「少し考え事をしていただけだよ。そうだね、そろそろ上がろうか」
石切丸は湯船から立ち上がり縁を乗り越えて、こちらの様子を窺っている獅子王の顔を見返した。獅子王も不安そうに出たら何か飲めよ、と言いながら同じく浴槽から出た。
長居し過ぎたのか大浴場には二振り以外誰もいない。広い浴場をほぼ占領していた事に不思議な気分を抱えながら、石切丸は獅子王と共にぴちゃぴちゃと水音を立てて脱衣所へ繋がる扉を目指す。
扉に手をかけようとしたその途端、がらりと扉が開き冷気がこちらに流れ込んで来た。獅子王が寒さに体を震わせて縮こまる。
「うお寒っ! ……って、長谷部?」
「ようやく上がったのか、随分長かったから倒れたかと思ったぞ!」
目の前にいたのは、ふかふかのタオル二枚と牛乳瓶を二本持っているへし切長谷部だった。ぽい、とタオルを二振りに投げて牛乳瓶をずいっと差し出し、受け取られてからはあ、と胸を撫で下ろす。
タオルで体を拭いてから腰に巻き、牛乳瓶の蓋を開けて口に運ぶ。冷たい牛乳は喉越しが良く、茹で上がってぼんやりしていた脳内を少しはっきりさせた。
ぷはあ、と声を上げてから獅子王は口を拭い、空の牛乳瓶を長谷部に渡した。
「美味かった、ご馳走さん。そういや長谷部、主と出かけたんじゃなかったのか?」
「忘れ物をしたから引き返して来たんだ。そうしたらまだお前達が風呂から上がってないって聞いて……もう少し出て来るのが遅かったら、浴場に踏み込んでいた所だったぞ」
「かなり長く入っていたのか……長谷部さん、心配させたね」
「牛乳も持って来てくれてありがとうな、長谷部! 堀川の内番着も似合ってるぜ!」
「撫でるなーっ!」
石切丸からは優しく、獅子王からはわしゃわしゃと頭を撫でられ、茜色を基調としたジャージを身に纏う長谷部は顔を赤くして喚いた。喚きはしても、震えるだけで二振りの手を避けられないのがこの長谷部らしい所だ。
「前例」——この長谷部の「性質」も過去も、二振りは既におおよそは聞いている。最初はどの様に接すればいいか迷っていた二振りだったが、宗三や鯰尾がちょっかいをかけている様子を見て、恐れ過ぎず普通に話せばいいと分かってからは積極的に話をしに行く様になった。
何せ打ち解ければかなり素直なのだ、この長谷部は。褒められると喜びと戸惑いを表に出し、恒例の着替えによって起こる羞恥を毎回剥き出しにしてからかわれる。嬉しい事があるとはにかんだ微笑を浮かべて報告してくれる。
——「彼」の性格は、内気だが素直。その性格と経緯を知れば気にかけたくなるのは当然だろう。「長谷部」の方も他本丸と比べると接しやすい性格をしているので、時折「彼」の話を肴にして飲み交わす事もあった(「長谷部」は体の事情を慮ってかジュースを飲んでいるが)。
今だって撫でられるのは恥ずかしいが、手を退けるのは憚られると考えているのがありありと分かる。だから二振りは撫でる事を止めない。
つまり年長刀である二振りは、この長谷部の事が可愛くて仕方ないのである。
「うぐぐぐ……離せー!」
「お前は健やかに育つのが仕事なんだぞー。いい事をしたんだから大人しく褒められとけ」
「長谷部さんを撫でていると、何だか癒されるんだよねえ。何だっけ、はなまるせらふだったかな?」
「アニマルセラピーの事か!? というか犬扱いされてるよな!?」
それでも手を退けられない長谷部は、ぷるぷる震えて撫でる手を享受する事しか出来ない。そんな彼に二振りはほっこりと顔を綻ばせ、更に頭を撫でる。生暖かい眼差しを浴びる長谷部が更に顔を赤くして縮こまっていると——
「長谷部さーん、石切丸さん達の様子はどうですかー?」
遠くから審神者の声がこちらに近づいて来る。ばっと頭を上げて長谷部は自分を撫でている二振りを見た。——きょとんとしている二振りは、腰に巻いている物以外何も着ていない。
「とりあえずお前ら、撫でるのを止めて服を着ろーーっ!!」
流石に長谷部は撫でる手から離れ、棚の中から浴衣を取り出して勢いよく裸の刀剣男士二振りに投げつけたのだった。
*
「ここが城下町か、流石に人が多いなー」
「獅子王は何か興味ある物はあるか?」
「うーん、興味があるとしたらげーむかな。一狩り行けるヤツがあるって聞いたから、それがあったら欲しい」
「……安くなっている事を祈ろう」
様々な人が行き交う城下町の中できょろきょろとしている獅子王の袖を握り、長谷部は俯いてぼそぼそと口籠る。
今はちょうど昼時。食事処を比較している人が通りを歩き、食事処の中も人で一杯になっている。その他にも土産屋に立ち寄ろうとしている若者や、昼間から酒を飲もうとしている陽気な人達が居酒屋へと吸い込まれて行くのが見える。
石切丸は町の様子をしばらく眺めてから、隣にいる小さな審神者に目線を合わせた。
「本当にいいのかい、私達もついて来てしまって」
「ええ。折角ですし、お二方が無事に帰って来た事を労おうと思いまして。ご迷惑でなければ、ですが」
「いや、そんな事はないよ。ちょっとこそばゆい気はするけれど」
「石切丸さん達はこの戦いに協力して下さっているんです、きちんとお礼はさせてください」
審神者は風に吹かれてなびく面を抑えながら、至極真面目な口調で言った。
この少女はいつもそうだった。神に仕える身として、その年にしては重過ぎる責任を泣き言一つ漏らさず背負っている。あの夜に覗かせたこちらの胸が苦しくなるような弱弱しさは、今は欠片も見当たらない。もう少し年に見合った姿を見せてもらえると、こちらとしても安心するのだが。
ふと数メートル先へ視線を向けると、おもちゃが並ぶ店へと駆け出した獅子王を慌てて追おうとしている長谷部が目に入った。それを見て石切丸は口に手を当て考える。
——最初は、長谷部さんのみが同行する予定だったはず。気を使われて、私達も共にする事になったが……
顕現してしばらくしたある日に、今剣がこっそりと教えてくれた話がある。——審神者は今は離れ離れになった自分の兄を長谷部に重ねているのではと短刀達の間で囁かれている、と。
短刀達は見た目こそ審神者の年齢に近いが、中身は百年、下手したら千年単位の精神を持っている。審神者の周囲には、同じような精神年齢の人型は存在しない。それに刀剣男士は末席に坐するとしても神である。少しでも気安く接するのは、彼女にとってとても難しい事なのだろう。
そこに現れた心の年齢が近い存在。彼——長谷部の傍では、彼女は少し楽に呼吸できるらしい、と短刀や脇差は気付いていた。今剣たち短刀は、そこから更に一歩踏み込んだ推察を導き出した。
審神者には兄がいる。審神者と同じく研究所に連れて来られて、離れ離れにされた彼女の兄は今どこにいるのかは分からない。そして長谷部——「彼」にも妹がいるのだという。今剣はもしかしたら本当に二人は兄妹なのかもと期待を抱いていたが、それはないだろうと他の短刀は否定したらしい。いくら神に仕える身だと自負している審神者でも、慕っていた兄に会ったらすぐさま自分の正体を明かしているはずだ、希望を抱かずにはいられない気持ちは分かるが——とたしなめられたそうだ。
似たような境遇の二人が心を通わせるのは当然の事、と納得した短刀達。彼等は審神者に、こうして城下町に降りる際には必ず長谷部を連れていくように進言している。遊びを全く知らなかった審神者と長谷部の息抜きが一挙に出来るというのが第一の理由、秘されている第二の理由が審神者へのささやかな心配りだ。
審神者は毎回長谷部が一緒にいる事に口元を綻ばせるが、すぐに他の皆はいいのか、と喜んだ事を恥じるかのように刀達を見渡した。長谷部だけを贔屓するつもりはないが、これではそうなってしまわないか、と。
——主が張り詰めてばかりだと、こちらも安心できないから。刀達はこう返した。審神者は皆様には敵いませんね、と幸福と気後れを混ぜた苦笑を漏らしていた。
審神者は長谷部に親近感を抱くなど、自分の意思はきちんと持っている。しかし審神者は刀達を気遣って要求を表立って言おうとしない。以上を踏まえて、石切丸は審神者に告げた。
「私は城下町に降りるのは初めてだからね。主に案内して貰おうかな」
「あっ、そうでしたね。石切丸さんは何か興味がある物はありますか?」
「そうだねえ……書物を見るのもいいし、食事を楽しむのもいい。獅子王さんが興味を示しているげーむをしてみるのも一興かな。ああでも御守りがどうなっているのかも気になるし……」
気になっている物をつらつらと並べ、首をひねりうーんと悩む素振りを見せる。審神者は小さく微笑んでから石切丸に提案した。
「とりあえず、皆様と一緒に目ぼしい場所を回ってみますか?」
「そうだね、獅子王さんの用を済ませたらお願いしようかな」
よし、と内心で拳を握る。しかしそれをおくびにも出さず石切丸は笑い返して、獅子王達が走って行った方角へと足を踏み出した。
*
一世代古いゲーム機とゲームソフトの入った袋を下げて獅子王はホクホクと足取り軽く前を歩んでいた。一緒にやろうぜ、とゲームの内容を捲し立てながら目を輝かせ隣を行く長谷部を誘っており、長谷部はその勢いにこくこくと頷かされていた。審神者はそんな二振りを見て楽しそうでよかったと喜びをにじませていた。
ゲームセットを安い値段で購入出来たので、審神者の懐にはまだ少し余裕がある。まずは雑貨屋に寄ってみようと決めて、三振りと一人は店のドアを開けた。
「雑貨屋といってもデザインは洋風なので、あまり興味を示さない方もいらっしゃったんです。石切丸さんもここは別にいいと思ったら、すぐに言って下さいね」
「まあ、確かに私には縁遠い物ばかりみたいだけど。これはこれで新鮮だよ」
「長谷部、確か四葉が好きだって言ってたよな? 見てみようぜ!」
「ちょ、それ一体どこから聞いて——痛い痛い痛い!」
ぐいぐいと長谷部の腕を引く獅子王が店の奥に消えていく。二振りが向かった方をしばらく見てから、審神者が私たちも行きましょう、と石切丸を見つめた。
店内は可愛いポーチやあまり大きくないバッグ、様々な模様を描く食器に小瓶、様々なかわいい動物がついているキーホルダーや愛らしいクマのぬいぐるみが置いてあった。
小瓶を手に取ってちょっとした物を入れるのもいいかもしれないと思案に暮れる石切丸に、審神者が購入しますかと小さく笑んで尋ねる。首を振って小瓶を元に戻しながら、石切丸はこれはどうだあれはどうだと騒がしい方向へと視線を向ける。
「あまり騒ぎ過ぎると店に迷惑がかかるな。主、止めに行こうか」
「そうですね」
そうして石切丸が二振りのいる場所へ向かうと、獅子王が様々なクローバーグッズを長谷部に見せて、長谷部が顔を真っ赤にしながらそれを押し止めていた所だった。
「これなんかどうだ? 四葉の湯呑!」
「いやだから俺はいい! 充分にコップはあるし、無理して買うことなんて——」
「そんな事言って目が釘付けだぞ。いいから買っとけって!」
近くにいる女性がちらりと二振りを見て、鬱陶しそうに眉を寄せている。それを知らずにやんややんやと騒ぐ二振りに近づき、石切丸は咳払いをして獅子王の背後に立った。獅子王と長谷部は言い合いを止めて、周囲を見渡して頭を軽く下げ、気まずそうに石切丸の方を向く。
「悪い、流石に騒ぎ過ぎだったよな」
「そうだね、こちらの方まで聞こえて来ていたよ。一体どうしたのかな?」
柔らかく口角を上げながらも眉を八の字にして石切丸が問えば、不服そうな顔で獅子王を睨みながら小さい声で長谷部が答えた。
「……獅子王にクローバーのグッズを何か買えってずっと言われてて……俺は今使っている物で間に合っているし、貴重なお金を無駄遣いしてまで買う事はないって言ってるのに、獅子王が……」
「お前なあ。確かに物を大切にするのはいい事だけど、お前の使ってる物ってほとんど壊れかけだろ? 特に湯呑、あれあちこち欠けてる所あるだろうが」
「……でも、まだ飲める」
「それで怪我したら主が悲しむだろ! その湯呑に今までありがとうって感謝してから、気に入った湯呑をまた大切に使っていけばいいんだよ。大体お前、俺が話しかけるまでその湯呑に釘付けだっただろ」
「……うう、貴重な主のお金が……」
「……てな感じで、さっきから二の足を踏んでいる訳だ。別にこのくらいの値段なら、主も出すと思うんだけとなー」
長谷部の渋る表情に肩を竦めて、獅子王は石切丸に顔を向けた。なるほど、気遣いの気があるこの長谷部らしい葛藤である。
確かに我が本丸はお世辞にも潤沢な金があるとは言えないが、多少の小物を買い替えるくらいの余裕はある。審神者も、コップくらいなら即座に了承するはずだ。そう思ってから、はたと気付く。
——審神者が近くにいない。二振りの様子を見る為に、ついて来ているのではなかったのか。
石切丸は身を翻し、棚の間を覗きながら早足で審神者を探す。まさか店の外へでたのではないか。懸念しながら次の棚の間を見ると——
「——主?」
「……」
審神者は、ぬいぐるみが並ぶコーナーにいた。愛らしいクマのぬいぐるみを手に、じっとその顔を見つめている。どこか惹きつけられるように、石切丸の呼び掛けにも応えず審神者はぼうっと立っている。
石切丸の後ろからクローバーのコップを持った獅子王とおろおろとしている長谷部が顔を出す。獅子王が呼び掛けた所でようやく我に帰ったらしく、審神者は顔を勢い良く上げて石切丸達へと慌てて無礼を詫びた。
「すみません、気付かなくて……! もしかして石切丸さん、獅子王さん達がいらっしゃるという事は、私、何も言わずにここで道草を……申し訳ありません! 皆様にはなんとお詫びしたら——」
「いや、少し慌てただけだから気にしなくていい。それよりも、その人形は?」
石切丸はいくらでも続きそうな謝罪の言葉を遮り、審神者の手にあるぬいぐるみを指差した。審神者はぬいぐるみを棚に戻そうと背伸びしながら言った。
「いえ、その、少し可愛いなあと思っただけで……随分長く見てしまっていたみたいですね、本当に申し訳ないです。そういえば石切丸さんは何か買いたい物はありましたか? 欲しい物があったら何でも言って下さい、私が購入しますので」
どこか誤魔化すように口早な審神者に、これは兄妹かもと言われるのも納得だと嘆息する。石切丸は獅子王に目配せをして、獅子王が頷くのを確かめた。
審神者の手にあるぬいぐるみを取り上げる。同時に、獅子王もクローバーのコップを手にしたまま、石切丸と共に歩き出した。
「えっ、ちょっと」
「すいませーん、この二つお願いしまーす!」
「はい、コップが一点、ぬいぐるみが一点で合計——」
「あーーっ!!」
石切丸と獅子王によって瞬く間に二つの品がレジへと通される様に、審神者と長谷部は揃って悲鳴を上げた。
理由はともかくそうやって慌てている様は子供らしい、と思ったのは石切丸の秘密である。
*
陽が傾き出し、城下町の雰囲気も昼の健全なそれから夜の少し不健全なそれへと変わろうとしていた。暗くならない内に帰ろうと審神者と三振りは本丸へと歩みを進める。
「……でも石切丸さん、本一冊だけで良かったのですか?」
「今はこれで充分かな。骨喰さんからこの作家はいいと聞いていてね、少し気になっていたから」
観光目的の人間が減り、代わりに「町」に勤めているのであろう仕事終わりの人間が背中を丸くして、少しくたびれた様子ですれ違っていく。それだけでも随分景色が様変わりするのだな、と石切丸は本が入った袋を片手にぼんやりと思う。
石切丸は審神者に欲しい物を買わせる事には成功したものの、自分が欲しい物は中々見つけられなかった。しかし何かを買わなければ審神者の気が収まらない。悩みに悩んだ石切丸は目についた本屋で、骨喰が推していたファンタジー小説家の作品を買う事にしたのだ。「逆境にめげない主人公が多くて良い」と骨喰は作家を評価していた。それによって石切丸がその作家を気に留めたのは事実であり、その作家の中でも一番分厚い作品を買った事によって、一度は審神者の気は収まった。
が、こうして尋ねられるのを見るにこの不安を感じやすい小さな少女は、まだ石切丸が満足しているとは思っていないらしい。
再び口を開こうとした審神者を遮るように、獅子王は振り返って彼女の顔を覗き目を細め、白い歯を見せた。
「まあ今はそれでいいんじゃねえか? 他に欲しい物があったら戦果を挙げればいい訳だしな」
「うん、主の気持ちは充分嬉しいよ。この本だけでも私にとっては大きな報酬だ。今日はありがとう、主」
「そう、ですか? ……それなら、よかったです」
審神者は少し声音を緩めて息を吐いた。見える範囲だけだが、彼女が笑っていると分かる。
気に病みやすい審神者だが、これでもましになった方だという。前はどんなに大丈夫だと言っても、彼女の焦燥感は抜けなかったのだ。
もっと報酬を、もっと捧げ物を、もっともっと彼等が本当に満足のいくまで——そして彼等が不審がれば、自分が悪いのだと己を否定した。
身を削ってまで尽くそうとする彼女を、あるものは訝しみ、あるものは煙たがり、あるものは逆に自分が至らないのではと思い悩んだ。——歪んだ価値観を持っていたと分かってからは、それを少しでも治そうと刀達は力を入れた。
彼女の為だけでなく、自分の主には誇り高くあって欲しいと願った。だから「自分をまっとうに愛せる価値観」を抱けるように刀達は根気強く彼女と向き合ったのだ。それはどれだけ困難な事だっただろう。いくら現代の価値観を知識として知っているとはいえ、使われていた時代の思想が消える訳ではない。それだけではなく、彼女のような子供のケアには細心の注意を払わなければならなかった。本来ならその道のプロに任せなければならない状態だったのに、精神も含めて「調整」を施すはずの研究所は語りたくもない有様だった。
つまりは、人の体と心を持ったばかりの刀剣男士達しか審神者のケアを行える存在はいなかったのだ。障壁が大き過ぎる状態からここまで持ち直したのは、大いに称賛されるべきだろう。石切丸が少し想像しただけでもその大変さは窺えた。実際に彼女のケアをして来た刀達の苦労を言葉にするのは至難の業だろう。
「……にしても骨喰もよく読むよなー。間違いなく鯰尾の蔵書から読んでるんだろうけど」
「いつか二振りの部屋の床が抜けそうで心配だな……」
石切丸と審神者の前にいる獅子王と雑貨屋の袋を下げた長谷部は、鯰尾達の部屋の話をしながら歩いていた。後ろの審神者と石切丸に合わせたスピードで、彼等の様子を見つつ先を行く二振り。談笑しながら歩いていた彼等はしかし、前方への注意が散漫になってしまっていた。
石切丸がすれ違いそうな存在に気付き、声をかけて注意を促そうとした途端——
「抜けるだろうな、近い内に。書房とか作れねーかなあ……おっと!」
獅子王がその存在にぶつかってよろめいた。ぶつかったもう一方も注意が疎かになっていたらしく、どさどさと物が落ちる音が響く。獅子王が慌ててその存在に詫び、しゃがんで落ちた物——大体は食材や食品の入っていた袋だった——を拾い集めていく。
「悪い、よそ見してた。大丈夫か?」
「いえいえ、こちらこそ申し訳ありません。我々も注意不足でした。おお、お手伝い頂きありがとうございます」
「ぶつかったのはこっちだからな」
石切丸は困惑する。一瞬、獅子王が誰と話しているのか分からなかったのだ。
それは、以前にも覚えた違和感。目の前にいるはずなのに、意識しなければ存在を見失う。——初対面の時、長谷部に対して覚えた引っかかる感覚を、今再び感じていたのだ。
その違和を振り払おうとした石切丸は、突如長谷部が大きく発した単語に驚く事になる。
「——鳴狐!?」
その声は内側から喜びが溢れ出したように明るく、目を輝かせて駆け寄るその様はまるで友達を見つけた子供のそれだった。
——知り合いだったのか、いやそれよりも……鳴狐?
獅子王も目を丸くして鳴狐の顔を凝視する。彼も目の前の存在が鳴狐どころか、刀剣男士である事に気付けなかったのだろう。審神者はきょとんとしてその場に立っていた。何が起こったのか分からない、といった表情だ。
「ん? ……おお、春光隊の長谷部殿でしたか! お元気そうで何よりですよぅ!」
「すまない、中々会いに行けなくて……そっちも元気だったか?」
「はい! この通り、我々は健康そのものです!」
和やかに話す二振りに石切丸は混乱しながらも脳を回転させる。そして、以前鯰尾が語っていた刀剣男士にまつわる話を呼び起こした。
——似た性質を持つ長谷部さんと仲のいい、森の中で出会う事が多い刀剣男士。まさか、目の前にいるのが……
置いてけぼりを食らっている一人と二振りの視線に気づいた鳴狐とお供の狐は、咳払いを一つしてから春光隊の面々に名乗りを上げた。
「……おほん、皆様へのご挨拶が遅れましたね。これなるは鎌倉時代の打刀、鳴狐と申します。わたくしはお付の狐でございます!」
「……よろしく」
「お察しの通り、我々も長谷部殿と同じ性質を持っておりますよぅ。長谷部殿が春光隊に落ち着くまでは、相談を受けていた事もございます。石切丸殿の様子を見る限り、我々の存在も話に上がった事があるみたいですねぇ」
「……ああ、鯰尾さんから聞いただけだが……長谷部さんの事情を知っている流れ者の鳴狐さんがいると」
おっかなびっくりそう答えると、お供の狐はそうですねぇ、と頷いた。鳴狐は温かな表情で長谷部を見つめていた。
「春光隊の様子を時折覗いておりましたが、長谷部殿は本丸に馴染んでいるようで。本当に何よりですよぅ。こうして長谷部殿のような存在を受け入れて下さる本丸は、本当に少ないですから」
「えっ、来てたのか? 話しかけてくれればよかったのに」
「いやあ、乱殿にファッションショーに誘われている長谷部殿はとても微笑ましいものでしたよぅ」
「前言撤回、その時に話しかけられていたら発狂してた……っていうかそれ見てたのか!?」
うわあああ、と蹲り頭を抱える長谷部に微笑みを浮かべてから、鳴狐達は目に真面目な光を乗せて二振りと一人の方を見た。
「初めましてですねぇ、春光隊の審神者殿、獅子王殿、石切丸殿」
「……はい、初めまして。鳴狐様」
「そうかしこまらなくて結構ですよぅ、審神者殿。別に我々は貴女を責め立てようなどどは思っておりません。むしろ直接感謝したいと思っていたところです」
「……それは、長谷部さんのような存在を受け入れる本丸が少ないと言っていた事と、関係があるのかな」
少し鋭い口調で問い質すようになってしまったのを、石切丸は内心で歯がゆく感じていた。
長谷部が乱に着せ替え人形にされそうになっていたのは数日前。本丸内に刀剣男士が散らばっていたにも関わらず、流浪の鳴狐が来ていたという報告は一切なかった。——誰にも存在を気取られずに、この鳴狐は春光隊本丸内の様子を眺めていたというのか。
同じく脅威を感じたのか、獅子王も鳴狐を鋭く見据えている。審神者はおろおろと石切丸達と鳴狐の間に漂う緊張感に震えて、顔色を窺っていた。
——だが、長谷部は心を開いているらしいのだ。それに何よりも、この鳴狐からは邪気を感じられない。本当にその時は、知己の様子を見に来ただけだったのだろう。敵意も感じられないが、それでも本丸近くにいて内部のものに気配を感じ取らせない気配の薄さは脅威だ。
お供の狐は少し悲しげに目を細めて、審神者に言った。
「我々は、どうあがいても人間からも刀剣男士からも異物として扱われやすいです。ですから、こうして長谷部殿を本丸の一員として受け入れて下さる方というのは、本当に得難い存在なのですよぅ。例えたった一振りだけでも、迎え入れられるのは有り難い事なのです。特に長谷部殿は、春光隊に受け入れられなければ自害しかねない程に追い詰められていました。本当に、ぎりぎりの状態だったのですよぅ」
審神者が、石のように表情を固くした。そうしてから顔を伏せカタカタと震わせた体を抱える。石切丸が小さな体を支えていると、鳴狐が審神者に深く頭を下げていた。肩に乗っているお供の狐も頭を垂れている。
「これは、長谷部殿の友としての言葉になります。——春光殿。長谷部殿を、我々の友達を救って頂き、本当にありがとうございました」
「……私は、何も出来ませんでした。本当に、長谷部さんと皆様の力がなければ、私は……」
「拒絶しなかった、それだけで充分貴女は長谷部殿を受け入れる下地を作り上げていましたよぅ。最終的に本丸の一員にする決断をしたのも貴女です。……貴女も大変な道を辿って来たのでしょう。その道を乗り越えて、ここに立っている。それは貴女が進もうとしなければ決して辿り着けぬ場所です。進む力を持つ貴女がそれを否定してしまったら、貴女について来た刀剣男士達を侮辱する事になりますよぅ」
審神者が、ゆっくりと顔を上げいまだ頭を下げている鳴狐を見つめる。石切丸は審神者の背を撫でながら鳴狐を見据え、獅子王もしゃがんだまま様子を窺っている。長谷部は呆然とした様子で鳴狐を見つめていた。
審神者は一般的に「可哀想な子」というカテゴリに入れられる経緯を辿って来た。それは確かに彼女を表す一面である事は間違いないだろう。
けれど、そうだ。——彼女は、良き主であるのだ。
適切な部隊を編成し、遠征や戦闘に向かわせて、大多数の刀剣男士の至福である「戦いに使う事」を叶えてくれている。現在は彼女の体調の都合上最低限の出陣だが、それでも平等に戦場に出してくれる。傷を負ったらちゃんと手入れをするし、任務を終えた刀達を労ってくれる。交流したい刀とは彼女なりの交流をしているし、娯楽を出来る範囲で用意したりもしている。
下級でも神である刀剣男士達に必要以上に怯まず、礼を欠く事なく優しくあろうとする。
神として敬い、道具としてきちんと使う。当たり前の事をこうしてこなしている彼女が、悪い主であるはずがない。
口を引き結んでいた審神者は、鳴狐に告げた。
「……刀剣男士の皆様に礼を欠く事はしたくありません。頭を上げてください、鳴狐様。謝意は充分に受け取りました。私に出来る事をしたまでですが、それが長谷部さんの救いになったのなら——これ以上の幸福はありません」
凛とした口調で、背筋を伸ばした審神者は何もかもを包み込むような姿で鳴狐達に微笑んだ。頭を上げた鳴狐達は審神者の様子を見て、感嘆の声を上げた。
「……おお、雰囲気が一気に変わりましたねぇ。女性は成長するのも早いと伺った事もありますが……いやはや、将来が楽しみですねぇ」
「うん、大物になりそう」
鳴狐がそう言って小さく頷いた。へへん、と獅子王は立ち上がって鳴狐の荷物を手渡しながら笑う。
「そりゃそうだ、俺達の主だからな! じっちゃんぐらい大きくなってもらわねえと!」
「まだ幼いけれど、これからどんどん成長していくからねえ。大人になった時、どんな将になっているかが本当に楽しみだ」
「えっ、えっと、主は凄いぞ!」
獅子王と石切丸が審神者の伸びしろを話していると、長谷部も負けじと、しかしよく分かっていない事が丸わかりな一言を叫んだ。
一人と三振りと一匹は、それはもう微笑ましく笑い声を上げたのは言うまでもない。
*
城下町入口までご一緒します、とお供の狐から告げられたのを了承して共に歩く。紺色の空は夕日を沈めて空に星々を散りばめ始めていた。
「……そういえば裏山に時々変ながらくたが落ちてるよな? あれは一体何なんだろう」
「ああ、あれは現世から流れ着いた物が大多数ですよぅ。案外掘り出し物があるかもしれません」
「げーむも落ちてるか!?」
「運もありますからねえ。あまり期待しない方がいいかと」
「そうかあ……」
項垂れる獅子王の肩を長谷部がそっと叩く。石切丸が苦笑しながら鳴狐に尋ねた。
「現世以外から流れ着く事はあるのかな?」
「うーん、滅多にありませんが、他の『町』から流れ着く事もありますよぅ。繋がる事自体は時々ありますが、流れ着く物はとても少ないかと」
「何故なんだろうね」
「それはまあ、『町』が機密情報で溢れていますからねぇ。少しでも流れていく量を減らす為に、清掃員が派遣されている事もありますし」
なるほど、と頷きながら石切丸は審神者の様子を窺う。はあ、はあ、と息を切らしている彼女の足取りは重く、かなり疲れているようだと分かる。
「主、まだ歩けるかい?」
「……正直、限界が近いです。ちょっとはしゃぎ過ぎましたね」
そうか、と言ってから、石切丸は審神者の両脇を持ってひょいと抱え上げ、体の位置を調整してから彼女を抱っこした。審神者は何が起こったのか理解した後、ばたばたと暴れだした。
「え、わぁっ! 石切丸さん、下ろしてください!」
「この方が主も楽だろう? それに早く帰らないと危険だし、少しでも速く歩ける方がいいと思ってね」
「で、でも——」
「主、大人しく抱き上げられとけ。実はもう歩けないだろ?」
獅子王に諭された審神者は、顔を赤くして俯いた。それに追い打ちをかけるようにお供の狐がしみじみと言う。
「そうして見ると、まるで親子ですねぇ」
「恐れ多いです!!」
羞恥と恐れが爆発した審神者の悲鳴が、城下町にこだました。