ショルダーバッグを下げれば、それだけで『街まで行ってきます』のシンボルになる。鎮守府内なら制服のポケットへ財布と小物をいれれば……否、最悪全て忘れてもどうにかなってしまうから、何か荷物を持っている、というだけで、ただうろついているのではないと分かる。階段でばったり会った雷巡二人も、提督の姿を見るや表情を和らげた。
「お、提督、街行くのー?」
「うん。予約してた新刊が入ったって連絡あったんだ。今日は夕方から雨だっていうし、早めに行ってくるよ。」
「なるほどねー。うちらも雨降る前に洗濯してきたんだ。」
ね、と北上が顔を向けたのに合わせて大井は頷く。
先日、鎮守府のある地域でも梅雨入りが発表された。予報では今夕から降る雨は明後日未明まで続くらしい。その後も曇ったり小雨だったりと、梅雨らしい一週間となるようだ。今から干せば部屋でも乾くだろうし良いね、と提督は穏やかに返す。
それじゃあとその場を離れる提督は、本が待ちきれないのか足取りも軽い。まるで子供のような背中をやれやれと優しい微苦笑で見送り二人は部屋へ戻った。カーテンレールと柱へ紐を渡して、洗濯物を順次干していく。まだ午前中だというのに、分厚い灰色の雲の所為で、外は日が暮れたかのように暗い。最後に洗濯籠に残ったスカーフをかけて、大井は窓の外を眺め顔を顰めた。
「なんだか、もう降ってきそうですねえ……。早めに行ってきて正解でしたね。」
「やだねえ梅雨なんて。視界は悪いし艤装は濡れるし良いことないよ。」
「この時期は大規模作戦が無いのがせめてもの救いですね……さ、お茶でも淹れましょうか。」
「賛成ー。」
北上の長閑な返事ににっこりして、大井は窓辺を離れた。
サーッ……。
不意に耳へ入って来た音に、しまった、と、眉を顰めて顔を上げた。細かな雨粒は、喫茶店の広い窓をすっかり濡らしきっている。「ああ、」溜息ともつかぬ声を漏らすと、カウンターの内側で、客の自分と同じように本を読んでいた店主も窓を見やって、「ああ、」と似たような音を返した。
「降ってきちゃったねぇ。」
「参ったなぁ、天気予報だと夕方からって言ってたのに。」
「まぁ仕方ないね、この時期は。」
初老の女性店主はおっとり言いながら窓へ近付き、濃い色に染まった路面を見て肩を竦めた。降り出してからそれなりに経っているようだ。降り始めの弱い雨音は、店内を流れる音楽にかき消されていたのだろう。
心待ちにしていた本を受け取るや提督は外の天気のことなんて忘れ、冒険に出かける前のように胸が高鳴った。その鼓動のまますぐに鎮守府へ帰るのも惜しく、本棚の間を、また書店を出た後も商店街の道をそぞろ歩き、物語へ飛び込む友は美味しいコーヒーにしようと喫茶店の扉を叩いた。入った頃はまだモーニングの客が残っている時間帯だったが、コーヒー一杯頼んで本を開き、そのうちに一人帰り、二人帰り、たった一人残っても、まあ昼時まではお世話になろうとお代わりを注文して読みふけっていたら、この雨だ。提督は本を置いて溜息を吐く。滑稽な悲哀に満ちたその様に店主はころころと笑った。
「心配しなさんな、傘の一本くらい余ってるよ。次来る時に返してくれればいいから。」
「本当?助かります、有り難う。」
「畏まることはないよ、困った時はお互い様さ。」
奥の扉へ引っ込んだ店主は程なくして黒の蝙蝠傘を手に戻ってくる。「コーヒー二杯で千円。レンタル料はサービス、ね。」茶目っ気ある会計に提督は雨の憂いをすっかり解き、財布を出そうとショルダーバッグを開いた。
中へ放り込んでいた懐中時計が、不意に目に留まった。十二時少し前。我ながら正確な腹時計をしているものだと心の内で笑って、鞄を閉じてカウンター席に向き直った。
「店長さん、もう少し居てもいいですか?」
「ああ、それは勿論。いつまででもどうぞ。」
「良かった。じゃあ、ナポリタン一つお願いします!」
美味しかった昼食に膨れた腹を、よく食べましたと褒めるようにポンポン叩きながら食堂を出るや、ぱたぱたと小さな駆け足が二つ、此方へ向かってきた。
「北上さーん!」
ぱしっ、と北上に抱き着いた大東は、子供らしい丸顔いっぱいに笑みを浮かべて見上げる。
「ねー漫画借りに行っていい?今から!」
「おわ、なんだよ急にー。漫画ぁ?」
「大ちゃん、走ったら駄目だってば……ご、ごめんなさい北上さん、大井さん。こんにちは。」
遅れてきた日振は大東のワンピースの背を掴んで窘め、北上と大井を見上げるとぺこりとお辞儀をする。困り顔は妹と二人をいったりきたり。すっかり恐縮しきっているから、なに構わないよと手を振り、北上は大東の帽子をポンと叩いた。
「漫画ってこないだ読ませたやつ?」
「でもいいし、違うのでもいい!北上さんの持ってる漫画、図書室に無いのばっかだから、ぜーんぶ読みたい!」
「貴女達、今日は練習航海の後、対潜哨戒じゃなかった?時間は平気なの?」
「あの、練習航海は中止になったんです。雨が降ってきちゃって……。」
「雨?」
日振の言葉に二人は廊下の窓を見やる。遠くからでは朝と変わらぬ曇天に見えたが、近付くと、道や木の葉の濡れているのや、細く降る雨が分かった。「だから鎮守府近海は止めて、神風さん達が北方鼠輸送へ行かれることになって……。」続く説明に、北上は納得の溜息を漏らし、まだ抱き着いている大東を見下ろした。
「んで、暇になったから、漫画貸してってことかあ。」
「そ!ねー今から行っていい?」
「いいけど、先に昼ご飯食べてきなよー。食べながらは読ませないよ?」
「とっくに食べたよ!遠征行くんだったんだから!」
「……あ、そっか。」
「だからいいでしょ、ね!」
大東は行く気満々でにこにこしている。北上は大井と顔を見合わせ、仕方ないねと互いに苦笑いを浮かべた。ぽん、今度は抱き着いている小さな手を叩く。
「分かった。でもうちらの部屋は駄目、漫画持ってアンタ達の部屋に行くから、先行って待ってな。」
「やったあ!待ってるからね、早く来てね!」
「ちゃんと部屋片して座布団出しとけよー?」
「もう……ごめんなさい、有り難うございます。」
「そんなに気にしなくていいのよ。私達も、用事もないし、午後何しようかって話していたくらいだから。」
大井がそう慰めると日振はようやくほっとした顔になって、また頭を下げ、大東にも礼をするよう促す。「あんがと!待ってるからね、早く来てね!」大東は弾むように言って、北上が来るのが待ちきれない様子で階段を駆け上がっていった。
二人ものんびり部屋に戻る。さて、と小さく呟き、北上は本棚から漫画をピックアップしていく。並んでいるのは、もう完結している、ちょっと古い漫画ばかりだ。幼い大東の目には珍しく面白い読み物なのだろう。「こないだこれ読んでたから……」中々真剣な表情をして選んでいる北上を微笑ましく見つめ、それから、大井は窓へ視線を移す。雨は強くなったり弱くなったりするくらいで止みはしないのだろう。海は暗く、遠く靄がかっていた。
「――――よし、こんなもんでいっか。じゃあ大井っち、ちょっと行ってくるね。」
「ええ……あ、北上さん、念の為鍵を。もしかしたら私も何処かへ出るかもしれませんから。それと、これ。」
部屋のお菓子籠から個包装されている小さい栗まんじゅうを幾つか渡すと北上は大東とそっくりな笑顔を浮かべた。「ありがとね。」ドアの傍にかけてある部屋の鍵をポケットへ突っ込み、大井に手を振った。
無類の強さを誇るでもなく、いつも飄々としているから、駆逐艦も海防艦も懐っこく寄ってくる。小さい子は鬱陶しいだなんだと言いながら面倒見がいいし、かといって過度に親しくするでもない。従姉妹よりもう一つか二つ離れた親戚のお姉さん、くらいの、丁度いい付き合い方をしている。唯一無二の相棒が『お姉さん』している姿を見るのは大井の密かな楽しみでもあった。更にそれを一人で見るのではなく、何人かで眺め、「北上さんって優しいですよね」なんて言われようものなら、その喜びは二三日胸に灯った。
大東と日振に挟まれ漫画を読んでいる北上を想像するとつい頬が緩む。帰ってきたらきっと満更でもない顔をして「疲れたあ、読ませるんじゃなかったよ」なんて言うのだろう、まるでそこにいるかのように声が再生された。大井は忍び笑いをしながら腰を上げ、壁掛け時計を見る。十二時を過ぎた頃だった。
部屋を出て、念の為帰宅しているかを確認しておこうかと考えながら廊下を歩いていると、向かいから声がかかった。何冊か本を手にした鹿島だ。
「大井さん!お出かけですか?」
『鞄』は、出かけます、のシンボルだ。大井の左肩には生成りのトートバッグが下がっている。
「ええ。北上さんが、夕ご飯は醤油ラーメンにしようかなって言ってたから。彼女、葱たっぷりが好きなんだけど、卵とかチャーシューの追加はあっても葱はないでしょ?だからこっちで葱を買って用意していこうかな、って。」
「へえ、北上さんって薬味お好きなんですか?」
「ラーメンの時だけね、お蕎麦は普通だし。」
へえー、と頷く鹿島が持っている本へ目線をやり、貴女はこれから何処へ行くのかと声にせず尋ねる。鹿島は背表紙を此方へ向け得意げに胸を張った。
「今日は睦月型の皆と魚雷の勉強会です!小口主砲では大型艦相手に決定打を与えられませんけど、雷撃であれば撃沈させられますから!魚雷の種類による威力の違いと、各艦でどんな風に魚雷を搭載したら大型艦の装甲が破れるかをまとめるつもりです!」
漲るやる気に微苦笑するが、勉強会の中身は有用だ。「いい会ね、頑張りなさいな。」「はい!」鹿島は元気よく頷いた。
「お買い物、気を付けてくださいね。雨降ってきちゃいましたし。」
「あら大丈夫よ、レインブーツも履いたし。貴女の方こそ、資料が足りないとか勉強会に遅れそうとかで走って、濡れた廊下で転んだりしないようにね。」
「しっ、しませんよ!」
声が裏返ったのをみるに経験があるのだろう。大井は、ならいいけれど、と白々しく返し、そこで鹿島と別れた。
正面玄関を出て傘を開く。白いラインが細く入った、あけ色の傘はお気に入りだ。暗い空が頭の上だけ薄く晴れたような気分になる。大井は傘を見上げひと回しして、街へと歩き出した。
からん、とベルが鳴って、店主はドアを向き「おや」と綻んだ。
「こんにちは。珍しいね、今日は一人?」
「ええ。雨の中、北上さんを連れ回す訳にいきませんから。」
その声に提督はスプーンを置いて振り返る。目が合い、大井は呆れた顔で肩を竦めた。
「早く帰るって言ってませんでした?」
「大井?あれ、え……あぁ、いやぁ……。」
丸くした目を幾度か泳がせ、提督は眉を八の字にして笑って誤魔化す。呆れ顔のまま大井は提督の隣の椅子を引き、二人の間に藍色の傘の持ち手をかけた。
「半日艦隊を放っておくなんて、いいご身分ですこと。」
「……返す言葉もございません。傘、有り難うございます……。」
「本当ですよ。まさか、傘が無いから帰れませんでしたなんて言いませんよね?」
「傘一本レンタルするよとは言ったけど、どうせお昼だからって追加の注文をもらったねぇ。」
「ああっ、あの、それは……」
「本っ当にいいご身分ね?華族のご出身でしたっけ?」
「……大変申し訳ございませんでした……」
提督はテーブルに手をついて深々と頭を下げた。大井は店主と顔を見合わせ、ふっと苦笑いする。
「艦隊を代表してお詫びの品を受け取ってさしあげます。蜂蜜カフェオレいただけます?」
「はいはい、ちょっと待ってね。」
提督は恐る恐る顔を上げた。大井が座る椅子に、生成りのトートバッグが引っかけられている。葱の緑の部分がひょっこり顔を伸ばしていた。
「……買い物してきたの?」
すると大井はツンと鼻先を上げる。
「誰が態々お迎えにだけ来ますか。というか、買い物がメインで貴方はついでです。北上さんがラーメン食べたいっていうから葱を買い足したくて、そういえば傘も入らないような小さい鞄もって浮かれて出て行った誰かさんがまだ帰ってきてないなって出がけに偶々思い出したので。北上さんの思い付きと私の優しさに感謝しなさいな。」
「しますっ!神様仏様北上様大井様、感謝してもしきれません。」
「これに懲りたら、この時期の外出には傘を持って行ってくださいね。雨男さん。」
はい、と素直に首を垂れ、ふと、食べかけの自分の注文に目を移す。カウンターとキッチンの境目に置いてあるメニューをとり、それを大井に向け、なんとも情けなく笑った。
「もしよろしければ、カフェオレと一緒に何か甘いものも……。」
大井はちらりとメニューを見やり、それから提督の正面にあるものへ向いた。脚付きの銀色カップに入った、コーヒーゼリー。
黒ではあるが、透き通ったそれをじっと見つめていると、時折赤銅色が顔を覗かせる。くすんだ輝きのある銀のカップの中に収まっている様には凛々しさが漂い、水出しコーヒーを元にした澄んだ苦味と相まって、ブラックドレスを纏った往年の名女優が如き品格を感じる。滑らかな歯ざわり、鼻腔に広がる香ばしい香り、舌に沁みる柔らかい甘さ、喉へ落ちるつるんとした感触。この先暑くなってからは最高のおやつで、今日のような湿気の纏わりつく日にも快い一品だ。さっぱりと味わいたいならそのまま食べてもいいし、別添えで生クリームを頼めばしっかりしたデザートになる。
大井はメニューへ視線を戻し、ケーキの写真を眺め、背筋を伸ばしてカウンターの奥にあるガラスケースの中身を確認する。青磁の平皿に並べられたチーズケーキとシフォンケーキもなかなかに蠱惑的だ。焼きたてのホットケーキにバターを乗せメープルシロップをたっぷりかけるのも捨てがたいし、コーヒーと少しのリキュールを含んだスポンジとチーズの濃厚さがたまらないティラミスも食べたいけれど。
「――――コーヒーゼリーもお願いできます?」
店主に声をかけ、閉じたメニューを提督に返した。お揃いが嬉しいみたいに小さく笑われたから大井もついつられてしまった。
「いいよね、コーヒーゼリー。お昼ナポリタンにしたんだけど、その後ちょっと甘いものが食べたいなぁ、でもそんなに量はなぁ……ってなると、コーヒーゼリーがぴったりでさ。」
「甘さが、一息つくのに丁度いいんですよね。苦味と香りもしっかりしてて、これだけでもコーヒー一杯飲んだみたい。」
提督の相槌にケトルの鳴る音が重なった。コーヒー豆を蒸らすのに少しだけ湯が垂らされ、それだけいい香りが広がり、二人は深呼吸する。
「……カフェインがあるから夜飲むのは良くないって分かってるんだけど、この匂いのリラックス効果っていうのも絶対あると思うんだよねえ。」
「緑茶とかも、一日の終わりに、のんびり飲みたくなりますよね。それに甘いもの一口あれば完璧じゃないですか?」
「そうそう、寝るちょっと前、コーヒー一杯と小さいチョコレートとか、でなかったらエスプレッソ!」
楽しく話すうちにコーヒーの香りは強くなり、ややあって蜂蜜カフェオレが供された。「ゼリーも今出すね。」店主は穏やかに言って冷蔵庫を開ける。一口飲んだ大井の唇を白い泡が覆う、ほう、と一息つき、提督と見かわして小さく笑い合った。
「――――あ、そうだ。持ち帰りでチーズケーキも二つお願いします。」
「はーい。包んでおくね。」
「北上の分?」
「ええ。私ばっかり美味しいもの食べる訳にはいきませんし、それにお昼ご飯のあと海防艦の子たちに捕まっちゃってましたから。おもりで疲れて帰ってくるでしょうから甘いもので労わなきゃ。」
「ああ、大東か、なるほどね。しかし北上もなんだかんだ言いながら面倒見が良いよなあ。」
「……ええ、でしょう?」
そう答えた大井は、甘いお菓子を食べたみたいに、とても幸せそうだった。