光も中々射さない木々の間を抜けながら、六つの影が歩いていた。落ち葉を踏みしめて進むその影達は、一軒の古びた家の前に立つと口々に喋り始めた。
「ほへー、ここが例の建物ですか」
「そうだね、少し崩れているけれど」
「直せば使えるだろ。しばらくの間、寒い思いをする事になるけどな」
「……崩壊しないといいが」
「大丈夫だよ、長谷部。外観からだけど、なかなかしっかりしている家じゃないか」
「……あの女、正確な情報をくれたよな。二度と関わりたくねえけど」
金色の影の疲れ切った言葉に、残り五つの影は黙り込んでしまう。そうなってしまったのは何故なのか——時間は、前日の朝まで遡る。
***
長谷部が泣き止んだ後、歌仙はそういえば、と言って審神者から託されたクマのぬいぐるみを取り出した。それを長谷部に手渡した歌仙は、首をかしげて疑問点を挙げていく。
「このぬいぐるみ、やたらと重いんだ。それと『いざとなったら長谷部さんに』って言っていたのも気になる」
「……背中に不自然な縫い目があるな。申し訳ないけれど、開けてみよう」
長谷部はぬいぐるみの背中の縫い目を切ろうと、はさみを借りて来て背中を開け始める。シャキッ、シャキッ、と音を立てて糸が切れていく。
そして全ての糸を切り、背中を開くと——硬い物と紙が入っていた。背中に手を入れ、入っている物を取り出す。
「……これ……!」
「どうしたんですか?」
そう言って身を乗り出した鯰尾や他の刀に見えるように、長谷部はぬいぐるみに入っていた紙を見せる。書かれていた文字を見て、五振りは呆気にとられた。
——審神者としての全権限を、新内利樹に譲渡する。文章は長々と書かれていたが、概略は以上の一言で事足りた。
「……主、こうなる事を予測していたんでしょうか」
「むしろ、願っていたのかもね。長谷部達を生かして、僕達が一緒にいられる道はこれしかなかったんだから」
呆然としたままの鯰尾に、歌仙は舌を巻きながらそう返した。
審神者の権限を他の人間に譲り渡すのは、当然ながら数多の手順を踏まなくてはならない。ただしそれは「正式には」という但し書きが付く。規定スレスレの権限譲渡をしている審神者だって存在しているし、そもそもルールを破って権限を譲り渡している審神者もいるくらいだ。後者は政府に見つかると、審神者の地位を永久に剥奪されるが。
審神者はその規定スレスレの方法——遺言という形をとって手続きの過程をすっ飛ばし、長谷部に権限を全て委ねたのだ。しかし、それでもしなくてはならない事は少しだけ残っている。
「長谷部、その黒い塊は機械かな? 一体何なんだい?」
「……審神者として活動するのに必要な機械だ。でも、主のアカウント登録がされているはずじゃ……」
そして長谷部は小さな黒い塊——端末機器をしばらく動かし、声を上げ更に仰天してから再び紙を見つめる。何が起こったか分からない歌仙達は、長谷部に詳細を聞こうと声をかける。
「長谷部、どうしたんだい?」
「まさかその機械、壊れてるとか……?」
「だとしたらまずい、んだよな? 審神者として活動出来ないんじゃ、また手続きを……」
「違う、逆だ。端末が初期化されてて、アカウント登録画面まで戻ってる。後は紙に書かれている俺の情報を入力するだけで、手続きは終わる。……トモエが、ここまで抜かりなくやる性格だったとは……」
紙と端末を見つめている長谷部の最後の一言は、愕然とした物だった。
詳細を歌仙が理解する事はかなわなかったが、どうやらそれがかなり困難でとても必要な事だったのは分かった。そしてそれを成し遂げた審神者が、かなり高い技術を有していた事も。やはり自分は彼女をかなり甘く見ていたようだ。——それを知ったのが彼女の死後だというのが、残念でならない。
「じゃあ、その登録をしちゃえば審神者としての登録は完了、と」
「うん……あっ、違う。本丸時空座標の初期登録が必要だ。病院を本丸として登録する訳にはいかないし、どうしようか……」
「そういうのもあるのか……どうしようねえ」
うーん、と六振りは頭を悩ませる。
長谷部を審神者として新生春光隊を発足すると決めたものの、六振りは本拠地たる本丸をどこに置くかは考えあぐねていた。政府の用意した本丸用の敷地は問題外、しかしそこ以外の場所の見当がとんとつかないのだ。入院した時より病院から一歩も出ていないので、地理情報も全く持っていない。まず自分達がするべきなのは、情報収集だろう。だがここに来てからの情報源となる相手とは繋がりを持てていない。今の所はお手上げ、といった状態である。
どうしたものかと考えていると、指を頭に当てていた鯰尾が逆毛を揺らし、病室への来訪者を告げた。
「……遠くから足音がします、看護師だと思いますが」
「ああ、退院手続きもしないといけないのか。上層部からどうやって逃げるか、それも悩みものだな……」
「お金の心配はしなくてもいいけど、手続き中に捕まったら厄介だね」
「頭痛の種が沢山あるな……」
頭を抱えた歌仙をしばらく見ていた薬研が、ふと顔を上げ、ニイと口を歪ませた。——それはさながら、あの魔王と呼ばれたかつての主のように。
「なあ歌仙、退院手続きは長谷部に任せたらどうだ?」
「へっ!?」
「え? ……その顔、何か考えがあるのかい?」
堂々たる笑みを浮かべている薬研に歌仙はそう尋ねる。素っ頓狂な声を上げた長谷部に近付いた薬研は、彼の背を叩き宣った。
「長谷部の審神者入門第一弾だ。……上手くいけば、誰にも悟られずに病院を出られるぞ」
***
会計のカウンターに立っていた女は、慌ただしく次々と訪れる患者達に辟易していた。何せ、休憩時間を返上して対応しなくてはならないのだ。
——ああもう、笑顔を浮かべるのも疲れる!
疲労で表情を崩しそうな自分の理性を何とか律していると、次に現れた男に声を掛けられた。
「すみません、会計をしたいんですけど」
「退院の会計ですね。入院費は合計——」
——随分と高いな。そう思いながらも、ここ最近はよくある事だった。病院のベッドが隣の区域から逃げて来たもので溢れ返っていたのだ。それ自体はご愁傷様だと女も思う。けれど仕事をするのはいつだって下々の人間だ。
正直連日の対応で女の心はささくれ立っていた。便乗してクレーマーのようになっている人間も現れたからだ。やれ入院費が高いだの、諸々を値下げしろだの。
それと比べれば、目の前の男などいい客だ。割と穏やかな気持ちで、女は男から金銭を受け取った。
「こちらお釣りです。お大事になさって下さいね」
女は人のいい笑みを浮かべ、お釣りの乗ったカルトンを差し出す。男はお釣りを受け取ると一礼し、さっさとカウンター前から去っていく。
いい客だが、それだけだ。女はやたら印象の薄い男の事を、次に会計へと来たクレーマーに気を取られて忘れてしまった。
——病院から消えた患者六名。彼等は政府から迎えが来るはずのもの達だった。
大事な賓客を逃がした事で院内は天と地がひっくり返ったような騒ぎになった。関係ないと思っていた女だったが、その六名の内の一人に会計をしていた事が露見し、政府の人間から呼び出しを食らい涙目になったのはまた別の話である。
***
「長谷部、こっちだよ」
病院から出て来た長谷部は安堵した様子で、植木の陰から手招きをする五振りの所へと走る。駆け寄った長谷部は曲げた膝に手を置いて息を整えた。
「よ、良かった、何とも思われないで……」
「ありがとさん、長谷部。それと、『体質』を利用して悪かった」
「皆の役に立つなら、そのくらいやるさ」
そう言った長谷部に、薬研はただ笑って頭をわしゃわしゃと撫で回した。うわあああ、と叫びそうになった長谷部の口を塞ぐ事も忘れずに。
薬研の作戦は、影の薄い長谷部に手続きを進めて貰っている間に、五振りはさっさと病室から抜け出す。ただ、それだけだった。
けれどその効果はてきめんで、合法的に退院出来て誰にも存在を気に留められないという最高の結果を出せた。抜け道は鯰尾が見つけていたし、長谷部の「体質」には信頼が置ける。後は五振りがばれずに出ていけるかに掛かっていたのだが——幸いな事に、抜け道には誰もいなかった。罠がある可能性も考えたが、鯰尾が何もないと言っていたので病院の人間には気付かれていないだろう(そもそも罠を仕掛ける病院とは何ぞやという話だが)。
こうしてまんまと病院から逃げおおせた六振りは、さっさと病院から離れていく。これから彼等が向かうのは城下町だ。
「……さて、何か情報が得られるといいんだけど」
「まあ気負わずに行こうぜ。あんまり鬼気迫る勢いでいると怖がられるからな」
獅子王が肩に力が入っている歌仙にそう笑いかけた。そうだね、と笑い返して歌仙は城下町への一歩を踏み出した。
「——こんにちは、刀剣男士の皆さん?」
——踏み出した足が止まる。鈴の鳴るような女の声。それに訝しんで声のした目の前を見ると、髪を下方で一つに結わえ「猩々木庵」と書かれているエプロンを着けた、気のよさそうな女が立っていた。女は微笑んでいたが、それはどこか作り物めいていて——はっきりと言ってしまえば、とても不気味だった。
歌仙が一歩前に出て、女を睨み付ける。何故自分が鯉口を切っているのかは、理解していないまま。
「……誰だ」
「私は猩々木庵に勤める木枕遥と言います。この度はご愁傷様でした。主たる審神者——トモエちゃんを亡くしてしまって」
は、と目を見開く。初対面の女だ、そのはずだ。その女が、何故自分達の審神者の事を知っているのか。彼女の本当の名前も、本来は表に出されていない情報だ。
女は淡々と、こちらの情報を言葉にして並べだす。
「トモエちゃん、本当にいい子でしたよね。刀である貴方達のよき主であるように、精一杯平等に振る舞っていたんだもの。普通の子供に出来る芸当じゃありません。ああ、でも普通じゃないんでしたよね? あんな研究所出身なんですもの、酷い目に遭っても健気に乗り越えて来たんでしょうね」
「……おい、あんた。それをどこで知った?」
薬研が殺気立てて女——ハルカを見据える。ハルカは薬研の殺意を受け流し、更に情報を口にする。
余りにも、淡々と。
「普通じゃない子で、兆候だって出していただろう女の子の救難信号を、何故ぎりぎりまで気付けなかったのでしょうねえ。案外刀剣男士というのは審神者という存在を、簡単な指示しか出さないお人形さんだと思っていた方がよかったのでしょうか? 戦場を分からない子に命令されるのは癪ですものねえ。それとも——彼女が本当に人形だった方が貴方達には都合がいいのでしょうか? だって審神者は、いくらでも変わる主の一人でしかない、替えの利く使い捨ての存在なのですものね」
「——てめぇ! 言わせておけば……っ!」
獅子王がそう吼え、長谷部以外の全員が抜刀した。今の彼等は後の事など全く考えていなかった。とにかく審神者と自分達を侮辱するこの女を黙らせねばならない、と。
石切丸も刀を構えて、女に斬りかかろうとした。長谷部の悲鳴が聞こえたが、今は頭に血が上って気にも留められなかった。
だから、石切丸は気付かなかった——長谷部の悲鳴の内容が、五振りに対して逃げるように忠告する物だった事を。
視界が暗転し、頬にざらついた感覚を覚える。唸り声を上げながら石切丸は現状を確かめて、絶句する。
何故、自分は地に伏せているのだろう。何故、全身が痛みを訴えているのだろう。何故、仲間達も倒れ伏しているのだろう。
——何故、あの女は無傷で立っているのだろう。
「——頭が高いのよ、神の分際で」
ハルカは穏やかな口調を捨て、不遜な響きでそう言い放った。忌々しそうに手の中にあった棒状の物を消し、結わえた髪をなびかせて悠々と歩く。その先にいるのは、刀身が手から離れてしまった薬研だ。薬研は柄を手にしようとして——その手をハルカに踏みつけられた。短く苦痛に喘ぐ声を発している薬研を、残りの四振りを、ハルカは冷え切った目で見下ろしていた。
「全く、少し丁寧に接したらこれだもの。神っていうのは本当に身の程知らずね。人がいるからこそ存在出来ているって事実を分かっていないのかしら? それとも目を背けているのかもね。どちらにせよ、高慢なのは変わりないけれど」
「ぐ、あ……っ!」
「ああでも、受肉させた政府には称賛を送りたいわね。こうして己の小ささを教え込ませる事が出来るようになったんだから。世界は神に様々な権限を与え過ぎなのよ。そう思わない? ——トシキ君」
やはり、その情報も知っていたか。この女なら知っていても不思議ではないと思わされてしまう。
石切丸は体を起こし、後ろに立っている長谷部を見る。彼はすっかり怯え切っていて、口に手を当てて震えながら涙を流していた。
そんな彼を見て、ハルカの表情は明るく無邪気な喜びのそれに変わる。
「ああ、別に私はトシキ君に何かする事はないわよ。だって神をねじ伏せて、人間が本来持っている力を取り戻したんだもの! 素晴らしい事だわ、胸を張るべき事だわ! 久々にそんな存在に出会えた事が嬉しいから、貴方が欲しい情報は特別にタダにしてあげる!」
「え、えっと……取りあえず、薬研を放して下さい……!」
長谷部の懇願にあらそういえば、と言いながらハルカは足を上げる。薬研はハルカから鋭い目を離さず、使い物にならなくなった手を庇いながら起き上がった。次々に起き上がる春光隊の面々は、ハルカを睨み刀を手に収める。
「……君は、何者だ」
「貴方には聞いていないわ、身の程知らず。さっ、トシキ君! なんでも聞きたい事を——」
「——ここにいたか、糞姉貴!」
歌仙の問いを低い声で跳ね除け、後ずさる長谷部の所へ歩こうとしたハルカの肩を、男の手が掴む。ハルカはちっと舌打ちし、背後の男へ苦言を呈した。
「ちょっと、麗らかな乙女の肩をそんな風に掴むんじゃないわよ、愚弟」
「どこが麗らかな乙女だ性悪ゴリラ女が! ……うわあここまでボコボコにしやがって……」
「先に手を出したのはあっちよ」
「てめえならそうさせるだろうな……!」
しれっと言ってのけるハルカにがっくりと項垂れる男。そして頭を上げると、状況の変化についていけていない春光隊に向かって気まずそうに謝意を示した。
「……春光隊の方々っすよね? 話してて気分が悪かったでしょう、糞姉貴がすいませんでした。……詫びと言っては何ですが、俺の持っている情報をタダで提供しますよ」
「あら、私もタダで情報を渡すつもりだったわよ?」
「どうせあそこに立ってる子限定のつもりだっただろうが! ……そろそろ人が来そうっす、続きは猩々木庵で。案内します」
男はそう言ってハルカの襟首を掴んで歩き出す。後で覚えてなさいよ愚弟、と唸るハルカに、胸がかなりすっとしていたのは別に悪い事ではないだろう。
——何せこちらは、彼女の煽りと打撃一発で、心身共に重傷まで追い込まれたのだから。