空隙の町の物語   作:越季

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14-2「witness/石切丸『こぞよりも』(前)」

 石切丸は、春光隊初の大太刀として顕現した。顕現時に目の前にいた面を着けている小さな少女が新たな主と聞いて、大層驚いたのを覚えている。

 しかし石切丸は、彼女からかけられた言葉に更に驚いた。

 

「この本丸では、必要最低限の出陣しかしません。私の力不足が原因ですので、もしここがお気に召さなければ刀解も行います。……刀の貴方に出陣をさせないというのは心苦しいのですが、ここの一員になって頂けると、とても嬉しいです」

 

 石切丸がそれに頷くと、あからさまに少女——審神者は安心した様子を見せた。隣にいた金髪の少女染みた刀剣男士によかったね、と微笑まれて審神者も口角を上げる。少女染みた刀剣男士は審神者に後は任せて、と言って鍛刀場から送り出した。

 その場に残った少女染みた刀剣男士は、明るい表情のまま石切丸に名乗り上げる。

 

「石切丸さん、初めまして! ボクは乱藤四郎、粟田口派の短刀だよ。あるじさんはちょっと具合が悪いから、ボクが代わりに案内するね」

「乱さん、だね。よろしく。主の具合が悪いって、大丈夫なのかい?」

「うん、大丈夫。今日は鯰尾兄達が様子を見てくれているから」

 

 ついてきて、と告げられて石切丸は乱の後を追う。

 案内される道すがら、ある部屋が目に入った。そこでは小さい背丈の刀剣男士と、それに混ざって煤色の頭をした刀剣男士が輪を作っている。彼等の手には一様に、数枚の札が握られていた。

 

「よーし……これだっ! ってああーっ!」

「え、えへへ、それがババだったんです」

「五虎退、演技派ですね! 次は長谷部さんですね、愛染君から札を引いて下さい」

「混ぜて混ぜて……よーし引け!」

「む、むう……一枚だけカードが飛び出てる……」 

 

 楽しそうに遊んでいる刀達。煤色の刀も、体は大きくはみ出しているのに背丈の低い刀達に馴染んでいた。ぼうっとそれを見つめていると、五虎退と呼ばれていた刀がこちらを向いた。

 

「あ、あの、もしかして貴方は……」

「先ほど顕現した石切丸という。乱さんに案内をしてもらっていた所に通りすがったから、少し見学させて頂いたよ」

「おっ、新入りか!」

「初めまして!」

 

 石切丸の周りに、小さな刀達が群がる。すっげえ大きい、いよいよ大太刀かな——途端に周りを囲まれて明るく賑やかな声が満ちていく。石切丸が一振り一振りに対応していると、少し先を歩いていた乱が振り返ってこちらに寄って来る。乱はどうしたの、と首を傾げた後、石切丸が対応に追われているのを見てぽんと両手を叩き、部屋の中にいる刀剣男士達に呼びかけた。

 

「皆、話す時は一振りずつだよ! 石切丸さん困ってるでしょ?」

「おっと、悪い悪い」

「すみません、興奮し過ぎました」

「大きさからして、刀種は大太刀ですよね? 大太刀の方が来るのは初めてなので、つい……ごめんなさい」

 

 それぞれ謝罪の言葉を口にしながら、改めて一振りずつ自己紹介をしていく。返事をしながら石切丸は知らなかった刀の名前を脳裏に刻む。

 

「私は石切丸、秋田さんの言う通り大太刀だ。本当に来たばかりだから、色々と教えて貰えると嬉しいよ」

「勿論、何でもお聞き下さいね!」

「美味しいおやつのお店の事なら僕に任せて下さい!」

「一緒に祭りに参加出来るのを楽しみにしてるぜ!」

 

 わいわいと話す短刀達に笑顔で返しながら、石切丸は違和感を覚えて周囲を見渡した。何かが欠けている様な気がするのだが、その何かが分からない。猛烈な違和感があるはずなのに、意識しなければそれが気にならなくなってしまう。

 画竜点睛と言うには小さ過ぎるそれに、石切丸が軽く顔をしかめていると——

 

「……大太刀か。主もお喜びだろうな」

「うわあっ!?」

 

 突如現れた刀に声が裏返る。目の前にいるのはよく見なくても先程輪の中にいた煤色頭の刀であり、石切丸もその姿を見ていたはずだ。

 それなのに、今の今までその存在を忘れかけていた。決して目立たない容姿ではない。青いジャージを纏ってぼうっとこちらを見る表情は幼さが残る端正さだ。それに、短刀達の中で彼だけ身長が飛び抜けている。存在を忘れるのは、どう考えてもありえない。

 混乱する石切丸をよそに、乱が煤色の刀の方を向いた。

 

「あれ、長谷部さん今日は青江さんの服着てるんだ?」

「ああ、ジャージなだけあって動きやすい。……やたら青江がニコニコしていたんだが、一体何だったんだろう……」

「長谷部さんにお着替えさせるの、皆楽しみにしてるからねー。本当はボク達も参加したいくらいなんだよ? 身内が増えた感じが嬉しいんだって皆言ってるし!」

「……喜べばいいのか、頭を抱えればいいのか分からない……!」

 

 俯いて震える煤色の刀——長谷部に向かい朗らかな笑い声をあげた乱は、固まっている石切丸に気付くとそうだ、と背筋を伸ばし表情を引き締める。

 

「石切丸さんに説明しなきゃね。……うちの長谷部さんはね、少し個性的なんだ」

「個性的?」

「うん。気付いていると思うけど、長谷部さんは気配が少し薄いの。それから、あるじさんに似て自分に自信がなくて、それが原因でちょっと働き過ぎるところがある。ちょっと精神的に脆くて、戦闘嫌いなのも特徴かな。演練に出たら驚くと思うよ、他の所の長谷部さんとは正反対だから」

 

 ちらりと長谷部を見ると、確かに彼は少しびくびくしている様だった。目には怯えの色が浮かび、手は服の裾を握っている。暗い雰囲気の長谷部だが、敵意や邪気といった物は感じられなかった。その為だろう、先程は驚いたが悪い印象は抱いていない。

 

「……感じている違和感も、長谷部さんと過ごしているうちに気にならなくなると思う。何しろ、優しいひとだからね。さっきはびっくりしたと思うけど、これから長谷部さんと仲良くしてもらえるとボク達は嬉しいな」

 

 真っ直ぐこちらを見据える乱は、そう締め括り口を固く結んだ。他の短刀達も、真剣な顔で石切丸を見つめていた。

 ぐるりと短刀達を見回してから、再び長谷部のいる方向を見る。こちらを見ていたらしい長谷部と目が合ったが、彼は気まずそうに俯いてしまう。

 その様子に、やはりどこにも邪気や悪意は感じられない。目を逸らしたのも、初対面の刀に対する緊張と不安からだろう。むしろそれを後悔している様で、何とか石切丸と目線を合わせようと試みている。

 彼は、邪心とは程遠い心を持つもの。そう確信したならば、石切丸の答えは一つだ。

 

「長谷部さん」

 

 石切丸が長谷部の傍に歩んで穏やかに声をかけると、びく、と体を強張らせて長谷部が顔を上げる。その顔に浮かんでいるのは拒絶されるかもしれない恐怖と、こちらの気を悪くしていないかどうかの不安。出来る限り負の感情を捻じ伏せようとしている様だが、石切丸はこの世に長くあったせいかその胸の内まで想像出来た。

 別に取って食べる訳じゃないんだけどな、と内心で苦笑いしながら、石切丸は長谷部に柔らかく微笑んだ。

 

「君とは色々と話をしたいと思う。ちょっとした出来事や、君の興味のある事、何でもいい。何ならありがたい話も出来たらいいね。私は顕現したばかりだから、教えを乞う物も多くなると思うけれど。君とゆっくりお茶でも飲みながら、何気ない話をしたいんだ。……私もこれから、君と仲良くなれたら嬉しい。でもとりあえずは、初めましてから始めよう」

 

 石切丸が右手を差し出せば、長谷部はきょとんと目を丸くした。それからおずおずと石切丸の手を握る。弱い力で石切丸の手を握り、不安と期待の目で見返す様に、石切丸は何故か幼子の姿を幻視した。少し力を込めてから手を離すと、長谷部もゆっくりと手を下ろす。

 途端、背後から息を吐く音で溢れた。後ろを向くと、短刀達が一様に安堵の表情を浮かべている。乱は胸をなで下ろしながら頬を緩めていた。

 

「よかったー、そう言ってもらえて。長谷部さんの後に新しく来たひとは石切丸さんで三振り目なんだ。ボク達もなるべく長谷部さんのいる本丸に馴染んでもらえる様にしてるんだけど、まだ完全にやり方が決まっている訳じゃないから、少し不安だったんだ」

「三振り目? その前に来た二振りっていうのは……」

「獅子王さんと燭台切光忠さんだよ。石切丸さんと同じ様に凄くびっくりしてたけど、割とすぐに慣れたんだ。この本丸は大きくないから、石切丸さんはその二振りのどっちかと同室になるよ。長谷部さんについて、色々と聞いておくといいんじゃないかな」

 

 石切丸は脳内に二振りの名前をメモすると、乱に礼を述べる。

 

「そうだね、そうするよ。乱さん、ありがとう」

「うん! ……あっ、案内の途中だった! 石切丸さん、行こう! 皆、また後で!」

 

 乱に廊下に先導されて、石切丸は短刀達のいた部屋を離れていく。手を引かれながら短刀達に手を振ると、彼等は笑って送り出していた。

 その中で一際大きかった長谷部は、はにかみながら手を小さく振っていた。

 

***

 

「……る、石切丸!」

 

 隣からかけられた声によって湯船に揺られる現実へと帰還した石切丸は、ぼんやりとした心地で声の方へ向く。

 

「大丈夫か? のぼせたんじゃないだろうな。風呂が気持ちいいのは分かるけど、長湯は厳禁だからな」

 

 隣にいた刀——獅子王は、心配そうな顔で石切丸の様子を確かめていた。そういえば風呂に入っていたのだったか、と石切丸はぼやけた思考から現状を引っ張り出した。

 

 

 演練での錬度上げが頭打ちになり、更なる練度上げの為に石切丸は初めて過去へと出陣した。まだ実践の少ない獅子王と共に行く先は、桶狭間。くれぐれも限度を見誤らないように、という歌仙の言葉に隊長を任された石切丸は、気を引き締めて戦場に向かった。

 優秀な戦果を最初から挙げられるとは思っていなかった。思っていなくても、攻撃が己に集中した結果刀装を全て剥がされ、中傷にまで追い込まれたのは酷く堪えた。あと一歩で敵の大将に辿り着ける、といった所で撤退を余儀なくされたのも口惜しかった。

 一緒に出陣していた宗三から胸倉を掴まれ「見誤るな、という言葉を忘れる程耄碌してはいませんよね?」と凄まれていなければ、無理をして進軍していただろう。隊員を見渡せば、全員が撤退すべきだ、と目で語っており、戦意が滾り過ぎていて自分は冷静になれていなかったのだと察した。

 隊長である自分が手酷くやられているのだ。審神者の加護で自分が折れる事はないにしろ、万全の態勢で向かわなければ大将首は討ち取れない。

 自分は武器だ、だからこそ指示を出すだけの案山子にだけはなりたくなかった。追い詰められた際に強大な力を出せる事もあると聞いているが、ここで賭けをするつもりもない。石切丸は激情を押し殺し、撤退を告げた。

 帰ってきた本丸の玄関には、中傷刀が出たと審神者から知った長谷部が立っていた。真っ青になっていた彼から差し出された少しごわごわだが綺麗なタオルからは、柔軟剤のほのかな香りがした。

 長谷部に手伝い札と共に手入れ部屋に叩き込まれた石切丸は、刀身と体があっという間に修復されると同時に飛び込んで来た審神者に「折れなくてよかった」と涙声で言われ、自分の行動が審神者の心を左右するのだという事をまざまざと実感した。

 少し遅れて大浴場に入った石切丸は、既に体を清めたり湯船に浸かっている隊員達に労いの言葉を告げられた。石切丸も止めてくれてありがとう、と礼を述べ、特に鋭い言葉で石切丸を現実に引き戻した宗三には丁寧に頭を下げた。その宗三には過剰な礼は不要と言われつつ、

 

「あの時の貴方、獣染みていましたよ。あれで止まらなければ重傷にさせて強制的に帰還していました。貴方を昏倒させてあれ以上主を悲しませるのは流石に心が痛みますから」

 

 ……と、浴場の暑さだけではない汗を流れさせるコメントを返されたのだが。

 体を清めて湯船にゆっくりと浸かると、戦意の名残や無念が汗と共に流れていく。ふう、と息を吐き、本物の戦場の空気や質感、手ごたえをくるくると脳内で思い巡らせた。

 ——最後に考えたのは、これから長谷部と出かけるという審神者の事だ。

 審神者は石切丸が顕現する少し前から出陣の頻度を下げている。刀剣を過去に送り出すのは、体の弱い審神者にとってかなりの重労働であるらしい。その為、審神者に負荷をかけない、そして刀達の不満を湧かせない程度に出陣をさせている。

 今の所審神者の体調は悪化していないし、刀達から不満も出ていない。平和、といっても差し支えないだろう。

 しかし、問題点が一つ。——審神者のメンタルが不安定になりだしたのだ。それは石切丸も知っている。

 

***

 

 石切丸が顕現した夜に、審神者の部屋を通りがかった時——審神者の泣き声が、中から響いた。何かあったのか、と焦燥感に任せて障子を開ける。そこでは、審神者が布団の上でぐすぐすと鼻をすすり、頬に涙を伝わせていた。どうしたのかと聞くと、

 

「……怖いんです。皆が、私に失望して、離れていくのが」

 

 そうしゃくりあげながら答えた。離れる訳がない、自分達は主である審神者の道具なのだから。そう言っても審神者は泣き続ける。

 

「私……私は、皆様に顔向け出来る人間じゃない……それなのに、皆様が傍にいてくれる事を期待して……私は、私が醜くて、汚くて……消えてしまいたいのに、消えたくない……怖い……怖くて、嫌で、見たくなくて、辛いんです……」

 

 審神者は布団に顔を埋め、声を大きく上げて泣き出す。顕現したばかりの石切丸がなすすべなくおろおろとしていると、ばたばたと足音が近付いて来る。息を切らして現れたのは、薬研だった。

 

「大将!」

 

 薬研は泣き崩れている審神者の傍、石切丸の隣に膝をついて顔を覗く。石切丸は冷静な薬研に驚きつつも、審神者に起きた異常を伝えた。

 

「や、薬研さん、主が、ずっと泣いてて……」

「取りあえず大将を落ち着かせるのが先だな。石切丸、説明は後でする。今は静かに傍にいてやってくれ」

 

 真剣な面持ちで石切丸にそう告げると、薬研は審神者の背中をぽんぽんと叩いてから、優しく語り掛ける。

 

「大将。どうして泣いてるか、教えてもらっていいか」

 

 薬研は嗚咽しか漏らさない審神者の目をタオルで柔らかく拭った。石切丸はそれを黙って見ている事しか出来ない。しばらくすると顔をゆっくりと上げ、体を抱きかかえながら審神者は話し出す。

 

「……私は、汚くて……優しくされるような人間じゃないんです」

「どうしてそう思ったか、詳しく話してもらえるか」

「……皆様に優しく対応される度、私は……よく分からなくなる。どうして優しくするのか、どうして丁寧な扱いをされるのか、どうして——」

 

 言葉を詰まらせている審神者に首をかしげたのも束の間。続いた言葉に、石切丸は顔を強張らせた。

 

「——どうして、夜伽をしようとしないのか」

 

 とっさに問い詰めそうになったのを察したのだろう、薬研は石切丸を鋭い目で制した。後で話す、という言葉を思い出した石切丸は慌てて口を引き結ぶ。

 審神者は体を抱きかかえる手に力を込め、嘔吐するように激しい勢いでまくし立てた。

 

「分からない。分からないんです。皆様がどうして性行為をしなくて済むのか、目に優しい光しか湛えられていないのか、触れる時に一言前置きをするのか、私は私であるだけでいいと言いそれ以上をしようとしない理由も。私は……私は、間違っているのですか? こうするのが当たり前だと何度も言われました。でもその一方で、皆様はそうするのは特別な相手と特別な時だけだと言う。私にとって、皆様は特別なのに、それは違うと返される。……もう、滅茶苦茶なんです。私がしてきた事は異常な事だと皆様は繰り返し言う。じゃあ、それを当たり前だと受け入れてきた私は? 異常でしかない事をしてきた私は、全部おかしい事になる。間違っている事をしてきた私が……私は、醜く汚く思えてならないのです」

 

 震える声で、懺悔をする様に話し終えた審神者は、再び声を上げて泣き始めた。薬研は審神者に穏やかな笑みを向けながら、彼女の言葉を反復する。

 

「大将は性行為なしに優しくされる理由が分からなくて、性行為をしてきたかつての自分が汚く思えるんだな」

「……はい」

「何度でも言うが、大将は何も悪くない。どんなに間違った事をしてきたとしても、それを強いたのは研究員達だろう。自分をそこまで責めなくていい」

 

 黙り込む審神者に、薬研は穏やかに目を細めて続ける。

 

「だが、そう思うのも当然の事だ。混乱も自己嫌悪も、大将が受けてきた仕打ちを考えればもっと酷くてもおかしくない。それを抑え込んじまったら、悲しみも苦しみも薄れていかないぜ。だから、泣ける時に泣き切っちまえ。そうして辛いと言ってくれた方が、俺達も安心できる。声が漏れるのが心配なら、肩を貸すから」

「……私、私は——」

 

 薬研が腕を広げたのが決定打だったのだろう。審神者は薬研の肩に顔を埋めて、痛みを叫ぶように声を上げた。

 石切丸は、ただ泣き叫ぶ審神者と何かを堪えている様に歯噛みする薬研を、静かに見比べていた。

 

 

 泣き疲れて眠った審神者を薬研が近侍であった乱と長谷部に託してから、石切丸を連れて医務室へと向かう。他の刀は寝静まり、寝息やいびきがあちこちから響いてくる。それ以外は二振りの歩みで起こった床の軋む音がむなしく残響するだけだ。

 ガラリと医務室の扉を開いて、大股で事務机の前にあるパイプ椅子まで歩きドカッと座ると、石切丸にも事務机の近くにある椅子に座るように告げる。

 石切丸がパイプ椅子に腰掛けると、薬研が足と腕を組んでから言った。

 

「さて、何から話すか……とりあえず石切丸、さっきの大将とのやり取りの中でどこまで分かった?」

「……主が、研究員とやらに手籠めにされていて、それを当然だと思っていた、くらいしか……」

 

 下方にある目を見返しながら、石切丸は推測を述べる。薬研は軽く頷いて、それを肯定した。

 

「それが分かってりゃ充分だ。……恐らく大将は、生家で虐待を受けていた。あ、虐待って分かるか? 歪んだ感情や暴力を保護者から受ける事を言うんだが」

 

 聞き慣れない言葉に当惑したのも束の間。意味を解説されて石切丸は審神者の身に起こったであろう事を理解し、頼りなく声を震わせて呟く。

 

「……主が、親から不当な暴力を……」

「ああ。昔だったらありふれていた事だったが、今やったら立派な犯罪だ。それにただ単に暴力で子供を無理矢理従えさせるってのも、もう昔の考えなんだ。……大将を産んだ人間は、多分一発で檻行きの所業を大将に行っていた、と俺は考えている。——大っぴらに言えないが、普段は面で隠されている大将の顔には、大きな火傷の跡があるんだ。同じく虐待を受けていた兄貴を庇った時の物らしいが、それだけでもう大将の家は普通じゃないと断言できるな」

 

 女の顔に傷を残すなんて正気の沙汰じゃない、と薬研は殊更低い声で吐き捨てた。

 石切丸は混乱する。戦や暴力から遠く、清らかな神域に近い場所にいた彼は、今の主たる審神者が理不尽が過ぎる暴行を親から受けていた、という事を上手く飲み込めない。

 そのようなものは、かつては対岸の火事であると感じていた。——だが、今はもう他人事ではない。

 現実を突き付けられた今でも、まさか主が、という気持ちが抜け切らない。自分の今の主は、審神者と名がつくだけあって清らかとは言えずとも過度な不浄に近い場所にはいないと思っていたのだ。

 ——先程の審神者の発言と本丸発足時からいた薬研の推測が、その幻想を容赦なく打ち砕く。目を逸らすな、と言わんばかりに。

 戸惑い目を泳がせる石切丸に、薬研ははあ、と息を吐きながら足を組み替える。

 

「……まあ、あの優しい大将が理不尽な事をされた、ってのが受け入れ難いよな。あんな御方にも理不尽は容赦なく襲い掛かるんだと思うと、無力さすら感じると思う。名前は出さないが、最初に大将がそんな目に遭っていたと告げた時に嘘だ、嘘だ、ってあんた以上に現実を受け入れられなかった奴もいた。だからまあ、すぐにはいそうですか、ってならなかった事に罪悪感を感じなくていい」

 

 窓から入り込む月明かりしか光源がない室内だったが、薬研の顔ははっきりと見える。彼は煮え滾る内面を覆い隠すように顔をしかめていた。

 

「大将が虐待を受けていた事、手籠めにされていた事を当然だと受け入れているのはそういう背景から来る物だ。……手籠めにされていたのを知ったのはつい最近でな、俺達もまだまだ未熟だったと思い知らされた所だったんだ」

「最近? ……生家では受けていなかったのかな?」

 

 引っかかる物を覚えて石切丸が問うと、薬研は殊更に顔を憤怒に歪めた。

 

「ああ、生家では多分受けていない。最近まで大将が通っていた、政府が関わる研究所の連中に手籠めにされていたんだ。……連中はどうも『調整』という名の下に、大将の身体を好き勝手に弄り倒していたらしい。歌仙が同行した事で事態が明るみになって、今は行かせていない。……お上が全員そうだとは思わねえが、俺達には()()がある。ほいほいとお上の『平気だ』という言葉を信じて、大将を危険な目に遭わせるのはもうごめんだ」

 

 激情に目を滾らせ、薬研は拳を握り締める。石切丸も小さくない怒りを覚えながら、脳内で思考をまとめた。

 ——この本丸の刀は、上層部を敵だと考えている。

 確かに全員がそうだとは言えないのかもしれない。けれど、現在の主である審神者にとって上層部の人間は余りにも敵が多過ぎる。

「前例」について詳しくは分からない。だが薬研の口ぶりからすると、審神者が性的暴行を受けているのを上層部が黙認していた可能性すらあるのだ。

 錯乱していた審神者の言葉からして、彼女の辿って来た道が明るくない事は察せられる。審神者には幸せになってもらいたいと、石切丸は配下として願うばかりだ。

 

「……私もそんな不浄の気がする人間の所に主を向かわせたくない。そうだね、祈祷だけではなく主の幸福の為に、私は動こうと思うよ。今は自由に動かせる体があるのだからね。主の前に不浄の物が現れたなら、力の限り遠ざけてみせる。話を聞いて、改めてそう決めたよ」

「そう言ってくれて良かった。……あんたを信じていなかった訳じゃないが、ちゃんとこの本丸を理解した上で一員になってもらいたかったからな。長くなったが、これからもよろしく頼むぜ」

 

 薬研はそう言って穏やかに微笑んだ。石切丸も小さく笑い返して、体の緊張を解く。

 どうやら、自分は試されていたらしい。彼等が審神者を思うが故だと話をした事で理解した為、不快感はなかった。むしろこれくらい警戒していないと、あの審神者を守る事は難しいだろうとも思える。

 ふと、話の中で気になった単語について尋ねる。

 

「薬研さん。『前例』っていうのは、一体何の事なのかな」

 

 一瞬薬研は目を逸らし、哀情を湛えたそれを伏せる。それから明らかに繕った様に口角を上げて、石切丸に退出を促した。

 

「……その事も、近い内に必ず話す。こっちも長い話になりそうだからな。今日はもう遅いから、ゆっくり体を休めてくれ。明日は演練だろう?」

 

 確かに、もうかなり遅い時間だ。薬研の提案に従う事にして、石切丸は立ち上がって扉に手をかけた。

 

「……分かった、それじゃあ部屋で休む事にするよ。こんな遅くに時間をとってくれてありがとう、薬研さん。おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 

 そう就寝の言葉を薬研と交わして、石切丸は扉を閉める。手をひらりと振っていた薬研が扉に遮られたのを見てから、石切丸は軋む廊下を歩き出した。

 静かな廊下は、小さな審神者に思いを馳せる石切丸の足音だけを反響させていた。

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