――迂闊だった。
鯰尾はぼんやりとした頭の中でそう舌打ちする。
今自分がどうなっているか分からないが、あの御守りがこの事態の引き金になったのは確かだ。もう少し慎重に行動するべきだった。
――いやでも、見ただけで怪異を起こされたらどう対処しろと。
ぐるぐると思考が回る。自分が原因なのは間違い無いが、前置きもした、御守りに触らなかったという事からかなり慎重に動いたのでは無いか。いやそうだろう。
「……おさん、鯰尾さん、聞こえますか?」
その落ち着きの中に焦燥感を混ぜた声と共に、鯰尾の五感は復活する。どうやら自分は今冷たい床に横たわり、体を揺さぶられているらしい。そして鼻の奥につんとした薬品の臭いが刺さる。
……おかしい。あの執務室で、こんな臭いはしなかったはずだ。
ゆっくりと目を開けると、目の前に眉を八の字にした小夜の顔が映った。
「……小夜ちゃん。俺、今どうなってる? 俺達、今どこにいるの?」
「良かった……見た目は先程と変わりません。服装もいつも通りです。それから、場所ですが……僕にもさっぱり分かりません」
起き上がれますか、と問われて頷く。体を起こして左右を見渡すと――そこは「白」であった。
白。壁から天井、ドアに床、机などの調度品まで全て眩い白色だった。天井の電気も白い光を発している。透明なガラス製品等が収められている白い棚、白い書類、白いノートパソコン……うんざりする程の白である。
「……ここって、所謂『研究所』って奴?」
「知ってるんですか?」
「本の中でしか知らないんだけどね。……でも、ここって怨霊とかとは縁遠い場所のはずじゃ……」
漫画や小説の中でしか見聞きしない研究所。超常現象と対を成す科学を取り扱うその場所は、刀剣男士とは無縁の場所だ。……少なくとも、鯰尾の認識では。
刀剣男士は、審神者が用意した素材を用いて降ろされる付喪神。所謂オカルトに近い存在である彼等は、科学的な物に疎い。鯰尾が「研究所」を知っていたのは、ただの好奇心による副産物である。
普通なら「白い」だけで済まされてしまうだろうな、と考えながら、鯰尾は立ち上がってドアに近付く。ドアノブを掴んで開けようとするが、ドアはびくともしなかった。
「……扉、開かないんです。鯰尾さんが起きたら開くかと思ったんですが……」
「そっか。じゃあこの部屋を調べるしか無いかぁ……」
鯰尾は気怠げに立ち上がって腕を上に伸ばした。
小夜も立ち上がり、どれから調べましょうか、と呟く。
「うーん、それじゃあまずはあの棚から調べてみようか。紙の資料なら読みやすいだろうし」
「分かりました」
二振りはクリアファイルの詰まった棚に近付き、それぞれ目の前にあったクリアファイルを手に取って開く。
鯰尾が手に取ったファイルをぱらぱらと流し読みして見ると、どうやらそれは男児達の記録をまとめた物である様だった。
胸から上の写真、身長、体重、健康状態、それから「適性」などという項目も記されている。意味をよく理解出来ず頭痛が起こるのを感じていると、あるページが目に付いた。
そのページには、鯰尾が夢で見ていた男の子の写真がクリップで留められていた。鯰尾は目を皿の様にし、そのページを隅々まで読み込んだ。
――
適性が鍵になるとは思うのだが、どうも意味がよく分からない。唸り声を上げていると、隣から視線を感じた。
「……鯰尾さん。さっきから手が動いてませんけど……何か気になる事がありましたか」
「……見覚えのある子の写真を見つけて、気になったんだ」
「見覚えのある? 見せて下さい」
はい、と小夜に持っていたクリアファイルを渡し、小夜から彼が持っていたクリアファイルを受け取る。鯰尾はその分厚さに驚きつつ、最初の方のページを開いた。
『……この実験は被験者を大量に消費してしまうという欠点はあるが、それを補って余りある利益が生じる。我々はそれを忘れてはならない。成果は時に倫理よりも重んじなければならない。罪悪感が襲っても、何も知らない人々に糾弾されても、研究者としてこの実験を実りあるものにする事を政府は期待している』
この施設は政府も認めている実験をしていた様だ。一体何の実験をしていて、それにあの男の子はどう関わっていたのか。
男の子は妹からは「お兄ちゃん」、女性からは「化物」と呼ばれていて、鯰尾は長い間夢を見ていたが彼の本名すら知らなかった。友達もいなさそう――そもそも同年代の子供がいる学校に通っていなさそう――だったので、まともに名前を呼ばれる場面が無かったのだ。
鯰尾は、男の子が今どうしているのか知らない。見ていたのはささやかな幸福と、苦痛で満ちた虐待の繰り返し。そんな中で掴んだ手がかりだ、真剣に見るのも当然である。
「鯰尾さん、この子とはどこで会ったんですか?」
「夢の中で、一方的に知っているだけなんだ。存在しているか疑っていたんだけど、他に見覚えが無い子の写真があるのを考えると本当にいるみたいだね」
「……それ、誰にも言わなかったんですか?」
「半分実在を疑っていたから、骨喰と薬研にしか言ってないよ。俺も随分前に見た番組に影響されただけだと少し思ってたしね」
小夜は再び視線をクリアファイルに落とす。目を左右に動かして文字を追い、ページを捲って同じ事を繰り返してからぱたんとクリアファイルを閉じた。
「どうして鯰尾さんがその子の夢を見る事になったのかは気になります。その子の事は後で聞かせて下さい。今は他のひととどうやって合流するかですが……」
「扉が開かない事にはねえ……次はぱそこんを調べようか」
二振りは反対側の机に向かい、折り畳まれていた白いノートパソコンの画面を持ち上げた。
電源は既についており、パスワードの入力を促す表示がされている。
「ぱすわーどって……何ですか」
「確か鍵になる言葉とか、そんな感じだったと思う。……手掛かり無しにどうしろと……」
そう言いながら鯰尾は適当にキーボードをタイプし、弾かれたのを見てだめか、と投げやりに息を吐いた。小夜も恐る恐る「かぎ」とひらがなで書かれたキーを入力し、これまた弾かれていた。
鍵になる言葉。そうは言っても、鯰尾達には思い当たる物が無い。ばらばらの英数字であったらそれこそお手上げだ。
画面を睨んで鯰尾はぶつぶつと悪態を吐く。
「何だよ、ぱそこんとかって怪異とは程遠い筈だろ。それともあれか、怪異も現代に適応してるのか? 怪異の癖に現代かぶれかよ! ちょっとは知識分けろよちくしょー! 俺だってぱそこん使いたいんだよー!」
「鯰尾さん、気持ちは伝わりますがあまり画面に近いと目を悪くしますよ」
小夜に宥められ、鯰尾はまだぶつぶつ言いながら画面から離れて近くの椅子に座った。
小夜は口に手を当ててしばらく考えてから、先程の棚まで戻りクリアファイルを取ろうとつま先立ちになる。指先がぷるぷると震えながらも手が届かないのを受け、小夜は近くの椅子を引っ張って来て棚の前に置き、椅子の上に乗ってクリアファイルを取り出した。
中身を確かめ、椅子を元に戻して小夜はパソコンの前に再び立つ。怪異よりも後を歩いている事に不貞腐れている鯰尾が、ゴロゴロと椅子を勢いよく回転させながら小夜に尋ねた。
「小夜ちゃーん、何か分かったー?」
「さっき、鯰尾さんが言ってた子の名前を入れてみようと思って……鯰尾さん、目を回しますよ」
「ろーま字入力とか分かるー? 多分そういうのってろーま字入力だと思う。分からなかったら俺が代わりに入れるよー」
「……分からないです。お願いします」
ぎっ、と音を立てて椅子の回転を止め、鯰尾がパソコンの前に移動する。入力を代わり、記憶を頼りにしてクリアファイルに載っている名前を打ち込む。一番最初は、やはり男の子の名前だ。
「鯰尾さん、ろーま字入力とかどこで学んだんですか?」
「んー、退屈しのぎに読んでた本を読んでだよ。ぱそこんの本とか読んで夢を広げるのが楽しいんだー」
「……色んな本を読んでいますよね。小説から学術書とかまで……」
「あんまり難しい事は覚えて無いんだけどね。……よしっ、通った!」
入力を終えてエンターキーを押すと、今までの画面とは違い「ようこそ」という言葉が浮かび上がった。しばらく待つと、デスクトップ画面が表示される。
しかしデスクトップにはアイコンが一つだけ――「うそつき」というファイルのショートカットしか貼られていなかった。
「……何だこれ?」
「不可解ですが、調べるしか無いでしょう。……えっと」
「ああいいよ、俺がやる」
パソコンの操作の仕方が分からずまごつく小夜に笑いかけ、鯰尾はマウスを動かし「うそつき」をクリックした。
すると、画面がさらに眩く輝き――二振りを飲み込む光量が溢れ出た。二振りはとっさに目を瞑る。
光が落ち着いてから目を開けると、先程の部屋の中に小さな頭と白衣を着ていると思われる頭が見えた。何か話しているらしく、小さな頭が僅かに動いている。
不思議な事に、今自分は天井から部屋を見下ろしている様だ。手を見ると、夢の中と同じ様に透けている。あの二人には干渉出来ないと思った方がいいだろう。
「な、何が……!」
隣から泡を食った様な声がする。小夜は初体験だったな、と思いながら鯰尾は右を向き明るい声を出す。
「小夜ちゃん、大丈夫だよ。映像を見せられている様な物だから、体に異常があった訳じゃ無い」
「……慣れてますね。まさか鯰尾さん、夢の中っていうのはこういう……」
「そう。あの二人に俺達の存在は感知出来ないと思うから、好きに動いてみたらいいんじゃないかな」
そう告げてから、鯰尾は水中に沈む要領で部屋にいる二人の下へ降りる。近くまで行くと、声が鮮明に聞こえて来た。
白衣の男は三十代後半くらいだろうか。くたびれたTシャツとぼろぼろのズボンを履き目線を下に向けている男の子を、白衣の男は人の良さそうな笑みを浮かべて見ている。
「……以上で診察は終わりだ。トシキ君、何か質問は?」
「……妹は……トモエは、どこにいるんですか? 早く会いたいんですが」
白衣の男はパソコンに何かを入力し、それから小さく懇願する男の子――トシキを見た。先程から変わらない微笑みが仮面の様だ、と鯰尾は感じた。
「君とは違う実験棟にいる。君が実験を終えれば、きっと会えるさ」
――嘘だ。直感がそう告げている。
この男は兄妹を引き合わせるつもりなど皆無だ。笑っていない目の奥、そこにあるのは虫ケラを見る侮蔑の感情だった。
トシキは妹が唯一の心の支えであるのに――静かに煮えたぎる憤りを、握る手に込める。
トシキも白衣の男の意図を察したのか、それ以上食い下がる事はしなかった。薄っぺらい笑みのまま、白衣の男は声音だけは優しく物知らぬ少年に語りかけた。
「君にはここである実験に参加してもらう事になる。詳しい説明はこの後行く場所にいる人がしてくれる手筈になっているよ。……この実験は皆を助ける為の前段階といった所かな。君の妹を助ける事にも繋がる大切な実験だ。君がいい成果を上げてくれるのを祈っているよ」
妹を助ける、その言葉にトシキが肩を跳ねさせた。相変わらず俯いたままだが、膝の上に置かれた手を強く握りしめている。しばらくして、トシキは顔を上げて白衣の男を真剣な眼差しで見た。
「分かりました。頑張ります」
「よし、いい返事だ。君と同年代の子もいるから、彼等に引き離されない様にね。それじゃあこの紙を持って、あの女の人について行ってくれ」
白衣の男は指差した先にいた白衣の女に後は頼んだ、と声を張り上げた。白衣の女はトシキの前に歩いて、彼の手を引いて再び歩き出す。
ドアの向こうへと二人が消えた途端、景色が揺らぎ白衣の男の姿が消える。そうして揺らめきが収まると、そこは先程まで立っていたパソコンの前。パソコンの画面には「再生終了」の文字が浮かび上がっていた。
隣に立っている小夜は呆然とした顔で立ち尽くしている。鯰尾が小夜の顔の前で手を振ると、小夜は我に返った様に目を大きく開く。
「……終わったんですね」
「そうだね。何か気付いた事があったら教えて」
そう投げかけると小夜はじっとパソコンを見つめてからぽつぽつと呟いた。
「あの白衣の男……どう考えても兄妹を合わせる気が無いですよね。妹って単語を出せば兄を釣れると思っていて、実際その通りになっています。……白衣の男は、あの兄を同じ考える頭を持つ存在だと認識していない。確かに兄はまだ子供で、経験も浅いかもしれないですけど……何と言っていいのか」
「……うん、決まり切った言葉を選んで話している感じはした。小夜ちゃんの言う通り、白衣の男はかなり男の子を軽視していると思う」
小夜は言葉を選んでいるが、はっきりと言ってしまえばあの白衣の男はトシキを同じ人間として見ていないという事だろう。自分が持つ尊厳を、トシキにもあるとは微塵も思っていない。トシキは信じてはいないが、大人への対応として白衣の男にある程度の敬意は払っている。
同じ人間であるはずなのに、そこにあるのはあまりにも歪んだ認識だった。
「……ん?」
ドアの方からガチャ、という小さな音がした。鯰尾と小夜はドアの方に顔を向ける。
鍵がかかっていたはずのドアはわずかに開いており、空気が流れ込む感覚を覚えた。
「……行けって事か。あからさま過ぎるだろ」
「行くしか無いでしょう。他の方もいるかもしれません、一刻も早く合流を目指すべきです。一振りでも多くいた方がいいですから」
「そうだね、他のひとも心配だし。腹をくくるか」
小夜の意見に同意して、薄く開かれたドアの外を窺ってから鯰尾はドアノブに手をかけた。