を追いかけて来る方などひとりもいなかったのですから。隠れていらっしゃらないで出て来て下さい。わたくしは、貴方を責めようとしている訳では無いのですから」
正体まで看破されているとなると、降りない訳には行かない。鯰尾は木の枝に掴まってから地面に着地する。長谷部は驚愕の眼差しで木の上から降って来た存在を見つめた。
「……鯰尾、何で」
「いやあ、いつも裏山に行って何してるのかなーって思って。……その伯父さんは友達ですか?」
鯰尾は長谷部に問いかけた。聞くまでも無いと思ったが、長谷部は鳴狐をじっと見てから不安そうに首を傾げる。
「……友達、なのか?」
その言葉から一拍の間が生じ、奇妙な沈黙が流れる。お供の狐はその沈黙を破って大仰に喚いて見せた。
「おお長谷部殿、まさか我々をただの知り合いだと申しますか!? 鳴狐は悲しんでおりますよぅ! 長らく続いているお付き合いではないですか!」
鳴狐も空を仰ぎ嘆く素振りを見せる。一振りと一匹の様子に慌てて長谷部は釈明した。
「いや、そういう意味じゃない! ……鳴狐みたいないいひとを友達って言っていいのか、悩んだんだ。俺みたいなのが、友達を名乗っていいのかって」
手をぱたぱたと振って言い訳をするも次第にその声も萎れていく。再び視線を膝に置かれた手に固定してしまった長谷部に、お供の狐が前脚を彼の拳の上に乗せる。
「冗談ですよぅ。長谷部殿の性質は多少なりとも触れているつもりです。そんな貴方が喜びや悲しみを語れる時点で、我々は友達と定義出来るでしょう。……長谷部殿はもう少し自信を持っていいと思いますよぅ」
「……そうかな」
「そうですよぅ」
鳴狐も、長谷部の肩に手を置く。二つの温もりに触れられて長谷部の表情が緩んだ。
本当に鳴狐には心を許しているのだと、改めて感じた。転々と本丸を移る中で、彼に助けられた事もあったのかもしれない。
自分の知らない長谷部。それを、全て分かろうとは思わない。けれど、鯰尾も長谷部に心を許されるまでは行かなくても、自分の側で少しだけ安らいで貰えたら嬉しい。そうするには、やはり彼について知る事は欠かせないのでは、と思う。
鯰尾は思い耽っていて、鳴狐がこちらを見ていた事に気付けなかった。いつの間にか鳴狐の肩に戻っていたお供の狐が突如大きな声で長谷部に話しかけた事で、思案から引き戻される。
「さて、長谷部殿。わたくし共は鯰尾殿と話したい事がありますので、すこーしだけ離れて頂けますか?」
「……? 何を話すんだ?」
「いやいや、長谷部殿の良い所をお話しするだけですよぅ! 何なら長谷部殿も一緒に――」
「いい、いい!」
長谷部は木の陰に走って隠れ、耳を塞いで座り込んだ。兄弟に向ける様な温かい眼差しでそれを見た一振りと一匹は、しかし鯰尾の方を向くとその表情を問い質す寸前の様に真剣な物に変えた。鯰尾も思わず背筋を伸ばす。
「さて、鯰尾殿。貴方は長谷部殿を、どう思っていらっしゃいますか?」
「どう、って……仲間だと思ってるよ。当然だろ? 本丸で一緒に過ごしているんだ、悪い感情は抱いてないよ。長谷部さんを害するつもりも無い」
「ほうほう、なるほどなるほど。……ですが」
二種類の鋭い眼光が鯰尾に突き刺さる。お供の狐は目を鋭く光らせたまま、鯰尾に問いかけた。
「貴方は気が付いているんでしょう? 我々の……長谷部殿の異常性に。影が薄くて性格も普通の彼と異なり、そして何よりも――彼を見ていると異物を飲み込もうとした様な強い違和感を覚える。『影が薄い』はもしかしたら『目を逸らしたい』に言い換えられるかもしれませんが」
鯰尾は生唾を飲み込む。確かにここ三週間で長谷部のおかしさは理解している。けれど、強い違和は指摘されるまで思い至らなかった。長谷部はいつだって空いている手入れ部屋にいたのに、そこにすぐ訪ねる事はせずにいつも探し回って。――お供の狐の言う通り、彼の存在から目を逸らしていたのだ。
鳴狐は何も口にしないが、まるで首元に刃を当てられている様な錯覚に陥らせる目で鯰尾を見つめている。
「貴方が真に長谷部殿と友誼を結びたいのか、それともその違和感の正体を探りたいのか。貴方と初対面である我々には分かりません。ですが、それが生半可な好奇心による物であるならば……深追いはしない方がよろしいですよぅ。貴方にとっても長谷部殿にとっても、良くない結果になりかねません。それだけ、我々はひとびとから
咎める様に、けれどどこか諦めている様にお供の狐は言う。鳴狐の表情は、先程から鋭い眼光のままだ。けれど鯰尾はその目の奥に、長谷部とよく似たどろりとした絶望を垣間見た。
彼等が顕現してからどんな軌跡を辿ったのかは分からない。けれどひょっとしたら、彼等も長谷部と同じ様な暗い道を歩いていたのかもしれない。鯰尾も最初から最後まで明るい経緯を辿っていたとは言えないが、それでも優しい主や愉快な仲間達に囲まれて悪くないと思える日々を過ごしている。
長谷部と鳴狐は絶望から共鳴したのだろうか。だが、語り合っていた二振りの表情からはそれだけの繋がりではないと感じられた。小さな幸せを掻き集めてそっと見せ合う姿は、木漏れ日の如く影の隙間から差した温かさがあったのだ。
「……でも」
視線から逃げない様に頭を意識して固定させて、鯰尾は鳴狐達に答える。
「俺は、どうしたって長谷部さんの事を放って置けないんだ。確かに分からないよ、どうしてここまで気になるのか。伯父さんの言う通り好奇心や違和感による物なのかもしれないし、夢の子と重ねて哀れに思っているだけかもしれないし、もしかしたら両方かもしれない。……でも俺は、伯父さんに見せていた長谷部さんの笑顔を間近で見たいんだ。いつもひとりで申し訳無さそうにしている表情じゃなくて、皆の中で一緒に笑っている姿が見たい」
「……ふむ、
――木漏れ日の温かさを分けて欲しいと言外に願う鯰尾の声は少し震えてしまっていた。お供の狐はそれを意に介さず、顎に右の前足を当てる。それから重ねて告げた。
「それでは更に問います。――それが貴方の独りよがりな物や見返りを求めての物である可能性を、自覚していますか? 長谷部殿は困っている事をなかなか話せないし、見返りを渡す事も非常に困難です。困っている事を話せない、何故なら誰もまともに彼の話を聞いてこなかったから。優しさをただ受け取る事しか出来ない、何故なら返し方を知らないから。そんな彼に、仲間としての優しさを与え続ける事が出来ますか?」
ひとりの方がいいと思っているかもしれない彼を、強引に多数の中に放り込むのはどうなのだろう。お供の狐はそれを含めた身勝手な優しさの自覚を問うた。
鯰尾は頭の中で思考を巡らせる。確かにひとりの方がいいと言うものもいるだろう。だけど鳴狐と穏やかに語らう様子を見れば、長谷部が誰かと一緒に過ごしたいと願っているのは何となく分かる。それが大勢の中でなのか、少数の中でなのかはまだ分からない。けれど確信していた。
――絶対に、長谷部をひとりにしてはならない。
「……そうだね、長谷部さんはいきなり大勢の中に行くのは辛いのかも。皆と笑う光景も、確かに俺の描いた理想だ。でも、本当の独りぼっちは寂しいよ。大倶利伽羅さんみたくひとりで立てるひとはともかく、あの長谷部さんがそうだとはどうしても思えない。歌仙さんや薬研からも聞いてるんだ、あのひとはひとりにしちゃいけないって。それに俺の主は、俺達にも心を砕く人だ。長谷部さんが暗い顔をしていたら、それだけで心を痛めるくらいの」
鯰尾の脳裏に浮かぶのは、紙の面で顔を隠した我が主。誰かの感情に共鳴し、それに反応してしまうその性質に最初は悩まされた。けれど明るさが宿り始めた今は、彼女も少しずつ笑う様になっている。審神者の平穏は刀達の平穏だ。それを守る為にはどんな手間も惜しまない。
「……俺は暗い顔より、陽射しの中みたいな明るい顔が見たい。長谷部さんも含めて皆がそれぞれ楽しく過ごせる様になって欲しい、それは俺の本心だ。これに関しては見返りはいらない、そうなってくれる事が俺の望みだから。身勝手なら治すよ、しっかりと長谷部さんの様子を見て。暗い雰囲気よりも、明るい雰囲気の方が断然気持ちがいいからね。そうなれるなら、俺は何度も優しさを渡すよ」
目を背けずに、鯰尾は話し切った。それに少し安堵しながらも、鳴狐達の様子を見る。鳴狐は少し目を見開き、お供の狐もおお、と声を漏らす。
鳴狐がお供の狐と目を合わせる。それに頷き、お供の狐は鳴狐の肩の上に立ち、鯰尾にぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありません、意地の悪い事をお尋ねしました。けれど貴方は、長谷部殿を陽射しの中へ連れて行きたいと思っている様子ですね。それは、我々にとっても喜ばしい事でございます」
「……長谷部さんは、影の中にいるんだよね」
「ええ、今も。まるで己を罰する様に、陽射しの中へ出ようとしません。我々も悩んでいるのです。偉そうな事を申しましたが、我々も手探りなのですよぅ」
「手探りなんだ。長谷部さん、随分伯父さんに心を許している気がしたけど」
「たまたま、我々の感情が噛み合ったのですよぅ。同じ様な方は他にもいらっしゃいますが、余計なお世話だと突っぱねられたりしましたね」
同じ様な方、という言葉が引っかかる。長谷部の様な存在はまだ他にもいるのか。それにしては、話題に上がって来た事も無いが。お供の狐は、そんな鯰尾の疑問を察して語った。
「ここだけの話、長谷部殿の様な方は今もどこかで暮らしていらっしゃいます。数は随分減ってしまいましたが……絶望に押し潰されて自害を選んだ方が、本当に多くて。我々はそれを何とかしたいと思って動いているのですが、この手は思った以上に小さい。無力さに嘆く事は幾度もありました。けれど、ひとりでは無いという事をお教えする為に、鳴狐もひとりでは無いという事を実感する為に、我々は膝をつく訳には行かないのです。……これこそ、エゴなのでしょうがね」
それでもこうして少し不思議な長谷部と出会えたのだから、自害をさせなかった鳴狐には感謝しないといけないだろう。動機がエゴでも、救えた命がある。それは紛れも無い真実なのだから。
「独りよがりでもいいじゃん。絶望の果てまで行って、死に救いを見出すのは悲しいよ。その状況を変えられたんだから、伯父さんはもっと誇ってもいいと思うんだけど」
「……そうですねえ。そう思えればいいのですが……なかなか上手くいかないんですよぅ。でも、その言葉はとても嬉しいです。ありがとうございます」
「ありがとう」
鳴狐が口元を綻ばせる。鯰尾も肩の力を抜いて、にっと笑って見せた。
視界の隅が動いたのに気が付いてそちらを見ると、長谷部が木の陰からこちらを覗き込んで独りぼっちになった哀愁を漂わせていた。どうやら長話をし過ぎた様だ。鳴狐に長谷部を呼ぼうと提案しようとした鯰尾は、鳴狐が再び真面目な表情になった事によりその口を噤む。
鳴狐はお供の狐を通さず、自らの口を動かした。
「鯰尾。……真実を知っても長谷部と仲良くしてくれたら、鳴狐は嬉しい」
それだけ言い残し、鳴狐達は長谷部の下へ歩いて行った。そうして木の陰にいた長谷部の側に行くと立ち話を始める。長谷部はどうやら鳴狐に何の話をしていたか詰め寄っているらしい。お供の狐は右前足を上げ甲高い声で長谷部を宥めている。
呆然とそれを眺めていた鯰尾は、鳴狐の手招きで我に返り二振りと一匹の所へ駆け出した。